第125話 午後の草原に見つけた風除けの丘と、三人で選んだ今夜の居場所
午後の草原には、昼前とは違う風が吹き始めていた。
木立での休憩を終えたルシルたちの馬車は、南へ続く街道をゆっくりと進んでいる。空には薄い雲が幾筋か伸び、遠くの丘に落ちる影が、時間とともに少しずつ長くなっていた。道の両側には背の低い草が広がっているが、ところどころ土の色が濃くなった場所もあり、地面の様子は午前中に通ってきた道とは少し違って見える。
御者台に座るルシルは、トルクとベルクの歩調を確かめながら、前方に続く緩やかな下り坂へ目を向けた。
昼食のときに出会った荷車の男性からは、この先に道が低くなる場所があると聞いている。その東側には、以前は水がたまる窪地があったらしいが、現在も水が残っているかどうかは分からない。仮に水があったとしても、飲めるものとは限らないため、三人はそこを確実な補給地点として考えないことにしていた。
「シモン、あの先が、さっきのおじさんの言ってた低い場所なのかな」
ルシルが前方を指すと、馬車の窓からシモンが顔を覗かせた。
「可能性はあります。ただ、まだ距離がありますし、地形だけでは判断できません。街道がどの程度下っているのかも、近づいてみなければ分からないでしょう」
「そうだね。水場を探しに行くつもりはないけど、道の状態は気になるな」
ルシルは頷き、手綱を握る指の力を少し緩めた。
トルクは前方の草へ耳を向け、ベルクは落ち着いた足取りを保っている。二頭とも昼の休憩で十分に身体を休められたようで、歩調に乱れは見られなかった。
馬車の中では、モモが旅帳面を開き、先ほどの木立で出会った男性の話を整理していた。
「ねえ、ルシル君。さっきのおじさんが教えてくれた水の話なんだけど、ここには『東の方に昔は水がたまる窪地があった』って書いておけばいいかな?」
モモは帳面を持ち上げ、窓から見えるように少し傾けた。
開かれたページには、小さな二輪の荷車と、帽子をかぶった男性の横顔が描かれている。その下には、男性から聞いた道の情報が、短い言葉でまとめられていた。
「うん。それでいいと思うよ。でも、今も水があるかどうかは分からないってことも書いておこうか」
「もちろん! ちゃんと『現在の状態は不明』って書いてあるよ。それから、『飲める水かどうかも分からない』って」
モモは少し得意そうに笑った。
シモンはその記録を確認し、穏やかに頷いた。
「正確ですね。旅の途中で聞いた情報は、後から思い出すときに、確かなことと推測が混ざってしまう場合があります。そうして区別しておけば、判断を誤る危険も減るでしょう」
「えへへ。最近、シモン君に教えてもらったことを、ちゃんと使えるようになってきた気がするんだ」
「それは何よりです。もっとも、私もすべてを知っているわけではありませんから、分からないことは一緒に確かめていきましょう」
その言葉に、モモは嬉しそうに頷いた。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、柔らかな笑みを浮かべた。
旅を始めた頃のシモンは、何かを尋ねられるたびに、できる限り正しい答えを示そうとしていた。もちろん今も慎重で頼りになるが、最近は分からないことを無理に説明せず、一緒に考える姿も増えている。
(シモンも、少しずつ旅の仕方が変わってきたんだね。僕たちだけじゃなくて、シモン自身も楽しめる時間が増えてるなら嬉しいな)
ルシルはそんなことを考えながら、前方へ視線を戻した。
街道は少しずつ低い場所へ向かって伸びている。
その先では草の色が濃くなり、道の左右に小さな起伏が増えていた。
風が草原を渡るたび、草の穂先が一斉に揺れ、遠くの丘から波が押し寄せてくるように見えた。
「ねえ、ルシル君。今日は午後になってから、風の音が少し変わった気がしない?」
モモが窓から顔を覗かせ、耳を澄ませるように首を傾げた。
ルシルも周囲の音へ意識を向けた。
確かに、昼の木立では葉が擦れ合う柔らかな音が聞こえていたが、今は草の上を風が走る音が中心になっている。ときおり馬車の側面に風が当たり、青い風魚の布が窓辺で小さくはためいていた。
「そうだね。木が少ないから、風がそのまま通り抜けてるのかな」
