第122話 草原の朝に響く車輪の音と、旅人たちが分け合う小さな知恵
草原の夜が明ける少し前、ルシルは馬車の屋根を撫でる風の音で目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、低い土手の向こうに広がる空には、夜の名残が深い青色となって残っている。馬車の中には仲間たちの静かな寝息が聞こえ、収納棚の扉も、昨夜きちんと固定したおかげで揺れることなく収まっていた。ルシルはすぐに起き上がらず、毛布の中から窓へ目を向け、昨日の夕方とは違う風の流れに耳を澄ませた。
昨夜、三人が休むことに決めたのは、南へ続く街道の右手にある小さな平地だった。
低い土手の手前に広がるその場所は、以前から旅人が荷車を停めるために使ってきたらしい。道端の古い石囲いを手入れしていた男性から教わり、地面の固さや水の流れる溝の位置を確認したうえで選んだ場所である。周囲には大きな木も建物もなく、夜は風が抜けやすかったが、馬車を安定して停められることと、トルクとベルクを安全に休ませられることが何より大切だった。
ルシルは毛布を少しだけ持ち上げ、足元に置いていた靴へ手を伸ばした。
(もう朝になるんだね。昨日はあんなにいろいろなものを見つけたのに、眠ってしまえばあっという間だな。今日はどんな道が続いているんだろう)
そんなことを考えながら身体を起こすと、向かい側で休んでいたシモンも目を開けた。
「おはようございます、ルシル様。外の様子をご確認になるおつもりですか」
寝起きとは思えない落ち着いた声だったが、眼鏡をかける前の表情には、普段よりわずかに柔らかな雰囲気があった。
「おはよう、シモン。風の音が少し変わった気がしたから、トルクとベルクの様子を見てこようと思ってね。まだ暗いけど、もうすぐ明るくなりそうだよ」
「でしたら、私も参ります。夜の間に地面の状態が変わっていないか、あわせて確認しておきましょう」
シモンは静かに身支度を整え、モモを起こさないように馬車の扉へ向かった。
モモは毛布を肩まで引き上げ、穏やかな寝息を立てている。桃金色の長い髪が枕の上に広がり、昨夜まで抱えていた旅帳面は、手の届く棚にきちんとしまわれていた。夕暮れの草原を描いているうちに眠くなったらしく、最後に見せてもらった絵には、低い土手と馬車、それから三人の小さな姿が描かれていた。
ルシルはその寝顔を見て微笑み、シモンとともに外へ出た。
朝の空気は思っていたよりも冷たかった。
草の葉先には細かな露がつき、足元を照らすわずかな光を受けて、淡く輝いている。西から吹いていた昨夕の風とは違い、今朝は北寄りから穏やかな風が流れていた。低い土手の上では草が同じ方向へなびき、ときおり葉の擦れ合う音が聞こえてくる。
トルクとベルクは、昨夜整えた場所で落ち着いていた。
ルシルが近づくと、栗毛のトルクが真っ先に顔を上げ、待ちかねていたように鼻を鳴らした。一方のベルクは、灰色の首をゆっくりと動かし、二人の姿を確かめてから静かに耳を向けた。
「おはよう、トルク、ベルク。よく眠れたかい?」
ルシルはまずベルクの様子を確認し、それからトルクの首筋へ手を伸ばした。
二頭とも呼吸は落ち着いており、足元にも不自然な乱れはない。夜間に大きく動き回った形跡も見当たらず、馬具を外して休ませたこともあって、身体に目立つ擦れや負担は生じていないようだった。
「問題はなさそうですね。念のため、朝食の前にもう一度脚と蹄を確認しましょう。昨日は小石の多い道も通りましたから」
シモンはそう言いながら、馬車の車輪へ目を向けた。
四輪の位置は昨夜と変わらず、車体も安定している。地面が大きく沈んだ様子はなかったが、後輪の近くには風で運ばれてきたらしい乾いた草が少し集まっていた。
ルシルはその草を眺め、昨夜聞いた風の音を思い出した。
「夜中に少し風が強くなったのかな。馬車の中では大きく揺れなかったけど、外には草が集まっているね」
