第128話 午後の草原に続く古い轍と、三人が選んだ無理のない道
昼食を終えたあとも、ルシルたちはすぐに馬車を動かさなかった。
南へ続く草原の街道から少し右へ入った平坦地には、午後の日差しが惜しみなく降り注いでいた。低い地面の盛り上がりが風を幾分和らげてくれるものの、木陰のない場所に長く留まれば、休息のために停まったはずの馬たちまで暑さに疲れてしまう。三人は食事の片づけを進めながら、ここでどれほど休み、どの時点で出発するのがよいかを相談していた。
ルシルは使い終えた包みを畳み、食べ残しが地面に落ちていないことを確かめてから、トルクとベルクの方へ歩いていった。二頭は落ち着いた様子で休んでいたが、栗毛のトルクはルシルが近づくと耳を立て、何かを期待するように鼻先を動かした。
「トルク、もうお昼は食べたでしょう? 僕の手を見ても、何も出てこないよ」
そう話しかけながら首筋を撫でると、トルクは少し不満そうに鼻を鳴らした。隣のベルクはそんな相棒を気にすることもなく、静かに立っている。
ルシルは二頭の様子を見比べ、脚や蹄の周囲に異常がないかを確かめた。午前中には柔らかい轍の残る道を慎重に通過しているため、歩き方に変化がないことは確認しておきたかった。
「うん、二頭とも大丈夫そうだね。でも、今日は朝から道が少し大変だったし、午後も無理しないようにしよう」
トルクの耳が小さく動いた。言葉の意味をすべて理解しているわけではないだろうが、穏やかな声を聞いて安心しているようにも見える。
馬車の反対側では、シモンが水の容器を確認していた。
最後にまとまった補給ができたのは、以前立ち寄った名も知らぬ村でのことだった。それから幾日も草原を進み、人間だけでなく馬たちにも水を使っている。今すぐ飲み水が尽きる状態ではないものの、次に確実な補給ができる場所はまだ分かっていなかった。
シモンは容器を一つずつ確かめ、残量と今後の使用を考えながら、無駄なく取り扱える位置へ戻した。
その様子を見ていたモモが、旅帳面を閉じて近づいてきた。
「シモン君、水はどう? さっきのおじいさんの話を聞いてから、ちょっと気になってたんだ」
「予定より急に減っているわけではありません。ただ、補給場所が分からない以上、余裕があると考えて使うのは避けたいですね。人も馬も必要な量は確保しながら、洗い物などで余計に使わないようにしましょう」
シモンは容器の蓋を確かめ、モモへ向き直った。
「もっとも、水を惜しむあまり体調を崩しては意味がありません。喉が渇いたときや、暑さで具合が悪くなりそうなときは、遠慮せずに言ってください。もちろん、トルクとベルクについても同じです」
「うん、分かった。わたしも、使わなくていいところでは節約するけど、必要なときはちゃんと言うね」
モモは素直に頷いたあと、少し考えるように首を傾げた。
「それにしても、旅って本当にいろんなことを考えるんだね。前は、道が続いてたらそのまま進めばいいって思ってたけど、今は水のことも、馬たちのことも、泊まる場所のことも気になるもん」
シモンはその言葉に、かすかな笑みを浮かべた。
「それだけ、モモ嬢が旅を自分たちのものとして考えるようになったということでしょう。最初から何もかも分かる必要はありませんが、気づいたことを口にしていただけるのは助かります」
「えへへ。じゃあ、これからもいっぱい気づくようにするね。でも、変なことを言ったら教えてほしいな。わたし、気になったことをすぐ言っちゃうから」
「気づいたことを話すのは悪いことではありませんよ。そこから確かめればいいのですから」
二人の会話を聞きながら戻ってきたルシルは、楽しそうに笑った。
「僕も同じだよ。今日の午前中だって、モモが草の途切れているところを見つけてくれたから、馬車の通り方をちゃんと考えられたんだし」
「そう言ってもらえると嬉しいな。じゃあ、午後も三人でいっぱい見つけようね!」
モモはそう言って、胸の前で小さく拳を握った。
ルシルは頷き、二頭の様子と周囲の日差しをもう一度確かめた。
「うん。でも、まずは出発の準備だね。ここは日陰がないし、そろそろ動いた方がいいかもしれない。シモン、どう思う?」