「うん。なんだか草原全体が息をしてるみたいだよ」
モモはそう言って、嬉しそうに笑った。
シモンは窓から空を見上げ、雲の流れを確認した。
「風向きが大きく変わったわけではなさそうですが、少し強くなってきましたね。夕方までに落ち着く可能性もありますが、今夜の休憩場所を選ぶ際には、風を避けられる地形も考慮した方がよさそうです」
「うん。昼間は気持ちいい風でも、夜になると寒く感じるかもしれないもんね」
ルシルは頷き、街道の先へ目を向けた。
今夜の居場所は、まだ決まっていない。
しかし、三人は焦っていなかった。
今日のうちに遠くの町へ到着する必要はなく、馬たちの状態も安定している。日が傾きすぎる前に安全な場所を見つけることができれば、そこでゆっくり休むつもりだった。
◇
街道が緩やかな下り坂に差しかかると、道の表面に残る車輪の跡が少し深くなってきた。
午前中に見つけた休憩場所ほど多くの跡が重なっているわけではないが、ところどころ土が削られ、雨水が流れたような細い筋が残っている。
ルシルは馬車の速度を落とし、慎重に進み始めた。
「シモン、この辺りは少し地面が柔らかそうだね。乾いてるように見えるけど、車輪の跡が深いところもある」
シモンは窓から道を確認し、落ち着いた声で答えた。
「ええ。低い場所には雨水が集まりやすいのでしょう。今は乾いているようですが、溝の深い部分を避けて進んだ方がよさそうです」
「分かった。トルクとベルクにも、ゆっくり歩いてもらうよ」
ルシルは二頭へ声をかけ、手綱を慎重に扱った。
馬車は大きく揺れることなく、下り坂を進んでいく。
モモは窓から地面を眺め、少し不思議そうな表情を浮かべた。
「こういうところって、雨が降ると水が集まるんだね。草原って広いから、どこにでも同じように雨が降るのかと思ってたけど、地面の形でずいぶん違うんだなあ」
「そうですね。水は低いところへ流れますから、周囲より窪んだ場所には集まりやすくなります。ただ、そこに水が残るかどうかは、地面の性質や天候によって変わります」
シモンの説明に、モモは真剣な表情で頷いた。
「じゃあ、さっきのおじさんが言ってた窪地も、雨が降ったあとだけ水がたまる場所なのかもしれないんだね」
「その可能性はあります。しかし、実際に見ていない以上、判断はできません」
「うん。分からないことは、分からないままにしておくんだったね」
モモはそう言って、旅帳面へ小さな言葉を書き加えた。
ルシルは二人の会話を聞きながら、道の状態を確かめ続けた。
しばらく進むと、街道の右側に低い丘が現れた。
丘は大きく盛り上がっているわけではなく、草原の中に緩やかな背を作っている。斜面には短い草が生え、ところどころ土が露出していた。
その反対側には、浅い窪地のような地形が広がっている。
遠くから見ると、草の色が少し濃くなっているようにも見えたが、水面らしい光は確認できなかった。
「ねえ、ルシル君。あっちの草、少し色が違うね」
モモが左手の窪地を指さした。
ルシルも視線を向けたが、馬車を進めながらでは細かな様子までは分からなかった。
「本当だね。でも、水があるかどうかは分からないな。近くまで行けば何か見えるかもしれないけど、今は道を外れない方がよさそうだね」
シモンは頷いた。
「ええ。あの場所が先ほど聞いた窪地と同じものかどうかも分かりませんし、現在の水の状態を確認するためだけに馬車を入れる必要はありません」
「うん。もし水があったとしても、飲めるとは限らないんだもんね」
モモは納得したように頷き、窪地から視線を戻した。
三人はそのまま街道を進み、低い場所を抜けていった。
やがて道は再び緩やかに上り始め、周囲の見通しがよくなってきた。
ルシルは御者台から遠くを眺め、次に休めそうな場所を探した。
草原には相変わらず大きな木が少なく、道の近くに建物も見当たらない。
しかし、右手の丘が街道に沿ってしばらく続いていることに気づいた。
丘の斜面は緩やかで、場所によっては風を遮るような形になっている。
「シモン、あの丘の向こう側なら、少し風を避けられるかもしれないね」
ルシルがそう言うと、シモンは慎重に周囲を確認した。
