第126話 風除けの丘で迎える静かな夜と、朝露に包まれた新しい一日
草原の向こうへ太陽が沈んでからも、空にはしばらく淡い明るさが残っていた。
街道の右側に広がる低い丘のそばでは、昼間から吹いていた風が草の穂先を揺らし続けている。ただ、丘の斜面が風を受け止めてくれるおかげで、ルシルたちが馬車を停めた平坦地には、遠くの草原ほど強い風が届いていなかった。日中に確かめた地面も乾いた状態を保っており、三人が相談して選んだ今夜の休息場所は、今のところ穏やかな表情を見せていた。
夕食を終え、夜の準備も済ませたルシルは、馬車の窓から外を眺めていた。
青波で手に入れた青い風魚の布が、窓辺で小さく揺れている。その向こうには、夕暮れの名残を帯びた草原が広がり、街道の輪郭もまだ薄く見えていた。
「ねえ、シモン。今日は、もう少しだけ外の様子を見ておいた方がいいかな。風が昼間と少し違う感じがするんだ」
ルシルが振り返ると、馬車の中で荷物を整理していたシモンが顔を上げた。
「そうですね。夜間の風向きは確認しておきたいところです。ただ、先ほど馬車の固定は確認しましたから、慌てる必要はありません。私もご一緒しますので、足元に気をつけながら見て回りましょう」
「うん。ありがとう。モモはどうする? もう休んでいてもいいよ」
ルシルが声をかけると、寝床の近くで旅帳面を開いていたモモが顔を上げた。
桃金色の髪は少しだけ乱れており、白い外套はすでに畳んで脇へ置かれている。彼女は帳面に描きかけていた丘の輪郭を見下ろしてから、二人へ向かって微笑んだ。
「わたしも一緒に行きたいな。さっきまで絵を描いてたんだけど、外がどんなふうに暗くなっていくのか、もう少し見ておきたいんだ。もちろん、遠くまで歩いたりはしないよ」
「それなら、三人で馬車の周りを確認しようか。暗くなる前に戻ってこよう」
ルシルの提案にモモが頷き、シモンも外套を手に取った。
三人が馬車から降りると、昼間より冷たくなった空気が頬に触れた。草の匂いには、日中の乾いた土の香りとは違う、夜露を予感させるようなしっとりとした気配が混じっている。
モモは思わず肩をすくめ、畳んでいた外套を羽織り直した。
「わあ、思ってたより涼しいね。馬車の中にいると、こんなに気温が下がってるって分からなかったよ」
「日が沈むと、草原は冷えやすいのでしょう。風もありますから、長く外にいるつもりなら防寒が必要ですね」
シモンはそう答えながら、馬車の側面へ目を向けた。
ルシルは二頭の馬が休んでいる場所へ歩き、まずトルクの様子を確かめた。栗毛の馬は彼の足音に気づくと耳を動かし、穏やかな鼻息を漏らして顔を向けてくる。
「こんばんは、トルク。今日はもうお仕事は終わりだよ。ちゃんと休めてる?」
ルシルが首筋を撫でると、トルクは気持ちよさそうに目を細めた。
その隣では、濃灰色のベルクが落ち着いた姿勢で立っている。ベルクはトルクほど積極的に顔を寄せてこないが、ルシルが近づくと静かに耳を向け、手の動きを確かめるように鼻先を動かした。
「ベルクもありがとう。二頭とも、今日はよく頑張ってくれたね」
ルシルはそれぞれの様子を見ながら、脚や足元に異常がないことを確かめた。
馬車を牽いて長い距離を進んできた二頭にとって、休息は三人と同じくらい大切なものだった。だからこそ、今夜の宿営場所を決めるときも、馬たちが落ち着いて過ごせるかどうかを重視していた。
少し離れたところでは、モモが丘の斜面へ視線を向けていた。
「ルシル君、こっちから見ると、丘の向こうの草だけ大きく揺れてるよ。昼間もそうだったけど、暗くなってくると動きがもっとはっきり分かる気がするな」
モモの指さす先では、丘の端から続く草原が風に波打っていた。
その一方で、馬車の近くに生える草は比較的穏やかに揺れている。丘の形に沿って風の流れが変わっているのだろうが、ルシルにはその細かな仕組みまでは分からなかった。
「本当だね。あの辺りは風が強そうなのに、ここはずいぶん静かだな。でも、丘の端に近づいたら、また風が強くなるのかもしれないね」
「ええ。地形によって風が集まる場所もありますから、今いる位置から不用意に移動しない方がよいでしょう」
シモンはそう説明し、馬車の周囲をゆっくりと歩いた。
車輪の固定は緩んでおらず、荷物も安定している。昼間に確認した草地には新しい異変も見られず、斜面から土や石が落ちてきた様子もなかった。
ルシルはその報告を聞いて安心したものの、すぐに馬車へ戻ろうとはしなかった。
空の色が、刻々と変わっていたからだ。
西の地平線に残っていた橙色は薄くなり、代わりに深い青が広がっている。まだ星が目立つほど暗くはないが、遠くの丘は輪郭だけを残し、草原の細かな起伏も少しずつ見分けにくくなっていた。
「……こういう時間って、なんだか好きだな」
ルシルが静かに呟くと、隣に立っていたモモが顔を向けた。
「夕焼けが終わって、夜になるところ?」