「私もそう考えていました。十分に休めましたし、道へ戻る前に車輪と荷物を確認しましょう。午後は次の休憩場所を探しながら、無理のない距離を進むのがよいと思います」
三人は相談を終えると、馬車の周囲を片づけ始めた。
食事に使ったものをしまい、落とし物がないことを確かめ、トルクとベルクの馬具も確認する。モモは窓辺に掛けられた青い風魚の布が引っかからないように整え、旅帳面をいつもの場所へ収めた。
準備を終えたルシルが御者台へ座ると、シモンも隣へ上がった。
モモは馬車の中から顔を覗かせ、二人に明るく声をかけた。
「準備できたよ! 午後もよろしくね、ルシル君、シモン君!」
「うん。こちらこそよろしく、モモ」
「ええ。では、ゆっくり出発しましょう」
ルシルは二頭へ声をかけ、馬車を静かに動かした。
車輪が短い草を踏み、街道へ戻るための緩やかな地面を進んでいく。シモンが左右の状態を確認し、ルシルは合図に合わせて少しずつ進路を調整した。
やがて四つの車輪が街道へ戻ると、馬車は再び南へ向かって進み始めた。
◇
午後の草原は、朝とは違う顔を見せていた。
露をまとっていた草はすっかり乾き、風が吹くたびに細かな葉が擦れ合って、さざ波のような音を立てている。遠くの丘は日差しを受けて輪郭が柔らかく見え、空には薄い雲がいくつか浮かんでいた。
ルシルはトルクとベルクの歩調を確かめながら、道の先へ目を向けた。
午前中に通った柔らかい場所とは違い、今の街道は比較的乾いている。ところどころに車輪の跡は残っているものの、深く沈んだ場所は少なく、馬車も大きく揺れることなく進んでいた。
「午前中より、少し走りやすいね。道が乾いてるだけで、こんなに違うんだな」
ルシルがそう言うと、シモンは街道の表面を見ながら頷いた。
「そうですね。ただ、乾いた道でも、古い轍が重なっている場所は注意が必要です。車輪が跡に沿って動こうとすると、思ったより進路を変えにくくなることがありますから」
「なるほど。道が固ければ全部安心ってわけじゃないんだね」
「ええ。とはいえ、今のところ大きな問題はありません。二頭の様子も落ち着いていますし、この調子なら無理なく進めるでしょう」
ルシルはその言葉に安心し、少しだけ肩の力を抜いた。
馬車の中では、モモが窓から外を眺めていた。
街道沿いには背の低い草が広がり、その向こうでは、少し背丈のある草が風に揺れている。草原の色は一様ではなく、日差しの当たり方や地面の起伏によって、淡い緑から黄緑、ところどころ薄茶色へと変わっていた。
「ねえ、ルシル君。草原って、遠くから見ると同じ色に見えるのに、近くで見ると全然違うんだね。あっちの草は黄色っぽいし、こっちはまだ緑が濃いよ」
モモの声に、ルシルは前方を見ながら答えた。
「本当だね。風の向きでも色が変わって見えるし、ずっと見てても飽きないな」
「うん! でも、絵に描こうとすると難しいんだよね。全部同じ色にすると、見たときの感じと違っちゃうし」
モモはそう言いながら、旅帳面を開いた。
ページには、これまで見つけた石柱や木の杭、休息に使った場所の簡単な絵が並んでいる。道の形や草の向きまで細かく描こうとしているものもあれば、三人の表情を大きく描いた楽しげなものもあった。
彼女は空いた場所へ草原の線を引き始めたが、しばらくして筆を止めた。
「……やっぱり、難しいなあ」
小さく呟くと、シモンが振り返った。
「何か困りましたか、モモ嬢?」
「ううん、困ったってほどじゃないんだけどね。草原の色を描き分けたいのに、どこから変わってるのか分からなくなっちゃうんだ。近くの草を見てると、遠くの色が違って見えるし」
シモンは少し考え、窓の外へ視線を向けた。
「それなら、最初から細かく描き分けようとせず、大きな色のまとまりを見てみてはいかがでしょう。手前と遠くでは、光の当たり方も違いますから」
「大きなまとまり?」
「ええ。まずは近くの草原と遠くの丘を分けて、そのあとで気になる部分を描き足すのです。すべてを一度に描こうとすると、かえって難しくなるかもしれません」
モモは目を輝かせた。
「なるほど! じゃあ、最初は大きく分けてみるね。シモン君、ありがとう!」
シモンは穏やかに頷き、再び前方へ視線を戻した。
ルシルはそのやり取りを聞きながら、ふと笑みを浮かべた。
