第124話 木陰で分け合う昼食と、草原の旅人が教えてくれた水の行方
街道から少し離れた木立の下には、草原を渡る風が運んできた涼しさが残っていた。
頭上では細長い葉が重なり合い、昼の日差しを受けて淡い緑色に透けている。枝の間からこぼれた光は地面に不規則な模様を描き、風が吹くたびに、その形をゆっくりと変えていた。遠くでは草の穂が波のように揺れ、時折聞こえる鳥の声が、街道から離れた小さな木陰に穏やかな時間を運んでくる。
ルシルは馬車の脇に立ち、トルクとベルクの様子を確かめていた。
二頭は午前中の移動を終え、落ち着いた様子で休んでいる。栗毛のトルクは近くの草へ鼻先を向けていたが、ルシルが首筋を撫でると、気持ちよさそうに耳を動かした。灰色のベルクはいつもどおり静かで、時折周囲へ目を向けながらも、呼吸に乱れは見られなかった。
「二頭とも、ここまでありがとう。お昼は少し長めに休もうね。午後も歩いてもらうことになるけど、無理はさせないから」
ルシルが穏やかに声をかけると、トルクは返事をするように小さく鼻を鳴らした。
その様子を馬車の後方から眺めていたモモが、思わず笑みを浮かべる。
「トルク君、ちゃんと分かってるみたいだね。ルシル君が休もうって言うと、いつも嬉しそうな顔をするんだもん」
「そうかな。でも、休憩のときは僕も嬉しいから、気持ちは分かるかもしれないね」
「ふふっ。じゃあ、ルシル君とトルク君は似た者同士なのかも。ベルク君は、どちらかというとシモン君に似てる気がするなあ」
モモが楽しそうに言うと、少し離れたところで地面を確認していたシモンが顔を上げた。
「私とベルクですか。どのような点が似ているのでしょう」
「落ち着いてるところかな。周りをちゃんと見てるし、あんまり慌てないし、それにトルク君が草を見つけて嬉しそうにしてても、ベルク君は自分の仕事を忘れないでしょ?」
モモはそう説明しながら、ベルクの方へ視線を向けた。
当のベルクは、自分が話題になっていることなど気にしていない様子で、ゆっくりと耳を動かしている。
シモンは少し考えてから、眼鏡の位置を直した。
「ベルクの落ち着きは確かに頼もしいものですが、私が同じように振る舞えているかどうかは分かりませんね。少なくとも、モモ嬢が予想外の行動を取られたときには、私も相応に慌てていると思います」
「ええっ、わたしってそんなに予想外のことしてる?」
「ご自身でお気づきではないのですか?」
シモンの返事に、モモは目を丸くした。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、笑いをこらえるように口元へ手を添えた。
「でも、最近のモモは、何か見つけてもすぐに飛び出したりしなくなったよね。今朝だって車輪の跡を見つけたとき、ちゃんと安全なところから観察してたし」
「そうだよ! わたしだって、ちゃんと考えてるんだから!」
モモは胸を張って答えたものの、シモンの視線に気づくと、少しだけ声を落とした。
「……前よりは、だけどね」
「ええ。その点については、私も成長を感じています」
シモンは真面目な表情のまま頷いた。
「ただ、興味を持つこと自体は悪いことではありません。何かを見つけたとき、その場でできることと、慎重に考えるべきことを区別していただければ、それで十分です」
その言葉に、モモは嬉しそうに微笑んだ。
「うん。これからも気をつけるね。せっかく三人で旅してるんだもん。わたしだけ楽しくても、ルシル君とシモン君が困っちゃったら嫌だから」
ルシルはトルクの首筋から手を離し、モモへ顔を向けた。
「僕はモモが楽しそうにしてるのを見るのも好きだよ。でも、何か面白いものを見つけたら、できれば三人で一緒に楽しみたいな」
「うん! それが一番だね!」
木立の下に、三人の穏やかな笑い声が広がった。
昼の日差しは朝より強くなっていたが、風が葉を揺らすたびに涼しい空気が流れてくる。街道の向こうには、遠くの丘をゆっくりと移動する雲の影が見えていた。
シモンは周囲を一度見渡し、休憩場所の状態を確認してから口を開いた。
「それでは、昼食の準備を始めましょう。木陰は十分にありますし、地面も乾いています。ただ、木の根元には凹凸がありますから、座る場所は少し離した方がよさそうです」
「分かった。僕は敷物を持ってくるね。モモは食事の準備をお願いできる?」
