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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第123話 草原の道に残された車輪の跡と、旅人たちが見つけた午後の休息



 南へ続く街道を、二頭の馬がゆっくりと進んでいた。


 朝の涼しさがまだ少し残る草原には、太陽の光が柔らかく降り注いでいる。風に揺れる草の穂先が銀色に輝き、遠くの丘では、白い雲の影がゆっくりと形を変えながら移動していた。道の両側には背の低い草が広がり、ときおり黄色や薄紫色の小さな花が、緑の中に控えめな彩りを添えている。


 御者台に座るルシルは、手綱を握る指の力を緩めながら、トルクとベルクの歩調を確かめていた。


 二頭とも朝から落ち着いた足取りを保っている。栗毛のトルクは、ときおり道端の草へ興味を示して耳を動かしていたが、隣を歩く灰色のベルクはいつもどおり前方へ意識を向け、一定の速さで馬車を引いていた。


「今日もいい天気だね。昨日は風が少し強かったけど、今朝はずいぶん穏やかだな」


 ルシルが独り言のように呟くと、馬車の窓からモモが顔を覗かせた。


「うん! でも、さっきより少し暖かくなってきた気がするよ。朝は外に出たら寒かったのに、今は風が気持ちいいくらいだもん」


 モモは窓枠に手を添え、草原の向こうへ視線を向けた。


 桃金色の長い髪が風に揺れ、白い外套の肩口が小さくはためいている。彼女の膝の上には、いつもの旅帳面が開かれていた。


「ねえ、ルシル君。さっき見つけた木の杭、もう一回描き直してみたんだけど、どうかな?」


 モモが差し出した帳面には、少し前に通り過ぎた分かれ道の様子が描かれていた。


 南へ続く広い街道と、右手の丘へ向かって伸びる細い道。その入口には、斜めに傾いた古い木の杭が立っている。杭の表面に入ったひびや、根元に生えていた短い草まで描き込まれており、実際に見た景色が思い出せる絵になっていた。


「よく描けてるね。さっきより道の幅の違いが分かりやすくなった気がするよ」


「えへへ。シモン君が、道の幅も描いておくと後から見返したときに分かりやすいって教えてくれたんだ」


 モモは嬉しそうに笑い、帳面を少し傾けた。


「それからね、昨日見つけた石柱の絵も隣に描いてみたの。こうして並べると、同じ道の目印みたいなものでも、ずいぶん違うんだね」


 ルシルは二つの絵を見比べた。


 草原の古い石柱には、長い年月を経た重みのようなものがあった。表面は摩耗し、刻まれていたものを読み取ることも難しかったが、それでも道のそばに残り続けている。一方、今朝見つけた木の杭は、今にも倒れそうなほど傾いており、近くの細い作業道とともに、今も誰かが使っている場所の一部に見えた。


「石と木じゃ、残り方も違うんだろうね。でも、どちらも誰かが必要だと思って置いたものなのかもしれないな」


 ルシルがそう言うと、馬車の中で記録を整理していたシモンが顔を上げた。


「可能性はあります。ただ、石柱の方は道標だったかどうかも確定していませんし、木の杭も、現在の道を示すために立てられたものとは限りません。どちらも、分かっていることと推測を分けておいた方がよいでしょう」


「そうだね。見たものは確かでも、その意味まで分かったわけじゃないから」


 ルシルは頷き、前方の道へ注意を戻した。


 モモも素直に頷くと、帳面の余白へ小さな文字を書き加えた。


「じゃあ、『何のために立てられたかは、まだ分からない』って書いておこうかな。いつか詳しい人に会ったら、聞いてみたいもんね」


「それがよいと思います。後で分かったことを追記すれば、旅帳面がより正確な記録になりますから」


 シモンの返事に、モモは満足そうに微笑んだ。


 彼女はしばらく鉛筆を動かしたあと、帳面を閉じて膝の上に置いた。


 馬車の窓辺では、青波で手に入れた青い風魚の布が、吹き込む風に合わせて小さく揺れている。旅を始めた頃には、馬車の中に置かれたもの一つ一つが新鮮だったが、今ではその布も、棚に収めた道具も、三人の暮らしに自然と馴染んでいた。


 モモは布の揺れを眺めながら、ふと口を開いた。


「なんだか不思議だね。前は、旅って知らない場所へ行くことだと思ってたけど、今は同じ馬車に戻ってくるのも楽しみなんだ。外では毎日違う景色が見られるのに、ここにはいつものものがあるんだもん」


