第130話 朝露の草原と、旅人が教えてくれた南の小さな集落
夜明け前の草原には、まだ薄い青色の闇が残っていた。
南へ続く街道の左側、周囲よりわずかに高くなった平坦地に停めた馬車の窓から、ルシルは静かに外を眺めていた。昨夜は雲の少ない空に数えきれないほどの星が輝いていたが、今はその光もほとんど消え、東の空だけが少しずつ明るさを増している。
リーヴェルを出発してから九日目の朝だった。
草原を渡る風は昨夜より穏やかで、馬車の窓辺に掛けられた青い風魚の布も、今はほとんど揺れていない。外ではトルクとベルクが静かに休んでおり、時折聞こえる鼻息や小さな物音が、夜の終わりを感じさせていた。
ルシルは寝床からゆっくりと身体を起こし、まだ眠っているモモとシモンへ目を向けた。
モモは毛布を肩まで引き上げ、気持ちよさそうに眠っている。桃金色の髪が枕の上に広がり、普段の元気な姿からは想像できないほど穏やかな表情を浮かべていた。
一方のシモンは、いつものように寝具を大きく乱すこともなく休んでいる。
ルシルは二人を起こさないように身支度を整え、そっと馬車の扉を開いた。
外へ出ると、冷たい朝の空気が頬に触れた。
「……気持ちのいい朝だな」
思わず漏れた声は、草原の静けさに溶け込んでいった。
街道の両側には薄い朝霧がところどころに漂い、草の葉には小さな露がついている。遠くの丘はまだ淡い影のように見え、空と大地の境目もはっきりしなかった。
ルシルは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
(昨日はずいぶん歩いたけど、無事に夜を過ごせてよかった。今日は水のこともあるし、少し慎重に進まないとね)
昨夜、三人で星空を眺めたときのことが思い出された。
モモは星の集まりを旅帳面に描こうとして、何度も空と紙を見比べていた。シモンはその様子を穏やかに見守り、ルシル自身も、久しぶりに時間を忘れて夜空を眺めた。
あの静かな時間は、確かに楽しかった。
けれど、旅には楽しさだけでは済まないこともある。
今、三人が気にしているのは水だった。
以前立ち寄った名も知らぬ村で補給して以来、確実な水場には出会えていない。途中で草原の低い場所や、水が集まるかもしれない地形について話を聞いたことはあったものの、実際に飲める水を確認できたわけではなかった。
ルシルは馬車の後方へ回り、トルクとベルクの様子を確かめた。
栗毛のトルクはルシルに気づくと耳を立て、ゆっくりと鼻先を向けてきた。隣のベルクも顔を上げたが、こちらは相変わらず落ち着いた様子である。
「おはよう、二人とも。よく眠れた?」
ルシルが声をかけると、トルクは小さく鼻を鳴らした。
その鼻先がルシルの手へ伸びてきたため、彼は苦笑しながら首筋を撫でた。
「朝から元気だね。でも、まずは身体の様子を見せてね。ご飯はそのあとだよ」
ルシルは二頭の脚や蹄の周囲を確認し、立ち方や動きに不自然なところがないかを見ていった。
昨日は緩やかな坂を越え、古い轍の残る街道を進んできた。大きな問題は起きなかったが、毎日の小さな確認を怠らないことが、二頭に無理をさせないためには大切だった。
トルクは途中で何度か草の方へ顔を向けたものの、ルシルが声をかけると落ち着いてくれた。
「うん。今のところ大丈夫そうだね」
そう呟いたところで、背後から扉の開く音がした。
「おはようございます、ルシル様。随分と早く起きられたのですね」
振り返ると、シモンが馬車から降りてくるところだった。
黒髪を整え、眼鏡を掛けた姿はいつもどおりだったが、朝の冷たい空気に触れたためか、外套の襟元を少し引き寄せている。
「おはよう、シモン。なんだか目が覚めちゃってね。せっかくだから、二頭の様子を見てたんだ」
「ありがとうございます。昨夜は大きな物音もありませんでしたし、二頭も落ち着いて休めたようですね」
「うん。脚も大丈夫そうだよ。ただ、水のことはやっぱり気になるかな」
ルシルがそう言うと、シモンの表情が少し引き締まった。
「そうですね。私も、今日はその点を優先して考えたいと思っていました。まずは残量を確かめ、どこまで進めるかを慎重に判断しましょう」
シモンは馬車の後方へ歩き、収納してある水の容器を確認し始めた。
ルシルも隣に立ち、蓋を開ける必要のあるものと、外から状態を確かめられるものを分けて手伝った。
旅に使っている収納には魔法の働きがあるものの、入れてある水そのものが増えるわけではない。
どれほど便利な道具があっても、使った水は減っていく。