「地形としては可能性があります。ただ、丘の陰になっている場所は、地面の状態が見えにくいこともあります。夕方の休憩場所として考えるなら、十分に確認する必要がありますね」
「うん。まだ時間はあるし、近くまで行ってから考えようか」
ルシルはそう答え、馬車をゆっくりと進ませた。
◇
丘の近くまで進むと、風の当たり方が少し変わった。
街道の右側にある斜面が風を受け止めているのか、道の一部では草の揺れが弱くなっている。反対に、丘の端を回り込む風が強く吹く場所もあり、同じ地形でも位置によって様子が違っていた。
ルシルは馬車を停められそうな場所を探しながら、慎重に進んだ。
「ここ、風が少し弱いね。さっきまで馬車の横に当たってた風が、今はあまり感じないよ」
モモが窓から顔を出し、周囲を見渡した。
桃金色の髪がふわりと揺れたものの、先ほどほど強くはなびかない。
シモンは丘の斜面と街道の間を確認し、少し考えてから答えた。
「確かに風は弱まっています。ただ、地面が平らな場所は限られていますね。あちらに少し広い場所が見えますが、馬車を入れられるかどうかは確認が必要です」
シモンが指さしたのは、街道から少し離れた草地だった。
そこには背の低い草が生え、周囲よりわずかに平らな地面が広がっている。丘の斜面からは適度に距離があり、崩れた土や大きな石が見える場所でもなかった。
ルシルはその場所へ目を向け、頷いた。
「よさそうに見えるね。でも、まだここに決めるわけじゃないよ。まずは地面を確かめよう」
「はい。それがよいでしょう」
シモンは同意し、街道の広い部分で馬車を一度停めるよう提案した。
ルシルは後方からほかの馬車が来ていないことを確認し、安全な位置でトルクとベルクを停めた。
シモンが先に降り、候補地へ向かって歩き始める。
モモも馬車から降りようとしたが、ルシルが声をかけた。
「モモ、少し待ってて。シモンが地面を確認してから、一緒に見に行こう」
「うん。分かったよ」
モモは素直に頷き、御者台の近くで待つことにした。
シモンは草地へ入り、足元の状態を慎重に確かめた。
表面は乾いているものの、場所によって草の密度が違っている。斜面に近い部分には小さな石が混じり、地面もわずかに傾いていた。
一方、街道寄りの場所は比較的平らで、土も固く締まっている。
シモンは何度か位置を変えながら歩き、馬車が入る経路を確かめた。
しばらくして戻ってくると、ルシルへ向かって頷いた。
「街道寄りの一角なら、馬車を停められそうです。ただし、丘に近づきすぎると地面が傾いていますので、あまり奥へ入らない方がよいでしょう」
「分かった。じゃあ、まずはあの平らなところまで進めてみようか」
「はい。私が外から確認しますので、ゆっくり進んでください」
ルシルは頷き、御者台へ戻った。
モモも馬車へ乗り込み、窓からシモンの様子を見守る。
トルクとベルクは落ち着いた様子で歩き始め、馬車は街道から草地へゆっくりと入っていった。
車輪が小さな凹凸を越えるたびに車体がわずかに揺れたが、ルシルは急がず、シモンの合図に合わせて進んだ。
やがて馬車は、丘から少し離れた平らな場所へ到着した。
ルシルは二頭を停め、車体の傾きを確認した。
「ここなら、かなり落ち着いて停められそうだね」
シモンも車輪の周囲を確認し、頷いた。
「ええ。地面の状態は悪くありません。ただ、今夜ここで休むかどうかは、周囲をもう少し調べてから判断しましょう」
モモは馬車から降り、丘の方へ目を向けた。
「ここ、さっきより風が弱いね。丘があるだけで、こんなに違うんだ」
彼女は白い外套の裾を軽く押さえながら、草原を見渡した。
街道の向こうでは草が大きく揺れているのに、今いる場所では穂先がゆっくりと動く程度だった。
ルシルもその違いを感じ、少し驚いたように微笑んだ。
「本当だね。大きな建物があるわけでもないのに、丘が風を遮ってくれるんだな」
シモンは周囲の地形を見渡しながら、慎重に答えた。
「ただし、風向きが変われば状況も変わります。今は風除けになっていますが、夜間も同じとは限りません。それに、丘の近くは雨水の流れ方にも注意が必要です」
「そっか。今だけ見て決めちゃいけないんだね」
モモは真剣な表情で頷いた。
ルシルも同意し、三人は候補地の周囲を確認することにした。
◇
