↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
131/172

第131話 小さな集落ハルミナと、旅人を迎える古い井戸



 草原の街道から分かれた細い道は、遠くから眺めていたときよりも、ずっと起伏に富んでいた。


 左右に広がる草は街道沿いのものより背が高く、車輪の通る部分だけが長い年月をかけて踏み固められている。ところどころには雨水が流れたらしい浅い溝も残っており、ルシルは手綱を握る指先へ伝わるわずかな振動を確かめながら、トルクとベルクの歩調を慎重に整えていた。


 馬車の少し前では、シモンが足元を確認しながら歩いている。


 黒い髪を揺らす風は穏やかだったが、草の陰に隠れた地面の状態までは見通せないため、彼は時折立ち止まって轍の深さや土の硬さを確かめていた。特に左側の車輪が通る場所には柔らかな部分があり、そこを避けられるよう、ルシルへ手振りで進路を伝えている。


「ルシル様、もう少し右へ寄せてください。左側の土は表面が乾いていますが、その下が少し柔らかいようです。今の位置なら、車輪を深い轍へ入れずに進めると思います」


「分かった。トルク、ベルク、少しだけ右へ行こうね。そう、そのままゆっくりでいいよ」


 ルシルが声をかけると、二頭は落ち着いた様子で進路を変えた。


 栗毛のトルクは道端の草へ何度か視線を向けていたものの、今は前方を歩くシモンの姿を追っている。暗い灰色の毛並みをしたベルクは相変わらず穏やかで、隣のトルクと歩調を合わせながら、ゆっくりと馬車を引いていた。


 窓から外を覗いていたモモが、前方の木立へ目を向けた。


「ねえ、ルシル君。あの木、さっきより大きく見えるよね。少しずつ近づいてるってことかな?」


「うん。ちゃんと進んでるよ。ただ、道が曲がってるから、木立の向こうに何があるかはまだ分からないね」


「そっかあ。でも、もう少しで集落が見えるかもしれないんだよね。なんだか、わくわくしてきちゃった!」


 モモは嬉しそうに笑ったあと、ふと馬車の前方へ視線を落とした。


「……でも、トルクとベルクのお水が先だよね。わたし、お店とか見つけても、すぐに走っていかないようにするからね」


 その言葉に、ルシルは少し驚いてから微笑んだ。


 いつものモモなら、新しい場所へ近づくほど好奇心が膨らみ、目に入ったものを次々に確かめたがる。けれど、今は二頭のことを気にかけながら、自分が何を優先するべきかを考えてくれていた。


「ありがとう、モモ。僕も楽しみだけど、まずはみんなが安心して休めるようにしたいな」


「うん! それが終わったら、集落の中を見てみたいね!」


 モモがそう答えると、前方を歩いていたシモンが振り返った。


「見て回ること自体はよいと思いますが、まずは集落の方に事情を説明してからですね。旅人が立ち入ってよい場所と、住民の生活のための場所は区別する必要がありますから」


「分かってるよ、シモン君。ちゃんと聞いてからにする!」


 モモは胸を張って答えたが、その直後、少しだけ考えるように首を傾げた。


「……でも、集落の人って、最初は誰に声をかけたらいいのかな?」


 ルシルもその疑問にはすぐ答えられなかった。


 街や大きな村なら、門番や宿の主人、商店の人など、旅人が話しかけやすい相手を見つけられることも多い。しかし、これから向かうハルミナがどのような集落なのかは、まだ何も分かっていない。


「まずは人がいるかどうかだね。誰かに会えたら、井戸を使わせてもらうにはどうしたらいいか、丁寧に聞いてみよう」


「そうですね。こちらの事情を一方的に話すのではなく、相手の都合も確認しましょう。水があるからといって、無制限に使えるとは限りません」


 シモンの言葉に、ルシルは静かに頷いた。


 今朝出会った男性は、実際にハルミナの井戸を利用したと話していた。それは心強い情報だったが、集落の人々がどのような決まりで井戸を管理しているのかまでは聞いていない。


(早く水を補給したい気持ちはあるけど、ここで暮らしている人たちにも大切な水なんだよね。僕たちが困っているからって、勝手に使っていいわけじゃない)


 ルシルはそう考えながら、前方のシモンへ視線を向けた。


 彼は道の状態を確認するときだけでなく、二頭の歩調が乱れていないかも気にしている。ルシルが手綱を握ることに集中できるのは、そうした細かな部分をシモンが支えてくれているからだった。