「そうかもしれません。ただ、草原では弱い風でも軽いものが移動します。これだけで強風が吹いたとは判断できませんが、出発前に車輪の周囲を片づけておく方がよいでしょう」
「うん。朝ご飯のあとで忘れずにやろう」
ルシルは頷き、東の空へ視線を向けた。
丘の稜線が少しずつ明るくなり、濃い青色だった空の端に淡い白が混じり始めている。まだ太陽の姿は見えないものの、草原の輪郭は次第にはっきりしてきた。
その静かな景色を眺めていると、馬車の扉がゆっくり開く音がした。
「……あれ? ルシル君もシモン君も、もう起きてたの?」
眠そうな声とともに顔を覗かせたのは、白い外套を肩に掛けたモモだった。
桃金色の髪には少し寝癖がついており、いつもよりゆっくりした動きで外へ出てくる。冷たい空気に触れると、彼女は思わず肩をすくめた。
「わっ、思ったより寒い! 昨日の夕方はあんなに気持ちよかったのに、朝になると全然違うんだね」
「おはよう、モモ。まだ太陽が出ていないからね。無理に外にいなくてもいいんだよ」
ルシルが声をかけると、モモは首を横に振った。
「ううん、もう起きちゃったし、せっかくだから朝の草原も見たいな。それに、トルク君とベルク君にもおはようって言いたいし!」
彼女は二頭の方へ歩きかけたものの、足元の露に気づいて歩幅を小さくした。
濡れた草の上を急いで歩けば滑るかもしれないと考えたらしい。トルクの近くまで来ると、モモはいつもの明るい笑顔で声をかけた。
「おはよう、トルク君、ベルク君! 今日もよろしくね。朝ご飯はもう少し待っててね」
トルクはその言葉に応えるように鼻を鳴らし、モモの手元を確かめるように首を伸ばした。
「ふふっ、まだ何も持ってないよ。トルク君って、本当に食べることが好きなんだね」
モモが笑うと、シモンは穏やかに口を開いた。
「食欲があるのは悪いことではありませんが、それだけで体調がよいと判断するわけにもいきません。今朝もいつもどおり確認してから食事を与えましょう」
「はーい。ちゃんと待ってるね」
モモは素直に頷き、少し離れたところで二頭を見守った。
三人で馬たちの状態を確かめ、必要な世話を済ませる頃には、東の空がすっかり明るくなっていた。
朝日が丘の向こうから顔を出すと、草原には細長い影が伸び、露をまとった草が一斉に輝き始める。昨夕の金色とは違う、澄んだ光に満たされた景色だった。
モモはしばらく言葉を失い、目の前の光景を眺めていた。
「……すごいね。昨日の夕方もきれいだったけど、朝は草が光ってるみたい」
ルシルも同じ方向を見つめ、静かに頷いた。
「うん。日が当たるところから少しずつ明るくなっていくんだね。こういう景色を見られるのも、外で夜を過ごしたからこそなのかな」
王宮にいた頃も、朝日を見る機会がなかったわけではない。
けれど、窓の向こうに整えられた庭園を眺めることと、見知らぬ草原で夜を越し、自分たちが休んだ場所に朝が訪れるのを感じることは、まったく違っていた。
(同じ太陽なのに、見る場所が変わるだけでこんなに違うんだね。昨日ここを教えてもらえなかったら、この景色にも出会えなかったんだ)
ルシルは胸の奥に広がる穏やかな感情を味わいながら、しばらくその場に立っていた。
やがてシモンが朝食の準備について声をかけ、三人は馬車へ戻った。
今朝も火を使うことは避け、手持ちのパンと保存食を中心に食事を整える。昨日の集落で補給した水は十分に残っているものの、次の確実な水場がどこにあるのか分からない以上、使い方には気を配る必要があった。
モモはパンを手に取りながら、少しだけ考え込むように首を傾げた。
「ねえ、シモン君。昨日のおじさんは、この休み場に水があると思っちゃいけないって言ってたよね。昔は雨水が溜まることもあったって話だったけど、どうして今は当てにできないんだろう」
シモンは手元の食事を置き、窓の外にある低い土手へ視線を向けた。
