第132話 ハルミナの小さな旅人宿と、焼きたてパンが運んできた午後の楽しみ
ハルミナの広場を抜ける風には、乾いた草の匂いに混じって、どこか懐かしい香ばしさが漂っていた。
ルシルは御者台から前方の建物を眺めながら、トルクとベルクの歩調をゆっくりと整えた。二頭は先ほど共同井戸で水を飲み、木陰で休息も取ったばかりだったが、慣れない集落の中では道幅や人の動きに注意する必要がある。広場の向こうでは、低い木造の建物の軒先に布が干され、その奥にある小さな家の煙突から細い煙が立ち上っていた。
「ねえ、ルシル君。あそこが、バルドさんの教えてくれた建物だよね?」
馬車の窓から顔を覗かせたモモが、広場の向こうを指さした。桃金色の髪が風に揺れ、緑色の瞳には新しい場所へ来たとき特有の好奇心が浮かんでいる。
「うん。たぶん、あの横に長い建物だと思う。ただ、まだ使わせてもらえるか分からないから、まずは管理している人を探そう」
「そうだね! もし泊まれるなら、今日は久しぶりに屋根の下でゆっくりできるかな?」
モモは嬉しそうに言ったあと、すぐに少し考え込むような表情になった。
「……あっ。でも、馬車の中にも寝る場所はあるんだよね。わたし、あそこも好きだよ?」
ルシルは思わず笑みを浮かべた。
「分かってるよ。僕も馬車で眠るのは好きだし、草原で星を見るのも楽しい。でも、こうして集落に立ち寄ったときくらい、違う場所で休んでみるのもいいと思うんだ」
その言葉に、モモは安心したように笑った。
「うん! じゃあ、どんな場所か楽しみだね!」
馬車の少し前を歩いていたシモンは、二人の会話を聞きながら建物の周囲へ視線を巡らせた。
広場から続く道は建物の前で少し広くなっており、馬車を一時的に停められそうな場所もある。ただし、軒下には木箱や薪が置かれ、建物の脇には細い通路が続いているため、出入りの邪魔にならない位置を確認した方がよさそうだった。
「ルシル様、入口の正面を避けて、右側の平らな場所で一度停めましょう。建物の裏へ続く通路は空けておいた方がよさそうです」
「分かった。トルク、ベルク、もう少しだけ進もうね」
ルシルが優しく声をかけると、二頭は落ち着いた足取りで進んだ。
やがて馬車が停まり、車輪の音が静かになると、建物の奥から小さな物音が聞こえてきた。
木製の扉が開き、一人の女性が顔を出したのである。
年齢は四十代の後半ほどだろうか。茶色い髪を後ろでまとめ、淡い灰色の作業着の上から生成りの前掛けを身につけている。片手には布巾を持っており、何かの片づけをしていたところらしかった。
女性は見慣れない馬車に気づくと、少し驚いた表情を浮かべた。
「あら、旅の方かしら?」
ルシルは御者台から降り、丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。突然お邪魔してすみません。僕たちは南へ旅をしている者です。広場の井戸でお世話になったバルドさんから、こちらに旅人が休める場所があると教えていただいたんですが……」
女性はその説明を聞き、納得したように頷いた。
「ああ、バルドさんから聞いたのね。それなら話が早いわ。ここは旅人向けの休み家よ。立派な宿とは言えないけれど、空いている部屋があれば泊まってもらえるの」
モモが馬車から降りると、女性は彼女にも微笑みかけた。
「こんにちは、お嬢さん。長旅で疲れたでしょう?」
「こんにちは! はい、ちょっと疲れたけど、すっごく楽しい旅なんです!」
モモが元気よく答えると、女性は思わず笑った。
「まあ、元気なのね。それならよかったわ。でも、楽しい旅でも休むことは大事よ。特に今日は日差しが強かったでしょう?」
「はい! でも、トルクとベルクもちゃんとお水を飲めたので、今はほっとしてます!」
女性は二頭へ目を向けた。
「なるほど、あの子たちのことね。二頭とも立派な馬だわ。馬車を停める場所もあるから、まずはそこを案内しましょうか」
シモンが一歩前へ出て、丁寧に礼を述べた。
「ありがとうございます。ただ、先に宿泊できるかどうかと、料金を確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
女性は頷き、建物の入口を示した。