「うん。昼間の景色が少しずつ変わっていくのを見てると、同じ場所にいるのに、別の場所へ来たみたいに感じるんだ。朝に見る草原とも、昼に見る草原とも違うから」
モモはその言葉を聞き、もう一度空を見上げた。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて口元を緩めた。
「わたしも好きかも。昼間は遠くまで見えるから、つい何か面白いものを探しちゃうけど、今は近くにあるものが大事に見えるんだよね。馬車とか、トルクとベルクとか、ルシル君とシモン君とか」
最後の言葉を聞いたシモンが、少し意外そうにモモへ目を向けた。
「私も、ですか?」
「もちろんだよ。シモン君がいなかったら、わたしたち、こんなに安心して草原で休めてないと思うもん」
モモは何でもないことのように答えたが、その表情には冗談めいた様子がなかった。
シモンは一瞬だけ言葉を探すように眼鏡の位置を直した。彼にとって安全を確保することは、長い間、自分の役割として当然のように行ってきたことだった。しかし、こうして感謝を向けられると、仕事を評価されるときとは違う温かさが胸に残る。
「……ありがとうございます、モモ嬢。ただ、今夜の場所は三人で相談して決めたものです。私一人の判断ではありませんよ」
「うん、知ってるよ。でも、シモン君がいてくれて嬉しいっていうのは、それとは別のお話だよ」
モモが笑うと、ルシルも頷いた。
「僕も同じ気持ちだよ、シモン。いつもありがとう。でも、シモンも僕たちと同じように、ちゃんと休んでね」
シモンは二人を見比べ、やがて静かに微笑んだ。
「承知しました。では、今夜は私も、この丘の静けさを楽しませていただきます」
三人はそれから少しだけ空を眺め、足元が見えにくくなる前に馬車へ戻った。
◇
馬車の中には、外の冷たい空気とは違う、落ち着いた温もりが残っていた。
窓の布を整え、夜に使うものを手の届く場所へ置くと、三人はそれぞれの寝床へ向かう前に、明日の朝について簡単に相談することにした。
ルシルは水の容器を確認し、残量を見ながらシモンへ尋ねた。
「今の水なら、明日の朝も大丈夫そうだね。でも、次にどこで補給できるか分からないし、明日も少し気をつけて使った方がいいかな」
「ええ。今夜と明朝の必要分は確保できていますが、次の確実な補給場所はまだ分かっていません。飲用や馬たちに必要な分を優先し、それ以外の用途では無駄を避けましょう」
シモンは容器の状態を確かめながら答えた。
リーヴェルを出発してから、三人は何度か休息場所を見つけ、途中の集落では水を補給することもできた。しかし、今いる草原には井戸や川が見当たらず、昼間に通りかかった低い場所にも、確実な水場は確認できなかった。
モモは二人の会話を聞き、少し考えてから口を開いた。
「わたしの水の魔法も、何でも解決できるわけじゃないもんね。もし水が必要になったら、できることは考えるけど、最初から魔法があるから大丈夫って思わない方がいいよね」
ルシルは頷き、モモの方へ身体を向けた。
「うん。モモの魔法はすごいけど、だからって全部を頼るのは違うと思うんだ。僕たちが普通に準備できることは、ちゃんと準備しておきたいし」
「そうですね。魔法は有用な手段ですが、飲み水として安全なものを無制限に確保できると考えるべきではありません。必要なときに使える力を残しておくことも大切です」
シモンの言葉に、モモは真剣な表情で頷いた。
以前の彼女なら、自分にできることがあればすぐに試してみたくなっていたかもしれない。けれど、旅の途中で何度も相談を重ねるうちに、何かをする前に状況を確かめることも、仲間を助ける方法の一つなのだと感じるようになっていた。
「じゃあ、明日はまず道を進みながら、ちゃんとした水場があるかどうか気をつけてみようね。誰かに会えたら、聞いてみるのもいいかもしれないし」
「そうだね。もし確かな情報が得られたら、そのときに相談しよう」
ルシルが答えると、シモンも同意した。
ただし、明日必ず誰かに出会えるとは限らない。草原の街道では、荷車や旅人とすれ違うこともあるが、何時間もほかの人影を見かけない場合もある。
そのため、三人は特定の出会いを当てにせず、今ある物資を大切に使いながら進むことを確認した。
相談が終わると、モモは旅帳面を膝の上へ広げた。
そこには、昼間に見た丘の輪郭が描かれている。まだ細かな部分は仕上がっていなかったが、街道から少し離れた平坦地に馬車を停めた様子や、丘の向こうで草が大きく揺れている様子が、柔らかな線で表現されていた。
「ねえ、二人とも。今日の絵、ちょっと見てくれる?」
モモは帳面を持ち上げ、ルシルとシモンへ見せた。
ルシルは身を乗り出し、絵を眺めながら微笑んだ。
「すごいね。ちゃんと僕たちが停めた場所が分かるよ。こっちが街道で、こっちが丘なんだね」
「そうだよ。あとね、ここに小さく描いてあるのがトルクとベルク。まだ途中だから、もう少し描き足したいんだけど」
モモが指さした先には、馬車のそばに立つ二頭の姿があった。