最初に調べたのは、馬車を停めた場所の地面だった。
シモンは車輪の周囲を歩き、深い溝や柔らかい土がないかを確かめた。ルシルも反対側から確認し、草の下に大きな石や穴が隠れていないか注意を払った。
モモは二人の様子を見守りながら、少し離れたところに生える草へ目を向けた。
そこには、周囲より背の低い草がまとまって生えている場所があった。
「ねえ、シモン君。あそこだけ草が短いけど、何か理由があるのかな」
モモが指さすと、シモンはその場所へ視線を向けた。
「何らかの理由で踏まれたのかもしれませんし、地面の状態が違うのかもしれません。ただ、見た目だけでは判断できませんね」
「じゃあ、近づいてみてもいい?」
「ええ。ただし、足元を確認しながらにしてください。私も一緒に見ましょう」
シモンはそう答え、モモとともに草の短い場所へ歩いていった。
近くで見ると、地面には細い筋がいくつか残っていた。
車輪の跡ほどはっきりしたものではなく、人や動物が通ったようにも見えるが、何によってできたのかは分からない。
モモはしゃがみ込まず、少し離れた位置から地面を眺めた。
「ここも、誰かが通った跡なのかな」
「可能性はあります。しかし、古いもののようですし、今の状態では断定できません」
シモンは周囲を見渡し、草地の先に大きな穴や危険な場所がないことを確認した。
「少なくとも、この場所を利用するうえで、すぐに問題になるようなものは見当たりませんね」
「そっか。じゃあ、ここもちゃんと記録しておこうかな」
モモは旅帳面を取り出そうとしたが、すぐに思い直して手を止めた。
「……でも、今は先に安全確認だよね。絵はあとで描くことにする」
シモンはその言葉に、穏やかに微笑んだ。
「ええ。その方がよいでしょう。記録は落ち着いてからでもできますから」
モモは嬉しそうに頷き、二人はルシルのもとへ戻った。
ルシルは馬車の周囲を確認し終えたところだった。
「こっちは大丈夫そうだよ。大きな石もないし、車輪の近くに深い穴も見つからなかった」
「こちらも、すぐに危険となるものは確認できませんでした。ただし、丘の斜面に近い場所は避けた方がよさそうです」
シモンが答えると、ルシルは頷いた。
「じゃあ、今停めてる場所を中心に考えようか。馬たちを休ませる場所も確保できそうだし」
三人は続いて、風の当たり方と周囲の見通しを確認した。
丘の斜面は風を弱めているものの、完全に遮っているわけではない。ときおり草原から吹き込む風が馬車の側面へ当たり、青い風魚の布を小さく揺らしていた。
それでも、街道の真ん中にいるときよりは穏やかだった。
「ここなら、夜に風が強くなっても少しは助かるかもしれないね」
ルシルが言うと、シモンは慎重に頷いた。
「ええ。ただ、風向きが変わった場合には、必ずしも同じ効果があるとは限りません。馬車の向きも含めて考えた方がよいでしょう」
モモは丘の向こうへ目を向けた。
「でも、ここって街道からもそんなに離れてないよね。もし誰かが通ったら、すぐ分かりそう」
「そうですね。見通しがあることは利点です。ただし、街道に近すぎると通行の妨げになりますから、今の距離を保つのがよいでしょう」
シモンはそう答え、馬車の位置を改めて確認した。
三人はしばらく相談を続けた。
水場は近くに見当たらない。
しかし、昨日補給した水はまだ残っており、今夜と翌朝の必要量を考えても、現時点で直ちに不足する状況ではなかった。
食料についても、保存の利くものを中心に使えば問題はない。
馬たちの状態も安定しており、今日の移動距離を考えれば、ここで早めに休むことには十分な意味があった。
ルシルは二人の顔を見比べ、穏やかに口を開いた。
「僕は、ここで今夜休むのがいいと思う。無理して先へ進むより、明るいうちに準備を終えられるし、馬たちもゆっくり休ませられるから」
モモはすぐに頷いた。
「わたしも賛成! ここなら風も少し弱いし、草原の景色もよく見えるもん。夕方になったら、空の色が変わるところも見られそうだね」
シモンは二人の意見を聞き、少し考えてから答えた。
「私も、現時点ではここが妥当だと思います。もちろん、夜間の風や周囲の状況には注意が必要ですが、今から新しい場所を探すより、安全に準備を進められるでしょう」