シモンは一つずつ残量を確かめ、最後に静かに息を吐いた。
「……予想していた範囲ではありますが、やはり余裕があるとは言えませんね」
ルシルは容器へ視線を落とした。
「今日の分はある?」
「人間三人だけなら、今すぐ困る状態ではありません。しかし、トルクとベルクにも必要な水があります。二頭の分を後回しにして進み続けるわけにはいきません」
「そうだよね。僕たちよりずっと身体が大きいし、毎日馬車を引いてくれてるんだから」
「ええ。今日の行程は、普段以上に慎重に決める必要があります」
シモンは蓋を確実に閉め、容器を元の位置へ戻した。
ルシルはその作業を手伝いながら、しばらく考え込んだ。
水を見つけるために急いで進みたくなる気持ちはある。
けれど、急いだ結果として二頭を疲れさせてしまえば、かえって状況は悪くなるだろう。
(早く水場を見つけたい。でも、そのためにトルクとベルクへ無理をさせるのは違うよね)
ルシルは胸の内で考えを整理し、シモンへ顔を向けた。
「今日は、何か確かな情報が見つかるまでは、無理に遠くへ行かないようにしよう。もし途中で旅人に会えたら、水を補給できる場所を聞いてみたいな」
シモンは頷いた。
「私も賛成です。ただ、相手の話が確かなものかどうかは、聞き方にも気をつけましょう。実際に利用したことがある場所なのか、誰かから聞いただけなのかでは、情報の重みが違いますから」
「うん。そこはちゃんと確かめよう」
二人がそう話していると、馬車の中から眠たそうな声が聞こえてきた。
「……ルシル君? シモン君? 二人とも、もう起きてるの?」
モモが扉のところから顔を覗かせていた。
桃金色の髪が少し乱れ、まだ眠気の残る緑色の瞳を細めている。
ルシルは思わず笑みを浮かべた。
「おはよう、モモ。まだ朝早いから、もう少し寝ててもよかったんだよ」
「ううん。二人の声が聞こえたら、なんだか目が覚めちゃった」
モモは小さく欠伸をしてから、外の景色を見渡した。
朝露に濡れた草原と、薄い霧の向こうから差し込む光が目に入った途端、その表情が少しずつ明るくなっていく。
「わあ……。昨日の夕方とは全然違うね。草がきらきらしてる!」
モモは馬車から降り、足元を確かめながら二人のそばへ歩いてきた。
白い外套の裾を揺らす朝風は冷たかったが、彼女は気にした様子もなく、草の葉についた露を眺めている。
「ねえ、これって全部、夜の間についたのかな?」
シモンは草原へ視線を向けた。
「そう考えてよいでしょう。夜の間に冷えた草の表面へ、空気中の水分が集まったものですね。ただ、場所によって量が違うのは、風や地面の状態なども関係していると思います」
「へえ……。こんなにいっぱいあるのに、集めて飲むのは難しいんだよね?」
モモの言葉に、シモンは頷いた。
「ええ。露があるからといって、十分な飲み水を確保できるとは限りません。草の表面に付着したものですから、衛生面も考える必要があります」
モモは少し残念そうに唇を尖らせた。
「そっか。見た目はこんなにきれいなのにね」
ルシルは隣に立ち、朝日に輝く草を眺めた。
「でも、きれいな景色として楽しむことはできるよ。水のことは、ちゃんと別に考えよう」
「うん。そうだね」
モモは頷き、二人へ向き直った。
「それで、今日はどうするの? 水の残りを確認してたんでしょう?」
ルシルとシモンは顔を見合わせた。
そして、今朝確かめたことと、今日の行程について考えていることを、モモにも説明した。
モモは途中で口を挟まず、真剣な表情で聞いていた。
「……分かった。じゃあ、今日は水を補給できる場所の情報を探すのが大事なんだね」
「うん。もちろん、何も分からないまま遠くまで進むつもりはないよ」
ルシルが答えると、モモはしっかりと頷いた。
「わたしも気をつけて周りを見るね。でも、もし水がありそうな場所を見つけても、勝手に走っていったりしないから安心して!」
その言葉に、シモンは少しだけ目を細めた。
「それは助かります。水が見えたとしても、飲めるかどうかは別ですからね」
「うん! ちゃんと三人で確かめる!」
モモは明るく答え、朝の支度を手伝い始めた。
◇
朝食は、馬車のそばで簡単に済ませることになった。
火は使わず、残っているパンと保存食を三人で分ける。水も必要な分を取り出したが、喉の渇きを我慢するようなことはせず、体調を確かめながら飲むことにした。
モモはパンを手に取り、草原の向こうへ視線を向けた。
「ねえ、ルシル君。次に村へ着いたら、最初に何をしたい?」
ルシルは少し考えた。
