第127話 草原の街道で出会った小さな道案内と、三人が確かめた水場への手がかり
朝露の残る草原を、二頭の馬がゆっくりと進んでいた。
リーヴェルを出発してから八日目の朝。昨夜を過ごした風除けの丘はすでに後方へ遠ざかり、ルシルたちの馬車は南へ続く街道を進んでいる。東から差し込む朝日が草の穂先を照らし、まだ乾ききっていない露が、車輪の通り過ぎる道端で細かな光を散らしていた。
御者台に座るルシルは、手綱を握りながら前方の道を見つめていた。隣にはシモンが腰を下ろし、馬車の窓からはモモが顔を覗かせている。
「ねえ、ルシル君。昨日の丘、もう見えなくなっちゃったかな? さっきまでは、後ろにちょっとだけ見えてたんだけど」
モモの声に、ルシルは前方から目を離さないまま微笑んだ。
「だいぶ遠くなったからね。道が少し曲がってるし、今は見えないかもしれないな。でも、モモが絵に描いてくれたから、いつでも思い出せるね」
「うん! 朝露の絵も、あとでちゃんと仕上げるつもりなんだ。昨日の夕方の丘と並べたら、同じ場所なのに全然違って見えると思うよ」
モモは楽しそうに答えると、手元の旅帳面へ視線を落とした。
昨夜の風除けの丘では、夕暮れから夜、そして朝まで、三人は一つの場所で過ごした。大きな事件が起きたわけでも、珍しいものを見つけたわけでもない。それでも、夜の風を確かめたり、朝露の光を眺めたりした時間は、モモにとって十分に記録しておきたい思い出になっていた。
シモンはそんな彼女の様子を横目で見ながら、街道の先へ注意を向けた。
「今日は朝のうちに、ある程度進んでおきたいところですね。ただ、昨夜の冷え込みで道端の土が湿っている場所もあります。車輪の通る部分をよく見て、柔らかそうなところは避けましょう」
「うん。昨日の丘から街道へ戻るときも、草が濡れてたからね。トルクとベルクが歩きにくくならないように気をつけるよ」
ルシルはそう答え、二頭の歩調を確かめた。
栗毛のトルクは、朝の空気が気持ちよいのか、耳を動かしながら軽やかに歩いている。隣のベルクはいつもどおり落ち着いた様子で、道の凹凸に合わせて無理のない足取りを保っていた。
馬車の揺れも穏やかで、今のところ道に大きな問題は見られない。
しかし、ルシルは速度を上げようとはしなかった。
昨日までの旅で、見通しのよい道だからといって、必ずしも安全に進めるとは限らないことを学んでいたからだ。
草に隠れた浅い溝や、見た目より柔らかい土、古い車輪の跡が重なった場所など、近づいて初めて気づくものもある。何もないように見える草原でも、確かめるべきことは意外に多かった。
「それにしても、今日は空が広く見えるね。昨日も晴れてたけど、今朝は雲が少ない気がするな」
ルシルがそう言うと、シモンは空を見上げた。
「そうですね。遠くまで見通せるのはありがたいことですが、日が高くなれば暑くなるかもしれません。休憩の場所を探すときは、日陰があるかどうかも気にしておきましょう」
「うん。水も大事に使わないといけないし、暑くなる前に少し休める場所が見つかるといいね」
その言葉を聞いたモモが、窓から少し身を乗り出した。
「水といえば、今日はどこかで補給できるといいね。昨日も話したけど、まだ次の井戸がどこにあるか分からないんだもん」
ルシルは頷いた。
「そうだね。でも、見つからないからって焦って進むのは危ないし、何か手がかりがあったら、まずはちゃんと確かめよう」
「ええ。水がありそうに見える場所と、実際に安全な水を確保できる場所は別ですから。特に草原では、地面に水が残っていても飲用に適しているとは限りません」
シモンの説明に、モモは真剣な表情を浮かべた。
「うん。わたしも、見つけたらすぐに飲めるって思わないようにするね」
三人はそんな会話を交わしながら、南へ続く街道を進んでいった。
◇
