第121話 夕暮れの草原で見つけた、誰かが守ってきた小さな休み場
午後の草原を南へ進む馬車の車輪が、乾いた街道に穏やかな音を響かせていた。
緩やかな谷を抜けた道は再び少しずつ高度を上げ、左右に広がる草原の向こうには、背の低い丘がいくつも重なっている。空には薄い雲が流れていたが、日差しを遮るほどではなく、風が弱まると御者台の上にも昼間の熱がじんわりと残った。ルシルは手綱を握りながら、トルクとベルクの歩調に注意を向け、ときおり道の先に見える木々や地面の起伏を確かめていた。
先ほど確認した木立のある平地は、すでに後方の低い丘に隠れている。
あそこも野営場所の候補にはなったものの、地面に浅い窪みがあり、馬車を置ける範囲もそれほど広くなかった。日没までにはまだ時間があるため、三人はもう少し先へ進み、より落ち着いて休める場所を探すことにしていた。
「ルシル君、さっきの木があるところ、もう見えなくなっちゃったね。あそこに戻ろうと思ったら、道をちゃんと覚えておかないといけないかな」
馬車の窓辺から顔を覗かせたモモが、後ろへ続く街道を眺めながら声をかけてきた。
桃金色の髪が風に揺れ、緑色の瞳には少しだけ考え込むような色が浮かんでいる。膝の上には旅帳面が開かれており、そこには先ほど見つけた白い木片と、木々の位置を簡単に描いた絵が残っていた。
「そうだね。戻ることになったら、あの浅い谷を目印にできると思う。でも、できれば暗くなる前に別の場所を見つけたいな。戻るために時間を使うより、今いる場所から安全に行けるところがあれば、その方がいいからね」
ルシルが答えると、向かい側に座っていたシモンが手帳を閉じた。
「ルシル様のお考えに賛成です。ただし、進めば必ずよい場所が見つかるとは限りません。日が傾くまでに候補が見つからなければ、街道沿いの安全な平地を優先しましょう。木陰があることよりも、馬車が安定して停められることと、二頭が落ち着いて休めることの方が重要です」
「うん。今夜は景色のいい場所を探す旅じゃなくて、みんながちゃんと休める場所を探しているんだものね」
モモは素直に頷いたあと、窓から見える草原へ目を戻した。
少し前までの彼女なら、遠くに木立を見つけるだけで、その下に何があるのか確かめたくなっていたかもしれない。今でも知らない景色への興味は変わらないが、旅を重ねるうちに、面白そうな場所と実際に立ち寄ってよい場所は必ずしも同じではないと理解するようになっていた。
その変化を感じ取ったルシルは、前を向いたまま口元を緩めた。
「それに、トルクとベルクにも相談しないとね。二頭が疲れていたら、僕たちだけが元気でも先へ進めないから」
「トルク君は、休むって聞いたら喜びそうだよね。さっきも草を見てたし、今だって道の横が気になってるみたい」
モモの言葉に合わせるように、栗毛のトルクが右耳をぴくりと動かした。
もっとも、彼が会話を理解したのか、それとも草の間から聞こえた虫の音に反応しただけなのかは分からない。隣を歩く灰色のベルクは相変わらず落ち着いた足取りを保っており、二頭の対照的な様子が、馬車の旅にいつもの安心感を与えていた。
「トルクが食べ物のことを考えている可能性は高そうですね。ただ、モモ嬢、休息と食事は分けて考えた方がよい場合もあります。まずは馬具を緩めて身体を休ませ、それから周囲の状態を見て草を食ませることになるでしょう」
「シモン君、分かってるよ。でも、トルク君が何を考えてるのか想像するのも楽しいんだもん」
シモンは眼鏡の位置を直し、少しだけ困ったように笑った。
「それでしたら、私から申し上げることはありません。想像すること自体は、危険な行動ではありませんからね」
その返事にモモが笑い、ルシルも小さく肩を揺らした。
三人の声が途切れると、馬車の中には再び車輪の音と風の音が満ちた。街道は緩やかに右へ曲がり、その先には草丈の異なる二つの斜面が広がっている。左側は短い草が多く、右側には膝ほどの高さまで伸びた草がところどころにまとまっていた。