「シモン、ありがとう。ずっと前を歩いてもらっちゃってるね。疲れてない?」


 ルシルが尋ねると、シモンは足を止めずに振り返った。


「お気遣いありがとうございます。私は問題ありませんよ。ただ、この先は少し道が下っているようですから、もうしばらく前を歩かせてください」


「うん。無理はしないでね」


「承知しました。ルシル様も、手綱を握り続けて肩が固くならないようにしてください」


 その返事に、ルシルは思わず笑ってしまった。


「僕のことまで見てるんだね」


「もちろんです。御者が疲れてしまっては、馬車全体の安全に関わりますから」


 シモンは真面目な表情でそう答えたが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。


 モモも二人のやり取りを聞いて、楽しそうに笑った。


「じゃあ、わたしは二人が疲れてないか見てる係になるね! トルクとベルクのことも、ちゃんと見てるから!」


「それは頼もしいね」


 ルシルがそう言うと、モモは満足そうに頷いた。


 馬車は三人の穏やかな会話とともに、草原の細い道を進んでいった。


     ◇


 木立が近づくにつれ、周囲の景色には少しずつ人の暮らしを感じさせるものが増えてきた。


 道端には、自然に転がったものとは思えないほど整った石が並んでいる場所があった。背の高い草もところどころ刈り取られており、誰かが通行の邪魔にならないよう手入れをしているらしい。


 さらに進むと、道の左側に低い木柵が現れた。


 木材の色は場所によって違い、古い部分には雨風にさらされた灰色が残っている。一方、比較的新しそうな部分はまだ明るい茶色をしており、壊れた箇所を少しずつ直しながら使っているように見えた。


 モモは窓から身を乗り出しすぎないよう気をつけながら、その柵を眺めた。


「ねえ、あの柵って、何かを囲ってるのかな? 向こう側に畑みたいなのが見えるよ」


 ルシルは道の前方を確かめてから、少しだけ左へ視線を向けた。


 木柵の向こうには、草原とは明らかに違う高さの植物が、細い列を作るように並んでいる。遠目には種類まで分からないものの、土の色が見える部分もあり、誰かが耕している場所らしかった。


「本当だね。あれは畑かもしれないな」


 シモンも立ち止まり、柵の向こうを確認した。


「ええ。少なくとも、自然の草原とは違う管理がされているようです。集落が近い可能性は高くなりましたね」


 その言葉を聞いたモモは、嬉しそうに両手を胸の前で合わせた。


「じゃあ、もうすぐ人に会えるかな?」


「そうかもしれません。ただ、畑の中へ勝手に入ることはできませんから、道に沿って進みましょう」


「うん!」


 モモは元気よく頷き、旅帳面を取り出した。


 しかし、すぐに描き始めるのではなく、柵の形や植物の並び方をしばらく眺めている。道の途中で揺れる馬車の中では細かな線を描きにくいことも、これまでの旅で覚えたことの一つだった。


 ルシルはその様子を横目に見ながら、前方へ注意を戻した。


 やがて道は木立の手前で緩やかに右へ曲がり、その先に少し開けた場所が見えてきた。


 最初に目に入ったのは、低い屋根だった。


 草原の色に馴染むような茶色い屋根が、木々の間からわずかに覗いている。さらに馬車が進むと、その隣にも小さな建物があり、屋根の端から細い煙が立ち上っていることが分かった。


「……見えた」


 ルシルは思わず声を漏らした。


 それは大きな街でも、立派な城壁に囲まれた村でもなかった。


 けれど、遠くの屋根から立ち上る煙と、木柵の向こうに広がる畑は、確かに誰かがここで暮らしていることを示していた。


 モモもその景色に気づき、目を輝かせた。


「ルシル君! お家だよ! 本当にあったね、ハルミナ!」


 シモンは周囲を見渡しながら、穏やかに頷いた。


「ええ。標識の名前と、今朝聞いた道順も一致しています。あとは、ここがどのような集落なのかを確認しましょう」


 ルシルは胸の奥に広がる安堵を感じながら、手綱を少し緩めた。


 水を補給できる場所があると聞いてから、期待しすぎないようにしていたつもりだった。


 それでも、こうして人家を目にすると、肩に入っていた力がわずかに抜けていく。


(よかった。少なくとも、道を間違えて何もない場所へ来たわけじゃなかったんだ)


 ルシルはトルクとベルクへ優しく声をかけ、建物の見える方へゆっくりと進んだ。


     ◇


 集落の入口には、城門のようなものはなかった。


 細い道の両側に木柵が続き、その先に家々が点在している。建物の数は多くないが、庭先に積まれた薪や、軒下に吊るされた道具、畑の脇に置かれた籠などが、日々の暮らしを感じさせた。


 道の右側には小さな菜園があり、左側には広めの土の庭を持つ家が建っている。


 その庭先では、一人の年配の女性が洗った布を干していた。


 女性は馬車の車輪の音に気づくと、手を止めてこちらを見た。


 突然現れた旅人を警戒しているというより、誰が来たのか確かめているような表情だった。


 ルシルは馬車を安全な場所で停め、女性へ軽く頭を下げた。


「こんにちは。お仕事中にすみません。僕たち、南へ旅をしている者なんですが、少し道を尋ねてもよろしいでしょうか?」


 女性は手にしていた布を籠へ戻し、馬車と二頭の馬を見比べた。


「こんにちは。旅の人かい? ずいぶん立派な馬車だねえ。こんな小さなところへ来るなんて、道を間違えたのかと思ったよ」


 女性の声には柔らかな響きがあった。


 ルシルは安心しながらも、相手の仕事を長く妨げないよう、簡潔に事情を説明した。


「実は、街道で出会った方から、こちらに井戸があると教えていただいたんです。水を補給できる場所を探していて、もし可能なら、使わせていただく方法を教えていただけないでしょうか」