細かな毛色までは分からないものの、トルクの少し前へ出た姿勢と、ベルクの落ち着いた立ち方が描き分けられている。
シモンはそれを見て、感心したように頷いた。
「よく特徴を捉えていますね。二頭の立ち方まで違って見えます」
「えへへ。いつも一緒にいるからね。トルクは何か気になるものがあると、すぐにそっちを見ちゃうけど、ベルクはわりと落ち着いてるんだよ」
モモは嬉しそうに説明した。
ルシルも二頭の普段の様子を思い出し、小さく笑った。
「確かにそうだね。トルクは草を見つけるのも早いし、ベルクはその隣で静かに待ってることが多い気がするな」
「うん! だから、絵でも少し違う感じにしたかったんだ」
モモは帳面を見下ろし、満足そうに微笑んだ。
ルシルはその横顔を眺めながら、旅を始めてから増えてきた絵のことを思い出した。
海辺の景色、立ち寄った村の建物、道で見つけた古い石柱、休憩した場所に生えていた木々。どれも立派な絵画として描かれているわけではないが、モモがそのとき何を見て、何を大切に感じたのかが伝わってくる。
(モモの帳面って、ただ景色を残してるだけじゃないんだね。僕たちがどんなふうに旅をしてきたのかも、一緒に残ってるんだ)
ルシルはそう考え、少しだけ胸が温かくなった。
「ねえ、モモ。いつかその帳面を最初から見返してみたいな。きっと、忘れてたこともいっぱい思い出せそうだから」
「もちろんいいよ! でも、まだまだ描きたいものがたくさんあるんだ。これからも、いっぱい増やしていこうね」
モモは嬉しそうに答え、帳面を大切そうに閉じた。
シモンはその様子を見ながら、穏やかな声で言った。
「では、今夜はその続きも明日にしましょう。明るい場所で描いた方が、細かなところも確かめやすいでしょうから」
「うん。そうするね。今日はもう、ちゃんと休むよ」
モモは素直に頷き、帳面を決まった場所へしまった。
◇
夜が深まるにつれて、馬車の外では風の音が少しずつ変わり始めた。
丘の向こうを吹き抜ける風が草を揺らす音は続いているものの、ときおり馬車の側面にも弱い風が当たり、窓辺の布が小さく動く。三人が寝床へ入ってからしばらくすると、ルシルはその音の違いに気づいて目を開けた。
馬車の中は暗く、窓から差し込む月明かりもわずかだった。
ルシルはすぐに起き上がるのではなく、しばらく耳を澄ませた。風の音は断続的で、馬車そのものが大きく揺れている様子はない。
(少し風向きが変わったのかな。昼間にシモンが言ってたみたいに、夜になると同じ場所でも様子が変わるんだね)
ルシルはそう考え、ゆっくりと身体を起こした。
隣の寝床では、モモが静かな寝息を立てている。昼間は元気に草原の景色を眺めていた彼女も、今は安心しきった表情で眠っていた。
シモンの方へ目を向けると、彼もすでに起きていたらしく、静かにルシルを見返した。
「……ルシル様。風の音が気になりましたか?」
シモンはモモを起こさないよう、声を抑えて尋ねた。
ルシルも小さく頷いた。
「うん。少しだけね。でも、馬車が揺れてるわけじゃないし、すぐに危ないって感じではなさそうだよ」
「私も同じように感じています。ただ、風向きが変わった可能性はありますので、一度だけ外を確認しておきましょう。今なら、まだ状況を落ち着いて確かめられます」
シモンはそう答え、外套を手に取った。
ルシルも防寒を整え、二人は静かに馬車を降りた。
外へ出ると、夜の草原は昼間とはまったく違う姿を見せていた。
空には星が散らばり、雲の切れ間から月の光が差し込んでいる。丘の輪郭は暗い影となって浮かび上がり、街道の向こうに広がる草原は、風が吹くたびに銀色の波を作っているように見えた。
ルシルは思わず空を見上げたが、すぐに足元へ視線を戻した。
夜露が降り始めているのか、草の先がわずかに湿っている。昼間に確認した地面はまだしっかりしているものの、暗い場所では小さな凹凸が見えにくいため、二人は馬車から離れすぎないように歩いた。
「きれいだね。こんなに星が見えるなんて、馬車の中にいたら気づかなかったよ」
ルシルが静かに言うと、シモンも空へ目を向けた。
「ええ。周囲に大きな灯りがありませんから、空の様子がよく分かりますね。ただ、今は風の確認が先です。星を見るのは、そのあとにしましょう」
「ふふっ、そうだね。つい見とれちゃった」
ルシルは小さく笑い、シモンとともに馬車の周囲を確かめ始めた。
風は昼間より少し横から吹き込んでいたが、強く吹き続けているわけではなかった。丘の端を回り込む風がときおり届くものの、車体を不安定にするほどではなく、固定した荷物にも緩みは見られない。
トルクとベルクは二人の足音に反応したが、落ち着いた様子を保っていた。
ルシルはまずベルクの首筋を撫で、それからトルクへ声をかけた。
「ごめんね、起こしちゃったかな。ちょっと様子を見に来ただけだから、安心して休んでてね」
トルクは鼻を鳴らし、ルシルの手へ軽く顔を寄せた。