「やっぱり、水の補給かな。それから、トルクとベルクをゆっくり休ませてあげたい」
「うん、それは絶対だね。じゃあ、そのあと!」
モモは期待に満ちた表情で身を乗り出した。
ルシルは思わず笑ってしまった。
「そのあとかあ……。できれば、温かいものを食べたいな。昨日、モモが話してたスープもいいね」
「でしょう!? わたしもまだ諦めてないよ!」
モモは嬉しそうに笑い、パンを一口食べた。
シモンは二人のやり取りを聞きながら、静かに微笑んだ。
「温かい食事は魅力的ですが、村が見つかったとしても、食事を提供する店があるとは限りませんよ」
「もう、シモン君! 分かってるけど、今は楽しみにしててもいいじゃない!」
「ええ。楽しみにすること自体は構いません」
シモンはそう答え、少しだけ口元を緩めた。
ルシルはその表情を見て、嬉しそうに笑った。
以前のシモンなら、旅の安全や準備の話をしているときに、こんなふうに冗談めいたやり取りを続けることは少なかったかもしれない。
今でも慎重で、必要なことを見落とさないようにしている点は変わらない。
けれど、その慎重さが、三人の楽しみを否定するためのものではないことを、ルシルはよく知っていた。
「シモンは、次に村へ着いたら何がしたい?」
ルシルが尋ねると、シモンは少し意外そうな顔をした。
「私ですか?」
「うん。水の補給とか、必要なことが終わったあとでいいから」
シモンはしばらく考え、手元のパンへ視線を落とした。
「そうですね……。できれば、落ち着いて食事ができる場所で、温かい茶を飲みたいと思います」
モモは目を丸くした。
「お茶?」
「ええ。旅の途中でも飲むことはありますが、最近は火を使わずに過ごすことが多かったですから。湯気の立つ茶を、急がずに飲めたらよいですね」
ルシルは穏やかに微笑んだ。
「いいね、それ。僕も一緒に飲みたいな」
「わたしも! でも、わたしは甘いお茶がいいなあ」
モモがそう言うと、シモンは小さく笑った。
「それは、実際に何があるかを見てからですね」
三人は顔を見合わせ、楽しそうに笑い合った。
水のことを考えれば、決して余裕のある旅ではない。
それでも、次に訪れる場所で何をしたいかを話すだけで、胸の中に小さな楽しみが生まれていた。
◇
朝食を終えた三人は、馬車の周囲を片づけ、出発の準備を始めた。
ルシルはトルクとベルクの馬具を確認し、シモンは車輪や荷物の留め具を点検する。モモは寝具を整え、窓辺の青い風魚の布が走行中に引っかからないようにした。
昨夜のうちに大部分の準備を済ませていたため、作業は比較的順調に進んだ。
ただし、今朝は普段よりも時間をかけて二頭の様子を確かめた。
シモンはルシルと一緒に歩き方を見守り、脚に不自然な動きがないことを確認してから頷いた。
「今のところ問題はなさそうですね。ただ、今日は途中で休息を取る時間を、いつもより意識して確保しましょう」
「うん。急がずに進もう」
ルシルはそう答え、二頭の首筋を撫でた。
トルクは元気そうに鼻を鳴らし、ベルクも静かに頭を動かした。
モモは馬車の中から顔を覗かせた。
「準備できたよ! 旅帳面もちゃんとしまったし、荷物も大丈夫!」
「ありがとう、モモ。じゃあ、出発しようか」
三人はそれぞれの位置につき、馬車をゆっくりと動かした。
昨夜の休息場所は街道の左側にあったため、ルシルは周囲の地面を確かめながら、慎重に馬車を道へ戻していく。
シモンが進路を確認し、モモも窓から左右の様子を見守った。
やがて四つの車輪が街道へ戻ると、馬車は再び南へ向かって進み始めた。
朝の草原には、まだ薄い霧が残っていた。
日差しを受けた草の葉がきらきらと輝き、風が吹くたびに細かな光が揺れているように見える。
ルシルは手綱を握りながら、穏やかに息を吐いた。
「今日もいい天気になりそうだね」
シモンは空を見上げた。
「今のところはそうですね。ただ、日が高くなると暑くなるかもしれません。朝の涼しいうちに、無理のない範囲で進んでおきましょう」
「うん。分かった」
モモは窓から外を眺めながら、嬉しそうに声を上げた。
「ねえ、見て! あっちの草、朝露がいっぱいついてるよ! なんだか小さな宝石みたい!」
ルシルは前方を確認しながら、少しだけ視線を向けた。
「本当だね。昨日の夕焼けもきれいだったけど、朝の草原も負けてないな」
「うん! 今日の絵は、朝の草原から始めようかな!」
モモはそう言って旅帳面を取り出した。
彼女がページをめくる音を聞きながら、ルシルは静かに微笑んだ。
昨日は夕焼けと星空を描いていたモモが、今日は朝露の草原を描こうとしている。
