第129話 夕焼けの草原で交わす小さな約束と、星空の下で守る旅の暮らし
草原の向こうへ傾き始めた太陽が、三人の馬車を柔らかな橙色に染めていた。
リーヴェルを出発してから八日目の夕方。南へ続く街道の左側、周囲よりわずかに高くなった平坦地に停めた馬車のそばで、ルシルたちは今夜の支度を進めていた。背の高い木も大きな岩もない場所だったが、地面は比較的固く、馬車と二頭の馬が休むための広さも確保できている。
風を遮るものが少ないため、時折強い風が吹き抜けるものの、見通しのよさは昨日の丘とは違った安心感を与えてくれた。
ルシルはトルクとベルクの様子を確かめながら、馬車の後方へ目を向けた。
「シモン、こっちは大丈夫そうだよ。二頭とも落ち着いてるし、脚にも変わったところはないと思う。ただ、トルクはちょっと草が気になるみたいだけどね」
ルシルが苦笑すると、栗毛のトルクはまるで自分の話をされていることに気づいたかのように耳を動かした。近くに生えている草へ鼻先を伸ばそうとする姿は、今日一日街道を歩いてきた馬とは思えないほど元気だった。
隣のベルクはそんな相棒を横目で見ながら、静かに立っている。
シモンは荷物の確認を終え、二頭の方へ歩いてきた。
「トルクが草に興味を示すのは、いつものことですね。食欲があるのは悪いことではありませんが、見慣れない草を何でも食べさせるわけにはいきません。用意してある飼料を中心に、普段どおりにしておきましょう」
「うん。トルク、聞こえた? 今日は知らない草を勝手に食べちゃ駄目だよ」
ルシルが優しく声をかけると、トルクは鼻を鳴らし、今度はルシルの手元を覗き込んだ。
「だから、僕の手にも何もないってば」
そのやり取りを見ていたモモが、思わず笑い声を上げた。
「ふふっ、トルクって本当にルシル君のことが好きだよね。きっと、何かおいしいものを持ってきてくれたと思ってるんじゃない?」
「そうだったら嬉しいけど、毎回食べ物を期待されるのはちょっと複雑だなあ」
ルシルが笑うと、モモはトルクの近くまで歩いてきた。
白い外套の裾が風に揺れ、夕日の光を受けた桃金色の髪が柔らかく輝いている。
「でも、ちゃんとルシル君の声を聞いてると思うよ。さっきも、話しかけたらすぐにこっちを向いたもん」
「そうかな。だったら、少しは僕の言うことを聞いて、草を諦めてくれるといいんだけど」
「それは難しいかもしれませんね」
シモンが真面目な顔でそう答えたため、モモは再び笑ってしまった。
「シモン君、そこはもうちょっと希望のあることを言ってあげようよ!」
「希望はありますよ。少なくとも、トルクは今のところ落ち着いていますから。ただ、草への興味がなくなるかどうかについては、保証できません」
ルシルも笑いながら、トルクの首筋を撫でた。
こんな何気ない会話をしている間にも、太陽は少しずつ低くなっていく。
今夜の休息場所はすでに決まっているが、日が暮れる前に済ませておきたいことはまだ残っていた。
「さて、二頭の様子は大丈夫そうだし、次は夕食の準備かな。今日は火を使わずに食べられるものにしようと思うんだけど、どうかな?」
ルシルが二人へ尋ねると、シモンは頷いた。
「賛成です。周囲には乾いた草もありますし、風も時折強くなっています。火を使わずに済ませられるなら、その方が安全でしょう」
「わたしも賛成! それに、今日は早めに準備を終わらせて、夕焼けを見る約束をしたもんね」
モモは嬉しそうに答えた。
ルシルはその言葉に微笑み、馬車へ視線を向けた。
「そうだったね。じゃあ、食事の準備も三人でやろうか。できるだけ明るいうちに終わらせて、あとはゆっくりしよう」
三人は頷き合い、それぞれの作業へ戻っていった。
◇
夕食の準備は、いつものように馬車のそばで行うことになった。
シモンが必要な食料を取り出し、ルシルは食事をする場所を整える。モモは包みを開いて中身を確かめながら、三人で分けやすいように並べていった。
今夜もパンと保存食が中心だった。
旅の途中で買い足した食料にはまだ手をつけられるものが残っているが、次の集落がいつ見つかるか分からない以上、無計画に使うわけにはいかない。特に水については、最後に補給した村から日数が経っているため、必要な分を確かめながら使うことにしていた。