ルシルは右手の斜面へ目を向けた。
草の背が高い場所には、地面の状態を隠してしまうという問題がある。見た目には平らでも、草の下に石や穴があれば、馬車を寄せる際に車輪を傷める可能性があった。
(ああいう場所は、遠くから見ると気持ちよさそうなんだけどな。実際に馬車を停めるとなると、見た目だけじゃ決められない。旅に出る前は、道の途中で休むことにこんなに考えることがあるなんて知らなかったよ)
王宮で暮らしていた頃、ルシルが移動の途中で休息を取るときには、誰かが先回りして場所を整えてくれていた。
馬車を停める位置も、馬へ水を与える順番も、必要な荷物の用意も、彼が細かく考える必要はなかった。もちろん、それが多くの人の仕事によって成り立っていることは知っていたつもりだったが、実際に自分の手で一つずつ確かめるようになってから、以前とは違う重みを感じるようになっていた。
今はシモンが多くの知識を持ち、モモも積極的に手を貸してくれる。
それでも、最後にどこで休むのか、どれだけ進むのかを決めるときには、三人で同じ景色を見ながら相談する。誰か一人がすべてを引き受けるのではなく、それぞれが気づいたことを持ち寄る時間を、ルシルは少しずつ好きになっていた。
しばらく進んだところで、ベルクがいつもより大きく耳を動かした。
ルシルはすぐに手綱へ意識を向けたが、灰色の馬は歩調を乱さず、前方の道を見ている。続いてトルクも首を少し上げたため、ルシルは二頭が何かの音か匂いに気づいたのだろうと考えた。
「どうしたんだい、ベルク。何か気になるものがあるのかな」
声をかけながら前方を見渡すと、道の左側にある丘の陰から、細い煙のようなものが立ち上っているのが見えた。
最初は乾いた土が風に舞っているのかと思ったが、煙は同じ場所からゆっくりと上がり、風に流されながら薄くなっている。遠くに家の屋根は見えないものの、誰かが火を使っている可能性はありそうだった。
「シモン、左の丘の向こうに煙が見えるよ。あそこに誰かいるのかな」
シモンは窓から身を乗り出さずに視線を向け、しばらく様子を確かめた。
「煙のようですね。ただ、街道から離れた位置ですし、何のための火なのかは分かりません。人がいるとしても、私たちが立ち寄ってよい場所とは限りませんから、まずはこのまま道を進みましょう」
モモも左側の窓から煙を見つけ、興味深そうに目を細めた。
「ご飯を作ってるのかな。それとも、畑で何か燃やしてるのかもしれないね。昨日までいた集落でも、朝に煙突から煙が出てたもん」
「そうだね。どちらにしても、向こうにいる人の邪魔はしたくないな」
ルシルは二頭へ声をかけ、馬車を街道の中央寄りに保った。
やがて煙は丘の陰に隠れたが、その少し先で、街道の左側に細い踏み跡があることに気づいた。踏み跡は草の間を抜け、丘の裏側へ向かっているように見えるものの、車輪の跡はなく、馬車で進めるほどの幅もなかった。
ルシルはその道を横目に見送りながら、何気なく呟いた。
「歩いて行く人のための道なのかな。あの煙が見えたところにつながっているのかもしれないね」
「そうかもしれません。ただ、こうした踏み跡は家畜の移動によってできることもあります。今の街道が十分に通れる以上、別の道へ入る理由はありませんね」
シモンの返事に頷き、ルシルは再び前を向いた。
そのとき、モモが窓辺から少し身を引き、旅帳面の端に小さな印をつけた。
「じゃあ、ここは『丘の向こうに煙が見えたところ』って書いておこうかな。誰かが暮らしてる場所かもしれないし、あとで道を思い出すときの目印になるかもしれないから」
「いいと思うよ。あの煙がいつも出ているとは限らないけど、丘の形も一緒に描いておけば、場所を思い出しやすそうだね」
モモは嬉しそうに頷き、丘の輪郭を描き加えた。