しばらく進むと、街道の様子が少しずつ変わり始めた。
それまで比較的平坦だった道に、緩やかな起伏が増えてきたのだ。草原そのものは広く続いているが、道の左右には低い盛り上がりが点在し、その間を縫うように街道が延びている。
ルシルは前方に浅い下り坂が見えてくると、自然と手綱を持つ指に力を込めた。
「シモン、あそこ、ちょっと道が低くなってるね。下の方に、色が違うところがあるように見えるんだけど」
シモンはルシルの示した方向を見つめ、眼鏡の位置を直した。
「確かに、道の中央付近が少し暗く見えますね。影なのか、湿った土なのか、ここからでは判断できません。近づく前に一度停めましょう」
「うん。トルク、ベルク、少し待ってね」
ルシルが穏やかに声をかけると、二頭は歩調を緩め、街道の比較的平らな場所で立ち止まった。
馬車が停止したことに気づいたモモが、窓から顔を覗かせた。
「どうしたの? 何か見つけた?」
「前の道が少し低くなってるんだ。地面が柔らかいかもしれないから、シモンと確認してみようと思って」
「そっか。じゃあ、わたしも降りた方がいいかな?」
シモンは周囲を確かめてから答えた。
「今のところ、馬車のそばで待っていただければ大丈夫です。私が先に道を確認しますので、ルシル様は二頭を見ていてください。モモ嬢も、必要になるまでは馬車の近くにいてくださいね」
「うん、分かった!」
モモは素直に頷き、窓から前方を眺めた。
シモンは馬車を降りると、街道の中央を避けながら、慎重に低くなった場所へ歩いていった。
朝日が高くなり始めたとはいえ、道の窪んだ部分にはまだ湿り気が残っている。シモンは足元を確かめながら近づき、地面の表面と車輪の跡を観察した。
しばらくして、彼は少し離れた場所からルシルへ声をかけた。
「ルシル様。ここは、昨日までの道より少し柔らかくなっています。車輪の跡も深く残っていますから、重い荷車が通った際に沈んだのかもしれません」
「そうなんだ。じゃあ、このまま進まない方がいいかな?」
「少なくとも、中央の深い跡をそのまま通るのは避けたいですね。左右の状態をもう少し確認します」
シモンはそう答え、道の端へ移動した。
ルシルはその姿を見守りながら、トルクとベルクの様子を確かめた。
二頭は落ち着いて待っているが、トルクは道端の草が気になるのか、ときおり首を動かしている。
「もう少し待ってね。ちゃんと通れるところを探してるから」
ルシルが首筋を撫でると、トルクは鼻を鳴らした。
やがてシモンが戻ってきた。
「右側は草に隠れた小さな窪みがあります。左側も広くはありませんが、街道の縁に比較的固い部分が残っています。ただし、馬車を通す前に、もう少し細かく確認した方がよさそうです」
「分かった。僕も見てみたいな。馬たちを安全に待たせてから、一緒に確かめてもいい?」
「もちろんです。実際に見ておくことは、今後の判断にも役立つでしょう」
ルシルは頷き、馬車を安定した場所に停めたまま、二頭が不用意に動かないようにしてから降りた。
モモも馬車のそばへ出てきたが、シモンの説明を守り、道の低い場所へは近づかなかった。
ルシルはシモンと並んで地面を見下ろした。
道の中央には、二本の車輪の跡が深く残っている。その底は周囲より暗く、ところどころに小さな水気が見えた。
「本当だ。ここ、車輪の跡がずいぶん深いね。昨日までにも跡はあったけど、こんなに沈んでるところは少なかった気がする」
「ええ。表面だけが乾いていても、その下が柔らかい場合があります。馬車の重さがかかると、さらに沈む可能性がありますから」
シモンは説明しながら、足元の土を慎重に確かめた。
ルシルも少し離れた場所で地面を見比べた。
中央の深い跡に比べると、左側の縁は草が短く、土の色も明るい。ただし、幅には余裕がなく、無理に寄せすぎると別の危険が生じるかもしれなかった。