モモは食料を並べ終えると、少し考えるように首を傾げた。
「ねえ、シモン君。今夜も冷たいご飯だけど、たまには温かいものが食べたくなるね。もちろん、今は火を使わない方がいいって分かってるんだけど」
シモンは食料の包みを閉じながら、穏やかに答えた。
「そうですね。温かい食事が恋しくなる気持ちは分かります。ただ、今の場所で無理に火を使う必要はありません。次に安全な設備のある場所へ立ち寄れたら、そのときに考えましょう」
「うん! じゃあ、次に町か村へ着いたら、温かいスープが食べたいな。できれば、具がいっぱい入ってるやつ!」
モモは両手を広げ、器の大きさを示すような仕草をした。
ルシルはその様子を見て笑った。
「モモらしいね。でも、僕も温かいスープは食べたいな。パンと一緒に食べたら、きっとおいしいだろうね」
「でしょう? あとね、できれば焼きたてのパンも!」
「それは、なかなか贅沢な希望ですね」
シモンがそう言うと、モモは頬を膨らませた。
「いいじゃない、希望なんだから! 今すぐ食べられなくても、次に何を食べたいか考えるのって楽しいでしょ?」
シモンは少しだけ目を細めた。
「ええ。それは否定しません。ただ、実際に立ち寄れる場所が見つかるまでは、期待しすぎないようにしましょう」
「もう、シモン君は本当に慎重なんだから」
モモはそう言いながらも、楽しそうに笑っていた。
ルシルは二人のやり取りを聞き、手元のパンを見つめた。
王宮で暮らしていた頃、食事は決められた時間に用意されるものだった。食卓には手の込んだ料理が並び、必要なものが足りなくなることなど、ほとんど考えたことがなかった。
けれど、今は違う。
自分たちで食料を選び、残りを確かめ、次の補給場所までどう使うかを相談する。
面倒なことが増えたと感じる日もあるが、その一つ一つを誰かに決められるのではなく、自分たちで選べることが、ルシルには嬉しかった。
(昔は、食べたいものを自由に選べることと、自分の暮らしを自由に選べることが、同じだとは思っていなかったな)
そんな考えが胸をよぎり、ルシルは小さく息を吐いた。
豪華な食事が嫌いだったわけではない。
ただ、今こうしてモモとシモンが次に食べたいものを楽しそうに話している時間は、どんな料理にも代えがたいものに思えた。
「ルシル君?」
モモの声に、ルシルは顔を上げた。
「どうしたの? 何か考えごとしてた?」
「うん、ちょっとね。次に温かいスープが食べられるときは、三人で何を頼むか相談するのも楽しそうだなって思ってたんだ」
モモはぱっと笑顔になった。
「それ、いいね! でも、わたし、きっと迷っちゃうと思う。おいしそうなものがいっぱいあったら、一つに決められないもん」
「そのときは、三人で違うものを頼んで、少しずつ味を比べるのもいいかもしれないね」
ルシルが提案すると、モモは目を輝かせた。
「わあ、それ最高! ルシル君、今から楽しみになってきちゃった!」
シモンは二人を見つめ、静かに微笑んだ。
「では、次に立ち寄る場所で食事ができるなら、そういう楽しみ方も考えておきましょう。ただし、まずは安全にたどり着くことが先です」
「うん。もちろん!」
モモは頷き、パンを手に取った。
三人は夕日の光を受けながら、ゆっくりと食事を始めた。
草原を渡る風は涼しく、遠くからは草が擦れ合う音が聞こえてくる。
街道には今のところ人影がなく、馬車の周囲には穏やかな時間が流れていた。
◇
夕食を終える頃には、太陽が草原の向こうへ大きく傾いていた。
西の空は淡い橙色から赤みを帯びた金色へ変わり、遠くの丘の輪郭が少しずつ暗くなっている。
モモは食事の片づけを終えると、旅帳面を抱えて馬車のそばへ座った。
「ねえ、ルシル君、シモン君。今なら夕焼けがきれいに見えるよ。二人もこっちに来ない?」
ルシルは馬車の周囲を確かめ、トルクとベルクが落ち着いていることを確認してから、モモの隣へ歩いていった。
シモンも必要なものを片づけ、少し離れた位置に腰を下ろした。