同じ草原を進んでいても、時間が変われば景色はまったく違って見える。
その一つ一つを楽しめることが、ルシルには嬉しかった。
◇
午前の街道は、昨日よりも穏やかな道のりだった。
地面は比較的乾いており、大きな轍や深い溝も少ない。ところどころに古い車輪の跡は残っているが、馬車が大きく揺れるほどではなかった。
ルシルはトルクとベルクの歩調を確かめながら、ゆっくりと進んでいった。
道の右側には低い丘がいくつか並び、左側には広い草原が続いている。
遠くには背の低い木がまばらに見えるものの、人家らしいものはまだ見つからなかった。
「……なかなか、村は見えてこないね」
ルシルがそう呟くと、シモンは前方を見つめたまま答えた。
「そうですね。ただ、草原では地形の陰に建物が隠れていることもあります。遠くに見えないからといって、近くに何もないとは限りません」
「うん。でも、見えるまでは分からないってことだよね」
「そのとおりです。今は街道の状態と二頭の様子を確かめながら進みましょう」
ルシルは頷き、手綱を持ち直した。
馬車の中では、モモが朝露の絵を描き終え、今度は遠くの丘の形を眺めていた。
彼女はしばらく外を見つめたあと、ふと声を上げた。
「ねえ、ルシル君。あの丘の向こう、ちょっと色が違って見えない?」
ルシルは前方を確認しながら、モモの示した方向へ目を向けた。
街道の左前方、緩やかな地面の盛り上がりの向こうに、周囲より少し濃い緑色の部分が見える。
ただ、距離があるため、それが木なのか、草の種類が違うだけなのかは分からなかった。
「本当だね。少し緑が濃く見えるな」
シモンもその方向を確認した。
「木がまとまって生えている可能性はありますね。ただ、あの位置だけでは水場があるかどうかは判断できません」
モモは頷いた。
「うん。分かってるよ。でも、ちょっと気になったから」
「気づいたことを教えていただけるのは助かります」
シモンはそう答え、穏やかに微笑んだ。
モモは嬉しそうに笑い、再び窓の外へ目を向けた。
三人はその場所を覚えておくことにしたが、街道を離れて確かめに行くことはしなかった。
今は確かな情報のない場所へ寄り道するよりも、南へ続く道を慎重に進む方がよい。
その判断は、三人の間で自然に共有されていた。
◇
午前の半ばを過ぎた頃、ルシルは前方の街道に小さな動く影を見つけた。
最初は遠くの草が揺れているだけかと思ったが、しばらく進むうちに、その影がゆっくりと近づいてくることに気づいた。
「シモン、前から何か来てるみたいだよ」
シモンはすぐに視線を向けた。
街道の先には、一台の小さな荷車が見えていた。
荷車を引いているのは一頭の馬で、荷台には布を掛けた荷物が積まれている。御者台には一人の男性が座っており、こちらへ向かってゆっくりと進んでいるようだった。
「荷車ですね。向こうもこちらに気づいているようです」
シモンは道幅を確認しながら続けた。
「この先は比較的広くなっています。すれ違うだけなら問題はなさそうですが、相手の動きにも注意しましょう」
ルシルは頷き、トルクとベルクへ声をかけた。
二頭は落ち着いた歩調を保ち、馬車はゆっくりと進んでいく。
距離が縮まると、相手の男性の姿がはっきりしてきた。
年齢は四十代ほどだろうか。
日に焼けた顔に短い茶色の髪をしており、丈夫そうな上着を着ている。荷車にはいくつかの木箱と布袋が積まれているが、中身までは分からなかった。
男性はルシルたちの馬車を見ると、軽く片手を上げた。
「おう、こんにちは。南へ行くのかい?」
ルシルは馬車の速度を落とし、穏やかに答えた。
「こんにちは。はい、南へ向かっています。そちらは北へ?」
「ああ。南の方から来たところだよ。今日は天気がよくて助かるな」
男性は気さくに笑った。
ルシルはその言葉を聞き、シモンと一瞬だけ顔を見合わせた。
南から来た旅人なら、これから進む道について何か知っているかもしれない。
ただし、相手がどこから来たのかも、どの道を通ったのかも、まだ分からない。
ルシルは急いで質問することを避け、まずは道の邪魔にならない場所で話せるかを確かめた。
「もしお時間があれば、少しだけ道のことを教えていただけませんか? 僕たち、この先の水を補給できる場所を探しているんです」
男性はルシルたちの馬車と二頭の馬を見比べた。
「水か。それなら、少し話した方がよさそうだな。ここで停まると道を塞ぐから、そっちの広いところへ寄せようか」
男性が示したのは、街道の脇にある比較的平らな場所だった。