 ルシルはその言葉に微笑んだ。


「分かる気がするよ。どこへ行っても、僕たちの馬車は一緒だからね。知らない場所でも、戻ってきたら少し安心するんだ」


「ええ。生活の場所を持ちながら移動できるのは、この馬車の大きな利点ですね」


 シモンはそう答え、棚の留め具へ一度目を向けた。


「もっとも、生活の場所だからこそ、荷物の固定や車体の点検は欠かせません。移動している間は、普段の家とは違う負担がかかりますから」


「ふふっ、そこはやっぱりシモン君らしいね」


 モモが笑うと、シモンは眼鏡の位置を直した。


「必要なことですから。ただ……馬車へ戻ると落ち着くというお気持ちは、私にも理解できます」


 最後の言葉は、普段より少し穏やかな響きを持っていた。


 ルシルは振り返り、シモンへ笑顔を向けた。


「そう言ってもらえると嬉しいな。シモンも、この馬車を自分の居場所だと思ってくれてるんだね」


「はい。少なくとも、今の私にとっては、そう呼んでも差し支えない場所になっています」


 シモンは落ち着いて答えたが、その表情にはわずかな照れが浮かんでいた。


 モモは何か言いかけたものの、すぐに言葉を飲み込み、嬉しそうに窓の外へ視線を戻した。


 三人の間には、しばらく心地よい沈黙が流れた。


 車輪の音と馬の蹄が地面を踏む音が、草原の静けさの中に規則正しく響いている。


 やがて街道は緩やかな下り坂となり、左右の丘が少しずつ低くなってきた。


 ルシルは道の先を見渡しながら、日差しの強さが朝より増していることに気づいた。


(そろそろ一度休んだ方がいいかな。トルクもベルクも元気そうだけど、元気なうちに休ませておく方がいいよね)


 そう考えていると、ちょうどシモンから声がかかった。


「ルシル様。そろそろ午前の休憩を取る頃合いかと思います。馬たちの足取りに問題はありませんが、日差しが強くなる前に一度休ませておきたいところです」


「僕も同じことを考えてたよ。どこか安全に停められる場所を探そうか」


 ルシルは頷き、街道の左右へ視線を巡らせた。


 草原にはところどころ踏み固められた場所が見えるものの、馬車を停めるには道幅が足りなかったり、地面が傾いていたりする場所も多い。


 昨日教えてもらった休み場のように、すぐに使える場所が見つかるとは限らない。


「道の端が少し広くなっているところもあるけど、あそこは地面が斜めになってるね」


 ルシルが前方を指すと、シモンも窓から確認した。


「ええ。あの場所では車体が傾く可能性があります。急ぐ必要はありませんから、もう少し先まで進みましょう」


「うん。無理に停めるより、その方が安心だね」


 ルシルはトルクとベルクへ穏やかに声をかけ、馬車の速度を少し落とした。


 モモは窓から道の両側を眺め、休めそうな場所がないか探し始めた。


「こういうときって、広い場所を見つけるのも大事なんだね。草原だから、どこでも停められるのかと思ってたけど、そうじゃないんだなあ」


「草が生えていると、地面の凹凸が見えにくいこともあります。特に車輪を通す場所は慎重に選ぶ必要がありますね」


 シモンの説明に、モモは真剣な表情で頷いた。


「じゃあ、遠くから見て平らそうでも、ちゃんと近くで確かめないといけないんだね」


「そのとおりです。見つけることと、安全に使えることは別ですから」


 その言葉を聞きながら、ルシルは街道の先に目を向けた。


 すると、少し離れた左手に、周囲より草の短い平地が見えてきた。


 街道からその場所へ向かう地面には、何本もの車輪の跡が残っている。大きな木や建物は見当たらないものの、荷車が向きを変えられそうな広さがあり、何度も人が利用してきた場所のようだった。