旅帳面の頁には、すでに午前中に見つけた古い石柱や、休憩した木陰の絵が並んでいる。絵の上手さを競うためのものではないが、モモが自分の目で見て、心に残ったものを描いていることは、線の一本一本から伝わってきた。
さらに街道を進むと、草原の風景が少しずつ変わり始めた。
右側に広がる背の高い草は次第に短くなり、かわりに平たい石が地面から顔を出す場所が増えている。道そのものは踏み固められていて通りやすかったが、ところどころに小石が散らばっていたため、ルシルは馬車の速度を落として進んだ。
その先で、街道の左側に低い石積みが見えてきた。
石積みは畑を囲むような長いものではなく、数歩ほどの幅で半円を描いている。高さも膝に届くかどうかという程度だったが、自然に転がった石とは違い、大きさの近いものが意識して並べられていた。
「ねえ、あそこにも石が積んであるよ。今日は石の目印をよく見つける日だね」
モモがそう言うと、ルシルも興味を引かれたように石積みを眺めた。
しかし、今度は石積みそのものより、その奥にある地面の様子が気になった。低い丘の斜面が街道から少し離れたところで窪み、その手前には草の短い平地が広がっている。
さらに、石積みの横には人が通れるほどの細い道があり、草の間に踏み固められた土が見えていた。
「シモン、あの石積みの奥、少し広くなっているみたいだね。馬車を寄せられるかもしれないけど、どう思う?」
シモンはルシルの示した方向を確認し、すぐには答えなかった。
道の幅、地面の傾き、丘の斜面との距離を順番に見てから、ようやく口を開く。
「確かに平地がありそうです。ただ、石積みが何のために置かれているのか分からないのが気になりますね。土地の境界を示している可能性もありますから、勝手に入らず、まずは街道側から様子を確認しましょう」
「そうだね。じゃあ、少し手前で停めよう」
ルシルはトルクとベルクに合図を送り、街道の端にある比較的広い場所で馬車を停めた。
シモンが降りて車輪の位置を確かめる間、ルシルは二頭の首筋を軽く撫で、落ち着いて待つよう声をかけた。モモも馬車から降りたが、石積みへ駆け寄ることはせず、シモンが周囲を確認するのを待っていた。
近くで見ると、石積みには古いものと比較的新しいものが混じっていた。
表面が丸く摩耗した石の上に、角の残る小さな石が載せられており、崩れかけた部分を誰かが補ったようにも見える。半円の内側には灰色の土が露出していたが、そこに何があったのかまでは分からなかった。
モモは少し離れたところから石積みを眺め、首を傾げた。
「これ、何かを囲ってるのかな。真ん中には何も見えないけど、石が倒れないように直してあるみたいだね」
「確かに、最近動かしたように見える石もありますね。ただ、どなたが何のために積んだのかは分かりません。触れずに確認するだけにしておきましょう」
シモンが答えると、モモは頷き、手を後ろに組んだ。
ルシルは石積みから少し離れ、奥の平地へ目を向けた。
草は短く、地面も比較的固そうだったが、丘の斜面との境目に細い溝がある。雨が降れば水が流れ込む場所なのかもしれず、見た目だけで野営に適しているとは判断できなかった。
そのとき、背後から人の声が聞こえた。
「そこの旅の人たち、その石には何か用かい?」
三人が振り返ると、街道の向こうから一人の男性が歩いてきていた。
年齢は五十歳前後だろうか。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、肩には短い柄の農具を担いでいる。厚手の作業着の袖を肘までまくり、足元には乾いた土がついていた。
男性は警戒するように三人を見ていたが、声を荒らげる様子はなかった。
ルシルはすぐに石積みから離れ、相手へ向き直った。
「こんにちは。僕たちは南へ向かって旅をしている者です。夕方までに馬車を停められる場所を探していて、この辺りが休めそうに見えたので、街道から様子を確かめていました。もし誰かの土地だったら、勝手に入るつもりはありません」