ルシルはシモンと相談し、双方の荷車が安全に停まれる位置を確認してから、ゆっくりと馬車を寄せた。
男性も荷車を停め、馬を落ち着かせた。
モモは窓から様子を見守っていたが、話ができる状態になったところで馬車を降り、ルシルとシモンのそばへ歩いてきた。
「こんにちは!」
モモが明るく挨拶すると、男性は少し驚いたように目を丸くし、それから笑った。
「おや、元気なお嬢さんだな。こんにちは。三人で旅をしてるのかい?」
「はい! トルクとベルクも一緒だから、正確には五人……じゃなくて、三人と二頭かな?」
モモがそう答えると、男性は声を上げて笑った。
「ははっ、なるほど。大事な仲間なんだな」
「うん! 二頭とも、すっごく頑張ってくれてるんだよ!」
モモは嬉しそうに答えた。
ルシルも微笑みながら頷いた。
「だからこそ、水を補給できる場所を探しているんです。以前の村で補給してから日数が経っていて、そろそろ確かな場所を見つけたいと思っていて」
男性は表情を少し真面目なものに変えた。
「なるほどな。それなら、ちょうどいい話があるかもしれない」
その言葉に、三人の視線が集まった。
男性は街道の南側を指さした。
「この道をもう少し南へ行くと、低い丘が二つ並んでるところがある。その先で道が少し東へ曲がるんだが、そこからさらに進むと、小さな集落へ入る道があるんだ」
ルシルは真剣に耳を傾けた。
「集落があるんですか?」
「ああ。大きな村じゃないが、人は住んでる。俺も今朝、そこを通ってきたところだよ」
シモンが静かに口を開いた。
「その集落では、旅人も水を補給できるのでしょうか?」
男性は頷いた。
「井戸がある。俺も今朝、そこで馬に水を飲ませてもらったよ。ただし、勝手に使っていいってわけじゃない。集落の人に声をかけて、使わせてもらう形だな」
ルシルは思わず表情を明るくした。
「本当ですか。それは助かります」
しかし、シモンはすぐに確認を続けた。
「その井戸は、現在も使われているものなのですね。水の状態について、何か気になることはありませんでしたか?」
「少なくとも、今朝は普通に使われてたよ。俺も飲み水を分けてもらったし、馬にも飲ませた。もっとも、俺が見たのは今朝のことだけだから、いつでも同じように使えるかまでは分からないけどな」
男性は正直にそう答えた。
シモンは丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。実際に利用された方のお話なら、参考になります」
モモは嬉しそうにルシルへ顔を向けた。
「ルシル君、よかったね! ちゃんと水を使った人に会えたよ!」
「うん。でも、まだ僕たちが使わせてもらえると決まったわけじゃないからね。集落へ着いたら、ちゃんとお願いしよう」
ルシルがそう答えると、モモは素直に頷いた。
「うん! もちろん!」
男性は三人のやり取りを見て、穏やかに笑った。
「しっかりしてるな。まあ、あそこの人たちは旅人にも慣れてると思うよ。ただ、集落は小さいから、何でも揃うとは思わない方がいい」
シモンはその言葉にも頷いた。
「承知しました。ちなみに、ここから集落までは、どれくらいの距離があるのでしょう?」
男性は少し考えた。
「俺の荷車で、今朝そこを出てからここまで来た。途中で一度休んでるから、正確な時間は言えないが……お前さんたちの馬車なら、急がなくても今日のうちには着けると思う」
ルシルはその言葉を聞き、トルクとベルクへ目を向けた。
今日のうちに着ける可能性がある。
それは嬉しい情報だったが、二頭の体調や道の状態によっては、無理に進まない方がよい場合もある。
「ありがとうございます。二頭の様子を見ながら進んでみます」
「それがいい。急いで馬を疲れさせたら、元も子もないからな」
男性はそう答え、さらに道の様子について教えてくれた。
集落へ向かう道は、街道から分かれているものの、荷車が通れないほど狭くはないという。ただし、分かれ道の近くには背の低い草が多く、遠くからでは見落とすこともあるらしい。
また、集落の名前については、男性が「ハルミナ」と呼んでいた。
正式な地図上の表記まで確かめたわけではないが、少なくとも近くを通る人々の間では、その名前で通じているようだった。
モモはすぐに旅帳面を開いた。
「ハルミナ……っと。ねえ、もう一回、道の曲がるところを教えてもらってもいいですか?」
男性は快く頷いた。
「いいとも。まず、このまま南へ進む。低い丘が二つ見えてきたら、その先で道が少し東へ曲がるんだ。そこから先、左側に集落へ入る道がある。小さな木の標識が立ってるはずだから、それを見落とさないようにな」