三人の前には、どこまでも広がる草原と、その向こうへ沈もうとする太陽があった。
雲は少なく、空の色がゆっくりと変わっていく様子がよく見える。
「……きれいだね」
ルシルが静かに呟くと、モモは大きく頷いた。
「うん。昨日の丘から見た夕方もよかったけど、今日は空がもっと広く見える気がする。あっちの雲なんて、端っこだけ金色になってるよ」
モモはそう言いながら、旅帳面を開いた。
白い紙の上に、草原の線と太陽の位置を描き始める。
彼女は時折顔を上げ、空の色を確かめながら、慎重に線を重ねていった。
ルシルはその様子を見守っていたが、やがて自分も空へ視線を戻した。
王宮の窓から見た夕焼けも、美しかった。
高い建物の向こうへ沈む太陽や、庭園の木々を照らす光には、それなりの趣があったと思う。
しかし、今目の前に広がる空には、建物も塀もない。
どこまでが自分の知っている土地で、どこからが知らない場所なのかも分からないほど、広い景色が続いている。
その広さを見つめていると、胸の奥にあった小さな緊張が、少しずつほどけていくようだった。
「ルシル様」
シモンの声に、ルシルは振り返った。
「どうしたの?」
「いえ、随分と穏やかな表情をされていると思いまして」
ルシルは少し驚いたように瞬きをした。
「そうかな?」
「ええ。もちろん、以前から笑顔を見せられることはありましたが、今は少し違うように感じます」
シモンはそう言いながら、夕焼けへ視線を向けた。
ルシルは返事を急がず、しばらく考えた。
自分では、表情がどれほど変わったのか分からない。
ただ、今の暮らしが好きだという気持ちは、旅を続けるほど確かなものになっていた。
「……たぶん、安心してるんだと思う」
ルシルは静かに答えた。
「毎日知らないことばかりで、心配になることもあるけどね。でも、今は自分で決めて進んでるし、モモとシモンが一緒にいてくれるから」
シモンはその言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「そうですか。それなら、私も嬉しく思います」
ルシルは微笑んだ。
「シモンも、少し変わったよね」
「私が、ですか?」
「うん。前より、よく笑うようになったと思う。モモにからかわれたときなんて、困ってるようで、ちょっと楽しそうだし」
シモンは一瞬だけ言葉を失った。
その様子を見ていたモモが、帳面から顔を上げた。
「そうそう! わたしもそう思う! シモン君、最近は前よりずっと笑ってくれるもんね」
「……お二人とも、随分と私を観察していらっしゃるのですね」
シモンは眼鏡の位置を直し、少し困ったように微笑んだ。
ルシルはその表情を見て、嬉しそうに笑った。
「だって、ずっと一緒に旅してるんだから。そりゃあ、いろいろ気づくよ」
モモも頷いた。
「うん! それに、シモン君が楽しそうだと、わたしも嬉しいんだ」
シモンは二人を見つめ、しばらく黙っていた。
その沈黙は、返事に困っているというより、言葉を選んでいるように見えた。
「……ありがとうございます」
やがて、シモンは静かに答えた。
「私自身、こうして旅を続ける中で、以前とは違う時間の使い方を覚えているのかもしれません。何かを守るために先回りして考えることは、今でも大切だと思っていますが、それだけではないのだと感じることが増えました」
ルシルは真剣に耳を傾けた。
シモンは続けた。
「例えば、今日のように夕焼けを眺める時間です。以前の私なら、日暮れ前の確認事項を優先して、こうして座ることは後回しにしていたでしょう」
モモは少し首を傾げた。
「でも、今日はちゃんと準備を終わらせてから見てるよね。だったら、どっちも大事にできてるんじゃない?」
シモンはその言葉に、静かに目を細めた。
「……ええ。そうですね」
ルシルはモモへ微笑みかけた。
「モモの言うとおりだね。準備も大事だけど、楽しむことも大事なんだと思う」
モモは満足そうに頷き、再び夕焼けへ視線を向けた。
三人の間に、穏やかな沈黙が流れた。
風が草原を渡り、乾いた草の穂先を揺らしていく。
遠くの空では、金色だった雲の縁が少しずつ赤みを帯び、やがて紫色へ変わり始めていた。