「もちろん! 今日は何を食べようかな。朝は簡単に済ませたし、お昼は少しゆっくり食べたいね」
三人はそれぞれの役割を確かめ、馬車へ戻って準備を始めた。
◇
木陰の下に敷物を広げると、そこは小さな食卓のような場所になった。
馬車を停めた平地から木立までは、少し歩けば届く程度の距離がある。二頭の馬は馬車の近くで安全に休ませ、三人はその様子を見渡せる位置に腰を下ろすことにした。
敷物の上には、持ってきたパンと保存の利く食料、それから水を入れた容器が並べられている。
調理のために火を起こす必要はなく、今あるものを分け合えば十分に昼食になる。草原の中で安全な火床を確保する手間も省けるため、シモンもその方法に賛成していた。
「こうして並べると、ちゃんとお昼ご飯って感じがするね。馬車の中で食べるのも好きだけど、外で食べるといつもより美味しそうに見えるなあ」
モモはパンを三人分に分けながら、嬉しそうに目を細めた。
ルシルはその隣で食料の包みを開き、残りの量を確かめている。
「そうだね。風が気持ちいいし、景色もいいからかな。でも、こういう場所だと食べ物を落とさないように気をつけないとね」
「大丈夫だよ。今日はちゃんと気をつけるもん」
モモはそう答え、パンを慎重に敷物の上へ置いた。
シモンは水の容器を手に取り、三人の分を用意しながら静かに頷いた。
「食事の量については、今のところ問題ありません。ただし、保存の利くものから無計画に使ってしまうと、補給できなかった場合に困ります。次の集落までの距離が分からない以上、残量は把握しておきましょう」
「うん。今日の夜と明日の朝の分も考えないといけないね」
ルシルは包みを閉じ、食料を整理した。
旅の途中で手に入れたものには、それぞれ違った思い出がある。
リーヴェルで買い足した食料も、途中の集落で分けてもらったものも、今では三人の旅を支える大切なものになっていた。特別な料理ではなくても、どこで手に入れ、誰と食べたかによって、食事の記憶は少しずつ変わっていく。
モモはパンを手に取りながら、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、昨日の集落でもらったお菓子、美味しかったね。もう全部食べちゃったけど、ああいうのをまた食べたいなあ」
「うん。甘くて、焼きたての香りがしてたね。三人とも出発前に食べちゃったから、残ってないのが少し惜しいくらいだよ」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。
「そうなの! でも、あのとき食べたから美味しかったのかもしれないね。朝の集落の空気とか、親切にしてくれた人のこととか、全部一緒に覚えてる気がするんだ」
シモンはパンを一口食べ、ゆっくりと飲み込んでから答えた。
「食事は味だけで記憶に残るものではありませんからね。どのような場所で、どのような気持ちで食べたかも、印象に影響するのでしょう」
「シモン君、今日もなんだか素敵なこと言うね」
「私は思ったことを申し上げただけですが」
シモンが少し困ったように答えると、モモは楽しそうに笑った。
ルシルもそのやり取りを眺めながら、パンを口へ運んだ。
乾いた草の香りと、木の葉が擦れ合う音が、昼食の時間に静かに寄り添っている。
王宮にいた頃の食事は、料理の種類も量も、今とは比べものにならないほど豊かだった。
しかし、決められた時間に決められた場所で食べることが多く、誰と何を話すかにも気を配る必要があった。料理が運ばれてくることも、食器が片づけられることも当然のように受け止めていたが、その一つ一つには誰かの仕事があったのだと、今になって実感することが増えている。
(あの頃の食事も、きっと美味しかったんだろうな。でも、何を食べたかより、誰が同じ席にいたかを気にしていた気がする。今はパンを分けるだけでも、こんなに楽しいのに)
ルシルは手元のパンを眺め、少しだけ目を細めた。
その変化を悲しいとは思わなかった。
むしろ、今まで気づかなかったことを知るたびに、自分の世界が少しずつ広がっていくように感じていた。
「ルシル君、どうしたの? パン、何かついてた?」
モモの声に、ルシルは顔を上げた。
彼女は自分のパンを持ったまま、少し心配そうにこちらを見ている。
「ううん。何でもないよ。ただ、こうして外で食べるのもいいなって思ってたんだ」