モモは真剣な表情で聞きながら、簡単な道の形を描いていった。
ただし、彼女は途中で筆を止め、シモンへ顔を向けた。
「シモン君、これって、今聞いたことをそのまま書いておけばいいんだよね? まだ見てない場所だから、ちゃんと分けておきたいな」
シモンは穏やかに頷いた。
「ええ。実際に確認した道と、教えていただいた道は区別しておきましょう。そうすれば、あとで見返したときにも混乱しません」
「分かった!」
モモは帳面の端へ、小さく説明を書き添えた。
ルシルはその様子を見ながら、嬉しくなった。
以前のモモなら、面白そうな道の話を聞けば、すぐにでも確かめに行きたがったかもしれない。
今でも好奇心が強いところは変わらない。
けれど、見たものと聞いたものを区別し、三人で相談してから行動することを、自然に考えられるようになっていた。
(モモも、旅をしながらいろんなことを覚えてるんだね。僕も、もっとちゃんと周りを見られるようになりたいな)
ルシルはそう思い、静かに微笑んだ。
◇
男性との話が一段落すると、ルシルは改めて礼を述べた。
「詳しく教えてくださって、ありがとうございました。本当に助かりました」
「いやいや、これくらいならお安い御用さ。俺も旅の途中で、いろんな人に道を教えてもらってるからな」
男性は気さくに笑い、荷車の方へ目を向けた。
「ただ、ひとつだけ気をつけてくれ。集落へ入る道は、街道より少し地面が柔らかいところがある。昨日の雨が残ってるかどうかまでは分からないが、車輪を取られないようにな」
シモンは頷いた。
「承知しました。実際に道の状態を確かめながら進みます」
モモも明るく答えた。
「ありがとうございます! わたしたち、ちゃんと気をつけて行きます!」
男性は満足そうに頷き、荷車へ戻った。
ルシルたちも馬車へ戻り、出発の準備を整えた。
双方の馬が落ち着いていることを確認してから、男性は軽く片手を上げた。
「じゃあな。ハルミナへ行くなら、日が暮れる前に着けるといいな!」
「はい。お気をつけて!」
ルシルが答えると、男性は笑いながら荷車を動かした。
北へ向かう荷車がゆっくりと遠ざかっていく。
三人はその姿を見送ってから、再び南へ向かって進み始めた。
馬車が街道へ戻ると、モモが嬉しそうに声を上げた。
「ねえ、ルシル君! 今日はいい情報が聞けたね!」
「うん。実際に井戸を使った人から話を聞けたのは大きいね」
ルシルは前方を見ながら答えた。
シモンも頷いた。
「ええ。ただし、集落へ着くまでは油断できません。道の状態や二頭の体調を確認しながら進みましょう」
「もちろん!」
モモは元気よく答えた。
ルシルは二頭へ声をかけ、無理のない歩調を保った。
水を補給できる可能性が見えてきたことは、三人にとって大きな安心材料だった。
けれど、それを理由に急いでしまっては意味がない。
今できることは、教えてもらった道を慎重に進み、実際に集落を見つけることだった。
◇
昼が近づく頃、草原の景色は少しずつ変わり始めていた。
街道の両側には低い丘が増え、地面の起伏も以前よりはっきりしている。遠くには、朝方には見えなかった小さな木の集まりも見えるようになっていた。
ルシルは手綱を握りながら、前方の丘を見つめた。
「シモン、あの先に二つ並んだ丘が見えるね。さっき教えてもらった場所かもしれない」
シモンはしばらく観察した。
「そうですね。形は説明と似ています。ただ、まだ距離がありますから、近づいてから確認しましょう」
「うん。分かった」
モモも窓から外を見た。
「本当だ! あの二つ、なんだか並んで座ってるみたいだね」
ルシルは思わず笑った。
「そう言われると、そんなふうにも見えるな」
「でしょ? 大きい方がシモン君で、小さい方がルシル君かな?」
その言葉に、ルシルは少し驚いたように振り返った。
「えっ、僕が小さい方?」
モモは楽しそうに笑った。
「だって、シモン君の方が落ち着いてて、どっしりしてる感じがするもん!」
シモンは眼鏡の位置を直し、少し困ったように微笑んだ。
「丘の大きさで人物を例えるのは、なかなか独特ですね」
「えへへ。じゃあ、わたしはどこかな?」
モモはそう言いながら、周囲を見渡した。
ルシルは少し考え、丘のそばに見える小さな草の盛り上がりを指さした。
「あそこかな。風が吹いても元気に揺れてる草が、モモみたいだよ」
モモは一瞬だけ目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「それ、いいね! じゃあ、わたしはあの草!」