「もちろんよ。私はこの休み家を預かっているマリナ。部屋の空きも確認できるから、まずは中へいらっしゃい。馬車はそのままでも大丈夫だけれど、馬から目を離すなら、誰か一人は残っていた方が安心ね」
ルシルは二頭の方へ視線を向けた。
「じゃあ、僕がここで待ってるよ。シモン、モモと一緒に話を聞いてきてもらえる?」
「承知しました。料金や設備を確認してまいります」
モモも頷いたが、入口へ向かう前に振り返った。
「ルシル君、すぐ戻ってくるからね!」
「うん。ゆっくり確認してきていいよ」
モモは笑顔で手を振り、シモンとともに建物へ入っていった。
ルシルは二人の背中を見送ると、トルクの首筋を優しく撫でた。
「もう少し待っててね。ちゃんと休める場所があるといいな」
トルクは耳を動かし、ルシルの肩へ鼻先を寄せた。
その仕草が妙に人懐っこく見えて、ルシルは小さく笑った。
「分かってるよ。君たちの場所も、ちゃんと聞いてもらってるからね」
隣のベルクは静かに立っていたが、ルシルが声をかけると、ゆっくりと頭を動かした。
広場の向こうからは、子どもたちの話し声がかすかに聞こえてくる。家々の間を抜ける風が干された布を揺らし、どこかで木を打つような軽い音が響いていた。
ルシルはその穏やかな景色を眺めながら、胸の奥に残っていた緊張が少しずつほどけていくのを感じていた。
◇
休み家の中は、外から見た印象よりも明るかった。
入口を入ると、小さな受付用の机があり、その奥には木製の椅子と長机が置かれている。壁には旅人が利用するときの決まりが書かれた板が掛けられており、窓辺には小さな花瓶が飾られていた。
モモは室内を見回しながら、感心したように声を漏らした。
「わあ……。なんだか、落ち着く場所ですね」
マリナは嬉しそうに笑った。
「ありがとう。昔からある建物だから、あちこち古いけれど、使う人が気持ちよく休めるようにしているつもりなの」
シモンは壁の案内板へ目を向けた。
そこには、火の扱いや共同の設備についての注意、馬車を停める際の決まりなどが簡潔に書かれている。大きな街の宿ほど細かなサービスはないようだが、必要なことはきちんと整えられているらしかった。
「現在、三人で利用できる部屋はございますか?」
シモンが尋ねると、マリナは机の上に置かれた帳面を開いた。
「今日は奥の二部屋が空いているわ。ひとつは少し広めで、もうひとつは小さな部屋よ。三人なら、広い方を使ってもらうこともできるけれど、寝台は二つだから、一人は予備の寝具を使うことになるわね」
モモはその説明を聞き、少し考えた。
「三人で同じお部屋でも大丈夫なのかな?」
マリナは頷いた。
「もちろん、皆さんがそれでよければね。寝具は清潔なものを用意できるわ。ただし、広いといっても大きな宿の客室ほどではないから、荷物を全部持ち込むと少し窮屈かもしれないわ」
シモンは部屋の広さや設備を確認し、料金についても尋ねた。
マリナは宿泊料に含まれるものと、別に支払いが必要なものを説明してくれた。
寝具と部屋の利用は基本料金に含まれるが、食事は別であること。馬車を停める場所と馬の休息用の区画は利用できるものの、飼葉は必要に応じて購入すること。井戸の水はすでに共同井戸で補給した分とは別に、休み家の設備として無制限に使えるわけではないこと。
どれも納得できる内容だった。
「ありがとうございます。では、部屋を一晩利用させていただきたいと思います。馬車と馬の場所についても、後ほど確認させてください」
シモンが答えると、マリナは微笑んだ。
「分かったわ。では、先に部屋を見てもらいましょう。気に入らなかったら、無理に決めなくてもいいのよ」
モモは嬉しそうに頷き、マリナの後について廊下へ進んだ。
廊下の床板は少し古く、歩くたびに小さな音を立てる。けれど、埃が積もっているような場所はなく、壁際には掃除道具がきちんとまとめられていた。
案内された部屋には、窓が二つあった。
片方の窓からは広場の端にある木々が見え、もう片方からは休み家の裏手へ続く小道が見える。寝台は壁際に二つ並び、中央には小さな机が置かれていた。
「わあ、かわいいお部屋!」
モモは思わず声を上げた。
マリナは少し照れくさそうに笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。窓を開ければ風も通るし、今日は過ごしやすいと思うわよ」