「シモン、あそこはどうかな。車輪の跡がたくさんあるし、荷車が停まったことのある場所みたいだよ」


 ルシルが指さすと、シモンは慎重に目を細めた。


「確かに、利用されている場所のようですね。ただ、車輪の跡が残っているからといって、現在も安全に通れるとは限りません。入口の状態を確認してから入りましょう」


「分かった。じゃあ、街道の広いところで一度停めるね」


 ルシルは後方からほかの馬車が来ていないことを確認し、見通しのよい位置で馬車を停めた。


 シモンが先に降り、平地へ続く地面を歩いて確かめる。


 街道と平地の間には、雨水が流れた跡と思われる浅い溝があった。溝そのものは深くないが、一部には小石が集まり、車輪が通れば余計な揺れを生じさせそうだった。


 シモンは溝の端を確かめたあと、少し離れた場所へ移動した。


 そこは地面が比較的なめらかで、車輪の跡も途切れずに続いている。


「ルシル様。こちらから入れば、溝を避けられそうです。地面も十分に固く、今のところ大きな問題は見当たりません」


「ありがとう、シモン。ゆっくり進むよ」


 ルシルはシモンの示した経路を確認し、トルクとベルクへ歩き出すよう合図した。


 二頭は落ち着いて馬車を引き、街道から平地へ入っていく。


 車輪が小さな凹凸を越えるたびに車体がわずかに揺れたが、ルシルは急がず、シモンの合図を見ながら進んだ。


 十分な広さのある場所まで移動すると、ルシルは馬車を停めた。


「よし。ここなら道を塞がずに休めそうだね」


 御者台から降りたルシルは、まず車輪の位置を確かめた。


 地面はおおむね平らで、車体が大きく傾いている様子もない。シモンも周囲を確認し、休憩場所として問題ないことを確かめた。


「ええ。街道からも十分に離れていますし、ほかの荷車が通る際の妨げにもならないでしょう。ただ、日陰はありませんから、長く休みすぎない方がよさそうです」


「そうだね。まずはトルクとベルクを休ませて、僕たちも少し身体を伸ばそうか」


 ルシルが言うと、モモは嬉しそうに馬車から降りてきた。


「やった! ずっと座ってたから、少し歩きたかったんだ。……あっ、でも、先にトルク君たちのお世話だよね」


 彼女は自分で言い直し、二頭の方へ視線を向けた。


 シモンはその様子を見て、穏やかに頷いた。


「はい。馬たちの状態を確認してから、私たちも休みましょう」


 三人はいつものように役割を分け、休憩の準備を始めた。


     ◇


 馬車を停めた平地には、思っていた以上に多くの車輪の跡が残っていた。


 新しいものと古いものが重なり合い、乾いた土の上にいくつもの曲線を描いている。幅の広い跡もあれば、細い車輪が通ったらしい跡もあり、同じ場所をさまざまな荷車が利用してきたことがうかがえた。