 女性はその言葉を聞き、二頭へもう一度目を向けた。


「なるほどね。人間だけじゃなくて、お馬さんたちにも水が必要なんだろう?」


「はい。ここまでずっと馬車を引いてくれているので、できれば十分に休ませてあげたいんです」


 ルシルが答えると、女性は小さく頷いた。


「それなら、井戸のところへ行くといいよ。ただし、ここの井戸はみんなで使ってるものだから、勝手に汲まずに管理してる人へ声をかけておくれ」


 シモンが丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます。その方は、どちらにいらっしゃるのでしょうか?」


 女性は集落の奥へ続く道を指さした。


「この道をまっすぐ行くと、少し広くなった場所があるんだ。そこに石を積んだ古い井戸があるから、すぐ分かると思うよ。井戸のそばに小さな作業小屋があってね、昼間なら誰かしらいることが多いんだ」


 ルシルは示された方向を確認した。


「分かりました。ありがとうございます」


「もし小屋に誰もいなかったら、近くの家に声をかけてみるといい。ただ、今は畑仕事に出てる人も多いから、少し待つことになるかもしれないね」


 女性はそう言ってから、モモへ視線を向けた。


 馬車の窓から顔を覗かせていたモモは、目が合うと明るく微笑んだ。


「こんにちは! 教えてくれてありがとうございます!」


「あらまあ、元気なお嬢さんだこと。旅は楽しいかい?」


 女性の問いかけに、モモは嬉しそうに頷いた。


「はい! 毎日いろんな景色が見られて、とっても楽しいです。でも、今はお水が少なくなってるから、ちゃんと補給してから続きを楽しもうって話してたんです」


 女性はその言葉を聞いて、穏やかに笑った。


「そうかい。楽しむのも大事だけど、身体を壊しちゃ元も子もないからね。特に馬は、疲れてても人間みたいに細かく説明してくれないんだから、よく見ておやり」


 モモは真剣な表情になった。


「はい! 気をつけます!」


 ルシルも改めて礼を述べた。


 女性は手を振って見送り、再び洗濯物を干し始めた。


 馬車がゆっくりと動き出すと、モモは窓から振り返り、小さく手を振った。


「優しい人だったね」


 ルシルは前方を見ながら頷いた。


「うん。知らない僕たちにも、ちゃんと教えてくれたね」


 シモンは周囲の家々へ視線を向けながら、静かに答えた。


「旅人がまったく来ない場所ではないのかもしれません。ただ、だからといって甘えすぎないようにしましょう。集落の方々には、ここでの生活がありますから」


「うん。分かってるよ」


 ルシルはそう答え、二頭の歩調を整えた。


 道の先には、女性が教えてくれた広場らしい場所が少しずつ見えてきていた。


     ◇


 ハルミナの中心にある広場は、ルシルが想像していたよりも小さかった。


 大きな街にあるような石畳も、商店が並ぶ通りもない。周囲より少し広く土が踏み固められた場所に、数本の木と、古い石造りの井戸があるだけだった。


 けれど、その井戸は集落の中でも大切にされているものらしかった。


 周囲には低い石が並べられ、足元には水がこぼれてもぬかるみにくいよう、平たい石が敷かれている。井戸の上には簡素な屋根が掛けられており、木製の巻き上げ具には使い込まれた跡が残っていた。


 井戸から少し離れた場所には、小さな作業小屋が建っている。


 扉は半分ほど開いており、その前には空の桶がいくつか積まれていた。


 ルシルは広場の入口で馬車を停めた。


「ここが井戸みたいだね。でも、馬車をどこに停めたらいいか分からないから、まずは聞いてみよう」


 シモンは周囲を確認しながら頷いた。


「そうですね。今の位置なら道を完全には塞いでいませんが、他の方が通る可能性もあります。私が小屋の方へ声をかけてきますので、少しお待ちください」


「うん。お願い」


 シモンが馬車から降りると、モモも扉の近くへ移動した。


「わたしも行っていい? ちゃんと後ろについていくから!」


 シモンは少し考え、穏やかに頷いた。


「構いませんよ。ただ、井戸の近くには滑りやすい場所もあるかもしれませんから、足元に気をつけてください」


「うん!」


 二人は作業小屋へ向かった。


 ルシルは御者台に残り、トルクとベルクを落ち着かせながら周囲を見守った。


 井戸の向こう側には、二軒の家が少し離れて建っている。そのうち一軒の軒下では、小さな子どもが木片を並べて遊んでおり、馬車の姿に気づくと興味深そうに顔を上げた。


 子どもはしばらく二頭を眺めていたが、家の中から呼ぶ声が聞こえると、木片を抱えて戻っていった。


 ルシルはその様子を見ながら、静かに微笑んだ。


 王城で暮らしていた頃にも、城下町の人々の生活について学ぶ機会はあった。


 けれど、こうして小さな集落の広場に馬車を停め、井戸の使い方を尋ねるために待っている時間は、書物や報告書から知る暮らしとは違っていた。


(ここでは、井戸も道も、みんなの毎日の生活につながっているんだね。僕たちは少し立ち寄るだけだけど、ここで暮らす人たちにとっては、ずっと続いていく場所なんだ)