シモンは二人の会話を聞きながら、静かに微笑んだ。
「では、私は大きな丘で、ルシル様は小さな丘、モモ嬢は草ということですね」
「うん! 三人そろったね!」
モモは満足そうに頷いた。
ルシルは笑いながら、再び前方へ視線を戻した。
こうした何気ない会話を交わしていると、旅の途中で感じる緊張が少し和らぐ。
水の補給という大切な目的があっても、楽しむことを忘れずにいられる。
それが、三人で旅を続けることのよさなのだと、ルシルは感じていた。
◇
やがて馬車は、二つの低い丘が並ぶ場所へ近づいた。
街道はその手前でわずかに曲がり、丘の間を避けるように南へ続いている。
ルシルは速度を落とし、シモンと一緒に道の状態を確かめた。
地面は比較的乾いているが、ところどころに浅い轍が残っている。
大きな問題はなさそうだったものの、坂の途中で急に進路を変えることがないよう、慎重に進む必要があった。
「ここを越えたら、道が東へ曲がるんだったよね」
ルシルがそう言うと、シモンは頷いた。
「ええ。ただ、実際の道を確認するまでは、教えていただいた位置と一致するか分かりません。まずは目の前の道を安全に進みましょう」
「うん」
ルシルはトルクとベルクへ声をかけ、ゆっくりと馬車を進ませた。
二頭は落ち着いた歩調を保ち、車輪も大きく揺れることなく進んでいく。
丘の近くまで来ると、街道の向こう側が少しずつ見えてきた。
そこには、緩やかに東へ曲がる道が続いていた。
「……あっ」
モモが窓から顔を覗かせた。
「本当に曲がってる! さっきのおじさんが言ってたとおりだね!」
ルシルも前方を見つめ、嬉しそうに頷いた。
「うん。ここまでは話と合ってるね」
シモンは周囲を確認しながら、静かに答えた。
「そうですね。次は集落へ入る道と、木の標識を探しましょう。ただし、見つからない場合は無理に草原へ入らず、街道上で確認できる場所を探すことにしましょう」
モモは頷いた。
「分かった! わたしも左側をよく見ておくね!」
三人は役割を分け、慎重に進み始めた。
ルシルは前方と二頭の様子を確認し、シモンは道の状態と周囲の地形を見る。
モモは窓から左側を眺め、草の中に標識らしいものがないかを探した。
街道の曲がり角を過ぎると、左側には少し背の高い草が広がっていた。
その向こうには低い木が数本見え、地面は緩やかに下っている。
しばらく進んだところで、モモが声を上げた。
「ねえ、あそこ! 木の棒みたいなのが立ってない?」
ルシルはすぐに馬車の速度を落とした。
シモンも左側へ視線を向けた。
草の間に、確かに一本の木の柱が見える。
上部には横向きの板が取り付けられているようだったが、距離があるため、何が書かれているかまでは分からなかった。
「標識かもしれませんね。もう少し近づいて確認しましょう」
シモンの言葉に、ルシルは頷いた。
馬車はゆっくりと進み、木の柱が見える場所へ近づいていった。
やがて、街道の左側に細い道が分かれていることが分かった。
その入口には古びた木の標識が立っており、板には文字が刻まれている。
ルシルは安全な位置で馬車を停め、シモンと一緒に標識を確認した。
モモも馬車から降り、二人のそばへ歩いてきた。
「何て書いてあるの?」
ルシルは板へ目を向けた。
文字は少し薄くなっていたが、完全に読めなくなっているわけではなかった。
「……ハルミナ」
ルシルがそう読むと、モモの顔がぱっと明るくなった。
「やった! さっき教えてもらった名前だ!」
シモンも標識を確認し、頷いた。
「ええ。少なくとも、ここがハルミナへ向かう道である可能性は高そうです」
ルシルは細い道の先へ目を向けた。
道は草原の中を緩やかに下り、遠くの木立へ向かって続いている。
ただし、ここから集落の建物はまだ見えなかった。
道幅は馬車が通れる程度にあるものの、街道より狭く、地面には浅い轍が残っている。
「ここを進めば、集落へ行けるんだね」
ルシルがそう言うと、シモンは頷いた。
「そう考えてよさそうですが、道の状態を確認してからにしましょう。先ほどの男性も、柔らかい場所があると話していましたから」
モモは道の入口を見つめ、少し考えた。
「ねえ、ルシル君。ここで少し休んでから進むのはどうかな? トルクとベルクも、朝から歩いてるし」
ルシルはその言葉に、すぐに頷いた。
「うん。僕もそう思う。集落が近いかもしれないからって、急いじゃ駄目だよね」
シモンも同意した。