男性はルシルの言葉を聞き、石積みと馬車を交互に見た。
それから、シモンが立っている位置や、モモが石に触れていないことを確かめるように視線を動かす。
「そうかい。あんたたち、あの石を動かしたりはしていないね?」
「はい。近くで見ただけです」
シモンが答えると、男性は小さく頷いた。
「それならいい。あれは昔からある石囲いでね。何のために作られたのか、今じゃはっきりしないんだが、崩れたままにしておくと道の方へ石が転がることがある。それで、通る人間が気づいたときに積み直しているんだよ」
その説明に、モモの表情が明るくなった。
「そうだったんですね! わたし、古い石の上に新しそうな石があるから、誰かが直してるのかなって思ってたんです。道を通る人のためだったんですね」
男性は少し意外そうにモモを見たあと、口元を緩めた。
「そういうことだ。もっとも、誰かが決めた仕事ってわけじゃない。近くを通る連中が、邪魔になりそうな石を片づけるついでに直してるだけさ」
ルシルは石囲いを振り返った。
特別に立派なものではなく、名前も刻まれていない。
それでも、長い間そこに残っているのは、通りかかった誰かが少しずつ手を入れてきたからなのだろう。先ほど見つけた古い石柱とはまた違う形で、人の暮らしが街道に残っていることを感じた。
「教えてくださってありがとうございます。知らずに触らなくてよかったです」
ルシルが頭を下げると、男性は農具を肩に担ぎ直した。
「いや、触らずに待ってたんなら十分さ。それより、あんたたち、今夜の寝場所を探してるんだろう? だったら、そこよりもう少し先の方がいいかもしれないな」
三人の視線が自然と男性へ集まった。
男性は南へ続く街道を指さし、丘の向こうを示すように手を動かした。
「この道をもう少し行くと、右手に低い土手が見えてくる。その手前に、荷車を停められる平地があるんだ。昔から旅人が休むのに使ってる場所でね。大きな宿があるわけじゃないが、あんたたちみたいな馬車なら、こっちの窪地よりはずっと停めやすいと思うよ」
ルシルは思わず前方へ目を向けた。
「そんな場所があるんですね。ここから歩いて遠いのでしょうか?」
「人の足なら、そう遠くない。ただ、馬車でどれくらいかかるかは、馬の具合や道の進み方によるから何とも言えないね。道はこの先も続いてるし、急な坂はなかったはずだよ」
男性はそう答えてから、少しだけ表情を引き締めた。
「ただし、水場があると思っちゃいけない。昔は雨水が溜まることもあったらしいが、今は当てにできないんだ。馬に飲ませる水を持っていないなら、あそこで夜を越すのは勧めないよ」
シモンはその言葉を聞き、すぐに頷いた。
「貴重な情報をありがとうございます。水は昨日立ち寄った集落で補給しており、馬たちの分も確保しています。ただ、無駄遣いはできませんので、必要量を考えて使うつもりです」
「それなら少し安心だな。あそこは風が抜ける場所だから、火を使うなら十分気をつけることだ。草が乾いてる時期に火を広げたら、あっという間に大変なことになる」
男性の声には、ただの忠告以上の実感がこもっていた。
ルシルは草原を見渡し、風が吹くたびに乾いた葉先が擦れ合う音を聞いた。これだけ草が広がっていれば、火の扱いを間違えたときに何が起こるか、想像するのは難しくなかった。
「分かりました。火を使うかどうかも、場所を見てから決めます。無理に焚き火をするつもりはありません」
「それがいい。旅人が休む場所だからって、何をしてもいいわけじゃないからな」
男性は満足そうに頷き、馬車の方へ目を向けた。
「それにしても、立派な馬車だね。二頭ともよく手入れされてる。長旅なのかい?」
「はい。行き先を急がず、いろいろな土地を見ながら旅をしています」
ルシルは穏やかに答えた。
男性は少しだけ目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