◇
モモはしばらく絵を描いていたが、やがて筆を止めた。
夕焼けの色が変わる速度は思っていたより早く、描き終える前に景色が違うものになってしまう。
彼女は帳面と空を交互に見比べ、小さく唸った。
「うーん……。難しいなあ。さっきはもっと明るい色だったのに、もう暗くなってきちゃった」
ルシルは隣から帳面を覗き込んだ。
「でも、きれいに描けてると思うよ。僕には、さっき見た夕焼けみたいに見えるけどな」
「本当? でも、こっちの雲の形がちょっと違うんだよね。描いてる間に動いちゃったみたい」
モモはそう言いながら、空を見上げた。
風に流される雲は、確かに少しずつ形を変えている。
シモンは二人の会話を聞き、穏やかに口を開いた。
「同じ景色を、そのまま紙へ残すのは難しいでしょうね。ですが、モモ嬢が見たときに感じたものまで、完全に同じである必要はないのではありませんか?」
モモは振り返った。
「どういうこと?」
「例えば、今の絵をあとで見返したとき、今日の夕焼けを思い出せるのであれば、それは十分に意味のある記録だと思います。雲の形が少し違っていても、そのときの気持ちまで消えるわけではありませんから」
モモはしばらく考え、帳面へ視線を落とした。
そこには、夕日に染まる草原と、小さく描かれた馬車がある。
実際の景色と比べれば、違うところはいくつもある。
それでも、今日この場所で三人が夕焼けを見たことは、確かに残っていた。
「……そっか」
モモは小さく笑った。
「じゃあ、これでいいのかもしれないね。あとで見返したとき、今日のことを思い出せたら、それで嬉しいもん」
ルシルは頷いた。
「うん。僕も、モモの絵を見ると、そのときのことを思い出すよ。前に描いてくれた海の絵も、見ただけで潮の匂いがするような気がするし」
その言葉に、モモは目を輝かせた。
「本当!? それ、すっごく嬉しい!」
モモは帳面を大切そうに抱え、二人へ笑顔を向けた。
「じゃあ、これからもいっぱい描くね。上手に描けなくても、三人で見たものを残していきたいから」
シモンは穏やかに頷いた。
「ええ。楽しみにしています」
ルシルも微笑んだ。
「僕も楽しみだよ」
モモは嬉しそうに笑い、帳面を閉じた。
夕焼けはさらに色を深め、太陽の姿は草原の向こうへほとんど隠れようとしていた。
ルシルはその光景を見つめながら、ふと口を開いた。
「ねえ、二人とも。これから先も、こういう時間を大事にしていきたいね」
モモは首を傾げた。
「こういう時間?」
「うん。どこかへ急いで向かうんじゃなくて、その日に見つけた場所で休んで、三人でご飯を食べたり、景色を眺めたりする時間」
ルシルは少し照れたように笑った。
「旅を始めたときから、そういう暮らしがしたいと思ってたんだけど、最近はますます好きになってきたんだ」
モモは嬉しそうに頷いた。
「わたしも! もちろん、面白いものを見つけたり、新しい町へ行ったりするのも楽しみだけど、こうして三人で過ごす時間も大好きだよ」
シモンは二人を見つめ、静かに微笑んだ。
「私も同じ気持ちです。安全を確保することはこれからも大切ですが、そのためだけに旅をしているわけではありませんから」
ルシルはその言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「うん。じゃあ、これからも無理せず、三人で相談しながら進もう」
モモは明るく笑った。
「約束だね!」
シモンも穏やかに頷いた。
「ええ。約束しましょう」
三人は顔を見合わせ、自然と笑い合った。
大げさな誓いではなかった。
何か特別な儀式をしたわけでもない。
ただ、夕焼けの草原で、これからも同じように旅を続けていこうと確かめ合っただけだった。
それでも、ルシルにはその時間が、とても大切なものに思えた。
◇
太陽が沈み、空に夜の色が広がり始めると、三人は馬車の周囲をもう一度確認することにした。
草原では、日が暮れると地面の様子が分かりにくくなる。
特に今夜の休息場所は、周囲に大きな目印が少ない。暗くなってから不用意に歩き回らないよう、明るさが残っているうちに必要なものを整えておくことが大切だった。