「えへへ、わたしも! でも、ルシル君がそんな顔してると、何か考えてるのかなって思っちゃう」
「そんなに分かりやすい顔してた?」
「うん。ちょっとだけ遠くを見てるみたいな顔だったよ」
モモはそう言ってから、慌てて付け加えた。
「でも、嫌なこと考えてたんじゃないならよかった。何かあったら、ちゃんと話してね」
その言葉に、ルシルは柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、モモ。大丈夫だよ。昔のことを少し思い出してただけだから」
シモンは二人の会話を聞きながら、静かに視線を落とした。
ルシルが何を思い出していたのか、詳しく尋ねるつもりはなかった。
王宮で過ごした日々を知る者として、彼が今の生活をどう感じているのか気になることはある。それでも、かつての立場に結びつけて考えすぎることが、必ずしもルシルの望みではないと、シモンは旅を続ける中で理解し始めていた。
(ルシル様は、ご自身で選んだ暮らしを大切にされている。私が守るべきなのは、以前の立場ではなく、今ここで過ごされている時間なのでしょう)
シモンはそう考えながら、手元の水を一口飲んだ。
冷たすぎない水が喉を通り、午前中の移動で乾いていた身体を静かに潤していく。
彼は容器を置くと、二人へ穏やかに声をかけた。
「午後の移動については、昼食を終えてから相談しましょう。今はせっかくの休憩ですから、落ち着いて食事を取ってください」
「うん。シモンもちゃんと休んでね」
ルシルがそう言うと、シモンはわずかに微笑んだ。
「承知しております。私も、休憩を取ることの大切さは理解しているつもりです」
「本当かなあ?」
モモが少しだけ疑うような顔をすると、シモンは眼鏡を直した。
「モモ嬢。なぜそこで疑問を持たれるのですか」
「だって、シモン君って休憩中でも、いつも次のこと考えてるんだもん。たまには何にも考えずに、ぼーっとしててもいいと思うよ」
シモンはすぐには答えず、木々の葉が揺れる様子へ視線を向けた。
確かに、彼は休憩の間も行程や食料、馬の状態について考えていることが多い。必要な仕事ではあるが、すべてを自分だけで背負う必要はないのだと、二人から何度も言われてきた。
「……そうですね。では、食事が終わるまでは、次の予定について考えるのを控えることにしましょう」
「ほんと?」
「ええ。ただし、周囲の安全確認までやめるわけにはいきませんが」
「それはもちろんだよ! でも、少しは休めるでしょ?」
モモは満足そうに笑った。
ルシルも頷き、三人は再び食事を楽しみ始めた。
◇
昼食を終えたあと、三人はすぐに出発することなく、木陰で少し身体を休めることにした。
馬車の近くではトルクとベルクが落ち着いており、周囲にも危険を感じさせる様子はない。街道を通る人影も今のところ見当たらず、草原には風と鳥の声だけが広がっていた。
モモは敷物の上に座り、膝を抱えながら木々の間を見上げていた。
「ねえ、ルシル君。こういう木って、誰かが植えたのかな。それとも、自然に生えてきたのかな?」
ルシルも隣へ腰を下ろし、枝の広がりを眺めた。
「どうだろう。何本かまとまってるけど、きれいに並んでるわけじゃないし、自然に育ったのかもしれないね」
「でも、街道の近くだから、旅人が休めるように植えたってこともあるのかな」
「それも考えられるね。ただ、誰かに聞かないと分からないかな」
ルシルがそう答えると、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん。じゃあ、旅帳面には『街道のそばにあった小さな木立』って書いておくね。ここでお昼を食べたことも忘れないようにしたいな」
モモは帳面を開き、木立の輪郭を描き始めた。
木の幹はそれぞれ少しずつ太さが違い、枝の伸び方にも個性がある。彼女はその違いを確かめながら、鉛筆をゆっくりと動かしていった。
ルシルは隣でその様子を眺め、ふと視線を遠くの街道へ移した。
道は草原の起伏に沿って南へ続いている。
先ほど休憩した平地も、今朝通り過ぎた分かれ道も、すでに見えなくなっていた。旅をしていると、目の前の景色が少しずつ変わっていくことに慣れてしまいそうになるが、一度通り過ぎた場所へ簡単に戻れるわけではない。