 ルシルは井戸の屋根へ視線を向けた。


 古い木材には何度も手入れをした跡があり、石の縁も長い年月の間に少しずつ丸くなっている。


 誰かが使い、誰かが直し、次の誰かへ受け継いできたものなのだろう。


 そのことを考えていると、作業小屋の方から人の声が聞こえた。


     ◇


 小屋の中から現れたのは、五十代半ばほどに見える男性だった。


 灰色の混じった短い髪をしており、丈夫そうな作業着の袖を肘までまくっている。手には木製の道具を持っていたが、シモンの説明を聞くと、それを小屋の入口へ置いた。


「旅の人が水を使いたいって?」


 男性は落ち着いた声で尋ねた。


 シモンは丁寧に頭を下げた。


「はい。私たちは三人で旅をしておりまして、馬車を引く馬が二頭おります。街道で出会った方から、こちらの井戸を利用できる場合があると伺いました」


 男性は広場の入口に停まる馬車へ目を向けた。


「なるほど。あの二頭か。ずいぶん遠くから来たのかい?」


「リーヴェルを出てから九日目になります。途中で休息を取りながら進んできましたが、最後に確実な補給をしてから日数が経っておりますので、可能であれば飲み水を分けていただきたいのです」


 シモンは必要な事情を説明したものの、相手へ負担を押しつけるような言い方はしなかった。


 男性はしばらく考え、井戸の方へ視線を向けた。


「水なら、今のところ井戸は問題なく使えてるよ。ただし、うちの集落でも畑や家畜に使う分があるから、旅人が好きなだけ持っていっていいってわけじゃないんだ」


「もちろんです。必要な量をご相談したうえで、使用料が必要でしたらお支払いします」


 男性はその返事に頷いた。


「それなら話は早い。まず、あんたたちが持ってる容器と、馬にどれくらい水を飲ませたいかを確認しよう。井戸から直接飲ませるんじゃなくて、こっちの桶を使ってもらうことになる」


 モモは隣で真剣に話を聞いていたが、そこで小さく手を上げた。


「あの、すみません。わたしたち、トルクとベルクをちゃんと休ませてあげたいんです。もし水を飲ませる場所が決まってたら、教えてもらえますか?」


 男性はモモを見て、少し表情を和らげた。


「お嬢さん、馬のことを気にしてるんだな。だったら、井戸の横じゃなくて、あっちの木陰がいい。地面も平らだし、馬車を停めても邪魔になりにくいよ」


 男性が示したのは、広場の端にある一本の大きな木のそばだった。


 その周囲は土がよく踏み固められており、近くには石で囲まれた浅い排水溝もある。馬車を停めるための場所として整えられているのかもしれないが、ルシルたちにはまだ詳しいことは分からなかった。


「ありがとうございます!」


 モモが明るく答えると、男性は小さく笑った。


「礼は、水を汲んでからでいいさ。まずは馬車をこっちへ寄せておくれ」


 シモンはルシルへ合図を送り、教えられた場所へ馬車を移動させることになった。


 ルシルは二頭へ声をかけ、広場の端までゆっくりと進んだ。


 木陰へ入ると、日差しが少し和らぎ、トルクもベルクも落ち着いた様子で立ち止まった。


 男性は馬車のそばまで歩いてくると、二頭の様子を観察した。


「どっちも、まだしっかりしてるな。無理に走らせてきたわけじゃなさそうだ」


 ルシルは御者台から降り、丁寧に頭を下げた。


「こんにちは。井戸を使わせていただけると聞きました。ありがとうございます」


「こんにちは。あんたが御者かい?」


「はい。ルシルといいます。こちらはモモとシモンです」


 男性は三人を順番に見てから頷いた。


「俺はバルド。ここの井戸の管理を手伝ってる者だよ。集落の代表ってわけじゃないが、井戸の使い方なら説明できる」


 ルシルはその名前を覚えながら、改めて礼を述べた。


「バルドさん、よろしくお願いします」


「ああ。じゃあ、まずは水の話をしようか」


     ◇


 バルドは井戸の管理について、三人に分かりやすく説明してくれた。


 ハルミナの井戸は集落の人々が共同で使っており、日々の飲み水だけでなく、必要に応じて家畜の世話にも利用されているという。旅人が立ち寄ることもあるが、その場合は管理を担当している者に声をかけ、使う量を確認してから汲む決まりになっていた。


「水は今のところ十分に上がってる。ただ、夏の終わりなんかには水位が下がることもあるからね。だから、いつでも同じように使えるとは限らないんだ」


 バルドは井戸の縁に手を置きながら、そう話した。


 シモンは頷き、現在の水の状態について尋ねた。


「こちらの井戸は、集落の皆様が普段から飲み水として利用されているのでしょうか?」


「ああ。今朝もみんな汲みに来てたよ。俺も飲んでるし、特に変わったことは聞いてない。ただ、井戸の水だからって、旅先での保管まで保証できるわけじゃない。容器はきれいにしておいた方がいいぞ」