ベルクも静かに耳を動かしており、強い警戒を示す様子はない。
シモンは二頭の状態を確かめ、馬車の車輪と固定具をもう一度確認した。
「問題はなさそうですね。風向きは多少変わっていますが、今のところ移動する必要はありません。もし風が強まるようなら改めて考えましょう」
「うん。僕もそう思う。せっかく安全な場所を選んだんだから、ちょっと音が変わっただけで慌てるのも違うよね」
ルシルは頷き、夜の丘へ目を向けた。
昼間には柔らかな緑色をしていた斜面も、今は月明かりに照らされた暗い影となっている。草の動きから風の流れを感じることはできるが、遠くの地面の状態までは分からない。
ルシルはその違いを眺めながら、ふと以前の自分を思い出した。
王宮で暮らしていた頃は、夜の風向きや地面の状態を自分で確かめることなど、ほとんどなかった。必要なことは誰かが調べ、危険があれば誰かが知らせてくれる。それが当然だと思っていたわけではないが、自分の暮らしがどれほど多くの人の働きによって支えられていたのか、今になって実感することも多かった。
(あの頃の僕は、知らないことが本当に多かったんだね。でも、今は一つずつ覚えていける。全部を知ることはできなくても、自分の目で確かめて、自分で考えることはできるんだ)
ルシルは胸の奥に浮かんだ思いを、静かに受け止めた。
その横で、シモンもまた、夜の草原を見つめていた。
かつて王宮でルシルに仕えていた頃、彼にとって夜間の確認は、責任を果たすための仕事だった。もちろん今も安全を守ることは重要だが、こうしてルシルと並んで風を確かめる時間には、以前とは違う穏やかさがある。
ルシルが何かを尋ねれば答え、分からないことがあれば一緒に考える。
それは主君に仕える側近としての関係だけではなく、同じ道を進む旅の仲間としての関係でもあった。
「ルシル様。寒くなってきましたし、そろそろ戻りましょう。確認するべきことは済みましたから、あとは身体を休める方が大切です」
シモンが声をかけると、ルシルは頷いた。
「うん。ありがとう、シモン。夜中なのに一緒に確認してくれて」
「いえ。私も気になっていたところです。それに、二人で確かめた方が安心できますから」
シモンはそう答え、馬車の方へ歩き始めた。
ルシルもその隣を歩きながら、最後にもう一度だけ空を見上げた。
月の近くには薄い雲が流れ、星の光が静かに瞬いている。
明日も晴れるかどうかは分からないが、少なくとも今夜の草原は、二人が落ち着いて空を眺められるほど穏やかだった。
◇
二人が馬車へ戻ると、モモはまだ眠っていた。
ルシルは音を立てないように外套を畳み、寝床へ戻った。シモンも荷物の位置を確かめてから横になり、馬車の中には再び静かな時間が流れ始めた。
ところが、しばらくしてからモモが小さく身じろぎをした。
彼女は薄く目を開け、暗い馬車の中を見回したあと、ルシルの方へ顔を向けた。
「……ルシル君?」
眠たそうな声に、ルシルは身体を起こさず答えた。
「うん。どうしたの、モモ?」
「なんだか、外で音がした気がして……。風かな?」
モモは寝ぼけた様子で目を擦り、窓の方へ視線を向けた。
ルシルは先ほどの確認について、簡単に説明した。
「少し風向きが変わったみたいだったから、シモンと外を見てきたんだ。でも、馬車も馬たちも大丈夫だったよ。今はもう落ち着いてるから、安心して休んでね」
その言葉を聞いたモモは、ほっとしたように息をついた。
「そっか……。二人で見てきてくれたんだね。ありがとう」
「ううん。モモも今日はたくさん歩いたし、ゆっくり休んでほしかったから」
ルシルが微笑むと、モモは少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「でも、わたしだけ寝てたんだね。何かあったら、ちゃんと起こしてくれていいんだよ?」
その声には、仲間として役に立ちたいという気持ちが滲んでいた。
ルシルは彼女の表情を見つめ、すぐに否定するのではなく、少し考えてから答えた。
「もちろん、モモの力が必要なときはお願いするよ。でも、今夜はちょっと様子を見ただけだからね。三人とも毎回一緒に起きてたら、みんな寝不足になっちゃうでしょ?」
モモは一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「それもそうだね。じゃあ、今度わたしが先に気づいたら、必要なときは二人に相談するね」
「うん。それでいいと思うよ。何でも一人で何とかしようとしなくていいからね」
ルシルの言葉に、モモは静かに頷いた。
彼女は寝床の中で身体を丸め直し、少しだけ窓の方へ目を向けた。
「ねえ、ルシル君。外、星は見えた?」
「うん。すごくきれいだったよ。雲の間から月も見えてたし、草原が少し銀色に光ってたんだ」
その説明を聞いたモモの目が、眠気の中でわずかに輝いた。
「いいなあ……。わたしも見たかったな」
「明日の朝は、また違う景色が見られると思うよ。それに、星はこれからもきっと見られるから」