 モモは二頭の世話が一段落すると、足元の地面へ興味深そうに目を向けた。


「ねえ、ルシル君。ここ、車輪の跡がいっぱいあるよ。しかも、全部同じ幅じゃないんだね」


 ルシルも隣へ歩み寄り、地面を眺めた。


「本当だ。こっちは僕たちの馬車より幅が狭そうだし、あっちの跡は少し広いね。荷車の大きさが違うのかな」


「そうかもしれませんね」


 シモンは馬具の確認を終え、二人の近くへやってきた。


「ただし、車輪の幅だけで荷車全体の大きさが分かるわけではありません。荷物の重さや車輪の形によっても、地面に残る跡は変わります」


「へえ。じゃあ、こっちの深い跡は、重い荷物を積んでたのかな?」


 モモが指さした場所には、ほかより少し深く刻まれた車輪の跡があった。


 シモンはその跡を見て、少し考えてから答えた。


「可能性はあります。ただ、地面が柔らかかったときについた跡かもしれません。雨のあとに通った荷車なら、同じ重さでも深い跡が残ることがありますから」


「なるほど。見ただけじゃ分からないことも多いんだね」


 モモは感心したように頷いた。


 ルシルは地面に残る曲線を追いながら、平地の奥へ視線を向けた。


 そこには、車輪が大きく弧を描いた跡が残っている。


「これは、荷車が向きを変えた跡なのかな。街道から入ってきて、ここで回ったようにも見えるね」


「そう考えるのが自然かもしれません。ただ、すべての跡が同じ日にできたものではないでしょう。どの跡がどの車のものなのか、今となっては判断が難しいですね」


 シモンの説明を聞きながら、モモは少し離れた位置へ移動した。


 そこから平地全体を眺めると、車輪の跡が一つの模様のように広がって見える。


「なんだか、誰かが地面に大きな絵を描いたみたいだね。でも、これって絵を描こうとしてできたわけじゃなくて、みんながここを通ったから残ったんだよね」


 モモはそう言いながら、旅帳面を取り出した。


「わたし、これも描いておきたいな。道のそばにあるものだけじゃなくて、道を使った人たちの跡も、旅の思い出になると思うんだ」


 ルシルは笑顔で頷いた。


「いいね。僕たちもここを通ったんだし、あとで見返したら今日のことを思い出せそうだよ」


 モモは嬉しそうに帳面を開いたが、すぐに鉛筆を動かすのではなく、少し考え込んだ。


「でも、どこから描けばいいんだろう。跡がいっぱいありすぎて、全部描こうとするとごちゃごちゃになっちゃいそう」


 ルシルは隣から地面を見渡した。


「一番目立つ曲がった跡を中心にして、ほかの跡は少しだけ描いてみたらどうかな。全部を同じように描かなくても、ここがどんな場所だったかは伝わると思うよ」


「そっか! じゃあ、まずは大きな曲線を描いてみようかな」


 モモは地面から少し離れた安全な場所に立ち、帳面へ鉛筆を走らせ始めた。


 その間、ルシルとシモンは馬たちの様子を改めて確認した。


 トルクは休憩に入ったことが分かっているのか、落ち着いた様子で立っている。ベルクも呼吸に乱れはなく、耳をゆっくりと動かしながら周囲の音を聞いていた。


「二頭とも元気そうだね。朝からよく歩いてくれてるよ」


 ルシルがトルクの首筋を撫でると、栗毛の馬は気持ちよさそうに目を細めた。


 シモンは脚と蹄を確認し、問題がないことを確かめた。


「ええ。今のところ、無理をさせている様子はありません。ただ、これから日差しが強くなりますから、午後の移動では休憩の間隔にも気を配りましょう」


「うん。次の水場もまだ分からないし、余裕を持って進みたいね」


 ルシルは頷き、持っている水の量を確認した。


 昨日の集落で補給した水は、今朝の食事や馬たちの世話に使ったあとも、必要な量が残っている。しかし、次に確実な補給ができる場所はまだ分からない。


 朝にすれ違った荷車の男性も、この先の道沿いに確実に使える井戸があるとは言っていなかった。


「水は今のところ大丈夫そうだけど、無駄にはできないね」


「はい。飲む量を無理に減らす必要はありませんが、使い方には注意が必要です。特に馬たちの分を考えると、次の補給地点について早めに情報を得たいところです」


 シモンはそう言って、手元の記録へ目を落とした。


 ルシルは少し考え、南へ続く街道を見つめた。


「次に人と会えたら、水場のことを聞いてみよう。もし今日中に確かな場所が見つからなかったら、今夜の休み方も慎重に考えないとね」


「ええ。その判断ができるよう、午後も周囲の状況を確認しながら進みましょう」


 二人が話していると、モモが帳面を抱えて戻ってきた。


「ルシル君、シモン君、ちょっと見て! こんな感じに描いてみたんだけど、どうかな?」


 開かれたページには、乾いた土の上に重なった車輪の跡が描かれていた。


 大きく曲がった跡を中心に、細い線や浅い溝が添えられている。すべてを正確に写したものではなかったが、何台もの荷車が行き来した場所だということは十分に伝わってきた。


「うん、いいね。これなら、ここで見た景色を思い出せそうだよ」


 ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。


 シモンも絵を覗き込み、穏やかに頷いた。


「特徴がよく捉えられていますね。もし記録として残すのであれば、街道から平地へ入るところに浅い溝があったことも書いておくとよいでしょう」


「なるほど! それって、わたしたちが馬車を入れるときに気をつけたところだよね」


「はい。景色だけでなく、実際に利用したときの注意点も残しておけば、後から見返した際に役立つかもしれません」


 モモは納得したように頷き、帳面の余白へ短い言葉を書き加えた。


 その様子を見ながら、ルシルはふと微笑んだ。


「モモの旅帳面、だんだんいろんなことが書かれるようになってきたね。最初は見つけたものの絵が多かったけど、最近はその場所で何をしたかも残してるんだ」


 モモは少し照れたように笑った。


「そうかな? でも、せっかく三人で旅してるんだもん。景色だけじゃなくて、そのときに何を話したかとか、何を考えたかも覚えておきたいんだ」


 彼女は帳面を胸元へ抱え、少しだけ遠くを見るような表情になった。


「あとね、後で見返したときに、ルシル君とシモン君にも『ああ、こんなことあったね』って言ってほしいなって思ってるの」


 その言葉に、ルシルは柔らかく微笑んだ。


「きっとそうなるよ。僕はもう、モモの帳面を見るたびにいろんなことを思い出してるからね」


「本当?」


「うん。青波のことも、潮凪村のことも、リーヴェルで過ごした時間も。モモが描いてくれたものを見ると、景色だけじゃなくて、そのときの声まで思い出せる気がするんだ」


 モモは目を輝かせ、嬉しそうに頷いた。


「そっかあ。それなら、これからもいっぱい描きたいな。でも、描くことばっかりに夢中にならないようにもしたいんだ。昨日の夕方、ただ景色を見てる時間もすごく好きだったから」