シモンは部屋の状態を確認し、窓の留め具や扉の鍵にも目を向けた。
長旅では、眠る場所があるだけで十分なことも多い。
しかし、こうして清潔に整えられた部屋を見ると、休息の質が違ってくることも分かる。
「問題なさそうですね。ルシル様にも確認していただきたいところですが、私はここで十分だと思います」
モモも大きく頷いた。
「わたしも好き! ルシル君にも見せてあげたいな!」
マリナは微笑んだ。
「それなら、先に馬車を裏へ移しましょうか。お連れの方も安心するでしょうし、馬たちも落ち着けると思うわ」
二人は礼を述べ、再び入口へ戻った。
◇
ルシルが二人の姿に気づいたのは、トルクのたてがみを整えていたときだった。
モモは入口から出てくるなり、嬉しそうに手を振った。
「ルシル君! お部屋、空いてたよ! すっごくきれいで、窓から木が見えるの!」
ルシルはその笑顔を見て、自然と頬を緩めた。
「本当? それはよかったね」
シモンはマリナと確認した内容を簡潔に説明した。
宿泊料や食事の扱い、馬車を停める場所についても話を聞いたルシルは、特に問題がないことを確かめると、安心したように頷いた。
「ありがとう、シモン。じゃあ、今日はここに泊まらせてもらおうか」
「はい。馬車は建物の裏手へ案内していただけるそうです」
マリナはルシルへ微笑みかけた。
「裏の区画は、馬車が一台入れるくらいの広さがあるわ。今は他の旅人が使っていないから、ゆっくり停めてもらえると思う。ただ、入口が少し狭いから、案内しながら進みましょう」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
ルシルは御者台へ戻り、二頭へ声をかけた。
マリナが先に立ち、シモンが馬車の側面を確認しながら歩く。
モモは少し離れた場所から、二頭が落ち着いて進めるように見守っていた。
休み家の裏手へ続く通路は、広場よりも少し狭かった。
片側には木柵があり、もう片側には建物の壁が続いている。ルシルは車輪が壁や柵へ近づきすぎないよう注意しながら、慎重に馬車を進めた。
「ルシル様、そのままゆっくりで大丈夫です。右側には余裕があります」
シモンの声に従い、ルシルは手綱をわずかに調整した。
トルクとベルクは落ち着いた様子で進み、やがて建物の裏手にある平らな区画へ入った。
そこには簡素な屋根のある馬の休息場所と、馬車を停めるための地面が整えられていた。
屋根の柱には古い補修跡が残っているものの、ぐらついている様子はない。地面には乾いた敷き草が用意され、近くには飼葉を入れるための木箱も置かれていた。
「ここなら、トルクとベルクも休めそうだね」
ルシルが言うと、マリナは頷いた。
「ええ。屋根の下なら日差しも避けられるし、夜に風が強くなっても少しは安心よ。ただ、馬の世話は基本的に持ち主にお願いしているの」
「もちろんです。僕たちで世話をします」
ルシルはそう答え、馬車を安全な位置に停めた。
シモンと協力して二頭の馬具を外し、身体に擦れたところがないか確認する。
トルクは馬具を外してもらうと、気持ちよさそうに首を動かした。ベルクも静かに立っていたが、背中を軽く撫でられると、ゆっくりと耳を動かした。
モモは二頭の様子を眺めながら、嬉しそうに笑った。
「なんだか、二人ともほっとしてるみたい!」
シモンは馬具の状態を確かめながら頷いた。
「そうですね。ここまで大きな問題なく進めたのも、二頭がよく頑張ってくれたおかげです」
ルシルはトルクの首筋へ手を添えた。
「本当にありがとう。今日はもう、ゆっくり休んでいいからね」
トルクは鼻先をルシルへ寄せ、ベルクも穏やかに頭を動かした。
その姿を見ていると、ルシルの胸の奥に温かなものが広がった。
旅を始めた頃は、馬車の扱いにも慣れず、二頭の小さな仕草が何を意味するのか分からないことも多かった。
けれど、毎日一緒に過ごすうちに、少しずつ違いが見えてくるようになった。
トルクは気になる草を見つけると、すぐに耳を向ける。
ベルクは周囲の変化に対して落ち着いていることが多いが、何か気になることがあれば、静かに視線を動かして確かめる。
もちろん、二頭の気持ちをすべて理解できるわけではない。
それでも、こうして触れ合いながら、無理をさせないように考える時間が、ルシルには大切だった。