三人の考えが一致したことで、ルシルは安心したように微笑んだ。
「じゃあ、決まりだね。今夜はここで休もう」
モモは嬉しそうに両手を合わせた。
「やった! 今日は早めに落ち着けるんだね。じゃあ、準備が終わったら、少しゆっくりできるかな」
「うん。もちろん。僕も、今日はのんびりしたいな」
ルシルが答えると、シモンも穏やかに頷いた。
「必要な準備を終えれば、時間には余裕ができるでしょう。まずは馬車と馬たちの安全を確保しましょう」
三人はそれぞれの役割を確認し、今夜の準備を始めた。
◇
馬車の位置を決めると、シモンは車輪の固定と周囲の安全確認を進めた。
ルシルはトルクとベルクの馬具を確かめ、二頭が無理なく休めるように整えていく。
モモは馬車の中を片づけ、夜に使うものを取り出しやすい場所へ移した。
旅を続けるうちに、こうした準備は三人にとって自然な流れになっていた。
最初の頃は、何をどこへ置くか相談するだけでも時間がかかっていたが、今では互いの動きを見ながら、必要なことを分担できるようになっている。
ルシルはトルクの首筋を撫でながら、穏やかに声をかけた。
「今日はここまでだよ。よく頑張ってくれたね。明日もよろしく」
トルクは気持ちよさそうに鼻を鳴らし、ルシルの手へ顔を寄せた。
ベルクも落ち着いた様子で立っており、脚や蹄に問題は見られない。
ルシルは二頭の様子を確かめ終えると、馬車の方へ戻った。
ちょうどモモが、窓辺の青い風魚の布を整えているところだった。
「モモ、何してるの?」
ルシルが尋ねると、モモは振り返って笑った。
「風が少し強くなっても大丈夫なように、布の位置を直してたんだ。せっかく青波で手に入れたものだし、傷んじゃったら嫌だから」
「そっか。ありがとう。僕も、この布が揺れてるのを見るのが好きなんだ」
ルシルは窓辺へ目を向けた。
青い風魚の布は、午後の光を受けて淡く輝いている。
潮凪村で手に入れた三つの貝殻の飾りは、今も馬車の中に大切にしまわれていた。旅先で出会ったものをすべて飾ることはできないが、こうして少しずつ思い出が増えていくのは、ルシルにとって嬉しいことだった。
「ねえ、ルシル君。いつか馬車の中が、旅の思い出でいっぱいになっちゃったらどうしようね」
モモが楽しそうに尋ねた。
ルシルは少し考えてから答えた。
「そのときは、何を残しておくか三人で相談しようか。全部を持っていくことはできないけど、旅帳面に描いておけば、形がなくても思い出せるものもあるだろうし」
「うん。そうだね。物を増やしすぎると、シモン君も困っちゃうもんね」
モモがそう言うと、後ろからシモンの声が聞こえた。
「私だけでなく、馬車全体の問題になりますね。収納できる量には限りがありますし、荷物が増えれば管理も難しくなりますから」
モモは振り返り、少し照れたように笑った。
「えへへ。ちゃんと分かってるよ。だから、最近は何か見つけても、すぐに持って帰ろうとは思わないようにしてるんだ」
「それはよい心がけです。旅の思い出は、必ずしも物として残す必要はありませんから」
シモンはそう答え、馬車の荷物を確認した。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、ふと微笑んだ。
モモの旅帳面には、すでにたくさんの景色や出来事が描かれている。
その一つ一つを見返せば、きっと旅先で交わした言葉や、出会った人々の表情まで思い出せるだろう。
(僕たちの旅って、物を集めるためのものじゃないんだよね。知らない場所へ行って、そこで何かを感じて、また次の場所へ進む。その積み重ねが、今の僕たちの暮らしなんだ)
ルシルはそんなことを考えながら、馬車の外へ目を向けた。
丘の向こうでは、午後の光が少しずつ柔らかくなり始めている。
まだ夕暮れには早いが、草原の色は昼間よりも落ち着いた緑へ変わっていた。
シモンは準備を一通り終えると、二人へ声をかけた。
「馬車の固定と周囲の確認は終わりました。今のところ、特に問題はありません。あとは夕食の準備と、夜間に備えた確認を進めればよいでしょう」
「ありがとう、シモン。じゃあ、少し休んでから夕食にしようか」
ルシルが提案すると、モモは嬉しそうに頷いた。