「左側を通るなら、ゆっくり進まないといけないね。車輪の位置を見ながらじゃないと、すぐに中央へ戻っちゃいそうだし」
「そのとおりです。私が外から車輪の位置を確認しますので、ルシル様は合図に合わせて進めてください。少しでも不安定になったら、無理に動かさず停めましょう」
ルシルは頷いた。
そのとき、少し離れた場所からモモの声が聞こえた。
「ねえ、二人とも! わたし、こっちから見てたんだけど、左側の草が途中で少し途切れてるよ。あそこも確認した方がいいんじゃないかな?」
ルシルとシモンは、モモが指さした場所へ視線を向けた。
確かに、左側の縁には草が途切れている部分があり、その先で地面の色がわずかに変わっている。
シモンは近づいて確認すると、小さく頷いた。
「よく気づきましたね、モモ嬢。ここも少し柔らかいようです。馬車を通すなら、さらに慎重に位置を調整する必要があります」
「そっか。見つけられてよかった!」
モモは嬉しそうに笑ったが、すぐに真剣な表情へ戻った。
「でも、ここを通るのって、やっぱり大変そうだね。ほかに道がないかも見た方がいいのかな?」
ルシルは周囲を見渡した。
街道の左右には草原が広がっているが、道から外れた場所の地面は十分に確認できていない。見た目が平らだからといって、馬車を安全に通せるとは限らなかった。
「そうだね。でも、道を外れるのも危ないかもしれないし、まずは今の場所をちゃんと調べよう」
シモンも同意した。
「ええ。遠回りに見える場所が、必ずしも安全とは限りません。ここは幅こそ狭いものの、通れる可能性があります。車輪の位置と地面の状態を確認しながら判断しましょう」
三人はそれぞれの位置から道を見比べ、馬車を通すための手順を相談した。
急いで進む必要はない。
今はまだ朝で、空も明るい。
だからこそ、落ち着いて確かめる時間があった。
◇
準備を整えたルシルは、再び御者台へ戻った。
シモンは馬車の左前方に立ち、車輪の通る位置を確認できる場所を選んでいる。モモは馬車の中へ戻り、荷物が大きく動かないように様子を見ながら、二人の声へ耳を傾けていた。
「ルシル様、まずはまっすぐ、ゆっくり進めてください。まだ左へ寄せる必要はありません」
「うん。分かった」
ルシルは二頭へ声をかけ、馬車をゆっくりと動かした。
トルクとベルクは落ち着いた足取りで進み、車輪が道の低い部分へ近づいていく。
シモンは地面と車輪の位置を見比べながら、少しずつ合図を出した。
「ここから、ほんの少しだけ左へ寄せましょう。急に曲げる必要はありません。二頭の歩調を揃えたままで大丈夫です」
ルシルはその言葉に従い、慎重に進路を調整した。
馬車が左側へ寄ると、片側の車輪がわずかな凹凸を越え、車体が小さく揺れた。
モモは窓枠へ手を添え、荷物の様子を確かめた。
「ルシル君、こっちは大丈夫だよ! 荷物も動いてないから、落ち着いて進んでね」
「ありがとう、モモ。シモン、次はどうかな?」
「そのまま少し進んでください。前輪は問題ありませんが、後輪が同じ位置を通るまで注意が必要です」
シモンの声は落ち着いていた。
ルシルは手綱を握り直し、二頭の歩調を急がせないようにした。
車輪が深い轍の脇を通ると、土がわずかに沈む感触が伝わってきたが、馬車が大きく傾くことはなかった。
シモンは後輪の位置を確かめ、慎重に合図を続けた。
「もう少しです。ここを越えれば、道の状態が安定します。最後までゆっくり進めましょう」
ルシルは頷き、トルクとベルクへ優しく声をかけた。
二頭は指示に従い、焦ることなく歩き続けた。
やがて後輪も柔らかい場所を抜け、馬車は再び平らな道へ戻った。
「……はい。無事に通過できました」
シモンの声を聞いたルシルは、ようやく肩の力を抜いた。
「よかった。トルクもベルクも、ちゃんと落ち着いて進んでくれたね」
モモも窓から顔を出し、嬉しそうに笑った。