ルシルがそう言うと、モモは少し考えたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「うん。じゃあ、次に星がきれいな夜があったら、三人で見たいね」
「そうだね。安全に見られる場所だったら、ぜひ」
ルシルはそう答え、モモが再び目を閉じるのを見守った。
やがて彼女の呼吸が穏やかになり、馬車の中に静かな寝息が戻ってくる。
ルシルも身体を横たえ、外の風の音へ耳を澄ませた。
先ほどより音は弱くなっており、窓辺の布もほとんど揺れていない。
(今日は、ちゃんと自分たちで休む場所を選べたんだね。明日も同じように、無理をせず進んでいこう)
ルシルはそんな思いを胸に、ゆっくりと目を閉じた。
◇
夜明け前の草原は、深い静けさに包まれていた。
空の東側にはまだ暗さが残っているものの、地平線の近くにはわずかな明るさが生まれ始めている。丘の斜面には薄い露が降り、草の穂先が朝の冷たい空気を受けて静かに揺れていた。
ルシルが目を覚ましたのは、馬車の外から小さな鳥の声が聞こえてきた頃だった。
夜中に一度起きたためか、いつもより少し眠気が残っていたが、身体に強い疲れは感じなかった。寝床の中でゆっくりと伸びをすると、窓の向こうに薄明るい空が見えた。
ルシルはしばらくその景色を眺めてから、静かに身体を起こした。
モモはまだ眠っており、シモンも寝床に横になっている。
ルシルは二人を起こさないように身支度を整え、外套を羽織った。
馬車の扉を開けると、冷たい朝の空気が流れ込んできた。
「……わあ」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
目の前には、薄い霧のようなものをまとった草原が広がっていた。
濃い霧が立ち込めているわけではなく、地面に近いところだけが淡く白んでいる。草の先には露がつき、東の空から差し始めた光を受けて、小さな粒がきらきらと輝いていた。
ルシルは馬車のそばで足を止め、しばらくその景色を眺めた。
昨日の夕方には黄金色だった草原が、今は淡い青と銀色に包まれている。
同じ丘のそばにいるはずなのに、まるで別の場所へ来たようだった。
(昨日の夕方もきれいだったけど、朝はまた全然違うんだね。こういう景色を見るたびに、旅をしていてよかったって思うな)
ルシルは静かに微笑み、まずトルクとベルクの様子を確かめることにした。
二頭はすでに目を覚ましており、ルシルが近づくと耳を動かした。
トルクは朝の草に興味を示しているようで、鼻先を地面へ向けている。一方のベルクは落ち着いた様子で立っており、ルシルの足音を聞いて静かに顔を上げた。
「おはよう、トルク。ベルクも、おはよう。昨日はちゃんと休めたかな?」
ルシルは二頭へ声をかけながら、身体の状態を確かめた。
脚に腫れや傷は見られず、蹄にも目立った異常はない。夜の間に強い風が吹いた様子もなく、二頭が休んでいた場所の地面も安定していた。
ルシルは安心し、トルクの首筋を撫でた。
「今日も元気そうだね。よかった」
そのとき、背後から馬車の扉が開く音が聞こえた。
振り返ると、シモンが外套を羽織って降りてくるところだった。
「おはようございます、ルシル様。ずいぶん早く起きられたのですね」
「おはよう、シモン。鳥の声で目が覚めちゃったんだ。でも、外に出たらすごくきれいだったから、ちょっと得した気分だよ」
ルシルが笑うと、シモンは周囲を見渡した。
彼も草原の朝露に気づき、少しだけ目を細めた。
「確かに、見事な景色ですね。昨夜の冷え込みで露がついたのでしょう。地面も多少湿っているかもしれませんから、出発前に改めて確認した方がよさそうです」
「うん。馬たちは元気そうだったよ。あとは車輪の周りを見ておこうと思ってたところなんだ」
「では、私も一緒に確認しましょう」
シモンは頷き、ルシルとともに馬車の周囲を歩き始めた。
草の表面には露がついているが、車輪の下の土は大きく緩んでいない。固定具も安定しており、夜間に馬車が傾いた様子は見られなかった。
シモンは足元を確かめながら、ルシルへ声をかけた。
「昨夜の風向きの変化も、大きな影響はなかったようですね。丘の近くを選んだ判断は、結果として悪くなかったと思います」
「うん。でも、昨日はちゃんと確認してから決めたからね。もし地面が柔らかかったり、風が強すぎたりしたら、別の場所を探してたと思う」
ルシルはそう答え、馬車の側面へ目を向けた。
青い風魚の布は、窓辺で静かに揺れている。
夜の間に傷んだ様子もなく、朝の光を受けて淡い青色が少し明るく見えた。
シモンはその布を見て、穏やかに微笑んだ。
「旅の途中で手に入れたものが、こうして毎日の景色に馴染んでいくのは、不思議なものですね」
「そうだね。最初は青波の思い出だったけど、今は僕たちの馬車の一部みたいになってる気がするよ」
ルシルが答えると、シモンは静かに頷いた。