「そりゃいいね。若いうちに好きなところを見て回れるなら、それに越したことはない。もっとも、旅ってのは景色ばかりじゃなく、馬の世話も飯の支度も自分たちでやらなきゃならんから、思ってるより忙しいだろうけどな」
「本当にそうですね。僕も、旅を始める前は知らなかったことばかりです。でも、そういうことも含めて楽しいと思えるようになりました」
ルシルの返事に、男性はしばらく彼の顔を眺めた。
身なりは旅人らしく整っているが、話し方にはどこか育ちのよさが感じられる。それでも、石囲いに勝手に触れず、馬の世話や水の管理を当たり前のこととして話している様子は、気取った若者には見えなかった。
「そうかい。それなら、いい旅をしてるんだろうな」
男性はそれだけ言うと、担いでいた農具を持ち直した。
モモは男性が去ろうとしていることに気づき、一歩だけ前へ出た。
「あの、教えてくださってありがとうございました! それから、石囲いのことも。わたしたち、勝手に触らなくてよかったです」
「礼を言うほどのことじゃないよ。あんたたちも、どこかで道に石が転がってるのを見つけたら、危なくない範囲で気をつけてやってくれればいい」
男性は笑って手を振り、街道の北側へ歩き出した。
三人はその背中を見送ってから、もう一度石囲いへ目を向けた。
古い石の上に載せられた新しい石は、誰かの名前を残すためのものではない。それでも、次にここを通る人が危険な目に遭わないようにという小さな気遣いが、確かに形になって残されていた。
モモは旅帳面を開き、石囲いの絵を描き始めた。
「ねえ、ルシル君。わたし、こういうのも好きだな。誰かが作った立派なものじゃなくても、みんなが少しずつ直して残してるものって、なんだか温かいね」
「うん。あの人が教えてくれなかったら、僕たちはただの古い石積みだと思って通り過ぎていたかもしれない。知らない土地では、そこに暮らしている人に聞かないと分からないことが本当に多いね」
ルシルはそう答え、シモンへ顔を向けた。
「それじゃあ、教えてもらった休み場まで行ってみようか。まだ日もあるし、今のうちに確認できそうだね」
「ええ。馬たちの状態にも問題はありませんし、移動を続けられると思います。ただし、休み場に着いてもすぐ野営を決めず、地面と周囲の安全を確認しましょう」
三人は頷き合い、馬車へ戻った。
ルシルが御者台へ上がると、トルクは待っていたと言わんばかりに首を振った。ベルクは落ち着いていたが、ルシルが手綱を整えると耳を後ろへ向け、次の合図を待っているようだった。
「お待たせ、二人とも。もう少し進んだら、今夜はゆっくり休めるかもしれないよ」
ルシルが声をかけると、トルクが小さく鼻を鳴らした。
モモはその音を聞いて笑い、馬車の窓から二頭へ手を振った。
「トルク君、ベルク君、あと少しだけよろしくね! ちゃんと休める場所が見つかったら、お水も飲んで、のんびりしようね」
シモンは車輪の状態を最後に確かめ、馬車へ乗り込んだ。
準備が整うと、ルシルは二頭に合図を送り、馬車を再び南へ進ませた。
石囲いはゆっくりと後方へ遠ざかり、やがて草原の中へ紛れていった。
街道は先ほどよりも緩やかな起伏を描き、右手には低い丘が続いている。日差しはまだ明るかったが、光の角度が少しずつ変わり、草の間に落ちる影が長くなり始めていた。
モモは旅帳面を閉じると、窓辺の青い風魚の布を眺めた。
青波で手に入れたその布は、馬車が揺れるたびに小さく動き、窓から差し込む光を受けて淡い青色を見せている。海辺の町で見た景色と、今目の前に広がる草原はまったく違うのに、こうして同じ馬車の中にいると、どちらも自分たちの旅の一部なのだと感じられた。
「ルシル君、わたしね、さっきのおじさんの話を聞いて思ったんだけど、旅人が休む場所って、誰かが最初に『ここで休もう』って決めたのかな」
モモの問いに、ルシルは少し考えた。
「どうだろう。最初はたまたま一人が休んだだけかもしれないし、何人も同じ場所を使っているうちに、休み場になったのかもしれないね」