 シモンは二人の会話を聞きながら、静かに微笑んだ。


「それでよいのではありませんか。すべてを記録しようとする必要はありません。残しておきたいものを選ぶことも、旅帳面をつける楽しみの一つでしょう」


 モモはその言葉を聞き、少し考えてから頷いた。


「うん。じゃあ、描きたいときに描いて、眺めたいときは眺めることにするね」


 三人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。


 草原を渡る風が少し強くなり、近くの草を一斉に揺らした。


 車輪の跡の上を小さな影が流れ、乾いた土の表面で細かな砂が動いている。


 ルシルはその様子を眺めながら、ここを通った見知らぬ旅人たちのことを思った。


(僕たちが来る前にも、たくさんの人がここを使ったんだろうな。どこから来て、どこへ向かったのかは分からないけど、みんなそれぞれの旅をしていたんだね)


 その人たちが何を話し、何を考えていたのかは分からない。


 けれど、地面に残された跡は、確かに誰かがここを通ったことを示している。


 ルシルは自分たちの馬車へ目を向けた。


 四輪の車体は、少し離れたところで静かに停まっている。トルクとベルクが休み、モモが旅帳面を抱え、シモンが周囲の安全を確かめている。


 いつか自分たちがこの場所を離れたあとにも、しばらくは車輪の跡が残るのかもしれない。


 そう考えると、見知らぬ旅人たちとの間に、不思議なつながりが生まれたような気がした。


     ◇


 休憩を終える頃には、太陽が少し高くなっていた。


 朝の涼しさは薄れ、草原を吹き抜ける風にも暖かさが混じり始めている。日差しを遮るものが少ない場所だけに、長く留まれば馬たちにも負担がかかりそうだった。


 ルシルは空を見上げ、雲の動きを確かめた。


「そろそろ出発しようか。ここは広くて休みやすいけど、日陰がないからね」


 モモは帳面を閉じ、頷いた。


「うん。お昼は、もう少し涼しいところで食べられたら嬉しいな」


 シモンは周囲を確認しながら、落ち着いた声で答えた。


「この先に適した場所があれば、そこで昼食にしましょう。ただし、日陰を探すために無理な道へ入る必要はありません。安全に停められる場所を優先することが大切です」


「分かってるよ、シモン君。木陰があったら嬉しいなって思っただけだもん」


 モモは笑いながら答え、敷物を片づけるルシルを手伝った。


 三人は休憩に使ったものを馬車へ戻し、周囲にゴミや忘れ物が残っていないことを確認した。


 モモは最後にもう一度、車輪の跡が重なる地面を眺めた。


「ここも、また誰かが使うんだろうね」


 ルシルは隣へ立ち、同じ場所へ視線を向けた。


「そうだね。僕たちが知らない誰かが、ここで馬を休ませたり、荷物を確かめたりするのかもしれないな」


「その人が、わたしたちの車輪の跡を見つけることもあるのかな?」


「あるかもしれないね。でも、きっと誰の跡なのかは分からないだろうな」


 ルシルがそう言うと、モモは少し考えてから微笑んだ。


「それでもいいかも。誰のものか分からなくても、ここを通った人がいたんだって思えるの、なんだか好きだな」


 シモンは二人の会話を聞き、静かに頷いた。


「旅人が利用する場所というのは、そうして受け継がれていくものなのでしょう。誰かが整え、誰かが使い、また次の人が使えるようにしておく。私たちも、その一部になっているのかもしれませんね」