「理由はいくつか考えられます。地面の形が変わって水が溜まりにくくなったのかもしれませんし、雨の降り方によって水量が安定しないだけかもしれません。ただ、実際に調べたわけではありませんから、どれが正しいかは分かりません」
「そっか。水があるかもしれないっていうのと、いつでも使えるっていうのは違うんだね」
「ええ。それに、雨水が溜まっていたとしても、そのまま飲めるとは限りません。人にも馬にも安全な水かどうか、確認が必要です」
ルシルは二人の会話を聞きながら、昨日立ち寄った石囲いを思い出した。
道沿いには、長い時間をかけて人が手を入れてきたものがある。一方で、自然の変化によって使えなくなったものや、以前とは違う役割になった場所もあるのだろう。
「旅の途中で見つけたものを、昔からずっと同じ状態だと思わない方がいいんだね。古い道標も、石囲いも、この休み場も、今の使われ方をちゃんと見ないと分からないことがあるんだな」
ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! だから、知ってる人に聞くのって大事なんだね。わたし、昨日のおじさんに会えてよかったな」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかな表情でパンを口に運んだ。
以前の彼なら、こうした話題も旅の安全に関する知識として整理するだけだったかもしれない。けれど今は、ルシルとモモが目の前の景色から何かを学び、それを楽しそうに語り合う時間そのものにも価値を感じていた。
朝食を終えると、三人は出発の準備を始めた。
ルシルは馬車の周囲に落ちている枝や小石を確認し、車輪の進路に入りそうなものだけを安全な位置へ移した。モモは食事に使ったものを片づけ、ゴミや包み紙が残っていないか確かめる。シモンは馬具と車輪を点検し、収納棚の扉や荷物の固定を順番に確認していった。
その途中で、ルシルは昨夜から気になっていた古い灰の跡へ目を向けた。
平地の奥には、誰かが以前火を使ったらしい石の並びが残っている。今朝もそこに熱や煙はなく、周囲の草へ燃え広がった形跡も見られなかった。
モモはルシルの視線に気づき、そちらへ歩み寄った。
「ルシル君、昨日の火の跡を見てるの?」
「うん。僕たちは使わなかったけど、ここで休んだ人の中には火を使った人もいたんだろうなって思ってね。ただ、今は草が乾いているし、昨日のおじさんが注意してくれた理由も分かる気がするよ」
モモは石の周囲に広がる草原を眺め、少しだけ真剣な表情になった。
「そうだね。わたし、温かいご飯は大好きだけど、そのために草原を危なくするのは嫌だな。次に安全に料理できる場所を見つけたら、そのときに楽しめばいいもんね」
「ええ。無理をしなくても、旅の楽しみはなくなりませんから」
後ろから聞こえたシモンの声に、二人は振り返った。
シモンは馬具の確認を終えたところらしく、手にしていた道具を収納へ戻している。
「それから、ルシル様。出発前に一つ確認しておきたいことがあります」
「何かな?」
「昨日の男性は、この先の道について、休み場までの説明はしてくださいましたが、その先の状況までは詳しく話していません。今日は南へ進む方針でよろしいでしょうか。それとも、道の分岐が見つかった場合には、立ち止まって確認することを優先なさいますか」
ルシルは少し考えた。
南へ向かう旅を続けるという大まかな方針は変わっていない。しかし、昨日見つけた古い石柱のように、途中には意味の分からない道の跡や目印が残っていることもある。
興味のままに進めば、知らない場所へ入り込む可能性もあった。
「基本は南へ続く街道を進もうと思う。でも、分かれ道があったら、その場で確認したいな。僕たちは急いでいるわけじゃないけど、だからといって、道を確かめずに進むのは違うと思うから」