「ありがとうございます。容器の状態も確認してから補給いたします」


 シモンはそう答え、馬車へ戻って水の容器を取り出した。


 ルシルも手伝いながら、残っている水をどう扱うか相談した。


 今ある水をむやみに捨てる必要はないが、容器の内側が汚れていないかは確かめたい。補給したあとも、水を清潔に保つために蓋や口元を丁寧に扱う必要があった。


 バルドは三人の作業を見守り、必要な道具について説明してくれた。


「井戸の桶は、こっちで使うものが決まってる。馬に飲ませる桶とは分けてるから、間違えないようにしてくれよ」


 モモは並べられた桶を見比べた。


「本当だ。こっちは持ち手のところに印があるんですね」


「ああ。飲み水を汲む方の桶だよ。馬に使うのは向こうの大きい方だ。毎回洗ってはいるけど、混ぜないようにしてる」


 モモは納得したように頷いた。


「分かりました! ちゃんと気をつけます!」


 バルドは三人の容器を確認し、集落の利用分を妨げない範囲で補給できる量について相談に応じてくれた。


 ルシルたちは、今後の旅に必要だからといって、必要以上に水を持っていこうとは考えなかった。


 馬車の積載量にも限りがある。


 それに、水を多く積めば、その分だけトルクとベルクへ負担がかかる。


 シモンは容器の数と容量を確認しながら、二頭の飲み水と三人の飲み水を優先して補給する方針を説明した。


「まずは二頭に必要な水を与え、そのあとで私たちの容器を補充したいと思います。量については、こちらの決まりに従います」


 バルドは頷いた。


「それならいい。馬には一度に無理やり飲ませず、落ち着いて飲ませてやりな。どれくらい飲むかは、馬自身の様子も見ながら判断するといい」


 ルシルは二頭へ目を向けた。


 トルクは木陰で静かに立っていたが、バルドが大きな桶を動かす音に気づくと、耳を立ててこちらを見た。


「うん。トルクも、そろそろ飲みたいよね」


 ルシルが優しく声をかけると、トルクは鼻を鳴らした。


 その仕草を見たバルドが、楽しそうに笑った。


「ははっ、返事をしてるみたいだな。なかなか賢い馬じゃないか」


「ありがとうございます。少し食いしん坊なところもありますけど、とってもいい子なんです」


 ルシルがそう答えると、モモが嬉しそうに頷いた。


「ベルクもすごくいい子なんですよ! いつも落ち着いてて、トルクと一緒に頑張ってくれてるんです!」


 バルドはベルクへ視線を向けた。


「なるほどな。二頭とも大事にされてるんだな」


 ルシルは少し照れくさくなりながら、二頭の首筋を撫でた。


 旅を始めてから、トルクとベルクには何度も助けられてきた。


 道が悪いときも、天気が変わったときも、二頭は三人を乗せた馬車を引き続けてくれている。


 だからこそ、こうして水を補給できる場所へたどり着いたことが、ルシルには何より嬉しかった。


     ◇


 井戸から水を汲む作業は、バルドの説明を受けながら進められた。


 最初に井戸の周囲を整え、使う桶を確認する。バルドは巻き上げ具の扱い方を見せ、縄を急に緩めないことや、桶を井戸の縁へ強くぶつけないことなど、長く使うための注意点を教えてくれた。