(だからこそ、今いる場所を大切にしたいんだろうな。急いで次の町へ向かうこともできるけど、こうして立ち止まる時間があるから、旅をしてるって感じられるのかもしれない)
ルシルは穏やかな気持ちで息をつき、草原を渡る風を頬に受けた。
そのとき、少し離れたところで地面を確認していたシモンが、街道の北側へ目を向けた。
遠くに、小さな影が見えたのだ。
最初は草原の起伏に紛れていたが、しばらく見ていると、その影がゆっくりとこちらへ近づいていることが分かった。
「ルシル様。街道の北側から、荷車が一台近づいているようです」
シモンの声に、ルシルも顔を上げた。
「本当だ。あれは南へ向かってるのかな」
「こちらへ近づいていますので、同じ方向へ進んでいる可能性が高いですね。ただ、まだ距離があります。荷車の種類や人数までは、はっきり分かりません」
モモも旅帳面から顔を上げ、街道の方へ視線を向けた。
「誰か来るんだね。もしかしたら、この先のことを知ってる人かもしれないよ」
「そうだね。でも、まずは向こうの様子を見てからにしよう。急いで話しかける必要はないし、休憩してるところを邪魔するのもよくないから」
ルシルが答えると、モモは素直に頷いた。
三人は木陰に座ったまま、近づいてくる荷車の様子を確かめた。
しばらくすると、その姿が少しずつはっきりしてきた。
荷車は二輪の小型のもので、馬が一頭、ゆっくりと引いている。荷台には布をかけた荷物が積まれ、御者台には年配の男性が一人座っていた。
男性は大きな帽子をかぶり、日に焼けた顔をしている。
荷車は急ぐ様子もなく、街道の状態を確かめながら進んでいた。
「一人みたいだね。荷物を運んでるのかな」
モモが小さく言うと、シモンは慎重に頷いた。
「そのように見えます。ただ、何を運んでいるのかまでは分かりません。こちらから無理に声をかける必要はありませんが、もし向こうが休憩されるようなら、道の情報を尋ねる機会になるかもしれませんね」
ルシルはその言葉に頷いた。
荷車が木立の近くへ差しかかると、御者台の男性がこちらの馬車に気づいた。
男性は少しだけ顔を上げ、三人の姿を確認すると、軽く手を上げた。
「おう、旅の人かい。こんなところで休んでるとは、いい場所を見つけたもんだな」
その声はよく通り、親しみやすい響きを持っていた。
ルシルは立ち上がり、相手へ向かって穏やかに頭を下げた。
「こんにちは。はい、ちょうどお昼の休憩を取っていたところなんです。木陰があったので、少し長めに休ませてもらっています」
「そりゃいい。今日は昼から日が強くなりそうだからな。馬も人も、休めるときに休んでおいた方がいい」
男性はそう言いながら、荷車の速度を落とした。
ただし、街道を塞ぐことのないよう、少し広くなった場所へ寄せて停まる。
ルシルはその様子を見て、相手が道の使い方に慣れていることを感じた。
「おじさんも、休憩ですか?」
モモが明るく尋ねると、男性は笑顔で頷いた。
「ああ、少しだけな。馬に水を飲ませて、俺も足を伸ばそうと思ってたところだ。ここは昔から、通りがかった連中がよく休む場所なんだよ」
「そうなんですか?」
ルシルが尋ねると、男性は荷車から降り、馬の様子を確かめながら答えた。
「少なくとも、俺がこの道を使い始めた頃にはもうあったな。誰が植えた木なのかは知らんが、草原の真ん中じゃありがたい場所さ」
モモは嬉しそうに旅帳面へ目を向けた。
「じゃあ、ここって本当に旅人の休憩場所なんですね!」
「そういうことだな。ただし、決まった管理人がいるわけじゃないから、使う人間が気をつけなきゃならん。火を使うなら場所を選ぶし、ゴミを残すのもよくない。まあ、あんたたちは大丈夫そうだが」
男性は三人の周囲を見渡し、穏やかに笑った。
ルシルはその言葉に頷いた。
「僕たちも、次に使う人が困らないようにしたいと思っています。教えてくださってありがとうございます」
「いい心がけだな。旅を続けるなら、そういうことは大事だぞ」
男性はそう答え、馬の世話を始めた。
三人は邪魔にならないよう少し距離を取りながら、相手が落ち着くのを待った。
その間、モモは荷車を引く馬の様子を興味深そうに眺めていた。
トルクやベルクより少し小柄な馬で、毛色は明るい茶色をしている。歩き方は落ち着いており、男性が手綱を緩めると、安心したように首を下げた。
「かわいい馬だね。トルク君たちより少し小さいけど、荷車を引くのに慣れてる感じがするよ」
モモがそう言うと、男性は嬉しそうに笑った。