「やったね! シモン君の案内も分かりやすかったし、ルシル君もすごく上手だったよ!」
ルシルは少し照れたように笑った。
「ありがとう。でも、モモが草の途切れてるところに気づいてくれたのも助かったよ。あれを見落としてたら、もっと通りにくかったかもしれないし」
「えへへ。わたしも役に立てたなら嬉しいな」
シモンは馬車へ戻る前に、もう一度道を振り返った。
深い車輪の跡はそのまま残っており、ほかの荷車が同じように通れるかどうかは分からない。今回、三人の馬車が無事に通過できたのは、地面の状態を確かめ、速度を落として進んだからこそだった。
「今の場所は、雨が降ったあとにはさらに通りにくくなるかもしれませんね。次に同じような場所があったら、今日の経験を参考にしましょう」
シモンがそう言うと、ルシルは真剣に頷いた。
「うん。見た目だけで決めずに、ちゃんと確認することが大事なんだね」
三人は短い休息を挟み、馬車と馬たちに異常がないことを確かめてから、再び南へ進み始めた。
◇
街道の低い場所を越えてから、しばらくは穏やかな道が続いた。
朝露はほとんど乾き、草原には明るい日差しが降り注いでいる。風はまだ涼しさを残しているものの、日が高くなるにつれて、馬車の中にも少しずつ暖かさが広がり始めていた。
モモは旅帳面を開き、先ほど通った道の様子を簡単に描いていた。
深い車輪の跡と、その脇を慎重に進む馬車。絵の中では道の幅が少し強調されていたが、モモは何度も実際の様子を思い出しながら、線を加えている。
「ねえ、シモン君。さっきの道って、雨が降ったから柔らかくなったのかな?」
モモが尋ねると、シモンは少し考えてから答えた。
「その可能性はありますが、いつ雨が降ったのかは分かりません。地形的に水が集まりやすい場所だったのかもしれませんし、何度も荷車が通ったことで轍が深くなったのかもしれませんね」
「そっか。じゃあ、帳面には『水が集まった場所』って決めつけない方がいいね」
「ええ。見たことと、考えられる理由を分けておくと、あとで読み返したときにも分かりやすいでしょう」
モモは頷き、絵の横へ短い説明を書き加えた。
ルシルはそのやり取りを聞きながら、以前見つけた古い石柱のことを思い出した。
石柱の表面には読めない印が残っていたが、何のために置かれたものなのかは分からなかった。道端の傾いた木の杭についても、同じように用途を確定できないままだ。
しかし、分からないことをそのまま残しておくのも、旅の記録として大切なのかもしれない。
「モモの帳面、どんどん詳しくなっていくね。景色だけじゃなくて、道のことも書いてあるから、あとで見返したら役に立ちそうだな」
ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに笑った。
「うん! でもね、わたし、役に立つことだけじゃなくて、楽しかったこともいっぱい残したいんだ。昨日の朝露とか、トルクが草を見つけたときの顔とか、そういうのも忘れたくないから」
「それはいいですね。旅の記録が実用的な情報だけでは、少し味気ないかもしれません」
シモンの言葉に、モモは目を輝かせた。
「でしょ? じゃあ、シモン君が笑ってたところも描いていい?」
突然の質問に、シモンは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……私、ですか?」
「うん。さっき道を無事に通れたとき、ちょっと嬉しそうだったから。ああいう顔も、ちゃんと覚えておきたいんだ」
モモは何でもないことのように答えた。
シモンは少し困ったように眼鏡の位置を直したが、すぐに穏やかな表情へ戻った。
「構いませんが、あまり大げさに描かないでくださいね」
「えへへ。分かった! でも、シモン君が思ってるより、きっといい顔だったと思うよ」