 シモンはその説明を真剣に聞き、必要なところでは手を貸した。


 ルシルも一緒に作業をしたかったが、二頭のそばを離れすぎないようにするため、まずは馬車の近くで桶を受け取る役目を担当した。


 モモは水を運ぶのを手伝おうとしていたものの、最初の桶を見たところで、その重さに少し驚いたようだった。


「わっ……。水って、思ったより重いんだね」


 バルドは笑いながら頷いた。


「そうだろう? 桶に入ってるときは何でもなさそうに見えるけど、持ち上げてみるとずっしりするんだ」


 モモは桶の持ち手へ手を伸ばしかけたが、すぐに考え直した。


「じゃあ、わたしは無理に大きい桶を運ぶより、小さい容器の準備をした方がいいかな?」


 シモンは穏やかに頷いた。


「そうですね。水をこぼさず、安全に作業できることが大切です。モモ嬢には、補給する容器の蓋や置き場所を確認していただけると助かります」


「分かった! そっちをやるね!」


 モモは元気よく答え、馬車へ戻って容器を並べ始めた。


 バルドはその様子を見て、少し感心したように目を細めた。


「元気なだけじゃなくて、ちゃんと自分で考えられるお嬢さんなんだな」


 ルシルは思わず微笑んだ。


「はい。モモは、いつも僕たちのことを考えてくれるんです」


 その言葉を聞いたモモは、容器を並べていた手を止めた。


「えっ、ルシル君? そんなふうに言われると、ちょっと恥ずかしいんだけど……」


 頬を赤らめながら振り返ったモモに、ルシルは不思議そうな顔をした。


「本当のことだよ。今朝だって、トルクとベルクのことを一番に考えてくれてたじゃないか」


「そ、それは二頭とも大事な仲間だからだよ!」


 モモは照れ隠しのようにそう答え、再び容器の方へ向き直った。


 シモンは二人のやり取りを聞きながら、静かに微笑んでいた。


 バルドはそんな三人を見比べ、穏やかな声で言った。


「いい旅仲間なんだな。水を汲む間も、誰が何をするかちゃんと話し合ってる」


 ルシルはその言葉を聞き、少しだけ胸が温かくなった。


 旅に出る前の自分なら、誰かに仕事を任せることと、自分が何もしないことの違いを、うまく考えられなかったかもしれない。


 けれど、今は違う。


 シモンが井戸の扱いを確認し、モモが容器を整え、自分が二頭の様子を見ながら水を受け取る。


 それぞれができることを担当するからこそ、無理なく作業を進められるのだ。


(僕たちは、誰か一人が全部できなくてもいいんだよね。三人で相談して、できることを分け合えばいい)