(王城にいた頃は、馬の世話をする人たちがどれだけ細かいことを考えていたのか、きっと分かっていなかったんだろうな)
ルシルはそう思いながら、二頭の様子をもう一度確かめた。
旅の中で学ぶことは、景色や土地の名前だけではない。
毎日を支えてくれる存在のことを知るのも、旅の大切な一部なのだと感じていた。
◇
二頭の世話を終えると、三人はようやく休み家の部屋へ向かった。
マリナはすでに寝具を整えてくれており、部屋の机には小さな水差しと三つの木製の杯が置かれていた。
「必要なものがあれば、遠慮なく声をかけてね。ただ、うちは大きな宿じゃないから、用意できないものもあるけれど」
マリナがそう言うと、ルシルは丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。こんなにきれいなお部屋を使わせてもらえて、嬉しいです」
「まあ、嬉しいことを言ってくれるのね」
マリナは柔らかく笑い、部屋の使い方を説明した。
窓の留め具は少し古いので、強く引っ張らないこと。
夜は廊下の灯りを小さくするため、必要なら手元の灯りを使うこと。
食事を希望する場合は、夕方までに伝えてほしいこと。
そして、建物の裏手にある共同の洗い場を使うときは、他の利用者と譲り合ってほしいこと。
三人は一つずつ確認し、分からないところは質問した。
マリナは面倒がることなく答えてくれた。
やがて説明が終わると、モモが少し遠慮がちに手を上げた。
「あの、マリナさん。ひとつ聞いてもいいですか?」
「もちろんよ。どうしたの?」
「さっきから、すっごくいい匂いがするんですけど……。もしかして、近くでパンを焼いてるんですか?」
マリナは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
「ああ、あの匂いね。気づいたの?」
「はい! 広場にいたときから気になってたんです!」
モモは嬉しそうに答えたが、すぐに少し恥ずかしそうな表情になった。
「……でも、お水のこととか、お部屋のこととか、先にやらなきゃいけないことがあったから、聞くのを我慢してたんです」
その言葉に、マリナは優しく微笑んだ。
「偉いわね。じゃあ、ちゃんと教えてあげる。あの匂いは、たぶん隣の家からよ。うちの集落では、何軒かの家で順番に大きな窯を使うことがあるの。今日はちょうどパンを焼く日なのよ」
モモの瞳が一気に輝いた。
「パンを焼く日!?」
ルシルも興味を引かれ、マリナへ目を向けた。
「みんなで同じ窯を使うんですか?」
「そうよ。家ごとに大きな窯を持つのは大変でしょう? だから、何軒かで使える窯を手入れしながら、必要なときに順番を決めて使っているの」
マリナは窓の外へ視線を向けた。
「今日は隣の家が窯を使っているはずだから、焼きたての匂いがここまで流れてくるのね」
モモは感心したように頷いた。
「へえ……。みんなで使う窯なんだ。なんだか楽しそう!」
シモンも穏やかな表情を浮かべた。
「集落の規模に合った工夫ですね。大きな設備を共同で使えば、維持する負担も分け合えます」
マリナは頷いた。
「そうなの。もちろん、使う順番で相談することもあるけれど、昔からそうやって暮らしてきたのよ」
ルシルはその話を聞きながら、広場の井戸を思い出した。
井戸も窯も、ここでは誰か一人だけのものではなく、暮らしの中で分け合いながら使われている。
大きな街とは違う形で、人々の生活がつながっているのだろう。
「すてきですね。そういう暮らし方もあるんだなって、勉強になります」
ルシルがそう言うと、マリナは少し驚いたように目を丸くした。
「まあ、旅の人にそんなふうに言われるとは思わなかったわ。私たちにとっては、いつものことだから」
モモは嬉しそうに笑った。
「いつものことだからこそ、すごいんだと思います!」
マリナはその言葉を聞き、しばらくモモを見つめていた。
それから、ふっと表情を和らげた。
「……そうね。そう言ってもらえると、なんだか嬉しいわ」
◇
マリナが部屋を出たあと、三人は荷物を整理しながら、午後をどう過ごすか相談した。
窓から入る風は心地よく、外では小鳥の声が聞こえている。
モモは寝台の端に腰かけ、旅帳面を膝の上へ置いた。
「ねえ、ルシル君。今日はもう、遠くまで行かなくていいんだよね?」