二人が確認を終える頃、馬車の中から小さな物音が聞こえてきた。
続いて扉が開き、モモが眠たそうな顔を覗かせる。
「……おはよう、ルシル君、シモン君。二人とも、もう起きてたんだね」
彼女の桃金色の髪は少し乱れており、白い外套を羽織りながら片手で目を擦っていた。
ルシルはその姿を見て、思わず笑みを浮かべた。
「おはよう、モモ。よく眠れた?」
「うん。途中でちょっと起きちゃったけど、そのあとぐっすり眠れたよ。二人は大丈夫だった?」
「僕も大丈夫だよ。シモンと一緒に、朝の確認をしてたところなんだ」
ルシルが答えると、モモは安心したように微笑んだ。
しかし、次の瞬間、彼女の視線が馬車の向こうへ向かい、表情がぱっと明るくなった。
「わあ……! すごい! 草がきらきらしてる!」
モモは思わず一歩前へ出かけたが、足元の露に気づいて立ち止まった。
昨夜の会話を思い出したのか、彼女はまず地面を確かめ、それからゆっくりと馬車のそばへ降りた。
「ルシル君、見て見て! 昨日はあんなに緑だったのに、今は宝石みたいだよ!」
モモは嬉しそうに草原を指さした。
朝日が少しずつ高くなるにつれて、草の先についた露が細かな光を反射している。遠くの丘の斜面まで、無数の小さな光が散らばっているように見えた。
ルシルはその様子を眺めながら、穏やかに頷いた。
「うん。僕もさっき見て驚いたんだ。昨日の夕方とは全然違うよね」
「本当だね。ねえ、これ、旅帳面に描きたいな。こんなにきれいなの、忘れたくないよ」
モモは胸の前で両手を合わせ、期待に満ちた目で二人を見た。
シモンは朝の空と草地を確かめ、少し考えてから答えた。
「朝食の準備まで少し時間がありますし、馬車の近くで描くのであれば問題ないでしょう。ただ、草が濡れていますから、座る場所には気をつけてください」
「うん! ありがとう、シモン君!」
モモは嬉しそうに頷き、馬車の中へ旅帳面を取りに戻った。
ルシルはその後ろ姿を見送りながら、シモンへ小さく笑いかけた。
「モモ、朝から元気だね」
「ええ。昨夜はよく休めたのでしょう。それに、あれほど嬉しそうに景色を眺めている姿を見ると、こちらまで楽しい気分になりますね」
シモンの言葉に、ルシルは少し驚いたように目を向けた。
以前のシモンなら、まず朝の準備や出発時刻を気にしていたかもしれない。
もちろん今も必要な確認は怠らないが、モモが景色を楽しむ時間を自然に受け入れ、自分もその喜びを分かち合おうとしている。
ルシルはその変化を嬉しく感じた。
「そうだね。じゃあ、僕たちも少しだけ朝の景色を楽しもうか」
シモンは穏やかに頷いた。
「ええ。準備に支障のない範囲であれば、よいと思います」
◇
モモが旅帳面を持って戻ってくる頃には、東の空が明るい金色へ変わり始めていた。
彼女は馬車の入口近くに腰を下ろし、膝の上へ帳面を広げた。草地へ直接座ると外套が濡れてしまうため、乾いた場所を選び、足元に気をつけながら姿勢を整える。
ルシルはその近くでトルクとベルクの世話を続け、シモンは朝食に使う食料と水の残量を確認していた。
三人がそれぞれのことをしていても、互いの姿が見える距離にいる。
その穏やかな配置が、ルシルには心地よかった。
モモはしばらく鉛筆を動かしていたが、やがて顔を上げて首を傾げた。
「うーん……。きらきらしてるところって、どう描けばいいんだろう。草の一本一本に光がついてるみたいなんだけど、全部描いたらすごいことになっちゃうよね」
ルシルはその言葉を聞き、モモの帳面を覗き込んだ。
ページには、丘の輪郭と朝の草原が描かれ始めている。草の先には小さな点がいくつも加えられていたが、モモはまだ納得していない様子だった。
「全部を描かなくても、モモが一番きれいだと思ったところを残せばいいんじゃないかな。たとえば、朝日が当たってるところとか」
ルシルがそう提案すると、モモは少し考えた。
「そっか。全部を同じように描こうとしなくてもいいんだね。じゃあ、ここを少し明るく見えるようにしてみようかな」
彼女は再び帳面へ目を落とし、線を加え始めた。
シモンも少し離れた場所からその様子を見ていたが、ふと思いついたように口を開いた。
「光っている部分だけでなく、その周囲の暗い部分を少し残すと、違いが分かりやすくなるかもしれませんね」
モモは顔を上げ、驚いたように瞬きをした。
「シモン君、絵のことも分かるの?」
「いえ、詳しいわけではありません。ただ、明るい場所と暗い場所の差があると、形が見えやすくなることはありますから」
シモンは少し照れたように眼鏡を直した。
モモはその説明を聞き、帳面へ視線を戻した。
「なるほど……。じゃあ、草の影も少し描いてみようかな。ありがとう、シモン君!」
「お役に立てたなら何よりです」
シモンはそう答え、再び食料の確認へ戻った。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、穏やかに微笑んだ。