「シモンって、絵のことも分かるんだね」
「専門的なことは分かりませんよ。ただ、物事を整理するときの考え方は、似ている部分があると思っただけです」
「でも、モモにはぴったりだったみたいだよ」
ルシルがそう言うと、モモも窓から顔を覗かせた。
「うん! シモン君って、何かを分かりやすく説明するのが上手だよね。難しいことでも、順番に聞くと分かる気がするもん」
シモンは少しだけ照れたように眼鏡の位置を直した。
「お二人にそう言っていただけるのはありがたいですが、私も分からないことは多いですよ。今日の水場の件など、そのよい例でしょう」
ルシルは頷いた。
「だからこそ、三人で考えればいいんだよね。シモンが知らないことを、モモや僕が見つけるかもしれないし」
その言葉に、モモは嬉しそうに笑った。
「そうそう! わたしたち、得意なことが違うもんね!」
シモンは二人を見つめ、少しだけ表情を和らげた。
「……そうですね。確かに、その方が心強いかもしれません」
穏やかな会話を交わしながら、馬車は南へ続く道を進んでいった。
◇
午後の日差しが少し傾き始めた頃、街道の左側に古い車輪の跡が見えてきた。
それは現在の街道からわずかに外れ、草の中へ伸びているように見えた。
ルシルはすぐに馬車を停めるのではなく、まずは速度を落として周囲を確かめた。車輪の跡は一本ではなく、何度か荷車が通ったように重なっているが、途中から草に隠れて先が分からなくなっている。
「シモン、あそこにも轍があるね。街道から少し外れてるみたいだけど、何かの道だったのかな?」
シモンは左側へ目を向け、しばらく観察した。
「古い通行跡のようには見えますね。ただ、現在も使われている道なのか、以前だけ使われていた場所なのかは分かりません。少なくとも、私たちが進む街道とは別の方向へ続いているようです」
モモも窓から外を見た。
「本当だ。草の中に線が残ってるね。でも、途中で消えちゃってるみたい」
「そうだね。遠くからだと、どこまで続いてるのか分からないな」
ルシルはそう答え、少し考えた。
これまでにも、草原では古い石柱や木の杭、誰かが休息に使ったらしい場所を見つけている。今回の轍も、そのような人々の往来を感じさせるものだった。
しかし、何のために作られた道なのか、どこへ続いているのかは分からない。
ルシルはそのことを思い出し、シモンへ声をかけた。
「ちょっとだけ停まって、見てみてもいいかな? 道を外れて進むつもりはないけど、何か分かることがあるかもしれないし」
「ええ。安全に停車できる場所を探してからにしましょう。街道の中央で停まるより、少し先の広い部分を使った方がよさそうです」
三人は頷き合い、少し先の道幅が広くなった場所で馬車を停めた。
シモンが周囲を確認し、ルシルは二頭を落ち着かせる。モモも馬車から降り、旅帳面を手にしながら、二人のそばへ歩いてきた。
街道から少し離れた場所に残る轍は、近くで見ると予想以上に古びていた。
草が跡の内側へ伸び、土の表面には乾いたひびが入っている。車輪の通った幅は一定ではなく、いくつかの跡が重なっているため、どの車輪がいつ通ったものなのかは分からなかった。
「思ってたより、ずっと古そうだね」
モモはそう言い、草の間へ視線を落とした。
「でも、ここを誰かが通ったことはあるんだよね。今は草が生えてるけど、昔はもっとはっきりした道だったのかな?」
シモンは少し考えた。
「可能性はあります。ただ、荷車が一度通っただけでも跡が残ることはありますし、何度も通ったからといって、正式な道だったとは限りません。今の状態だけでは判断できませんね」
ルシルは頷き、轍の先へ目を向けた。
草の中に残る線は、しばらく左へ伸びたあと、低い地面の盛り上がりに隠れている。
その先には草原が広がっているだけで、建物や人影は見えなかった。
「この先に何があるかは分からないんだね。もしかしたら、昔は荷車が通りやすい場所だったのかもしれないけど」
「ええ。現在の街道を離れてまで確かめる必要はないでしょう。特に、水場を探している今は、確かな情報のない道へ入る理由がありません」
シモンの言葉に、ルシルは素直に頷いた。