「うん。今日はここで泊まることにしたからね。夕方までにトルクとベルクの様子をもう一度見に行くけど、それまでは少し休もうと思ってるよ」
モモは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、わたし、旅帳面を整理したいな。今朝のことも、ハルミナのことも、まだちゃんと描けてないから」
シモンは荷物を整えながら答えた。
「よいと思います。私は水の容器と食料の残量を確認しておきます。井戸で補給できたとはいえ、次にどこで水を得られるかは、まだ分かりませんから」
ルシルは頷いた。
「そうだね。でも、今日は水の心配を少し休んでもいい気がするな」
シモンはその言葉に、わずかに目を細めた。
「ええ。必要な確認を終えたら、私も休ませていただきます」
モモはその返事を聞き、嬉しそうに笑った。
「本当? シモン君、ちゃんと休んでね! 最近ずっと、道の確認とか馬車のこととか、いっぱい頑張ってくれてたんだから!」
シモンは少し困ったように笑った。
「お気遣いありがとうございます。ただ、モモ嬢も同じように頑張っておられましたよ」
「えっ、わたし?」
「はい。道の様子を見たり、ルシル様の手伝いをしたり、トルクとベルクのことを気にかけたり。旅は、誰か一人の力だけで続けられるものではありませんから」
モモは一瞬言葉を失ったようにシモンを見つめた。
それから、少し照れくさそうに笑った。
「……そっか。わたしも、ちゃんと役に立ててるんだね」
ルシルはその言葉を聞き、優しく頷いた。
「もちろんだよ。モモがいてくれるから、僕たちの旅はずっと楽しいんだ」
モモは頬を赤くしながら、旅帳面を胸元へ抱えた。
「も、もう! 二人とも、そんなに褒めなくてもいいのに!」
けれど、その表情はとても嬉しそうだった。
シモンは静かに微笑み、荷物の整理を続けた。
ルシルも窓辺へ腰を下ろし、外の景色を眺めた。
広場の向こうには低い屋根が並び、その間を人々がゆっくりと行き来している。
旅人である自分たちにとって、ハルミナは今日初めて訪れた場所だ。
けれど、ここで暮らす人々にとっては、昨日も今日も明日も続いていく日常の場所なのだろう。
その中で、ほんの一晩だけ休ませてもらう。
それが、今のルシルにはとても贅沢なことのように感じられた。
◇
しばらく休んだあと、モモは旅帳面を開き、今日見た景色を少しずつ描き始めた。
最初に描いたのは、ハルミナへ続く細い道だった。
背の高い草と、ところどころに並ぶ石。
その先に見えた木柵と畑。
そして、木立の向こうから少しずつ姿を現した家々。
モモは線を重ねながら、時折窓の外へ視線を向けていた。
「ねえ、ルシル君。わたし、今日の道を描いてるんだけど、最初にお家が見えたときって、どんな感じだった?」
ルシルは少し考えた。
「そうだなあ……。最初は屋根がひとつ見えて、それから少しずつ他の建物も見えてきたよね。煙が上がってるのが見えたとき、ちゃんと人が暮らしてる場所なんだって思ったんだ」
モモは頷き、旅帳面へ目を戻した。
「そっか。じゃあ、煙も描いておこうかな。あれが見えたとき、わたしも嬉しかったんだ」
シモンはそのやり取りを聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「印象に残ったものを描くのは、よい記録になると思います。ただ、実際に見た景色と、あとから想像した部分は分けておくと、後で見返したときに分かりやすいでしょう」
「うん! それはちゃんと覚えてるよ!」
モモは元気よく答えた。
旅帳面には、これまでの道中で見た景色が少しずつ増えている。
草原の丘。
風に揺れる草。
古い石柱。
道端で出会った旅人。
そして、今日たどり着いたハルミナ。
どれも、特別に有名な場所というわけではない。
けれど、モモにとっては、ルシルとシモンと一緒に見た大切な景色だった。
彼女は筆記具を動かしながら、ふと微笑んだ。
(こうして描いておけば、ずっとあとになっても、今日のことを思い出せるよね。お水が見つかって嬉しかったことも、ハルミナの人たちが優しかったことも、きっと忘れたくないな)
モモはその思いを胸に、旅帳面へ小さな家の屋根を描き足した。
ルシルは隣からその様子を眺めていたが、邪魔をしないよう、しばらく黙っていた。
やがてモモが筆記具を置くと、彼は穏やかに声をかけた。