「こいつとは長い付き合いでな。道の癖も、俺の癖も、だいたい分かってるんだろうよ。まあ、俺が思ってるだけかもしれんが」
男性は馬の首筋を撫で、穏やかな声で何かを話しかけた。
その様子を見て、ルシルは自然と微笑んだ。
「僕たちも、トルクとベルクにはいつも助けてもらっています。二頭がいなかったら、こんなふうに旅を続けることも難しいですから」
「そうだろうな。馬車の旅じゃ、馬は大事な仲間だ。荷物を運ぶ道具みたいに扱っちゃいかん」
男性はそう言って、ルシルの馬車へ目を向けた。
「それにしても、立派な馬車だな。旅暮らしをしてるのかい?」
「はい。三人で、いろいろな土地を巡っています。今は南へ向かっているところです」
ルシルは答えながら、必要以上に自分たちの事情を話さないよう気をつけた。
男性はそれ以上詳しく尋ねることなく、感心したように頷いた。
「そうかい。若いのに、いい旅をしてるんだな。俺なんかは荷物を運ぶ仕事ばかりで、景色を楽しむ余裕もないことが多いが、こうして休むと、たまには悪くないと思えるよ」
その言葉に、モモは嬉しそうに笑った。
「わたしたちも、毎日いろんなものを見つけてるんです。昨日は古い石柱を見つけたし、今朝は道のそばに木の杭があって、それから車輪の跡がいっぱい残ってる場所でも休んだんですよ」
「ほう。よく見てるんだな」
男性は感心したように目を細めた。
「石柱ってのは、道の右手に立ってた古いやつか?」
ルシルは少し驚き、男性へ顔を向けた。
「ご存じなんですか?」
「ああ、見たことはある。だが、何のための石かまでは知らん。昔の道標だって言う人もいるが、俺が聞いた話じゃ、はっきりしたことは分かってないらしい」
その返事に、モモは目を輝かせた。
「やっぱり、何かの目印だったかもしれないんですね!」
「かもしれん、という程度だな。あまり当てにしない方がいいぞ。今の道を知るなら、ちゃんと使われてる街道や、最近の案内を確かめた方がいい」
男性はそう言って笑った。
シモンは静かに頷き、話へ加わった。
「貴重なお話をありがとうございます。私たちも、石柱の用途については判断できずにいました。古いものほど、現在の道案内として使えるとは限りませんね」
「そのとおりだ。昔は通れた道が、今じゃ草に埋もれてることもある。特にこの辺りは、雨のあとに地面が変わる場所もあるからな」
男性の言葉に、シモンは関心を示した。
「差し支えなければ、少し道のことをお尋ねしてもよろしいでしょうか。私たちは南へ進む予定ですが、この先で確実に水を補給できる場所を探しています」
男性はすぐに答えず、少し考えるように顎へ手を添えた。
「水か。そりゃ大事だな。どのくらい先まで行くつもりなんだ?」
「今のところ、今日中に無理をして遠くまで進むつもりはありません。馬たちの状態と、休める場所を確認しながら移動する予定です」
シモンが答えると、男性は納得したように頷いた。
「それなら、急がない方がいいな。この先の道は、しばらく草原が続く。水場らしい場所もあるにはあるが、今も使えるかどうかは俺にも分からん」
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ表情を引き締めた。
「そうなんですね。昨日の集落で水を補給してきたので、今すぐ困るわけではないんですが、次の場所が分からないままだと少し心配で」
「そりゃそうだ。馬が二頭もいるなら、なおさらだな」
男性は自分の馬へ目を向け、それから街道の南側を指さした。
「この先に、道が少し低くなる場所がある。そこから東へ外れたところに、昔は水がたまる窪地があったんだが……最近どうなってるかは知らん。雨が少なけりゃ乾いてるかもしれんし、たまってても飲める水とは限らん」
シモンは慎重に頷いた。
「つまり、確実な補給地点として考えるべきではない、ということですね」
「ああ。俺なら、あそこを当てにして水を使い切ったりはしないな。道を外れて探し回るのも、馬車じゃ面倒だろうし」
「ありがとうございます。大変参考になります」
シモンは丁寧に礼を述べた。
モモは少し考え込んでから、男性へ尋ねた。
「じゃあ、おじさんはいつもどうしてるんですか? この道を通るとき、水が足りなくなったりしないんですか?」
男性はその質問に、少し笑みを深めた。