旅を始めた頃は、シモンがモモの絵に助言する姿など、あまり想像できなかった。
しかし今では、こうした小さな会話が自然に生まれている。
ルシルはそのことを嬉しく感じながら、トルクの首筋を撫でた。
「ねえ、トルク。僕たち、ずいぶん旅に慣れてきたと思わない?」
トルクは返事の代わりに鼻を鳴らし、近くの草へ興味を向けた。
ルシルは思わず笑った。
「ふふっ。トルクは、朝ご飯の方が気になるかな」
その声を聞いたモモが顔を上げ、楽しそうに笑った。
「トルクらしいね。でも、ちゃんとご飯を食べたいって思えるくらい元気なのは、いいことだよね」
「そうだね。ベルクも落ち着いてるし、今日も無理なく進めそうだよ」
ルシルは頷き、二頭の様子をもう一度確かめた。
朝露で草は湿っているが、二頭の足元に危険なものは見当たらない。夜間の休息も十分に取れたようで、動きに不自然なところはなかった。
シモンは水の容器を片づけながら、二人へ声をかけた。
「朝食の準備ができそうです。モモ嬢、絵はどの辺りまで進みましたか?」
モモは帳面を見下ろし、少し名残惜しそうに笑った。
「まだ途中だけど、今見えてる光は描けたと思う。あとはあとで仕上げるね」
「それなら、よい区切りでしょう。朝の景色は変わっていきますが、今見たものはモモ嬢の中に残っているはずですから」
シモンの言葉に、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! ちゃんと覚えてるよ。今日は草が宝石みたいに光ってたって、絶対忘れないと思う」
彼女は帳面を閉じ、馬車の中へ大切にしまった。
◇
朝食は、昨夜と同じように火を使わずに用意できるものにした。
草原にはまだ朝露が残っているが、周囲には乾いた草もあり、火を安全に扱える場所が確認できているわけではない。三人は無理に温かい食事を用意せず、保存食とパンを必要な分だけ取り出して食べることにした。
ルシルは食料を分けながら、モモへ声をかけた。
「今日は朝からよく動いてたから、お腹が空いたんじゃない?」
モモは少し照れたように笑った。
「えへへ。実は、さっきからいい匂いがする気がしてたんだ。でも、温かい料理を作ってるわけじゃないのに、不思議だよね」
「朝の空気が冷たいから、パンの匂いがいつもより分かりやすいのかもしれないね」
ルシルがそう言うと、シモンは穏やかに頷いた。
「空腹も関係しているかもしれませんね。昨日は早めに夕食を済ませましたから、十分にお腹が空いていても不思議ではありません」
「そっか。じゃあ、今日はちゃんと朝ご飯を食べて、元気に出発しないとね」
モモは嬉しそうに答え、パンを一口食べた。
三人は馬車の近くで朝食を取りながら、今日の進み方について相談した。
今いる場所から南へ続く街道は、昨日のうちに見える範囲を確かめている。しかし、その先に町や村があるかどうか、どの程度進めば水を補給できるかについては、まだ確かな情報がなかった。
ルシルはパンを食べ終えると、街道の方へ視線を向けた。
「今日は、まず南へ進んでみようか。昨日みたいに道の状態を見ながら、無理のないところで休憩を取る感じで」
シモンは頷いた。
「ええ。ただ、昨日よりも水の残量には注意が必要です。途中で確かな補給場所が見つからない場合は、移動を続けることだけを優先せず、状況を整理して判断しましょう」
「うん。分かった。もし道の途中で人に会えたら、水場のことを聞いてみたいな」
ルシルが答えると、モモも頷いた。
「わたしも賛成だよ。でも、誰にも会えなかったら、三人で考えようね。今ある水を大切にしながら、ちゃんと休むことも忘れないようにしないと」
その言葉に、シモンは少し嬉しそうな表情を浮かべた。
「その通りです。移動距離だけを考えるのではなく、休息と補給の見通しを合わせて判断することが大切ですから」
モモは褒められたことが嬉しかったのか、少し得意そうに笑った。
「えへへ。わたしも、だんだん旅のことが分かってきた気がするんだ」
「うん。モモは本当にいろんなことを覚えてるよね。僕も、まだまだ知らないことがいっぱいあるから、一緒に覚えていきたいな」
ルシルがそう言うと、モモは大きく頷いた。
「もちろん! 三人で旅をしてるんだもん。一緒に覚えて、一緒に考えていこうね!」
シモンは二人の様子を見ながら、静かに微笑んだ。
かつての彼なら、旅の知識や判断は自分が示すべきものだと考えていたかもしれない。
しかし今は、ルシルとモモが自分で考え、互いに意見を交わす姿を見ることが嬉しかった。
すべてを教える必要はない。
必要なときに助言し、分からないことがあれば一緒に確かめる。
それが、今の三人にとって自然な関係になりつつあった。
◇
朝食を終える頃には、草原の朝露も少しずつ乾き始めていた。
東の空には明るい青色が広がり、丘の斜面に残っていた淡い霧も薄くなっている。街道の向こうでは草が風に揺れ、遠くの空を小さな鳥が横切っていった。
三人は食事に使ったものを片づけ、出発の準備を始めた。