「そっか。じゃあ、わたしたちが今から行く場所にも、昔はいろんな旅人がいたのかな」
モモは想像を膨らませるように、窓の外へ目を向けた。
「大きな荷車で荷物を運んでた人とか、遠くの町へ帰る途中の人とか、わたしたちみたいに行き先を急がず旅をしてる人とか。みんな同じ場所で休んでたら、ちょっと面白いよね」
ルシルはその言葉に笑みを浮かべた。
「そうだね。僕たちが知らない人たちも、同じ空を見ながら休んでいたのかもしれない。そう考えると、ただの平地でも少し特別に思えるな」
シモンは二人の会話を聞きながら、静かに口を開いた。
「ただ、休み場として使われてきた場所だからこそ、後から来る人が困らないようにする必要があります。ゴミを残さないことや、火の始末を徹底することはもちろん、使った場所をできるだけ元の状態へ戻すことも大切でしょう」
「うん。さっきのおじさんが言ってた石囲いと同じだね。次に来る人のことを考えるってことだよね」
モモが答えると、シモンは穏やかに頷いた。
「ええ。誰かが特別な決まりを作っていなくても、そうした気遣いによって保たれている場所はあるのでしょう」
ルシルは二人の言葉を聞きながら、前方へ視線を向けた。
旅を始めたばかりの頃は、自由に進めることそのものが何より嬉しかった。
誰かに行き先を決められず、自分の意思で馬車を動かせる。それだけで胸がいっぱいになったことを、今でもよく覚えている。
けれど、実際に旅を続けていると、自由とは好き勝手に振る舞うことではないと気づかされる場面が何度もあった。
知らない土地には、その土地で暮らす人たちの生活がある。道にも井戸にも休み場にも、それを使う人たちがいて、長い間守られてきたものがある。
(僕は王位を手放して、自由に生きたいと思った。でも、自由に旅をするからこそ、自分で考えなきゃいけないことが増えたんだね。それを面倒だと思わないのは、きっと二人と一緒だからだ)
ルシルはそんな思いを胸に、手綱を握る指へ少しだけ力を込めた。
そのとき、街道の右側に低い土手が見え始めた。
草に覆われた土手はそれほど高くなく、緩やかな弧を描きながら街道に沿って続いている。手前には草丈の短い平地が広がっており、地面の一部には車輪が通ったような跡が残っていた。
「シモン、あれじゃないかな。さっき教えてもらった、低い土手の手前の平地って」
ルシルが声をかけると、シモンも前方を確認した。
「特徴は一致していますね。右側に広い平地がありますし、街道から入る部分も比較的なだらかに見えます。ただ、あの車輪の跡が今も使われているものかどうかは分かりませんから、近くで確認しましょう」
モモは窓から右手の景色を眺め、嬉しそうに目を輝かせた。
「わあ、さっきの場所よりずっと広そう! 馬車も停められそうだし、トルク君たちも休みやすいかもしれないね」
ルシルは頷きながらも、すぐに馬車を平地へ入れようとはしなかった。
まずは街道の端に寄せ、トルクとベルクを落ち着かせる。シモンが降りて地面の状態を確かめ、ルシルも馬車から降りて周囲を見渡した。
平地は街道よりわずかに高い位置にあり、土手との間には浅い溝が通っていた。
溝には水が流れておらず、底には乾いた土と小石が見える。雨水を逃がすためのものなのか、それとも自然にできた窪みなのかは分からなかったが、馬車を停める場所としては、溝から距離を取った方がよさそうだった。
シモンは足元の土を確かめながら、平地の奥へゆっくり歩いた。
表面は乾いており、深く沈み込む様子もない。ただ、場所によっては小石が集まっているため、車輪を置く位置には注意が必要だった。
「ルシル様、こちらの手前側なら、馬車を停めることはできそうです。土手に近づきすぎなければ、地面の傾きも小さいですね」
「うん。僕もそう思うよ。あとは風かな。さっきのおじさんが、風が抜ける場所だって言ってたし」
ルシルは草の揺れ方を確かめ、土手の上へ視線を向けた。