シモンは満足そうに頷いた。
「承知しました。それでしたら、道の状態と周囲の目印を確認しながら進みましょう。人に会う機会があれば、次の水場についても尋ねておきたいところです」
「うん。水はまだあるけど、次にどこで補給できるか分かっていた方が安心だよね」
モモも会話へ加わり、明るい声で言った。
「じゃあ、今日は道と水場を気にしながら進む日だね! それに、面白いものがあったら旅帳面にも描きたいな」
「もちろん。ただし、描くために危ない場所へ入るのはなしだよ」
ルシルが笑いながら付け加えると、モモは少しだけ頬を膨らませた。
「もう、ルシル君までシモン君みたいなこと言うんだから。でも、分かってるよ。ちゃんと安全なところから見るもん」
シモンは眼鏡を直し、穏やかに微笑んだ。
「私としては、ルシル様がそのようにお考えくださることを喜ばしく思います」
「シモン君、それって二人でわたしを見張るってことじゃないよね?」
「必要なときには、お声がけすることになるでしょうね」
真面目な返事にモモが笑い、ルシルもつられて声を上げた。
出発前の慌ただしさの中にも、三人らしい穏やかな空気が流れていた。
荷物の確認を終え、トルクとベルクに馬具を装着すると、ルシルは二頭の様子を改めて確かめた。
トルクは朝食を終えて満足したのか、落ち着いた表情で待っている。ベルクもいつもどおり静かに立っており、歩き始める準備は整っていた。
ルシルは御者台へ上がる前に、もう一度休み場を振り返った。
昨夜、三人が馬車を停めた平地には、荷物もゴミも残っていない。車輪の跡は多少残っていたが、地面を大きく傷めるようなことはしておらず、周囲の草もほとんど変わらない姿で揺れていた。
「よし。これなら、次に来る人も使えるかな」
ルシルが呟くと、モモも隣で平地を見渡した。
「うん。昨日のおじさんが教えてくれた場所、大切に使えたと思うよ。もしまたここを通ることがあったら、きっと思い出すね」
シモンは二人の後ろから周囲を確認し、静かに頷いた。
「それでは、出発しましょう。朝のうちは比較的涼しいですし、馬たちにも歩きやすい時間帯です」
三人は馬車へ乗り込み、ルシルが手綱を整えた。
「トルク、ベルク。今日もよろしくね」
二頭が歩き始めると、四輪の馬車はゆっくりと平地を離れ、南へ続く街道へ戻った。
朝日を受けた草原が左右へ広がり、昨夜の休み場は少しずつ遠ざかっていく。
低い土手が丘の陰に隠れるまで、モモは何度か後ろを振り返っていた。
◇
朝の街道は、昨日の午後とは違う表情を見せていた。
日差しはまだ強くなく、草原を渡る風には涼しさが残っている。道の左右には背の低い草が続き、ときおり小さな黄色い花が群れて咲いていた。遠くの丘では鳥が飛び立ち、空へ向かって緩やかな弧を描いている。
ルシルは馬車を急がせず、トルクとベルクの歩調に合わせて進んだ。
昨夜十分に休んだおかげか、二頭の足取りは安定している。街道にも大きな障害物は見当たらず、車輪は規則正しい音を響かせていた。
モモは窓辺に座り、旅帳面へ朝の草原を描いている。
ただし、今日は最初から描くことに夢中になるのではなく、ときどき手を止めて景色を眺めていた。昨日の夕暮れに、絵を描かずに景色を見ている時間も好きだと話したことが、彼女の中に残っているようだった。
「ねえ、ルシル君。朝の草原って、思ってたよりいろんな音がするんだね。昨日の夕方は風の音がよく聞こえたけど、今は鳥の声がいっぱいするよ」
モモは鉛筆を置き、窓の外へ耳を澄ませた。
近くの草むらからは小さな鳴き声が聞こえ、少し離れた丘の方からは、別の鳥らしい澄んだ声が響いている。姿が見えるものもいれば、声だけが聞こえてくるものもいた。
「本当だね。朝になると活動を始める鳥が多いのかな。あの丘の上にも何羽か飛んでいるよ」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに身を乗り出しかけた。