「賛成! 今日は早めに落ち着けたんだもん。せっかくだから、夕方の草原をゆっくり眺めたいな」
シモンは少し考え、穏やかに答えた。
「ええ。周囲の見通しもよいですし、馬車から離れすぎなければ問題ないでしょう。ただし、日が傾く前に必要な準備は済ませておきたいところです」
「分かったよ。じゃあ、少しだけ景色を見て、それから夕食の準備を手伝うね」
モモはそう答え、馬車の近くに腰を下ろした。
ルシルも隣へ座り、草原の向こうへ視線を向けた。
シモンは最後に馬たちの様子を確かめてから、二人の近くへ歩いてきた。
三人はしばらく、言葉を交わさずに景色を眺めた。
風は丘の斜面に遮られ、ここでは穏やかに感じられる。
遠くの草原では、まだ風が強く吹いているのか、草の波が大きく揺れていた。
モモはその様子を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ねえ、ルシル君。こうしてると、草原って本当に広いんだなって思うね。昨日も今日もずっと歩いてるのに、まだまだ先が見えないんだもん」
ルシルは頷いた。
「そうだね。でも、どこまで続いてるのか分からないからこそ、少しずつ進むのが楽しいのかもしれないな」
「うん。明日はどんな景色が見えるんだろうね」
「それは、明日になってからのお楽しみかな」
ルシルが微笑むと、モモも嬉しそうに笑った。
シモンは二人の会話を聞きながら、静かに草原へ目を向けた。
彼にとっても、こうして目的地を急がずに過ごす時間は、以前なら考えられなかったものだった。
しかし今は、その時間を無駄だとは思わない。
むしろ、三人が同じ景色を見て、同じ場所で休み、次の日へ向けて少しずつ準備を進めることこそ、この旅の大切な部分なのだと感じていた。
「明日も、天候と馬たちの状態を見ながら進みましょう。今日のように、無理のない場所で休めればよいですね」
シモンがそう言うと、ルシルは頷いた。
「うん。これからも、三人で相談して決めよう」
モモも笑顔で頷いた。
「もちろん! わたしたちの旅だもんね!」
その言葉に、三人は自然と笑い合った。
◇
夕方が近づくと、草原の光は少しずつ黄金色を帯び始めた。
丘の斜面には長い影が伸び、街道の向こうでは草の穂先が柔らかな光を受けて輝いている。空の高いところにはまだ青さが残っているが、地平線に近い雲は淡い橙色へ変わり始めていた。
三人は夕食の準備を進めながら、今夜の過ごし方を確認した。
火を使うかどうかについては、周囲の草の状態や風を考え、慎重に判断する必要があった。
ルシルは草地を見渡し、シモンへ尋ねた。
「今日は風が少しあるし、火を使わない食事にした方がいいかな」
シモンは頷いた。
「その方が安全でしょう。ここは草が広がっていますし、確実に火を扱える場所も確認できていません。保存の利く食料を使えば、十分に夕食を取れますから」
「うん。僕もそう思う。モモはどうかな?」
ルシルが尋ねると、モモは笑顔で答えた。
「もちろん賛成だよ! 温かいご飯も好きだけど、みんなが安心して食べられる方がいいもん。それに、今日はお昼も美味しかったし、夜も三人で食べられれば十分だよ」
ルシルはその言葉に微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、今日は簡単な夕食にしようか」
三人は食料の残りを確認し、必要な分だけ取り出した。
乾燥豆はまだ調理しておらず、十分な水と火を使える場所が必要になるため、今夜も使わないことにした。
モモは豆の入った袋を見て、少し残念そうに笑った。
「これ、いつかちゃんと料理して食べたいね。リーヴェルで買ったときから、どんな味になるのかなって楽しみにしてるんだ」
「うん。でも、急いで使わなくてもいいからね。水が十分にあって、安全に火を使える場所を見つけたら、三人で相談して料理しよう」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「乾燥豆は下準備が必要ですから、余裕のある場所で調理する方がよいでしょう。今夜は無理に使う必要はありません」
「分かった! じゃあ、そのときのお楽しみにしておくね」
モモは嬉しそうに笑い、袋を元の場所へ戻した。