ルシルはトルクとベルクのそばへ歩き、二頭の様子を確かめた。
どちらも落ち着いており、夕方の食事を終えたあとも大きな変化はない。
ルシルは首筋を撫でながら、優しく声をかけた。
「今日もお疲れさま。明日も歩くことになると思うけど、今夜はゆっくり休んでね」
トルクは鼻を鳴らし、ルシルの肩へ鼻先を寄せてきた。
その仕草に、ルシルは小さく笑った。
「うん、分かったよ。ちゃんとそばにいるから」
隣のベルクにも手を伸ばすと、ベルクは静かに頭を下げた。
ルシルは二頭の様子を見比べ、安心したように息を吐いた。
馬車の反対側では、シモンが車輪と荷物の状態を確認していた。
午後には古い轍を見つけたものの、そこへ馬車を進ませることはしなかった。街道自体は比較的安定していたため、今のところ車輪に大きな問題は見られない。
それでも、毎日の確認を怠るわけにはいかなかった。
シモンは車輪の周囲を見回し、馬車の下へ入り込んだ草や小石がないかを確かめた。
その様子を見ていたモモが、近づいて声をかけた。
「シモン君、何か手伝えることある?」
「ありがとうございます。では、馬車の反対側に回って、荷物の留め具が緩んでいないか確認していただけますか? 無理に動かさず、見たままを教えてください」
「うん、分かった!」
モモは頷き、馬車の反対側へ歩いていった。
留め具の位置を一つずつ確かめ、緩んでいるように見える場所がないかを確認する。
彼女はしばらく観察したあと、シモンへ声をかけた。
「こっちは大丈夫そうだよ! でも、一つだけ、いつもより少し斜めになってる気がするところがあるんだけど」
シモンはすぐに近づき、モモが示した場所を確認した。
「なるほど。確かに少し位置がずれていますね。ただ、留め具そのものが外れかけているわけではありません。念のため、正しい位置へ戻しておきましょう」
「うん。見つけられてよかった!」
モモは嬉しそうに笑った。
シモンは留め具を整えながら、穏やかに頷いた。
「ええ。こうした小さな確認が、あとで役に立つこともありますから」
モモはその言葉を聞き、少し誇らしげな表情を浮かべた。
やがてルシルも戻ってきて、三人で最後の確認を終えた。
夜の風は昼間より冷たくなっていたが、今のところ急に強まる様子はない。
周囲に人影はなく、街道を通る荷車の音も聞こえなかった。
「よし、これで大丈夫そうだね」
ルシルがそう言うと、シモンは頷いた。
「ええ。今夜も火は使わず、馬車の中で休みましょう。風が変わる可能性もありますから、夜の間も必要に応じて様子を確認します」
モモは少し心配そうにシモンを見た。
「でも、シモン君ばっかり起きてたら疲れちゃうよ。ちゃんと休んでね」
シモンはその言葉に、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。もちろん、休息は取りますよ。必要以上に起きているつもりはありません」
「本当?」
「本当です。お二人も、何か気になることがあれば遠慮なく声をかけてください」
ルシルも頷いた。
「うん。僕も、シモンに任せきりにはしないよ。何かあったら三人で考えよう」
シモンは二人の顔を見つめ、静かに頷いた。
「……分かりました。では、今夜も無理のないようにしましょう」
三人は馬車へ戻り、夜を過ごす準備を整えた。
◇
夜が深まる前、モモがふと窓の外を見て声を上げた。
「ねえ、ルシル君! 星が見えてきたよ!」
その声に、ルシルは顔を上げた。
馬車の窓から見える空には、夕焼けの名残がほとんど消え、濃い青色の中に小さな光がいくつも浮かび始めていた。
ルシルは窓へ近づき、外を覗いた。
「本当だ。今日は雲が少ないから、よく見えるね」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! もう少し暗くなったら、もっといっぱい見えるかな?」
シモンは窓の外を確かめながら答えた。
「そうですね。空が晴れたままなら、さらに多くの星が見えるでしょう。ただ、外へ出るなら足元に気をつけてくださいね」