しかし、すぐに窓枠へ手を添え、身体を外へ出さない位置で空を見上げる。
「ほんとだ! あの鳥、翼が長いね。風に乗ってるみたいで、あんまり羽ばたいてないよ」
シモンも窓から空へ目を向けた。
「上昇する空気の流れを利用しているのかもしれませんね。種類までは分かりませんが、あのような飛び方をする鳥は珍しくありません」
「へえ。じゃあ、鳥も風を上手に使ってるんだね」
モモは感心したように頷き、旅帳面へ翼を広げた鳥の姿を描き加えた。
ルシルはその様子を微笑ましく感じながら、前方の道へ注意を戻した。
やがて街道は緩やかな上り坂になり、右手に広がる丘の斜面が少し近づいてきた。
道の端には平たい石が点在しているが、車輪の通る部分は比較的なめらかに踏み固められている。ルシルは二頭の負担が大きくならないよう速度を落とし、坂の上へ向かって進んだ。
その途中で、前方からかすかな音が聞こえてきた。
最初は風が草を揺らす音に混じっていたが、少しずつ近づくにつれて、木がきしむような音と、車輪が地面を転がる音だと分かってきた。
「シモン、前から荷車が来るのかな。車輪の音が聞こえる気がするよ」
ルシルが声をかけると、シモンはすぐに前方へ視線を向けた。
「そのようですね。坂の向こうから来ているのでしょう。見通しがよくなるまでは、街道の端へ寄りすぎず、速度を落として進みましょう」
「うん。向こうもこちらに気づいてくれるといいね」
ルシルは手綱を調整し、トルクとベルクにゆっくり進むよう合図した。
坂の頂上が近づくと、向こう側から小さな荷車が姿を現した。
荷車を引いているのは一頭の茶色い馬で、御者台には年配の男性が座っている。荷台には布で覆われた木箱がいくつか積まれ、縄でしっかりと固定されていた。
男性はルシルたちの馬車に気づくと、手綱を引いて速度を落とした。
道幅は二台の馬車が余裕をもってすれ違えるほど広くはない。特に坂の頂上付近は左右の草が高く、路肩の地面の状態も分かりにくかった。
ルシルは無理に進まず、比較的広い場所で馬車を停めた。
向こうの男性も同じように荷車を停め、こちらへ声をかけてきた。
「おはようさん。南へ行くのかい?」
「おはようございます。はい、南へ向かっています。道が狭そうなので、こちらで待っていますね」
ルシルが答えると、男性は安心したように頷いた。
「助かるよ。こっちの荷車は荷物が多くてね。坂の途中で無理にすれ違うより、広いところで通った方が安全だからな」
男性は荷車を少しずつ進ませ、道幅のある場所へ向かった。
ルシルはトルクとベルクを落ち着かせながら、相手が通り過ぎるのを待った。
茶色い馬は荷物の重さに合わせてゆっくり歩き、荷車の車輪が小石を踏むたびに、かすかな音を立てている。荷台の木箱はしっかり固定されていたが、道の凹凸に合わせてわずかに揺れていた。
やがて男性の荷車が横を通り過ぎると、ルシルは軽く頭を下げた。
「お気をつけて」
「ありがとうよ。そっちもいい旅をな」
男性はそう言って進みかけたが、ふと思い出したように手綱を緩めた。
「そうだ、あんたたち。この先の道を知ってるかい?」
ルシルは首を横に振った。
「いえ。昨日はこの北側にある休み場で夜を過ごしました。今日は南へ進むつもりですが、この先の詳しい道はまだ分からないんです」
男性はそれを聞き、少し考え込むように顎へ手を当てた。
「だったら、一つだけ言っておこうか。もう少し先に、道が二つに分かれて見えるところがある。大きな道はそのまま南へ続いてるんだが、右へ伸びる細い道もあってね。そっちは昔から使われてる作業道だから、旅の馬車なら大きな道を進んだ方がいい」
ルシルは興味を引かれたように目を向けた。
「作業道なんですね。どこかの集落へつながっているのでしょうか?」