「うん。僕もそう思う。ちょっと気になるけど、今日は南へ進む方を優先しよう」
モモは轍の形を旅帳面へ描きながら、楽しそうに笑った。
「じゃあ、ここは『草に隠れた古い轍』って書いておこうかな。どこへ続いてるか分からないってことも、ちゃんと書いておくね」
「いいと思うよ。あとで見返したときに、僕たちが何を見たのか分かるし」
ルシルはそう答え、モモの帳面を覗き込んだ。
描かれているのは、草の中に残る二本の線と、街道から少し離れていく地面の様子だった。
モモは線を何度か描き直しながら、ふと顔を上げた。
「ねえ、ルシル君。こういう跡を見ると、ここを通った人たちが何を考えてたのか、ちょっと気にならない?」
「うん、気になるよ。荷物を運んでたのかもしれないし、どこかへ帰る途中だったのかもしれないね」
ルシルはそう答えたあと、少しだけ考え込んだ。
誰かが通った道。
誰かが休んだ場所。
誰かが置いたかもしれない石柱や杭。
草原には、人の姿が見えなくなったあとにも、いろいろなものが残っている。
けれど、その一つ一つにどんな事情があったのかを知ることは、簡単ではなかった。
「でも、分からないままでもいいのかもしれないね。僕たちが見つけたことを覚えておけば、それだけでも旅の思い出になるし」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! いつかまた近くを通ることがあったら、そのときに新しいことが分かるかもしれないもんね」
シモンは二人の会話を聞きながら、静かに微笑んだ。
「そうですね。ただし、気になるからといって無理に追いかけないことも大切です。旅には、確かめられることと、今は確かめない方がよいことがありますから」
ルシルとモモは揃って頷いた。
三人はそれ以上轍の先へ進まず、見たものを記録したところで馬車へ戻ることにした。
◇
馬車へ戻る途中、ルシルは草原の風が少し変わってきたことに気づいた。
昼頃までは穏やかだった風が、今はやや強く吹くことがあり、草の穂先が一斉に同じ方向へ傾いている。
ルシルは外套の裾を押さえながら、シモンへ声をかけた。
「さっきより、少し風が強くなってきたね。空は晴れてるけど、夕方にはもっと強くなるのかな?」
シモンは空と草の動きを見比べた。
「可能性はありますが、今の段階では分かりません。ただ、草原では風を遮るものが少ないので、休息場所を探すときには気にしておきたいですね」
モモも髪を押さえながら、空を見上げた。
「うん。昨日の丘みたいに、風を少し避けられる場所があるといいね。でも、あんまり遠くまで探しに行くのも大変だし」
「そうだね。まずは街道沿いで、地面が安定してる場所を探そう。風だけじゃなくて、馬車を停められるかどうかも大事だから」
ルシルがそう答えると、シモンは頷いた。
「ええ。今から進める距離と、日が暮れるまでの時間を考えながら決めましょう。見つけた場所が安全なら、無理に先へ進む必要はありません」
三人は馬車へ戻り、再び南へ向かって出発した。
車輪が街道を進む音は、午後の風に混じって穏やかに響いていた。
ルシルは手綱を握りながら、先ほどの轍のことを思い出していた。
あの跡がどこへ続いていたのかは分からない。
けれど、誰かがそこを通ったことだけは確かだった。
自分たちもまた、今こうして街道を進み、いつか誰かが通るかもしれない道に車輪の跡を残している。
(僕たちが通ったあとも、道はここに残るんだね。次に誰かが来たとき、今日の僕たちと同じように、前を通った人のことを考えるのかな)
そんなことを思うと、ルシルは少し不思議な気持ちになった。
旅は自分たちだけのものではない。
この街道を使う人々がいて、それぞれに行き先や事情がある。
その中を、三人と二頭の馬が進んでいるのだ。
ルシルは前方へ視線を戻し、トルクとベルクの歩調を確かめた。
「今日も、いろんな人の通った跡を見つけたね」
ルシルがそう言うと、モモは窓から顔を覗かせた。
「うん! でも、わたしたちの馬車も、きっと跡を残してるんだよね。そう考えると、なんだか面白いな」
シモンは穏やかに頷いた。
「そうですね。もっとも、道を傷めるような走り方は避けたいところですが」