モモはすぐに頷いた。
「分かってるよ。遠くへ行ったりしないから、馬車のそばで少しだけ見てもいい?」
ルシルはシモンと顔を見合わせた。
周囲の確認は終わっており、今のところ危険な様子はない。
もちろん、夜の草原で長く外にいる必要はないが、馬車のそばで空を眺める程度なら問題はなさそうだった。
「うん。僕も一緒に見たいな。シモンもどう?」
シモンは少し考え、頷いた。
「では、短い時間だけにしましょう。冷え込みもありますし、長く外にいるのは避けた方がよいでしょうから」
モモは嬉しそうに笑った。
「やった! じゃあ、三人で見ようね!」
三人は外套を整え、馬車の外へ出た。
夜の草原には、昼間とは違う静けさが広がっていた。
風が草を揺らす音は聞こえるものの、遠くの街道から人の声が届くことはない。
空には星が少しずつ増え、淡い光が広い草原を見下ろしていた。
モモは馬車のそばに立ち、空を見上げた。
「……わあ」
その声には、素直な驚きが込められていた。
ルシルも隣へ立ち、空を見上げた。
王宮にいた頃にも星を眺めたことはあったが、こんなに広い空を見上げる機会は多くなかった。
建物も高い塀もない場所では、空がどこまでも続いているように見える。
「すごいね。星って、こんなにたくさんあったんだ」
ルシルがそう言うと、モモは大きく頷いた。
「うん! なんだか、空に小さな光がいっぱい散らばってるみたい。あの辺りなんて、特にたくさん見えるよ」
モモは空の一角を指さした。
ルシルはその方向へ目を向け、細かな星の集まりを見つめた。
シモンも少し離れた場所から空を眺めている。
モモはしばらく星を見つめたあと、ふと思い出したように尋ねた。
「ねえ、シモン君。星って、旅の道しるべになることもあるんだよね?」
シモンは頷いた。
「ええ。星の位置を利用して方角を確かめる方法はあります。ただし、季節や時間によって見え方が変わりますし、正しく使うには知識が必要です。見えた星だけで簡単に進路を決めるのは危険ですよ」
「そっか。じゃあ、今すぐ星を見て道を決めるのは難しいんだね」
「そうですね。私たちは街道を進んでいますから、今夜は星を楽しむだけで十分でしょう」
モモは嬉しそうに笑った。
「うん! それなら、いっぱい楽しむ!」
ルシルはそのやり取りを聞きながら、静かに微笑んだ。
星を道しるべにする旅人もいる。
けれど、今の自分たちは、無理に夜道を進む必要がない。
明るいうちに休息場所を選び、馬たちを休ませ、食事を済ませる。
そして、夜にはこうして星を眺める。
それだけで、十分に満たされた時間だった。
◇
しばらく星空を眺めていると、モモが小さく笑った。
「ねえ、ルシル君。今日のこと、あとで帳面に描こうと思うんだけど、星ってどうやって描けばいいんだろう?」
ルシルは少し考えた。
「うーん。小さな点をいっぱい描くとか?」
「それだと、ただの点々になっちゃわないかな?」
モモは首を傾げた。
シモンは二人の会話を聞き、穏やかに口を開いた。
「星の位置をすべて正確に描こうとするのは難しいでしょうね。まずは、特に印象に残った星の並びを描いてみてはいかがでしょう」
モモは目を輝かせた。
「なるほど! 全部じゃなくて、好きなところを描けばいいんだね」
「ええ。もちろん、正確な星図を作るのであれば別ですが、旅の思い出として描くのであれば、モモ嬢が見た景色を大切にしてよいと思います」
モモは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、あの辺りを描こうかな。小さい星がいっぱい集まってるところ、すごくきれいだもん」
ルシルは空を見上げ、モモの示した方向を確かめた。
「うん。僕もあそこが好きだな。なんだか、星が集まって話してるみたいに見えるね」
モモは楽しそうに笑った。
「ふふっ、星が話してるって、面白いね。何を話してるんだろう?」
「さあ……。もしかしたら、下を通る旅人のことを話してるのかもしれないね」
ルシルがそう答えると、モモはさらに嬉しそうな表情になった。
「じゃあ、わたしたちのことも見てるかな?」