 ルシルはそう考えながら、運ばれてきた水を受け取った。


 桶の中で揺れる水面には、木漏れ日が細かく反射していた。


     ◇


 トルクとベルクに水を与えるとき、ルシルは二頭の様子を注意深く観察した。


 まずは落ち着いた状態で桶を近づけ、二頭が自分から飲み始めるのを待つ。


 トルクは水の匂いを確かめるように鼻先を寄せ、それからゆっくりと飲み始めた。


 ベルクも少し遅れて水へ口をつけたが、こちらは相変わらず静かな様子だった。


 ルシルは二頭の首筋を撫でながら、安心したように息を吐いた。


「よかった。ちゃんと飲んでくれてるね」


 隣にいたモモも、ほっとした表情を浮かべた。


「うん。なんだか、わたしまで嬉しくなっちゃう」


 シモンは二頭の飲み方を見守りながら、穏やかに頷いた。


「無理に急がせる必要はありません。少し休ませながら、必要な分を飲ませてあげましょう」


 ルシルは頷き、桶の位置を調整した。


 水を飲む二頭の姿を眺めていると、今朝から胸の奥に残っていた緊張が、少しずつほどけていくようだった。


 水が足りなくなる前に補給できる場所を見つけたい。


 その思いは、リーヴェルを出発してからの日々の中で、少しずつ大きくなっていた。


 もちろん、今すぐ命に関わるような状態まで追い込まれていたわけではない。


 けれど、次にどこで水を補給できるか分からないまま進むことは、三人にとっても二頭にとっても不安の種だった。


 だからこそ、こうして目の前で二頭が水を飲んでいる姿を見られることが、ルシルには何より心強かった。


 モモはしゃがみ込み、トルクの横顔を眺めていた。


「ねえ、トルク。おいしい?」


 トルクは水を飲むのを一度やめ、モモの方へ耳を向けた。


 その仕草に、モモは嬉しそうに笑った。


「ふふっ、返事してくれたみたい!」


 ルシルも笑いながら頷いた。


「そうだね。でも、今はゆっくり飲ませてあげよう」


「うん!」


 モモは少し離れた場所へ移動し、二頭の邪魔にならないように見守った。


 やがてトルクとベルクが落ち着いたところで、ルシルは桶を下げ、二頭の様子を改めて確かめた。


 どちらも不自然な動きを見せることはなく、木陰で静かに休んでいる。


 シモンもその様子を確認し、頷いた。


「よさそうですね。これなら、今日は無理に先へ進む必要もありませんし、しばらく休ませてあげられます」


 ルシルは少し考えた。


「そうだね。せっかく集落へ着いたんだし、今日はここでゆっくりできるか聞いてみようかな」


 その言葉に、モモの顔が明るくなった。


「えっ、ここで休めるの? じゃあ、もしかして、温かいご飯も食べられるかな?」


 シモンは小さく笑った。


「まだ何も決まっていませんよ、モモ嬢。まずは滞在できる場所があるかどうかを確認しましょう」


「分かってるよ! でも、ちょっと期待しちゃうなあ」


 モモはそう言いながら、集落の家々へ目を向けた。


 その表情には、今朝までの水への心配とは違う、旅先での新しい楽しみが浮かんでいた。


     ◇


 水の補給が一段落すると、シモンはバルドへ使用料について尋ねた。


 バルドは三人が利用した量を確かめ、集落で決められている旅人向けの負担について説明した。


 井戸の維持には縄や桶の交換、石組みの補修などが必要になるため、外から来た旅人にも、利用した分に応じて少しずつ協力してもらっているのだという。


「もちろん、困ってる人から無理に取ろうってわけじゃないさ。ただ、こうして使い続けるには、みんなで少しずつ支える必要があるからね」


 バルドは井戸の巻き上げ具へ目を向けた。


「この縄だって、去年替えたばかりなんだ。前のものは随分長く使ってたけど、さすがに傷みがひどくなってね」


 ルシルはその説明を聞き、静かに頷いた。


「そうだったんですね。僕たちも使わせていただいたので、きちんとお支払いします」


 シモンが支払いを済ませると、バルドは礼を述べた。


 金額は三人の旅費を大きく圧迫するほどではなかったが、決して意味のない支払いではない。


 ここで暮らす人々が井戸を守り、旅人もその恩恵を受けられるようにするための、小さな約束のようなものだった。


 ルシルは改めて井戸を見上げた。


 石の縁には長い年月の間についた細かな傷があり、屋根の木材も場所によって色が違っている。


 バルドの話を聞いたあとでは、その一つ一つが、ここで暮らす人々の手によって守られてきたものに見えた。


「バルドさん、この井戸って、ずっと昔からあるんですか?」


 ルシルが尋ねると、バルドは少し考えた。


「そうだなあ。俺が子どもの頃には、もうあったよ。親父も使ってたし、その前からあったんだろうけど、正確にいつ造られたかまでは知らないな」


「そうなんですね」


「ああ。古いものだから、直しながら使ってるんだ。大きく壊れたら困るし、毎日使うものだからね」


 バルドはそう答え、井戸の縁を軽く撫でた。


 ルシルはその仕草を見ながら、少しだけ考え込んだ。


 王城には立派な設備があり、何かが壊れれば、それを直すための人員や予算が用意されていた。


 けれど、この小さな集落では、暮らしている人々が自分たちの手で井戸を守り続けている。


 どちらが優れているという話ではない。


 ただ、同じ水を使うという行為にも、場所によって違う支え方があるのだと感じた。


(知らないことって、本当にたくさんあるんだな。旅に出なかったら、僕はこういう暮らしを、自分の目で見ることもなかったかもしれない)


 ルシルは静かに息を吐き、バルドへ微笑んだ。


「大切に使わせていただいて、ありがとうございました」


 バルドは少し照れくさそうに笑った。


「そんなに改まらなくてもいいさ。ちゃんと決まりを守ってくれれば、それで十分だよ」


     ◇


 そのあと、三人はバルドへ集落で休める場所があるかを尋ねた。


 バルドは少し考え、広場の反対側にある建物を指さした。


「あそこに、旅人が休める小さな建物があるよ。立派な宿じゃないけど、馬車を停める場所もある。ただ、今は誰か使ってるかもしれないから、まずは管理してる人に聞いてみるといい」


 ルシルは示された建物へ目を向けた。


 そこには、他の家より少し横に長い、木造の建物があった。


 屋根は低く、壁には風雨にさらされた跡が残っているが、入口の周囲はきれいに掃かれているようだった。


「ありがとうございます。どなたに聞けばいいでしょうか?」


「その建物の奥に小さな家があるだろう? あそこに住んでる人が管理してるんだ。今いるかどうかは分からないけどね」


 シモンは頷いた。


「承知しました。まずはそちらへ伺ってみます」


 モモは建物を眺めながら、少し嬉しそうに微笑んだ。


「ねえ、ルシル君。もし休める場所があったら、今日はゆっくりできるね」


「うん。トルクとベルクも休ませてあげたいし、僕たちも少し落ち着けるといいな」


 ルシルがそう答えると、モモは頷いた。


「それに、せっかくハルミナに来たんだから、どんな集落なのかも知りたいな。さっきのおばあさんも優しかったし、バルドさんもいろいろ教えてくれたし!」


 バルドはその言葉を聞き、楽しそうに笑った。


「ははっ、そう言ってもらえるなら嬉しいね。大したものはない小さな集落だけど、みんなそれなりに楽しく暮らしてるよ」


 モモは目を輝かせた。


「それがいいんです! わたし、旅先で普通に暮らしてる人たちのお話を聞くの、大好きなんです!」


 バルドは少し驚いたように目を丸くした。


「へえ。珍しいお嬢さんだな。旅人っていうと、名所や珍しいものを探してる人も多いのに」


 モモは少し考え、笑顔で答えた。


「珍しいものも好きですよ! でも、どんなご飯を食べてるのかとか、どんな景色を見ながら暮らしてるのかとか、そういうのも知りたいんです。だって、わたしたちが通り過ぎたあとも、ここでは毎日が続いていくんですよね?」