「いや、俺も全部を知ってるわけじゃない。近くの丘へ行く人が使ってるのは見たことがあるが、その先がどうなってるかまでは分からないんだ。少なくとも、大きな荷車で入る道じゃないと思うよ」
シモンは男性の言葉を聞き、静かに頷いた。
「教えていただき、ありがとうございます。分かれ道では道幅と車輪の跡を確認し、無理に細い道へ入らないようにいたします」
「それがいい。あと、右の道の入口には古い木の杭が立ってるはずだ。倒れかけてるかもしれないが、目印にはなると思う」
モモはその話を聞き、旅帳面を抱え直した。
「古い木の杭……。昨日は石の目印を見つけたけど、今日は木の目印があるんだね」
男性はモモの言葉に笑った。
「この辺りじゃ、道の目印なんてそんなもんさ。立派な標識があるところばかりじゃないからね。知らない道へ入るときは、よく確かめた方がいい」
ルシルは丁寧に礼を言った。
「ありがとうございます。僕たちも気をつけて進みます。ところで、この先に水を補給できる場所があるか、ご存じでしょうか?」
男性は少しだけ眉を寄せた。
「水場かい。俺が通ってきた道の近くには、確実に使える井戸は見なかったな。もっと南へ行けば人の住んでるところもあるだろうが、そこまでの距離は俺には何とも言えない。今のうちに持ってる水を大事に使った方がいいよ」
「分かりました。ありがとうございます」
ルシルが頭を下げると、男性は手を振った。
「それじゃあな。馬たちも元気そうだし、無理せず行きなよ」
荷車は再び動き始め、北へ向かってゆっくりと坂を下っていった。
三人はその姿が十分に離れるまで待ち、改めて南へ進む準備を整えた。
モモは荷車が見えなくなる前に、窓から小さく手を振った。
「いい人だったね。道のことを教えてくれて助かったな」
「そうだね。僕たちが知らない道を進んでいることを気にかけてくれたんだろうね」
ルシルが答えると、シモンは穏やかに頷いた。
「ええ。ただし、あの方も細い道の行き先まではご存じないとのことでした。教えていただいた情報を参考にしつつ、実際の分岐では自分たちでも確認しましょう」
「うん。昨日の石柱もそうだったけど、道の目印があるからって、意味まで分かるとは限らないもんね」
ルシルはそう言って手綱を整え、トルクとベルクを再び歩かせた。
坂を上りきると、南側の景色が大きく開けた。
草原は緩やかに下り、その先には背の低い丘がいくつも続いている。遠くには細い木立が見えたが、家や集落の姿はまだ確認できなかった。
ルシルは道の先を見渡し、先ほど教えてもらった分かれ道がどこにあるのかを探した。
しかし、ここから見える街道は一本のままで、右へ伸びる道はまだ見当たらない。
「分かれ道はもう少し先みたいだね。とりあえず、道の状態を見ながら進もうか」
ルシルが言うと、モモは旅帳面へ小さな木の杭の絵を描き始めた。
「うん! もし見つけたら、どんな形なのかちゃんと見ておきたいな。昨日の石柱と何か違うところがあるかもしれないし」
シモンはその言葉に微笑みながらも、静かに注意を添えた。
「見ることは構いませんが、古い木の杭なら傷んでいる可能性があります。触れたり動かしたりせず、まずは安全な位置から確認しましょう」
「分かってるよ、シモン君。わたし、昨日だって石囲いに触らなかったでしょ?」
「ええ。その点は、きちんと理解していただけていると思っています」
モモは少し得意そうに胸を張り、ルシルはその様子を見て笑った。
朝の草原に、三人の穏やかな声が響いた。
◇
それからしばらく進むと、街道の右側に小さな変化が現れた。
草の間に踏み固められた細い道が伸び、その入口には、地面から斜めに突き出した木の杭が立っている。
杭は長い年月を経て色が褪せ、上部にはひびが入っていた。表面に何かを刻んだ跡があるようにも見えたが、遠くからでは文字なのか模様なのか分からない。
ルシルは馬車の速度を落とし、街道の広い場所で停車した。
「たぶん、あれがさっき教えてもらった分かれ道だね。右の道は、思っていたより細いな」