「俺は仕事で何度も通ってるからな。出発する前に必要な分を積んで、途中で補給できなくても困らないようにしてる。もちろん、荷物の重さとの兼ね合いもあるから、何でも好きなだけ持っていけるわけじゃないが」
「そっか。知ってる道でも、ちゃんと準備してるんですね」
「そういうことだ。慣れてる道だからって油断すると、かえって痛い目を見ることもあるからな」
男性はそう答え、馬の水を確かめた。
ルシルはその様子を見ながら、今朝から考えていたことを改めて整理した。
旅を始めてから、三人はさまざまな場所で親切にしてもらってきた。
しかし、いつでも誰かが助けてくれるとは限らない。人の少ない草原では、次の集落がどこにあるのか分からないこともあるし、古い道標や水場の情報が、現在も正しいとは限らない。
(自由に旅をするって、好きなところへ行けるだけじゃないんだよね。自分たちで考えて、必要な準備をして、無理をしないことも大切なんだ)
ルシルはそう考えながら、シモンへ目を向けた。
「シモン、午後は水場を探すことより、安全に休める場所を確保する方を優先しようか。もし確実な情報が得られたら考え直せばいいし、今ある水を大切に使いながら進もう」
シモンはその提案を聞き、穏やかに頷いた。
「私も賛成です。水場を探すために街道を大きく外れるのは、今の状況では得策ではありません。今日の移動距離を抑え、明日以降の行程も含めて判断しましょう」
モモも二人の顔を見比べ、真剣な表情で頷いた。
「うん。わたしも、無理して遠くまで行くより、みんなが元気に旅できる方がいいな」
男性は三人の会話を聞き、満足そうに笑った。
「いい仲間じゃないか。ちゃんと話し合って決められるなら、きっと大丈夫だろうよ。旅じゃ、誰か一人が無理をしても長続きしないからな」
ルシルはその言葉に、自然と笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。僕たちも、できるだけ三人で相談して決めるようにしています」
「それがいい。まあ、俺が偉そうに言えることでもないがな」
男性はそう言って笑い、帽子のつばを少し上げた。
木立の葉が風に揺れ、三人と男性の間を涼しい空気が通り抜けた。
◇
男性が休憩を終える頃には、太陽が少し西へ傾き始めていた。
木立の影も、昼食を取っていたときよりわずかに長く伸びている。
男性は荷車の状態を確かめ、馬具を整えながら三人へ声をかけた。
「さて、俺はそろそろ行くとするか。あんたたちも、無理せず進むんだぞ」
ルシルは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「はい。いろいろ教えてくださって、ありがとうございました。水場のことも、道のことも参考になりました」
「こちらこそ、話し相手になってもらって助かったよ。荷物を運んでると、一人で黙ってる時間が長いからな」
男性は笑いながら答えた。
モモも立ち上がり、明るい声で礼を述べた。
「ありがとうございました! おじさんも、気をつけて行ってくださいね。馬も元気でいてね!」
男性は嬉しそうに頷き、馬の首筋を軽く撫でた。
「おう。こいつにも伝えておくよ。あんたたちの馬も、よく世話してやるんだぞ」
「はい!」
モモは元気よく答えた。
シモンも一歩前へ出て、丁寧に頭を下げた。
「道中の安全をお祈りしております。どうぞお気をつけて」
「ありがとうよ。あんたたちもな」
男性はそう言い残し、御者台へ上がった。
馬がゆっくりと歩き始め、二輪の荷車が街道へ戻っていく。
三人はその姿が少し離れるまで見送った。
やがて荷車は草原の起伏に沿って進み、遠くの道へ小さくなっていった。
モモはその背中を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「いい人だったね。知らない旅人なのに、ちゃんと話を聞いてくれたし、いろんなことを教えてくれたよ」
ルシルは頷いた。
「うん。でも、分からないことは分からないって言ってくれたのもありがたかったね。水場があるかもしれないって話だけを信じて進んでたら、困ることになったかもしれないから」
「そうだね。何でも知ってる人じゃなくても、知ってることをちゃんと教えてくれるだけで助かるんだね」
モモはそう言いながら、旅帳面を開いた。
先ほどの男性と荷車を描こうとしているらしく、鉛筆を持ったまま少し考えている。