ルシルはトルクとベルクの馬具を整え、シモンは車輪の固定を外す前に周囲の地面を確認する。モモは馬車の中を片づけ、旅帳面や食料が揺れで動かないように収納した。
作業は落ち着いた速度で進んでいった。
昨日の夕方に馬車を停めたときと同じように、三人は互いの動きを確かめながら準備を進める。
ルシルは馬具の状態を確認し終えると、シモンへ声をかけた。
「トルクとベルクは大丈夫そうだよ。脚も問題ないし、今日は元気に歩けそうだね」
「こちらも、車輪と荷物に異常は見られません。あとは出発前に、周囲へ忘れ物がないか確認しましょう」
シモンはそう答え、草地を見渡した。
モモも馬車から降り、三人で使った場所を確認し始めた。
食事の包みや小さな道具が残っていないか、草の中へ落ちたものがないかを確かめる。火は使っていないため灰の処理は必要なかったが、次にこの場所を通る誰かの迷惑にならないよう、周囲を整えておくことにした。
モモは草の短い場所へ目を向け、昨日の夕方に気づいた細い筋を思い出した。
「ねえ、ルシル君。ここ、昨日も少し草が短かったよね。誰かが通った跡かもしれないって話してたところ」
ルシルはその場所へ視線を向け、頷いた。
「うん。でも、何の跡なのかは分からなかったんだよね。今日見ても、やっぱりはっきりしないな」
シモンも近くから確認したが、新しい情報は得られなかった。
「ええ。無理に理由を決める必要はありません。昨日と同じように、分からないものとして記録しておけばよいでしょう」
「うん。そうするね」
モモは頷き、旅帳面へ短い言葉を書き加えた。
そのあと、三人はもう一度馬車の周囲を見渡した。
昨夜の休息場所には、彼らが過ごした痕跡がわずかに残っているものの、大きく地面を荒らした場所はない。草を踏んだ跡も、時間が経てば周囲に馴染んでいくだろう。
ルシルは丘の斜面を見上げ、静かに微笑んだ。
「昨日はありがとう、って言いたくなるね。この丘のおかげで、風を少し避けられたし、きれいな朝も見られたから」
モモはその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。
「うん! わたしもありがとうって言いたいな。ここで休めてよかったよ」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに頷いた。
「自然の地形に助けられることも、旅では多いのでしょうね。だからこそ、利用した場所を大切にすることも忘れたくありません」
三人はしばらく丘を眺め、それから馬車へ戻った。
ルシルは御者台へ座り、手綱を握った。
トルクとベルクは出発の気配を感じたのか、耳を動かして前方へ顔を向けている。
シモンは馬車の側面から最後の確認を済ませ、モモも窓辺の青い風魚の布を整えた。
「準備はできたかな?」
ルシルが尋ねると、シモンは頷いた。
「はい。荷物も安定していますし、周囲に忘れ物もありません。街道へ戻る際は、昨日と同じようにゆっくり進みましょう」
「うん。分かった」
ルシルは二頭へ穏やかに声をかけ、馬車を動かし始めた。
車輪が草地の小さな凹凸を越えるたびに、車体がわずかに揺れる。シモンは外から進路を確認し、ルシルはその合図に合わせて慎重に馬車を進ませた。
やがて馬車は、南へ続く街道へ戻った。
シモンが乗り込むと、モモは窓から丘の方へ顔を向けた。
「ばいばい、昨日の丘! またどこかで、こんな素敵な場所に出会えるといいな」
モモの声は朝の風に乗り、静かな草原へ溶けていった。
ルシルは御者台から振り返り、丘の姿を目に焼きつけた。
昨夜は風を避けるために選んだ場所だったが、今では三人にとって、一つの思い出になっている。
ルシルは前方へ視線を戻し、穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、今日も出発しようか。トルク、ベルク、よろしくね」
二頭は落ち着いた足取りで歩き始めた。
馬車は朝の草原を南へ進み、低い丘は少しずつ後方へ遠ざかっていく。
窓辺では青い風魚の布が柔らかく揺れ、モモは旅帳面を開いて、先ほど描いた朝露の景色をもう一度眺めていた。
シモンは道の状態を確かめながら、今日の移動について考えている。
そしてルシルは、前方に続く街道へ目を向けていた。
今日も、どこまで進めるのかは分からない。
次の町がどこにあるのか、確かな水場にいつ出会えるのかも、まだ分かっていなかった。
それでも、三人は焦っていなかった。
今あるものを大切にし、必要なことを相談しながら、少しずつ進んでいけばいい。
ルシルは手綱を握る指の力を整え、朝の風を頬に感じながら、静かに笑った。
(今日も、僕たちらしい旅をしよう。急がなくてもいいし、知らないことがあってもいい。三人で一緒に考えながら進めるなら、それだけで十分に楽しいんだから)
朝の光を受けた草原の街道を、馬車はゆっくりと南へ進んでいった。