ルシルはそのやり取りを聞き、思わず笑ってしまった。
「僕も見てみたいな。モモが描くシモンの笑顔」
「ルシル様まで……。お二人とも、あまり私をからかわないでください」
シモンはそう言いながらも、本気で困っている様子ではなかった。
モモは楽しそうに笑い、帳面へ視線を戻した。
三人の会話は、草原を渡る風の中へ穏やかに溶けていった。
◇
昼が近づく頃、街道の先に小さな人影が見え始めた。
最初に気づいたのはルシルだった。
遠くの道端に、ゆっくりと動くものがある。馬車ほど大きくはなく、背の高い草に隠れたり現れたりしているため、何がいるのかはまだ分からなかった。
「シモン、前の方に誰かいるみたいだね。あれ、人かな?」
ルシルが声をかけると、シモンは前方へ目を凝らした。
「人影のようには見えますね。ただ、ここからでは人数も分かりません。近づきながら様子を確かめましょう」
モモも窓から前方を覗き込んだ。
「本当だ。何か動いてるね。荷車じゃなさそうだけど、何してるんだろう?」
「まだ分からないね。向こうも僕たちに気づいてるかもしれないし、急に近づかないようにしよう」
ルシルはそう答え、二頭の速度を少し落とした。
しばらく進むと、人影の正体が分かってきた。
街道の左側に、一人の年配の男性が立っていた。
男性は背中に小さな荷物を背負い、片手に長い杖を持っている。服装は旅人というより、草原で作業をする人に近いものだった。足元には小さな籠が置かれており、男性は道端の草を確かめるように、時折しゃがみ込んでいる。
ルシルたちの馬車に気づいた男性は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、街道の端へ寄りながら片手を上げた。
「おう、荷車か。ここは道が狭くなっとるから、気をつけて通りな」
男性の声は少しかすれていたが、穏やかな調子だった。
ルシルは馬車の速度をさらに落とし、男性との距離を保ったところで声をかけた。
「こんにちは。ありがとうございます。道の状態を見ながら進んでいますので、大丈夫です」
「そうかい。それならよかった。今朝は向こうの低いところで、車輪が沈んだ跡を見かけたからな。荷車には少し厄介な道だろう」
その言葉に、ルシルは驚いたように目を向けた。
「僕たちも、さっき深い車輪の跡があるところを通ってきたんです。少し柔らかかったので、降りて確認してから進みました」
「おお、そうだったか。無事に通れたなら何よりだ。あそこは雨のあとなんか、特に気をつけた方がいい場所なんだよ」
男性は頷き、ルシルたちの馬車を見上げた。
シモンは相手の様子を確かめながら、丁寧に声をかけた。
「差し支えなければ、少し道についてお尋ねしてもよろしいでしょうか。私たちは南へ向かっているのですが、この先の水場について確かな情報を持っていないのです」
男性はその言葉を聞き、少し考えるように顎へ手を当てた。
「水場か……。そうだな。この辺りは、街道沿いに井戸がいくつもあるような場所じゃないからなあ」
ルシルは真剣な表情で耳を傾けた。
モモも窓から顔を覗かせたまま、男性の返事を待っている。
男性は南の方へ視線を向け、杖で街道の先を示した。
「もう少し先へ行くと、道の東側に低い窪地がある。雨のあとには水が残ることもあるが、今もあるかどうかは分からんし、飲み水にできるかも分からん。あそこを当てにするのはやめておいた方がいい」
シモンは静かに頷いた。
「そのような場所があるという話は、以前にも耳にしました。ただ、確かな水場ではないのですね」
「ああ。あそこは水が残っていても、家畜が入ることもあるしな。旅人がそのまま飲むような場所じゃないよ」
男性はそう説明した。
ルシルはその言葉を聞き、以前に耳にした情報とつながるものを感じた。