 ルシルはその言葉に微笑んだ。


「うん。だからこそ、次の人が困らないようにしておきたいね」


 三人は最後に平地の状態を確認し、馬車へ乗り込んだ。


 ルシルは御者台で手綱を整え、トルクとベルクへ声をかけた。


「よし、二頭とも。もう少し先まで行こうか」


 トルクが小さく鼻を鳴らし、ベルクも落ち着いて歩き始めた。


 馬車は慎重に平地を離れ、先ほど確認した経路を通って街道へ戻った。


 後方には、また新しい車輪の跡が二本、乾いた土の上に残されていた。


 ルシルは一度だけ振り返り、それから南へ続く道へ視線を戻した。


 草原の旅は、まだまだ続いている。


     ◇


 午前の終わりが近づくにつれ、草原の景色には少しずつ変化が現れ始めた。


 道の両側に広がる草は相変わらず背が低いものの、遠くには小さな木立が見えるようになっていた。大きな森というほどではなく、数本の木がまとまって生えているだけの場所だったが、遮るものの少ない草原では、それだけでも目立つ存在だった。


 ルシルは前方の木立へ目を向けた。


「シモン、あの木のところなら、少し日陰があるかもしれないね。お昼の休憩に使えるかな」


 シモンは窓から前方を確認した。


「可能性はあります。ただ、まだ距離がありますし、木の周囲が馬車を停められる場所かどうかも分かりません。近づいてから判断しましょう」


「うん。無理にあそこへ行く必要はないけど、ちょうどいい場所だったら嬉しいな」


 モモも窓から木立を眺め、楽しそうに笑った。


「木陰でお昼ご飯って、なんだかいいね! 草原の真ん中で食べるのも好きだけど、木の下で休むのも気持ちよさそう」


 ルシルはその言葉に微笑み、トルクとベルクの歩調を確かめながら進んだ。


 しばらくすると、木立の輪郭が少しずつはっきりしてきた。


 木々の下には短い草が広がり、街道から少し離れたところに平らな地面が見える。近くには大きな石もなく、少なくとも遠目には休憩できそうな場所だった。


 ただし、道と木立の間には細かな凹凸があり、車輪が通れるかどうかは確認が必要だった。


 ルシルは馬車の速度を落とし、シモンへ声をかけた。


「ここで一度停めて、地面を見てみようか。木陰まで入れなくても、近くで休めるかもしれないし」


「そうですね。馬たちの負担も考え、無理に木の下まで進ませる必要はありません」


 三人は安全な位置で馬車を停め、周囲の確認を始めた。


 シモンが地面を確かめている間、モモは木立の方へ目を向けていた。


 木々の葉は風に揺れ、その下にはまだ朝の涼しさが少し残っているように見える。草原の真ん中にある小さな木陰は、旅人にとって思っていた以上にありがたい存在なのかもしれなかった。


「ルシル君、あそこ、気持ちよさそうだね」


 モモが小さく言うと、ルシルは頷いた。


「うん。でも、まずは安全に休めるか確かめよう。もし大丈夫だったら、そこでお昼にしようか」


 モモは嬉しそうに笑い、シモンの確認が終わるのを待った。


 やがてシモンが戻り、二人へ声をかけた。


「木立のすぐ下までは地面に凹凸がありますが、その手前なら馬車を停められそうです。木陰までは少し歩くことになりますが、休憩場所としては悪くありません」


「それなら、ここにしよう!」


 ルシルは笑顔で答え、トルクとベルクを慎重に進ませた。


 馬車は木立の手前にある平らな場所へ移動し、ゆっくりと停車した。


 昼の光が草原を照らす中、三人は新しい休憩場所を見つけることができた。


 モモは馬車から降りると、木々の下へ広がる影を眺め、満足そうに息をついた。


「今日は、朝からいろんなものを見つけたね。古い木の杭も、車輪の跡も、この木陰も。道を進んでるだけなのに、毎日違う景色があるんだなあ」


 ルシルはその言葉に頷き、馬車の窓で揺れる青い風魚の布へ一度だけ目を向けた。


「そうだね。急がずに進んでいるから、見つけられるものもあるんだと思う。今日のお昼は、ここでゆっくり食べようか」


 シモンは二人の様子を見ながら、静かに微笑んだ。


「ええ。午後の行程を考えるのは、まず十分に休んでからにしましょう。馬たちにも、少し長めの休憩を取らせたいところです」


 三人は頷き合い、昼食の準備を始めた。


 木立を抜ける風が、葉の間で穏やかな音を立てている。


 南へ続く街道は、その先にもまだ長く伸びていた。


 次にどんな場所へたどり着くのかは分からないが、今は目の前に見つけた小さな木陰で、仲間たちと過ごす時間を楽しめばいい。


 ルシルはそんなことを思いながら、トルクとベルクの様子を確かめ、昼食の準備を進めるモモとシモンのもとへ歩いていった。


 草原の旅は、今日も穏やかに続いていた。

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