 その言葉に、バルドはしばらくモモを見つめた。


 やがて、穏やかな笑みを浮かべる。


「……そうだな。あんたの言うとおりだよ。ここじゃ毎日、畑を見て、井戸を使って、家のことをして、それで一日が終わる。特別なことなんて、そうそう起きないさ」


 モモは嬉しそうに頷いた。


「うん。でも、そういう毎日って、きっと大事なんだと思います!」


 ルシルは隣でその会話を聞きながら、静かに微笑んだ。


 モモは旅先で出会うものを、いつも楽しそうに受け止める。


 けれど、彼女が本当に好きなのは、珍しいものそのものだけではないのかもしれない。


 そこに暮らす人々や、その人たちが大切にしている時間を知ることも、モモにとっては旅の楽しみなのだろう。


 シモンも穏やかな表情で二人を見守っていた。


 バルドは最後に、集落の中で気をつけることをいくつか教えてくれた。


 畑には勝手に入らないこと。


 家畜のいる柵へ不用意に近づかないこと。


 井戸の周囲では、飲み水を汚さないようにすること。


 どれも難しい決まりではなかったが、ここで暮らす人々にとっては大切なことだった。


 三人はその説明を真剣に聞き、改めて礼を述べた。


     ◇


 バルドと別れたあと、三人は馬車のそばへ戻った。


 トルクとベルクは木陰で落ち着いており、先ほどまで水を飲んでいたこともあってか、穏やかな表情をしているように見えた。


 ルシルは二頭の首筋を撫で、優しく声をかけた。


「よかったね。ちゃんと水を飲めたし、少し休めたね」


 トルクは鼻先をルシルの肩へ寄せ、ベルクも静かに頭を動かした。


 モモはその様子を見ながら、満足そうに笑った。


「ねえ、ルシル君。わたし、今日のこと、旅帳面にちゃんと書いておきたいな」


「うん。どんなことを書くの?」


「まず、ハルミナに着いたこと。それから、井戸のことと、バルドさんが教えてくれたことかな。あと、トルクとベルクが水を飲んでるところも描きたい!」


 モモはそう言ってから、少しだけ考え込んだ。


「でも、井戸の絵は、あとでちゃんと見てから描こうかな。さっきはお水のことでいっぱいだったから、細かいところまで覚えてないかもしれないし」


 シモンはその言葉に頷いた。


「それがよいと思います。今は休息場所を確認することが先ですし、あとで許可を得て見学できれば、落ち着いて描けるでしょう」


「うん! そうする!」


 モモは嬉しそうに答え、旅帳面を大切そうに抱えた。


 ルシルは二人へ目を向けた。


「じゃあ、次は休める場所を聞きに行こうか。もし使わせてもらえるなら、今日はここで過ごしてもいいと思うんだ」


 シモンは少し考え、頷いた。


「私も賛成です。水を補給できたからといって、すぐに長い距離を進む必要はありません。二頭の負担を考えても、今日は早めに休息を取る方がよいでしょう」


 モモも嬉しそうに頷いた。


「うん! わたしも、今日はゆっくりしたいな!」


 三人は相談し、まずは旅人向けの建物を管理している人へ話を聞くことにした。


 ルシルは馬車を動かす前に、二頭の様子をもう一度確かめた。


 トルクもベルクも落ち着いている。


 水の容器も補充できた。


 今朝まで気になっていた問題の一つが、ようやく解決へ向かったことを実感し、ルシルは胸の奥で静かに安堵した。


 ただし、これで今後の水の心配がすべてなくなったわけではない。


 次にどこへ向かうか、その道中にどんな場所があるかは、まだ分からない。


 けれど、今は先のことを急いで決める必要もなかった。


(まずは今日、ここでちゃんと休もう。次の道のことは、落ち着いてから三人で考えればいいんだ)


 ルシルはそう思いながら、二頭へ優しく声をかけた。


 馬車はゆっくりと動き出し、広場の反対側にある建物へ向かって進み始めた。


 そのとき、近くの家から、焼いたパンのような香ばしい匂いが風に乗って流れてきた。


 モモはすぐに気づき、目を輝かせた。


「……ねえ、ルシル君。今、すっごくいい匂いがしなかった?」


 ルシルも鼻をくすぐる香りに気づき、思わず微笑んだ。


「うん。何か焼いてるのかな」


「もしかして、パンかな? それとも、お菓子だったりするのかな?」


 モモは期待に満ちた表情で周囲を見渡したが、どの家から香りが漂っているのかまでは分からなかった。


 シモンはそんな彼女を見て、穏やかに笑った。


「モモ嬢。まずは休息場所の確認ですよ。食事のことは、そのあとで考えましょう」


「分かってるよ! でも、いい匂いがしたら気になるじゃない!」


 モモが少し頬を膨らませると、ルシルは楽しそうに笑った。


「そうだね。もし何か食べられる場所があったら、あとで聞いてみようか」


「本当!? やったあ!」


 モモは嬉しそうに両手を合わせた。


 シモンは苦笑しながらも、二人の楽しそうな様子を見て、どこか安心したように目を細めた。


 水の補給という大切な目的を果たし、三人の表情にはようやく余裕が戻ってきていた。


 小さな集落ハルミナ。


 そこには立派な城壁も、賑やかな市場も、遠くから人を呼び寄せるような名所も見当たらない。


 けれど、古い井戸を守る人がいて、畑を耕す人がいて、洗濯物を干す人がいる。


 そんな当たり前の暮らしの中へ、三人と二頭は静かに迎え入れられようとしていた。


 ルシルは馬車の窓辺で揺れる青い風魚の布へ一瞬だけ目を向け、それから前方の建物を見つめた。


 今日、この集落でどんな時間を過ごすことになるのだろう。


 その答えはまだ分からない。


 それでも、今は不安よりも楽しみの方が大きかった。


 草原を渡る穏やかな風が、広場の木々を静かに揺らしている。


 ルシルはトルクとベルクの歩調を確かめながら、ゆっくりと手綱を動かした。


 馬車はハルミナの小さな広場を進み、旅人たちの新しい休息場所へ向かっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。