三人は簡単な夕食を用意し、馬車の近くで食べ始めた。
昼間より少し涼しくなった風が頬を撫で、遠くの草原では鳥の声が小さく響いている。
ルシルはパンを一口食べ、夕暮れの空へ目を向けた。
「今日は、いろんなことがあったね。朝は車輪の跡がいっぱいある場所で休んで、お昼は木陰でご飯を食べて、親切な人にも会えたし」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! それに、今夜はこんなに景色のいい場所で休めるんだもん。今日はすごくいい一日だったね」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「大きな出来事があったわけではありませんが、必要な情報も得られましたし、安全に休む場所も確保できました。旅の一日としては、十分に充実していたと思います」
「ふふっ、シモン君らしいまとめ方だね」
モモが笑うと、シモンは少しだけ困ったように眼鏡を直した。
「事実を申し上げただけですが」
「うん。でも、そういうところも好きだよ」
モモは自然に答え、再びパンを口へ運んだ。
シモンは一瞬だけ言葉を失ったように見えたが、すぐに小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます」
ルシルはそのやり取りを見ながら、静かに笑った。
草原の夕暮れは、ゆっくりと進んでいく。
食事を終える頃には、空の橙色が少し濃くなり、丘の影も長く伸びていた。
三人は食事に使ったものを片づけ、馬たちの様子を改めて確認した。
トルクとベルクは落ち着いており、今夜の休息に問題はなさそうだった。
シモンは最後に周囲を見渡し、夜間に注意するべき場所を確認した。
「今のところ、風は大きく変わっていません。ただ、夜間に強くなる可能性もありますから、窓の布や荷物の固定はもう一度確認しておきましょう」
「うん。僕も手伝うよ」
ルシルは頷き、馬車の周囲を歩き始めた。
モモも一緒に確認を手伝い、三人は日が沈む前に必要な準備を終えた。
やがて、草原の向こうへ太陽がゆっくりと沈んでいった。
空には淡い紫色が広がり、遠くの丘の輪郭が少しずつ暗くなっていく。
モモは馬車の窓からその景色を眺め、静かに息をついた。
「きれいだね。今日は、夕焼けがすごく優しい色に見えるよ」
ルシルも隣へ立ち、同じ空を見上げた。
「うん。風も少し落ち着いてきたし、いい夜になりそうだね」
シモンは二人の少し後ろで、草原の様子を確認していた。
しかし、しばらくすると彼も視線を上げ、夕暮れの空を眺めた。
かつてなら、日が沈む前にすべきことを考えるだけで、空の色をゆっくり眺める余裕はなかったかもしれない。
今は必要な準備を終え、こうして二人と同じ景色を見ている。
(これも、旅を続ける中で得たものなのでしょう。急がずに過ごす時間が、これほど穏やかなものだとは思いませんでした)
シモンはその思いを胸に、静かに微笑んだ。
ルシルは二人へ顔を向けた。
「今日はここでゆっくり休もう。明日も、きっといろんな景色が待ってるよ」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! 明日も楽しみだね!」
シモンも穏やかに答えた。
「ええ。まずは今夜、十分に休みましょう」
三人は最後に夜の準備を確認し、馬車の中へ戻っていった。
丘の陰では、草原を渡る風が少し弱まり、遠くの街道を吹き抜ける音だけが静かに聞こえていた。
青い風魚の布が窓辺で小さく揺れ、馬車の中には三人の穏やかな声が響いている。
今夜の居場所は、自分たちで選んだ場所だった。
誰かに決められたわけでもなく、急いでたどり着かなければならない場所でもない。
道の状態を確かめ、馬たちのことを考え、三人で相談して決めた、小さな休息の場所。
ルシルは馬車の窓から最後に草原を眺め、満足そうに微笑んだ。
(こういう旅が、僕は好きなんだ。何か特別なことが起きなくても、三人で今日を過ごして、明日を楽しみにできる。それだけで、十分に幸せだよ)
夜の気配が草原へ静かに広がっていく。
丘の陰に停められた馬車は、風の音に包まれながら、穏やかな夜を迎えようとしていた。