「いい絵になりそうだね」
モモは嬉しそうに笑った。
「うん! でも、まだ途中なんだ。あとで井戸も描きたいし、パンを焼く窯も見られたら描いてみたいな」
ルシルは頷いた。
「じゃあ、午後のうちに少しだけ外へ出てみようか。もちろん、マリナさんに聞いてからだけど」
モモの表情がぱっと明るくなった。
「本当!? やったあ!」
シモンはその様子を見ながら、少し考えた。
「それなら、私も同行しましょう。集落の中を歩くのであれば、まずは休み家の周辺から見て回るのがよいと思います」
「うん! 三人で行こう!」
モモは嬉しそうに頷いた。
◇
午後の日差しが少し傾き始めた頃、三人は休み家の入口へ戻った。
マリナはちょうど廊下の掃除を終えたところで、三人の姿に気づくと微笑んだ。
「あら、少し休めたかしら?」
ルシルは頷いた。
「はい。とても落ち着くお部屋でした。ありがとうございます」
「それならよかったわ」
マリナは嬉しそうに答えた。
モモは少し遠慮がちに口を開いた。
「あの、マリナさん。もし迷惑じゃなかったら、集落の中を少し歩いてみてもいいですか? わたし、旅帳面に景色を描いていて、井戸とか、パンを焼く窯とか、見てみたいんです」
マリナは少し考え、頷いた。
「もちろん、道を歩く分には構わないわよ。ただ、畑や家の敷地には勝手に入らないでね。それから、窯を使っている家は今ちょうど忙しいかもしれないから、見学したいなら先に声をかけた方がいいわ」
「はい! ちゃんと聞きます!」
モモが元気よく答えると、マリナは微笑んだ。
「それなら大丈夫ね。そうそう、パンのことだけれど、今日は焼き上がった分を少し分けてもらえるかもしれないわ。うちでも夕食用に頼んであるから、もし希望するなら一緒に聞いてみましょうか?」
モモの瞳が一気に輝いた。
「えっ!? 焼きたてのパン、食べられるんですか!?」
マリナは楽しそうに笑った。
「まだ分からないわよ。焼いた分には、それぞれの家の予定があるからね。でも、余裕があれば旅人にも分けてくれることがあるの」
ルシルは丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。もし可能なら、ぜひお願いしたいです。もちろん、代金はお支払いします」
「分かったわ。じゃあ、あとで聞いてみるわね」
モモは嬉しそうに両手を合わせた。
「ありがとうございます!」
マリナはそんな彼女を見て、穏やかに笑った。
「本当にパンが好きなのね」
「はい! 焼きたてのパンって、すっごく幸せな匂いがするんです!」
その言葉に、マリナは少しだけ目を細めた。
「……そうね。確かに、あの匂いがすると、なんだか家に帰ってきたみたいな気持ちになるわ」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
焼きたてのパンの匂い。
誰かが暮らす家の煙突。
古い井戸を守る人々。
旅の途中で出会う何気ないものが、少しずつ自分の中に積み重なっていく。
それは、王城にいた頃には想像もしなかった種類の豊かさだった。
◇
三人は休み家を出て、広場へ向かった。
午後のハルミナは、昼頃よりも少しだけ賑やかになっていた。
畑から戻ってきたらしい人々が道を歩き、家の前では木箱を運ぶ男性が作業をしている。広場の井戸には二人の女性が桶を持って集まっており、何かを話しながら水を汲んでいた。
ルシルたちは邪魔にならないよう、道の端をゆっくりと歩いた。
モモは周囲を見渡しながら、楽しそうに微笑んでいる。
「ねえ、ルシル君。昼間に来たときと、ちょっと雰囲気が違うね」
「そうだね。さっきは静かだったけど、今は人が少し増えてるみたいだ」
シモンは道の先へ目を向けた。
「畑仕事の区切りがついた方々が戻ってきているのかもしれませんね。集落の生活には、それぞれの時間の流れがあるのでしょう」
モモは頷き、旅帳面を胸元へ抱えた。
「なんだか、見てるだけで楽しいなあ」
三人が井戸の近くへ差しかかると、昼頃に世話になったバルドが作業小屋から出てきた。
彼は三人の姿に気づくと、片手を上げた。
「おや、さっきの旅人たちじゃないか。休む場所は見つかったかい?」
ルシルは笑顔で頷いた。
「はい。マリナさんの休み家に泊めていただけることになりました。教えてくださって、ありがとうございました」