「ええ。ここで一度休息を取り、二頭の様子を確かえてから進みましょう。日暮れまではまだ時間がありますし、無理をする必要はありません」
三人は相談し、街道の邪魔にならない平坦地で短い休息を取ることにした。
◇
休息の間、ルシルはトルクとベルクの様子を確かめた。
二頭とも落ち着いていたが、朝から歩き続けているため、ここで無理をさせないことが大切だった。
ルシルは首筋を撫でながら、優しく声をかけた。
「もう少しで水を補給できるかもしれないけど、焦らずに行こうね。ちゃんと休んでから出発しよう」
トルクは鼻を鳴らし、ルシルの肩へ鼻先を寄せてきた。
ルシルはその仕草に笑みを浮かべた。
「うん。分かってるよ。頑張ってくれてありがとう」
隣のベルクにも手を伸ばすと、ベルクは静かに頭を下げた。
ルシルは二頭を見比べ、安心したように息を吐いた。
馬車のそばでは、モモが旅帳面を開いていた。
彼女は先ほど教えてもらった道の形と、実際に見つけた標識を描き比べている。
「ねえ、シモン君。さっきのおじさんが言ってた道と、今見つけた道、ちゃんとつながったよ!」
シモンは帳面を覗き込み、穏やかに頷いた。
「そうですね。実際に確認した場所を書き足しておけば、あとで見返したときにも分かりやすいでしょう」
「うん! でも、まだ集落の中は見てないから、そこは空けておくね」
「ええ。それでよいと思います」
モモは嬉しそうに笑い、帳面を閉じた。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、静かに微笑んだ。
今朝、馬車の中で話していたときには、次に水を補給できる場所がどこにあるのか分からなかった。
それが今は、実際に井戸を利用したという旅人から話を聞き、集落へ向かう道の入口までたどり着いている。
まだ水を補給できたわけではない。
けれど、確かな情報が少しずつ増えていることは、三人にとって大きな前進だった。
(焦らずに進んでよかった。ちゃんと話を聞いて、確かめながら進めば、こうして次の場所へつながっていくんだね)
ルシルはそう考え、空を見上げた。
午前中には高くなかった太陽が、今は草原を明るく照らしている。
風は穏やかで、遠くの木立も静かに揺れていた。
ルシルは二人へ顔を向けた。
「そろそろ出発しようか。二頭も落ち着いてるし、道の入口までは確認できたから」
シモンは頷いた。
「ええ。ただし、集落へ入る道は街道より狭いようです。最初は私が歩いて地面を確認しましょう」
「分かった。じゃあ、僕は馬車をゆっくり進めるね」
モモも明るく答えた。
「わたしも、道の様子を見てるよ!」
三人は役割を決め、出発の準備を整えた。
シモンが先に道へ入り、地面の状態を確かめる。
ルシルはその合図を待ちながら、トルクとベルクを落ち着かせた。
モモは馬車の窓から外を見守り、周囲の草や轍の様子を確認している。
やがてシモンが振り返り、ゆっくり進んでもよいことを伝えた。
ルシルは二頭へ声をかけ、馬車を静かに動かした。
四つの車輪が街道から細い道へ入り、草の間に残る轍に沿って進み始める。
地面はところどころ柔らかいものの、慎重に進めば問題なく通れそうだった。
ルシルは手綱を握りながら、前方の木立へ目を向けた。
その向こうに、まだ見ぬ小さな集落があるのかもしれない。
そこでは、どんな人々が暮らしているのだろう。
旅人へ水を分けてくれるという井戸は、どんな場所にあるのだろう。
そして、三人はそこで、どんな新しい出会いをするのだろう。
期待と少しの緊張が胸の中で混ざり合い、ルシルは自然と微笑んだ。
「……楽しみだね」
小さく呟くと、モモが窓から顔を覗かせた。
「うん! でも、まずは水だね!」
ルシルは笑って頷いた。
「そうだね。まずはちゃんとお願いして、水を補給させてもらおう」
シモンも前方を確認しながら、穏やかに答えた。
「ええ。集落へ着いたら、まずは事情を説明して、井戸を使わせてもらえるか確認しましょう。そのあとで、必要な補給や休息について相談すればよいと思います」
三人は頷き合い、慎重に道を進んでいった。
草原の向こうでは、低い木立が少しずつ近づいている。
まだ建物の姿は見えない。
それでも、南から来た旅人の言葉と、実際に見つけた標識が、三人の進む道を確かに示していた。
ルシルはトルクとベルクの歩調を確かめながら、ゆっくりと手綱を動かした。
急ぐ必要はない。
今は、目の前の道を一つずつ確かめながら進めばいい。
そうして馬車は、草原の中にある小さな集落ハルミナへ向かって、静かに歩みを進めていった。