シモンは窓から右手の道を確認した。
「ええ。車輪の跡も浅く、道幅も狭いですね。少なくとも、私たちの馬車で進むには適していないように見えます」
モモは杭を眺めながら、少しだけ首を傾げた。
「木の杭、ずいぶん古そうだね。誰かが立てたんだろうけど、どうして斜めになってるんだろう」
「長い間に地面が緩んだのかもしれないし、何かがぶつかったのかもしれないね。でも、今はまだ分からないな」
ルシルはそう答え、杭の周囲へ視線を向けた。
木の根元には短い草が生え、地面には小石がいくつか転がっている。杭の傾きは大きいものの、完全に倒れているわけではなく、道の入口を示す目印としてはまだ役立っているようだった。
モモは旅帳面を開き、杭の形を丁寧に描き始めた。
その間、ルシルとシモンは街道の先を確認した。
南へ続く大きな道は、分岐の先でも比較的広く、車輪の跡がはっきりと残っている。右へ伸びる細い道は、丘の斜面に沿って曲がり、少し先で草の陰に隠れていた。
「やっぱり、僕たちは大きな道を進むのがよさそうだね」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「はい。目的地を決めずに旅をしているとはいえ、安全に通れる道を選ぶことは重要です。細い道の先に何があるか分からない以上、無理に進む理由はありません」
モモは描き終えた杭の絵を二人へ見せた。
「見て見て! こんな感じかな。ちょっと斜めになってるところも描いてみたんだ」
ルシルは絵を覗き込み、笑顔になった。
「うん、よく似てるよ。杭のひびまで描いてあるんだね」
「えへへ。昨日の石柱と並べて描いたら、道の目印にもいろんな形があるって分かりそうだよね」
シモンも絵を確認し、穏やかに頷いた。
「特徴がよく捉えられていますね。後で道を思い出すときにも役立つでしょう」
モモは嬉しそうに旅帳面を閉じた。
三人はもう一度分かれ道を確認し、右の細い道には入らず、南へ続く街道を進むことにした。
ルシルが手綱を握り直すと、トルクとベルクは落ち着いた足取りで歩き始めた。
木の杭は少しずつ後方へ遠ざかり、やがて丘の陰に隠れていった。
街道の先には、まだ知らない草原が続いている。
ルシルは前方へ視線を向けながら、今日出会った荷車の男性の言葉を思い出した。
(知らない道を進むときは、よく確かめた方がいい。簡単なことのようだけど、実際に旅をしていると、その意味がよく分かるな)
行き先を急がない旅だからこそ、どこへ進むのかを自分たちで選べる。
そして、自分たちで選ぶからこそ、その先に何があるか分からないことも受け入れなければならない。
ルシルは隣を歩くトルクとベルクの様子を確かめ、馬車の中から聞こえるモモとシモンの声に耳を傾けた。
モモは旅帳面に描いた木の杭を見ながら、昨日の石柱との違いを楽しそうに話している。シモンはそれに答えつつ、次の休憩の時間や水の残量を考えているようだった。
三人の旅は、今日も大きな事件とは無縁のまま進んでいる。
けれど、道端の小さな目印や、すれ違った旅人の何気ない忠告が、少しずつ旅の形を作っていく。
ルシルはそんな一日を心地よく感じながら、南へ続く街道を見つめた。
朝の光は次第に強くなり、草原の色も明るさを増していた。
まだ昼には早い。
次の水場がどこにあるのかも、今夜どこで休むことになるのかも、三人には分からない。
それでも、今は確かな道が目の前に続いている。
ルシルは手綱を軽く整え、二頭へ穏やかに声をかけた。
「さあ、トルク、ベルク。もう少し先まで行ってみようか。今日も、みんなでいい旅にしようね」
二頭は落ち着いた足取りを保ち、馬車を南へ運んでいく。
モモは窓から広がる草原を眺め、シモンは手帳へ今朝の道の様子を書き留めた。
そしてルシルは、まだ見ぬ景色へ続く道を、自分の意思で選びながら進んでいった。