「どうだろう。でも、もし見てたら、楽しそうな三人だなって思ってくれるといいね」
その言葉に、シモンは小さく笑った。
「星がそのようなことを考えるかどうかは分かりませんが、少なくとも私たちは、今夜の空を楽しんでいますね」
モモは頷き、二人へ笑顔を向けた。
「うん! それだけで十分だね!」
三人は再び空を見上げた。
星の光は静かに瞬き、草原には夜の冷たい風が流れていた。
やがてモモが小さく肩をすくめた。
「……ちょっと寒くなってきたかも」
ルシルはすぐに顔を向けた。
「大丈夫? そろそろ馬車へ戻ろうか」
モモは頷いた。
「うん。星はまだ見てたいけど、風邪をひいたら大変だもんね」
シモンも頷いた。
「その判断でよいと思います。続きは、また別の夜に楽しめますから」
三人は名残惜しそうに空を見上げてから、馬車へ戻った。
◇
馬車の中へ戻ると、外の冷たい風が遮られ、三人はほっと息を吐いた。
ルシルは窓辺の青い風魚の布を整え、夜風で大きく揺れないようにした。
モモは旅帳面を開き、先ほど見た星空を思い出しながら、小さな点を描き始めた。
シモンは明日の朝に必要なものを確認し、手の届きやすい場所へまとめている。
それぞれ違うことをしているが、同じ馬車の中にいるだけで、自然と落ち着いた空気が生まれていた。
モモは帳面へ星を描きながら、ふと顔を上げた。
「ねえ、ルシル君。明日はどんな景色が見られるかな?」
ルシルは少し考え、微笑んだ。
「分からないけど、楽しみだね。今日みたいに草原が続くかもしれないし、どこかで新しい道を見つけるかもしれない」
「うん。できれば、水を補給できる場所も見つかるといいな」
モモの言葉に、シモンは静かに頷いた。
「そうですね。明日も引き続き、確かな水場の情報を探す必要があります。ただ、見つからない場合に備えて、無理のない行程を考えましょう」
ルシルも頷いた。
「うん。今日のおじいさんの話も覚えておこう。南へ進めば人の住む場所があるらしいけど、どれくらいかかるかは分からないんだもんね」
「ええ。だからこそ、明日も朝のうちに状況を確認してから出発しましょう」
シモンはそう答え、荷物の確認を終えた。
モモは旅帳面を閉じ、二人へ顔を向けた。
「じゃあ、明日も三人で相談しながら進もうね。今日みたいに、ちゃんと休むことも忘れずに!」
ルシルは微笑んだ。
「うん。約束したばかりだしね」
シモンも穏やかに頷いた。
「ええ。無理のない旅を続けましょう」
モモは満足そうに笑い、寝る準備を始めた。
ルシルも自分の寝床を整えながら、今日一日のことを思い返した。
朝には柔らかい轍の残る道を慎重に通り、昼前には道端で出会った男性から水場についての話を聞いた。
午後には草に隠れた古い車輪の跡を見つけ、街道を離れずに進むことを選んだ。
夕方には今夜の休息場所を決め、三人で食事をし、夕焼けと星空を眺めた。
大きな事件は起きなかった。
けれど、ルシルにとっては、どれも大切な時間だった。
(こういう一日が、これからも続いていくといいな。知らない場所へ進むのは少し不安だけど、三人で相談しながらなら、きっと大丈夫だと思える)
ルシルはそう考え、静かに微笑んだ。
馬車の外では、草原を渡る風が穏やかに吹いている。
トルクとベルクも落ち着いて休んでおり、今のところ周囲に異変は見られなかった。
シモンは最後に窓の外を確かめ、三人へ声をかけた。
「では、今夜はこのまま休みましょう。明日の朝も、馬たちと水の状態を確認してから出発します」
モモは寝床から顔を上げ、明るく答えた。
「うん! おやすみ、ルシル君、シモン君!」
「おやすみ、モモ。シモンも、ちゃんと休んでね」
「ええ。おやすみなさい、ルシル様、モモ嬢」
三人は互いに挨拶を交わし、静かに夜を迎えた。
草原の空には、数えきれないほどの星が輝いている。
その下で、小さな馬車は今夜も三人の居場所となり、穏やかな時間を包み込んでいた。
明日、どんな道が待っているのかは分からない。
けれど、今は急ぐ必要などなかった。
ルシルは目を閉じ、風の音を聞きながら、ゆっくりと眠りへ落ちていった。