草原の途中で出会った荷車の男性も、東側に水がたまることのある窪地について話していた。しかし、そこに今も水があるかどうかは分からず、安全に飲めるという保証もなかった。
今回の話で、その窪地が確かな補給場所ではないことが、よりはっきりしたように思えた。
「教えてくださってありがとうございます。僕たちも、見つけた水を何でも飲めるとは思わないようにしていたんです」
ルシルがそう答えると、男性は満足そうに頷いた。
「それがいい。草原じゃ、水が見えたからって安心しちゃいかんからな」
モモはその会話を聞きながら、少しだけ考え込んだ。
彼女は窓辺へ手を添え、男性へ声をかけた。
「あの、もう一つ聞いてもいいですか? この先で、旅人がちゃんと水を補給できる場所って、どこかにあるんでしょうか?」
男性はモモへ目を向け、少し驚いたように瞬きをした。
しかし、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「そうだなあ。南へ進めば人の住むところもあるが、ここからどれくらいかかるかは、荷車の速さや道の具合にもよる。わしも最近はそこまで行っておらんから、今の様子までは分からんよ」
「そっか……。じゃあ、必ず今日中に着けるってわけじゃないんですね」
「そういうことだ。無理に急ぐより、道の様子を見ながら進む方がいいだろうな」
モモは頷いた。
期待していたほど具体的な情報ではなかったが、男性が知らないことを知らないと答えてくれたのは、むしろありがたかった。
シモンもその点を理解しているようで、落ち着いた声で礼を述べた。
「ありがとうございます。確かな情報と、そうでない情報を分けて教えていただけるのは助かります」
男性は少し照れたように笑った。
「いやいや、知らんことを知っとるふりしても仕方ないからな。あんたらも旅の途中なんだろう? 道を間違えんように気をつけて行きな」
ルシルは頷き、男性へ微笑んだ。
「はい。ありがとうございます。あなたも、お気をつけて」
男性は片手を上げ、再び道端へ視線を戻した。
ルシルたちは馬車をゆっくりと進ませ、男性のそばを通り過ぎた。
モモは窓から振り返り、小さく手を振った。
「ありがとうございましたー!」
男性も杖を持っていない方の手を上げ、穏やかに応えてくれた。
◇
男性の姿が後方へ遠ざかってから、三人は少し先の道幅が広くなった場所で馬車を停めた。
昼食にはまだ少し早かったが、ここで一度情報を整理しておきたかったのだ。
ルシルは御者台から降り、二頭の様子を確かめた。
トルクとベルクは落ち着いており、先ほどの柔らかい道を通ったあとも、歩き方に異常は見られない。
シモンは街道の周囲を見渡し、安全に停車できていることを確かめてから、モモとともに馬車のそばへ集まった。
「さっきのおじいさん、親切だったね。知らないこともちゃんと教えてくれたし、無理に急がない方がいいって言ってくれたのもありがたかったな」
ルシルがそう言うと、モモは頷いた。
「うん。でも、水場のことは、まだ分からないままだね。東側の窪地は、やっぱり飲み水には向いてなさそうだし」
シモンは二人の言葉を聞き、静かに頷いた。
「そうですね。少なくとも、あの窪地を確実な補給場所として考えるべきではないことが分かりました。今後は、実際に飲用できる水を確保できる場所を探す必要があります」
ルシルは街道の先へ目を向けた。
道は南へ続いているが、遠くの地形までは見通せない。
低い丘がいくつも重なり、その向こうに何があるのかは分からなかった。
「南へ進めば人の住むところがあるって話だったけど、どれくらいかかるか分からないんだよね。今日のうちに着けるって考えない方がよさそうだな」
「ええ。確かな距離が分からない以上、到着を前提に水を使い切るような判断は避けましょう」
シモンはそう答えた。