「ねえ、シモン君。さっきの人のこと、どんなふうに書いたらいいかな。名前は聞かなかったけど、すごく親切だったよね」
シモンは少し考え、穏やかに答えた。
「名前が分からなくても、覚えていることを書けばよいのではありませんか。小さな荷車を引いていたことや、水場について教えてくださったことなど、実際に見聞きした内容を残せば十分でしょう」
「そっか。じゃあ、『木陰で会った荷車のおじさん』って書こうかな」
モモは嬉しそうに頷き、帳面へ文字を書き始めた。
ルシルはその様子を眺めながら、ふと笑みを浮かべた。
「モモの旅帳面には、名前を知らない人もたくさん出てくるね」
「うん。でも、名前を知らなくても、会ったことはちゃんと覚えていたいんだ。昨日のお菓子をくれた人も、今日のおじさんも、みんなわたしたちの旅に少しずつ関わってくれたんだもん」
その言葉に、ルシルは静かに頷いた。
旅を続けていると、名前を知る前に別れてしまう人もいる。
もう二度と会わないかもしれない人もいる。
それでも、交わした言葉や受け取った親切が消えるわけではない。
モモは帳面へ小さな荷車の絵を描き加え、満足そうに頷いた。
「よし。これで忘れないね」
シモンはその様子を見守りながら、手元の記録を開いた。
そこには、今日の移動で確認した道の状態や、休憩場所についての情報が整理されている。
彼は先ほど聞いた水場の話を、確実な補給地点ではないことが分かるように書き加えた。
東へ外れた窪地に水がたまることがある。
ただし、現在の状態は不明であり、飲用に適している保証もない。
その情報を記したあと、シモンは筆記具を置いた。
(情報が得られたことと、問題が解決したことは別です。今の私たちに必要なのは、確実な水の確保と、安全に夜を迎えられる場所の判断でしょう)
彼はそう考え、ルシルへ顔を向けた。
「ルシル様。午後の行程について、改めて相談してもよろしいでしょうか」
「もちろん。僕も、そろそろ出発の準備を考えてたところだよ」
三人は木陰の下に集まり、これからの予定を確認することにした。
◇
午後の移動について、三人の考えは大きく違っていなかった。
まず、今日のうちに無理をして遠くまで進まないこと。
次に、確実ではない水場を探すために街道を大きく外れないこと。
そして、日が傾きすぎる前に、馬車を安全に停められる場所を見つけること。
シモンはそれらを順番に確認しながら、現在の状況を説明した。
「今のところ、食料と水は予定していた範囲で使えています。ただ、次の確実な補給地点が分からない以上、今日の移動を長くしすぎるべきではありません」
ルシルは頷き、街道の南側へ目を向けた。
「そうだね。もし夕方までにいい場所が見つからなかったら、戻ることも考えないといけないかな」
「その可能性もあります。ただし、戻る場合も距離と時間を考える必要があります。今いる木立は休憩には適していますが、夜を過ごす場所として十分かどうかは、まだ確認していませんから」
シモンはそう答え、周囲の地面を見渡した。
木立の下には日陰があり、昼食を取るには快適だった。
しかし、馬車を停めている場所は木から少し離れており、夜間の風向きや地面の状態についても、十分に調べたわけではない。近くに水場もないため、長く留まる場合には別の問題が生じる可能性もあった。
モモは二人の話を聞きながら、少し考え込んだ。
「じゃあ、ここが気持ちいい場所だからって、夜も安心して過ごせるとは限らないんだね」
「そのとおりです。昼間と夜では、周囲の状況も変わります。特に草原では、風が強くなることもありますから」
シモンの説明に、モモは真剣な表情で頷いた。
「分かった。じゃあ、午後もちゃんと周りを見ながら進もうね。もし危なそうだったら、無理しないで相談しよう」
ルシルは微笑み、モモへ頷き返した。
「うん。三人で決めよう。僕たちは急いでどこかへ行かなきゃいけないわけじゃないんだから」
その言葉に、シモンも穏やかな表情を浮かべた。
「ええ。時間に余裕があることは、今の私たちの大きな利点です。だからこそ、焦らず判断することができます」
三人は予定を確認し終えると、出発の準備を始めた。
敷物を片づけ、食事に使ったものを馬車へ戻し、荷物の固定を確かめる。
モモは旅帳面をいつもの場所へ収めると、木立の下をもう一度見渡した。
昼食を取った場所には、もう何も残っていない。