その真面目な返事に、モモは思わず笑ってしまった。
「もう、シモン君ってば! そういう意味じゃないよ!」
「分かっていますよ。ただ、馬車を使う以上、道の状態を気にするのも大切ですから」
シモンはそう言いながら、わずかに口元を緩めた。
ルシルも笑い、手綱を持つ指の力を少しだけ緩めた。
風に揺れる草原の中、三人の笑い声が小さく広がっていった。
◇
さらにしばらく進むと、街道の先に緩やかな上り坂が見えてきた。
坂そのものは急ではないが、道の両側には低い草の盛り上がりがあり、向こう側の様子が見えにくくなっている。
ルシルは馬車の速度を落とし、シモンへ声をかけた。
「この先、少し上り坂だね。向こうが見えないから、ゆっくり進んだ方がよさそうだな」
「ええ。坂の途中で急に停まることにならないよう、まずは手前で道の状態を確かめましょう」
シモンはそう答え、周囲を見渡した。
道の表面には大きな穴や深い轍は見えないが、坂の向こうが見えない以上、反対側から荷車や旅人が来る可能性も考える必要がある。
ルシルはトルクとベルクへ声をかけ、ゆっくりと坂へ向かった。
二頭は落ち着いた歩調で進み、馬車も大きく揺れることなく上っていく。
坂の頂上へ近づくと、ルシルはさらに速度を落とした。
シモンも前方を注意深く見つめている。
やがて坂の向こう側が見えてきた。
そこには、緩やかに下っていく街道と、その先に広がる草原があった。
人影や荷車は見えず、道も比較的広く続いている。
「よかった。向こう側も大丈夫そうだね」
ルシルがそう言うと、シモンは頷いた。
「ええ。ただ、下り坂では車輪が前へ押す力もかかります。二頭に無理をさせないよう、慎重に進みましょう」
「うん。分かった」
ルシルは手綱を整え、馬車をゆっくりと下り坂へ進ませた。
トルクとベルクは落ち着いて歩き、車輪も安定している。
モモは窓から外を眺めながら、遠くの景色に目を輝かせた。
「わあ、こっち側も広いね! 坂を越えただけなのに、また違う草原が見えたみたい」
「本当だね。さっきまでは見えなかった丘もあるし、道がずっと続いてるのが分かるな」
ルシルはそう答え、前方へ視線を向けた。
坂の下には、街道がゆるやかに曲がる場所があり、その先には低い丘がいくつか並んでいる。
日差しはまだ十分に明るいが、午後の時間は確実に進んでいた。
シモンは空の様子を確かめ、静かに口を開いた。
「そろそろ、今夜の休息場所について考え始めた方がよさそうですね。まだ日暮れまで時間はありますが、条件のよい場所が見つかるとは限りませんから」
ルシルは頷いた。
「うん。昨日みたいに、早めに見つけられたら安心だね。今日は水場も分からないままだし、無理して遠くまで進まない方がいいと思う」
モモも窓から顔を覗かせた。
「わたしも賛成! できれば、風を少し避けられて、馬たちがゆっくり休めるところがいいな」
シモンは二人の意見を聞き、穏やかに頷いた。
「では、その条件を優先して探しましょう。地面が安定していて、街道から大きく離れず、周囲の様子を確認できる場所が理想ですね」
三人はそう決め、馬車を南へ進ませた。
街道の両側には草原が広がり、ところどころに低い丘や地面の盛り上がりが見えている。
どこが休息に適しているのかは、実際に近づいてみなければ分からない。
それでも、三人は焦らなかった。
これまでの旅で、急いで決めるよりも、少し時間をかけて確かめた方がよいことを何度も経験してきたからだ。
◇
午後の風は、少しずつ涼しさを取り戻し始めていた。
日差しはまだ暖かいが、草原を渡る風には、夕方が近づいていることを感じさせる柔らかな冷たさが混じっている。
ルシルは手綱を握りながら、道の右側に見える低い丘へ目を向けた。
丘の斜面は緩やかで、街道からそれほど離れていない。手前には草が短くなった場所もあり、遠くから見る限りでは、馬車を停められそうな広さがあった。
「シモン、あの丘の手前、少し平らになってるように見えるね。今夜の休息場所にできるかな?」
シモンはルシルの示した方向を見つめた。
「確かに、候補にはなりそうですね。ただ、斜面の近くですから、地面の傾きや水の流れを確認する必要があります。風を避けられるかどうかも、実際に近づいてみないと分かりません」