バルドは満足そうに笑った。
「それならよかった。あそこなら馬車も停められるし、今夜はゆっくりできるだろう」
モモも嬉しそうに頷いた。
「はい! お部屋もすっごくきれいだったんです!」
「ははっ、そりゃマリナも喜ぶだろうな。あの人、建物の手入れには気を使ってるからね」
バルドはそう言いながら、モモが抱えている旅帳面へ目を向けた。
「ところで、お嬢さん。その帳面には何が描いてあるんだい?」
モモは嬉しそうに表紙を撫でた。
「旅の途中で見た景色を描いてるんです! 今日も、ハルミナへ来る道とか、お家とかを描いたんですよ」
バルドは感心したように頷いた。
「へえ、そりゃいいな。旅の思い出を残してるんだね」
「はい! それで、もしよかったら、井戸の絵も描いていいですか? もちろん、お仕事の邪魔にならないところから描きます!」
バルドは少し考え、井戸の周囲を見渡した。
「構わないよ。ただ、今は水を汲みに来てる人がいるから、あっちの木のそばから描くといい。そこなら邪魔にもならないし、井戸の屋根もよく見えるだろう」
モモは嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます!」
ルシルも礼を述べ、三人は教えられた場所へ移動した。
木陰には低い石があり、腰を下ろすこともできそうだった。
モモはそこへ座り、旅帳面を開いた。
ルシルとシモンは少し離れたところに立ち、井戸を使う人々の邪魔にならないよう周囲を見守った。
モモは井戸の屋根の形を確かめ、ゆっくりと線を引き始めた。
石を積んだ円形の縁。
木製の巻き上げ具。
屋根を支える柱。
そして、井戸の周囲に敷かれた平たい石。
昼頃には水を補給することに集中していたため、気づかなかった細かな部分も見えてくる。
「……あっ、ここの石、少しだけ色が違うんだね」
モモが小さく呟くと、ルシルも井戸へ目を向けた。
確かに、石組みの一部には周囲より明るい色の石が使われている。
「本当だ。あとから直したところなのかな?」
シモンは少し考えた。
「その可能性はありますが、今の段階では分かりませんね。バルドさんが古い井戸だとおっしゃっていましたから、長い間に何度も補修されているのかもしれません」
モモは頷いた。
「じゃあ、色が違うことは描いておいて、理由は分からないって書いておくね」
ルシルは微笑んだ。
「うん。それがいいと思う」
モモは再び旅帳面へ目を落とした。
井戸の向こうでは、女性たちが水を汲み終え、桶を持って家の方へ歩いていく。
その姿も、モモにとってはハルミナの大切な景色だった。
けれど、勝手に人の顔を細かく描くのはどうだろうと考え、まずは井戸と周囲の様子を中心に描くことにした。
その小さな判断にも、これまでの旅で学んだことが生きていた。
◇
モモが井戸の絵を描き終える頃、広場の向こうから再び香ばしい匂いが漂ってきた。
今度は昼頃よりもはっきりしている。
焼きたてのパン特有の、温かく甘い香りだった。
モモは筆記具を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……ルシル君」
ルシルはその表情を見て、思わず笑ってしまった。
「うん。僕も気づいたよ」
モモは嬉しそうに目を輝かせた。
「さっきより、もっといい匂いがする!」
シモンも穏やかに頷いた。
「どうやら、パンが焼き上がったのかもしれませんね。ただ、見学できるかどうかは、先に確認する必要があります」
モモはすぐに頷いた。
「分かってるよ! 勝手に行ったりしないから!」
ルシルは旅帳面を閉じるモモを見ながら、優しく微笑んだ。
「じゃあ、マリナさんのところへ戻って聞いてみようか。ちょうど、夕食のことも相談したかったしね」
モモは嬉しそうに立ち上がった。
「うん!」
三人はバルドへ改めて礼を述べ、休み家へ戻ることにした。
広場を歩きながら、ルシルはふと空を見上げた。
昼間の強い日差しは少し和らぎ、青空には薄い雲がゆっくりと流れている。
草原を旅していたときには、次の水場を探すことが何より大切だった。
けれど、今はこうして小さな集落の中を歩き、焼きたてのパンの匂いに心を弾ませている。
それは、ほんの少し前まで想像していなかった午後の過ごし方だった。