風に揺れる草と、木々の影だけが、最初に来たときと同じように広がっている。
「ここも、また誰かが休むんだろうね」
モモがそう呟くと、ルシルは隣へ歩み寄った。
「そうだね。さっきのおじさんも、昔から使われてる場所だって言ってたし、これからも旅人が立ち寄るんだろうな」
「じゃあ、わたしたちも、その中の一組なんだね」
「うん。きっとそうだよ」
ルシルは微笑み、木立の向こうへ続く街道を見つめた。
誰かが植えたのか、自然に育ったのかも分からない木々。
けれど、その下で休んだ人たちがいて、今もこうして旅人を迎えている。
場所の名前を知らなくても、そこに積み重なった時間を感じられることがあるのだと、ルシルは思った。
シモンは二頭の馬の状態を確認し、問題がないことを確かめた。
「ルシル様。トルクとベルクも十分に休めたようです。出発しても問題ないでしょう」
「ありがとう、シモン。じゃあ、そろそろ行こうか」
ルシルは御者台へ上がり、手綱を整えた。
モモは馬車へ乗り込む前に、木立へ向かって小さく手を振った。
「ありがとう、木陰さん。また誰かが来たら、ゆっくり休ませてあげてね」
その言葉に、ルシルは思わず笑みを浮かべた。
「モモらしい挨拶だね」
「だって、すごく助かったんだもん。ちゃんとお礼を言いたかったの」
モモは少し照れたように笑い、馬車へ乗り込んだ。
シモンも最後に周囲を確認し、忘れ物がないことを確かめてから乗り込んだ。
三人の準備が整うと、ルシルはトルクとベルクへ穏やかに声をかけた。
「よし、二頭とも。午後もよろしくね」
トルクが小さく鼻を鳴らし、ベルクが静かに歩き始めた。
馬車はゆっくりと動き出し、木立の手前の平地から街道へ戻っていく。
車輪が乾いた土を踏む音が、再び草原へ響き始めた。
ルシルは御者台から前方を見渡し、南へ続く道を確かめた。
午後の草原は、午前中よりも少し暖かい光に包まれている。
遠くには緩やかな丘が重なり、その向こうに何があるのかはまだ分からない。
それでも、三人は今の自分たちに必要なことを話し合い、無理のない速さで進むことを選んでいた。
モモは窓から顔を覗かせ、遠ざかっていく木立へもう一度目を向けた。
「ねえ、ルシル君。今日も、いい出会いがあったね」
ルシルは微笑み、前方の道から目を離さずに答えた。
「うん。知らない人と少し話しただけでも、旅のことをいろいろ考えられるんだね」
「わたし、次に誰かと会ったら、その人がどんな旅をしてるのかも聞いてみたいな。でも、嫌がってたら無理には聞かないよ」
「それがいいね。話したいことを話してもらえたら、それだけで十分だと思うよ」
モモは嬉しそうに頷き、馬車の中へ戻った。
シモンは窓から街道の先を確認し、落ち着いた声で言った。
「ルシル様。しばらくは見通しのよい道が続くようですが、丘の向こうはまだ分かりません。速度を上げすぎず、地面の状態を確認しながら進みましょう」
「分かった。午後もゆっくり行こう」
ルシルはそう答え、手綱を握る指の力を少し緩めた。
トルクとベルクは落ち着いた足取りで進み、馬車の車輪が一定の音を刻み続ける。
木立は少しずつ遠ざかり、やがて草原の緑の中に小さくなっていった。
今日の午後、どこまで進めるのかはまだ分からない。
確実な水場も、今夜休む場所も、これから探さなければならない。
けれど、三人はそのことを必要以上に恐れてはいなかった。
分からないことを認め、知っていることを確かめ、困ったときには相談する。
そんな当たり前の積み重ねが、今の旅を支えている。
ルシルは南へ続く街道を見つめながら、穏やかな笑みを浮かべた。
(今日も、ちゃんと三人で進めてる。それだけで十分だよね。次に何が見つかるかは分からないけど、急がずに行こう)
午後の風が草原を渡り、馬車の窓辺に吊るされた青い風魚の布を小さく揺らした。
その揺れを眺めながら、モモは旅帳面へ今日の出来事を一行だけ書き加えた。
『木陰でお昼ご飯。親切な荷車のおじさんに、道と水の話を聞いた。まだ分からないこともあるけれど、三人で相談して進むことにした。』
書き終えたモモは、満足そうに帳面を閉じた。
シモンはその様子を横目に見ながら、静かに微笑んだ。
南へ続く街道の先には、まだ知らない景色が広がっている。
三人と二頭の馬を乗せた馬車は、午後の柔らかな光の中を、変わらない速さで進んでいった。