「うん。じゃあ、近くまで行って確かめてみよう」
モモも窓から外を見た。
「わたしも、あそこはちょっと気になるな。草が短いところなら、足元も見やすそうだし」
三人は相談し、街道から大きく外れない範囲で、丘の手前へ近づくことにした。
ルシルは馬車の速度を落とし、道の状態を確かめながら進んだ。
丘の近くまで来ると、遠くからは平らに見えた場所にも、わずかな傾きがあることが分かった。
また、地面には浅い溝がいくつかあり、雨が降った際に水が流れた跡のようにも見える。
シモンは馬車を停めてもらい、周囲を確認した。
「ここは、少し慎重に見た方がよさそうですね。平らな部分はありますが、溝の近くに馬車を停めるのは避けたいところです」
ルシルは頷いた。
「そうだね。昨日の丘とは、ちょっと違う感じがするな」
モモも馬車から降り、二人のそばへ歩いてきた。
「でも、風は少し弱い気がするよ。さっきの道より、外套があんまり揺れないもん」
シモンは周囲の草の動きを見比べた。
「確かに、丘が風を遮っているようですね。ただ、今の風向きが夜まで続くとは限りません。地面の状態と合わせて判断しましょう」
三人は丘の手前を歩き、馬車を停められそうな場所を探した。
草が短く、地面が固い部分はあるものの、十分な広さがある場所は限られている。
ルシルは少し離れたところから全体を見渡し、考え込んだ。
「ここでも休めそうだけど、ちょっと狭いね。馬車を停めたあと、トルクとベルクが落ち着いて休めるかどうかも気になるな」
シモンは頷いた。
「ええ。無理にここへ決める必要はありません。まだ明るさがありますし、もう少し先を確認してからでもよいでしょう」
モモは丘の向こうへ視線を向けた。
「じゃあ、ここは候補にしておいて、もう少し進んでみる? もしほかにいい場所がなかったら、戻ってくることもできるよね」
ルシルは少し考えた。
確かに、今の場所は完全に使えないわけではない。
しかし、戻ることを前提に進みすぎれば、日が暮れるまでの時間を無駄にしてしまう可能性もある。
「うん。でも、戻るなら時間も考えないとね。あんまり遠くまで行かずに、少しだけ先を見てみようか」
シモンも同意した。
「それがよいと思います。ここを候補として覚えておき、短い距離だけ進んで比較しましょう。戻る必要がある場合も、明るいうちに判断できますから」
三人はそう決め、丘の様子を覚えてから馬車へ戻った。
ルシルはトルクとベルクの状態を確かめ、再び街道へ向かってゆっくりと進ませた。
◇
丘を離れてからしばらく進むと、街道の左側に、草が低くなった広い場所が見えてきた。
そこは周囲よりわずかに高くなっており、地面の起伏も比較的穏やかに見える。
近くには大きな木や岩はないが、街道からの距離も短く、馬車を停めるための広さは十分にありそうだった。
ルシルは前方を見ながら、シモンへ声をかけた。
「あそこ、さっきの丘より広そうだね。風は少し当たりそうだけど、地面は平らに見えるよ」
シモンはしばらく観察し、頷いた。
「ええ。少なくとも、馬車を停める場所としては確認する価値がありそうです。少し高くなっているので、水がたまりにくい可能性もありますが、実際の状態を見てから判断しましょう」
モモも窓から顔を覗かせた。
「わたしも、こっちの方が広くていいと思うな。トルクとベルクも、ゆっくり休めそうだし」
ルシルは頷き、馬車を安全な位置で停めた。
シモンが先に降り、地面の状態を確かめる。
草の短い部分を歩き、土の固さや石の有無を確認したあと、周囲の地形も見渡した。
ルシルとモモは馬車のそばで待ちながら、シモンの様子を見守った。
やがてシモンが戻ってきた。
「こちらは、先ほどの丘の手前よりも条件がよさそうです。地面は比較的固く、馬車を停めるだけの広さがあります。大きな溝も見当たりませんし、周囲の見通しも悪くありません」
ルシルは安心したように微笑んだ。
「じゃあ、ここを今夜の休息場所にしようか」
シモンは頷いた。
「ええ。ただ、風を遮るものが少ないので、馬車の向きは考えた方がよいでしょう。今の風向きを確認しながら、落ち着いて停車位置を決めましょう」
モモは嬉しそうに笑った。