(旅って、不思議だな。朝はまだ、ちゃんと水を補給できるか心配してたのに、今はこんなに穏やかな気持ちで歩いてる)
ルシルは隣を歩くモモへ視線を向けた。
彼女は鼻歌を歌いそうなほど楽しそうで、シモンもその様子を見ながら穏やかに微笑んでいる。
三人で旅をしているからこそ、こうした時間が生まれるのだろう。
ルシルはそう思いながら、二人と歩調を合わせた。
◇
休み家へ戻ると、マリナはちょうど入口の近くで木箱を整理していた。
三人の姿に気づくと、彼女は微笑んだ。
「あら、お帰りなさい。集落はどうだった?」
モモは嬉しそうに答えた。
「すっごく楽しかったです! 井戸の絵も描けたし、バルドさんにもまた会えました!」
「それはよかったわ」
マリナは頷き、それから少し思い出したように言った。
「そうそう、パンのことだけれどね。隣の家に聞いてみたら、今日は少し余裕があるそうよ。夕食用に何個か分けてもらえることになったわ」
モモは一瞬目を丸くした。
それから、顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「本当ですか!? ありがとうございます!」
マリナは楽しそうに笑った。
「そんなに喜んでもらえるなら、聞いてみた甲斐があったわ。まだ窯の片づけをしているところだから、少し待っていてね」
ルシルも丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。代金についても、あとで確認させてください」
「ええ。夕食と一緒にまとめてお伝えするわ」
シモンは頷き、夕食の内容についても相談した。
マリナによると、今夜は簡単な野菜の煮込みと、焼きたてのパンを用意できるという。
豪華な料理ではないが、旅の途中で温かい食事を取れることは、三人にとって何よりありがたかった。
「それなら、ぜひお願いします」
ルシルが答えると、モモも嬉しそうに頷いた。
「わたしも食べたいです!」
マリナは微笑んだ。
「分かったわ。では、夕方になったら声をかけるから、それまではゆっくりしていてね」
三人は礼を述べ、部屋へ戻った。
廊下を歩きながら、モモは嬉しそうにルシルへ話しかけた。
「ねえ、ルシル君。今日はすっごくいい日になったね!」
ルシルは頷いた。
「うん。水も補給できたし、トルクとベルクも休ませられたし、こうして泊まる場所まで見つかったからね」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「ええ。明日のことは、夕食後にでも相談しましょう。今はせっかくの休息ですから、少しゆっくりしてもよいと思います」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! じゃあ、夕食までの間に、今日の絵をもう少し描こうかな!」
ルシルは笑った。
「いいね。僕も少し休んでから、トルクとベルクの様子を見に行こうかな」
シモンは頷き、部屋の扉を開けた。
窓から入る午後の光は柔らかく、床の上に細長い影を落としている。
三人はそれぞれの場所へ腰を下ろし、しばらく静かな時間を過ごすことにした。
モモは旅帳面を開き、井戸の絵へ細かな線を描き足していく。
シモンは荷物の整理を終えると、椅子へ腰を下ろして目を閉じた。
ルシルは窓辺に立ち、ハルミナの家々を眺めた。
遠くからは、人々の話し声と、木を打つような軽い音が聞こえてくる。
その中に、焼きたてのパンの香りがかすかに混じっていた。
ルシルはゆっくりと息を吸い込み、静かに微笑んだ。
(今日は、ここで休もう。明日のことは、明日へ向かう準備をするときに考えればいいんだ)
王位を手放し、自由な旅を選んだ自分にとって、こうした時間こそが何より大切なのかもしれない。
豪華な食事も、立派な部屋も、誰かに命じられた予定もない。
ただ、信頼できる仲間と一緒に、小さな集落で一日を過ごす。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
ルシルは窓から差し込む光を眺めながら、静かに目を細めた。
ハルミナの午後は、穏やかに過ぎていく。
やがて訪れる夕食の時間には、焼きたてのパンと温かな煮込みが待っている。
そのささやかな楽しみを胸に、三人は小さな休み家で、旅の疲れをゆっくりと癒やしていた。