モモは少しだけ眉を寄せたが、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、今日もちゃんと休憩しながら進もうね。もし水場が見つからなかったら、そのときにまた考えよう」
ルシルは微笑んだ。
「うん。そうしよう。焦って進んでも、トルクとベルクが疲れちゃったら意味がないしね」
三人は頷き合い、現在の水の残量と今日の予定を改めて確認した。
飲用に必要な分、馬たちに必要な分、そして万が一のために残しておく分。
それぞれを考えながら、無駄を避けて使うことにした。
モモは旅帳面を取り出し、先ほどの男性から聞いた話を短く書き留めた。
東側の窪地には雨のあとに水が残ることがあるが、現在の状態は不明であり、飲用には適さない可能性が高いこと。南へ進めば人の住む場所があるものの、距離や現在の状況は分からないこと。
彼女は書き終えると、帳面を見下ろして小さく頷いた。
「これなら、あとで見返しても間違えないと思う。分かったことと、分からないことをちゃんと分けて書けたよ」
シモンはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「ええ。とてもよい記録だと思います。旅では、情報そのものだけでなく、その確かさを覚えておくことも大切ですから」
モモは嬉しそうに笑った。
「えへへ。じゃあ、これからもそうやって書いていくね」
ルシルは二人の会話を聞きながら、静かに頷いた。
旅の途中で出会う人々は、それぞれ違う場所で暮らし、違うことを知っている。
だからこそ、一人の言葉だけですべてを決めるのではなく、実際に見たものと合わせて考える必要があるのだろう。
(知らない道を進むって、こういうことなんだね。誰かに教えてもらうことも大事だけど、最後は僕たち自身で確かめて決めないといけないんだ)
ルシルはそう考え、街道の先へ視線を向けた。
◇
昼が近づくにつれて、草原の空気は少しずつ暖かくなっていった。
朝の涼しさはまだ残っているものの、日差しの下では長く立っていると汗ばむほどになっている。三人は馬車を再び進ませながら、昼食を取る場所を探し始めた。
ルシルは街道の左右を見渡し、低い丘の影が残っている場所がないか確かめた。
「この辺り、あんまり大きな木がないね。昨日のお昼みたいに、ちょうどいい木陰が見つかるといいんだけど」
シモンは周囲の地形を確認しながら答えた。
「そうですね。ただ、木陰がなくても、風通しがよく、馬車を安全に停められる場所があれば休憩はできます。日差しを避ける工夫も必要ですが、まずは地面の状態を優先しましょう」
モモは窓から顔を覗かせ、遠くの草原を眺めた。
「ねえ、あっちに少しだけ背の高い草があるよ。あの辺り、地面が低くなってるのかな?」
ルシルはモモの示した方向を見た。
街道の左側には、周囲より背の高い草がまとまって生えている場所があった。
しかし、その近くに木陰はなく、地面の状態もここからでは分からない。
「そうかもしれないね。でも、草が高いところは足元が見えにくいし、馬車を停める場所としては慎重に考えた方がよさそうだな」
シモンも頷いた。
「ええ。無理にあそこへ入る必要はありません。もう少し街道沿いを進んで、見通しのよい場所を探しましょう」
三人はそのまま南へ進んだ。
しばらくすると、街道の右側に、草が短くなった小さな平坦地が見えてきた。
周囲には大きな木こそないものの、低い地面の盛り上がりがあり、風が直接当たりにくそうな場所だった。
ルシルは速度を落とし、シモンへ声をかけた。
「あそこ、少し休めそうじゃないかな。道からも近いし、地面も平らに見えるよ」
「そうですね。まずは確認してみましょう」
シモンは馬車を停めてもらい、平坦地へ歩いていった。
草の短い部分を中心に足元を確かめ、柔らかい土や大きな石がないかを確認する。
しばらくして戻ってくると、彼は穏やかな表情で頷いた。