「よかった! 今日は早めに決められたね。これなら、夕方もゆっくりできそう!」
ルシルも頷いた。
「うん。トルクとベルクも、今日はよく頑張ってくれたからね。早めに休ませてあげたいな」
三人は相談しながら馬車の向きを決め、平らな場所へゆっくりと移動させた。
車輪が安定した位置で停まると、ルシルは二頭へ声をかけ、馬具の状態を確かめた。
トルクは少し疲れた様子を見せながらも、落ち着いている。
ベルクも大きな変化はなく、静かに立っていた。
ルシルは二頭の首筋を撫で、優しく声をかけた。
「今日もありがとう。ここでゆっくり休もうね」
モモはその様子を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「二頭とも、本当に頑張ってくれたね。今日は道が大変なところもあったし、ちゃんと休んでほしいな」
シモンも頷き、馬車の周囲を確認した。
「ええ。まずは二頭の休息を優先しましょう。そのあとで、夕食と今夜の準備を進めれば十分です」
三人は役割を分け、夕方の支度を始めた。
ルシルは馬たちの世話をし、シモンは馬車の周囲と荷物を確認する。
モモは食事に必要なものを整理しながら、旅帳面を取り出した。
そこには、今日見つけた古い轍と、午後の草原の景色が描かれている。
彼女は少し考え、空いた場所へ今夜の休息場所の簡単な絵を描き始めた。
「ねえ、ルシル君。今日の場所は、風を遮る丘がないから、空がすごく広く見えるね」
モモがそう言うと、ルシルは顔を上げた。
確かに、周囲には視界を遮るものが少なく、空が大きく広がっている。
午後の光は少しずつ柔らかくなり、遠くの草原には長い影が伸び始めていた。
「本当だね。昨日とはまた違う景色だな。ここなら、夕焼けもきれいに見えるかもしれないね」
モモは嬉しそうに笑った。
「うん! あとで見られたら、ちゃんと描いておきたいな」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「夕焼けを見るのはよいですが、日が暮れる前に必要な準備を終えておきましょうね」
「もちろん! ちゃんと手伝うよ!」
モモはそう答え、旅帳面を一度閉じた。
ルシルも笑い、夕方の支度へ戻った。
草原を渡る風は、少しずつ涼しさを増していた。
遠くの街道には人影も荷車も見えず、聞こえるのは草の揺れる音と、二頭の馬が静かに動く気配だけだった。
ルシルは馬車のそばで立ち止まり、今日進んできた道を振り返った。
午前中には柔らかい轍の残る道を慎重に通り、昼前には道端で出会った男性から水場についての話を聞いた。
午後には草に隠れた古い車輪の跡を見つけ、その先へ進むことなく、今の街道を選んだ。
どれも大きな事件ではない。
それでも、一つ一つの判断が、今ここで三人が無事に休めていることへつながっている。
(急がなくても、ちゃんと進めてるんだね。知らない道でも、三人で確かめながら進めば、少しずつ先へ行けるんだ)
ルシルはそう思い、静かに微笑んだ。
モモが夕食の準備を進めながら、楽しそうに何かを話している。
シモンはその言葉に穏やかに答え、時折、少し困ったような笑みを浮かべていた。
その二人の姿を見ていると、ルシルの胸には自然と温かな気持ちが広がっていく。
王宮にいた頃には、こんな夕方を過ごすことなど想像もしていなかった。
けれど今は、草原の中に停めた小さな馬車が、三人にとって大切な居場所になっている。
ルシルは二人の方へ歩きながら、明るく声をかけた。
「僕も手伝うよ。今日は早めに準備を終えて、夕焼けをゆっくり見ようか」
モモは顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「うん! それ、すごくいいね!」
シモンも穏やかに頷いた。
「では、できることから進めましょう。日が暮れる前に整えておけば、夜も落ち着いて過ごせますから」
三人は笑い合い、夕方の支度を続けた。
草原の向こうでは、太陽がゆっくりと西へ傾き始めている。
風に揺れる青い風魚の布が、馬車の窓辺で小さく翻った。
その下で、ルシルとモモとシモンは、今日も自分たちで選んだ場所に足を止め、穏やかな夕暮れを迎えようとしていた。