「ここなら、短い休憩には使えそうです。地面も比較的固く、馬車を停めるだけの広さがあります。ただし、日陰はありませんから、長時間の休息には向いていないかもしれません」
「うん。じゃあ、ここでお昼を食べて、馬たちも少し休ませようか」
ルシルの提案に、モモも頷いた。
「賛成! わたしも、ちょうどお腹が空いてきたところだったんだ」
三人は馬車をゆっくりと平坦地へ移動させ、停車位置を整えた。
トルクとベルクの様子を確かめ、必要な水を無駄なく与える。二頭は落ち着いた様子で休み始め、ルシルはその姿を見て安心した。
シモンは食料を取り出しながら、周囲を見渡した。
「ここも火を使わずに済ませましょう。日差しがありますし、食事を終えたら少し休んでから出発するのがよさそうです」
「うん。そうしよう」
ルシルは頷き、モモとともに昼食の準備を始めた。
パンと保存食を分け、水の残量を確かめながら、必要な分だけを取り出す。
豪華な食事ではないが、三人で相談しながら用意する昼食には、いつもの穏やかな楽しさがあった。
モモはパンを受け取りながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、ルシル君。今日って、朝からいろんなことがあったね。道が柔らかくなってるところを通ったり、おじいさんに会ったり」
「そうだね。まだお昼なのに、けっこういろんなことを覚えた気がするよ」
ルシルが笑うと、シモンも穏やかに頷いた。
「一つ一つは小さな出来事ですが、旅を続けるうえでは大切な経験ですね。今日のように落ち着いて判断できれば、これからも無理をせず進めるでしょう」
モモはその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。
「うん! それに、今日のおじいさんも親切だったし、やっぱり旅って楽しいね」
ルシルは頷き、手元のパンへ視線を落とした。
知らない道を進むことには、不安もある。
次の水場がどこにあるのか分からないことも、道の状態が急に変わることも、決して軽く考えてよいものではない。
それでも、三人で相談し、出会った人の言葉に耳を傾けながら進んでいく時間は、ルシルにとって何より大切なものになっていた。
「うん。僕も楽しいよ。これから先も、いろんなことがあると思うけど、三人で一緒に進んでいきたいな」
モモは明るく頷いた。
「もちろん! わたしも、まだまだ見たい景色がいっぱいあるもん!」
シモンは二人の笑顔を見つめ、静かに微笑んだ。
「では、まずは昼食をしっかり取って、午後の旅に備えましょう。楽しむためにも、休むことは大切ですから」
三人は笑い合い、草原の風を感じながら昼食を始めた。
街道の向こうには、まだ見ぬ土地が続いている。
確かな水場の場所は分からず、次の集落までの距離もはっきりしていない。
それでも、今この場所には、三人で分け合う食事と、穏やかな風があった。
ルシルはパンを一口食べ、遠くの草原へ視線を向けた。
南へ続く道は、低い丘の向こうへゆっくりと消えている。
その先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。
けれど、知らないことがあるからこそ、旅は続いていく。
ルシルは隣で楽しそうに話すモモと、落ち着いた表情で食事を進めるシモンを見つめ、静かに微笑んだ。
(今日も、ちゃんと三人で進めてる。分からないことがあっても、急がずに確かめながら進めばいい。僕は、こういう旅を続けていきたいんだ)
草原を渡る風が、三人の髪と外套を柔らかく揺らした。
馬車のそばではトルクとベルクが穏やかに休み、青い風魚の布が窓辺で小さく揺れている。
昼の光に包まれた草原の一角で、三人は午後の出発を急ぐことなく、ささやかな休息の時間を分け合っていた。