風は西から吹いているようで、土手の向こう側の草が波打つように揺れている。平地にも風は届いていたが、立っていられないほど強いわけではなかった。
モモは少し離れたところで、地面に落ちている小さな枝を見つけた。
枝は乾いており、折れた先端が白っぽくなっている。周囲にも同じような枝がいくつか散らばっていたが、大きな木は近くに見当たらなかった。
「ねえ、シモン君。ここ、前に誰かが休んだ跡があるのかな。枝が何本か集まってるところがあるんだけど」
シモンはモモの示した場所へ近づき、地面を確かめた。
「人が集めたものかもしれませんが、風で寄せられた可能性もありますね。いずれにしても、火を使った跡があるかどうかは慎重に確認した方がよさそうです」
三人が周囲を調べると、平地の奥に、黒く変色した小さな石がいくつか見つかった。
石は円形に並んでいるようにも見え、その内側には古い灰らしいものが少し残っている。誰かが以前ここで火を使った可能性は高そうだったが、今は完全に冷えており、周囲に燃え残った薪は見当たらなかった。
ルシルはその場所から少し離れ、草の状態を見た。
「ここで火を使った人がいたみたいだけど、僕たちは今夜、無理に焚き火をしなくてもいいかな。保存食もあるし、馬車の中で食事を取ることもできるから」
シモンはすぐに頷いた。
「私もその方がよいと思います。風向きが変わる可能性もありますし、周囲の草が乾いている以上、火を使わない方が安全です。今夜は温かい料理を諦めることになりますが、食事自体に困るわけではありませんから」
モモは少しだけ残念そうに口を尖らせた。
「そっかあ。昨日の集落で食べた温かいご飯、おいしかったから、今日も何か作れたらいいなって思ってたんだけど……でも、草原を燃やしちゃったら大変だもんね」
彼女はすぐに表情を戻し、二人へ笑いかけた。
「じゃあ、今夜はパンと保存食にしよう! その代わり、次に安全に火を使える場所があったら、何かおいしいものを作りたいな」
「うん。そのときは、前に買った乾燥豆も料理に使ってみたいね。まだ残っているし、ちゃんと時間をかけて調理できる場所があれば試してみたいな」
ルシルが答えると、モモの目が輝いた。
「豆料理! いいね! わたし、スープにして食べてみたいな。お野菜も入れたら、きっとおいしいよね」
シモンは二人の様子を見ながら、少しだけ笑みを浮かべた。
「豆の種類によっては、十分な水と加熱時間が必要になりますから、調理する際は準備を整えましょう。今夜は保存食を使い、次の機会に考えるのがよさそうですね」
三人は相談を終えると、平地の中で馬車を停める位置を決めた。
街道から十分に離れ、土手の近くにある溝も避けた場所だった。周囲には背の高い草が少なく、車輪の下へ大きな石が入り込む心配も小さそうだった。
ルシルはトルクとベルクをゆっくり導き、シモンが示した位置へ馬車を移動させた。
二頭は落ち着いた足取りで進み、やがて馬車が平地の中央寄りへ収まる。ルシルが停止の合図を送ると、トルクは小さく鼻を鳴らし、ベルクも静かに足を止めた。
「よし、ここなら大丈夫そうだね。二人とも、今日もありがとう」
ルシルは御者台から降り、二頭の首筋を順番に撫でた。
トルクは嬉しそうに首を寄せ、ベルクは穏やかな目でルシルを見つめている。長い移動を終えた二頭の身体には少し汗が浮かんでいたが、呼吸は落ち着いており、無理をして歩いてきた様子はなかった。
シモンは馬車の固定を確認してから、馬具を緩める準備を始めた。
「ルシル様、まずは二頭を休ませましょう。水も必要量を与えたいところですし、馬具を外したあとで身体の状態を確認しておきたいですね」
「うん。僕も手伝うよ。モモは水を入れる容器を用意してもらえるかな」
「もちろん! 昨日ちゃんと補給できたから、今日は二頭にも安心して飲んでもらえるね。でも、使いすぎないように気をつけるよ」
モモは馬車の収納から容器を取り出し、決められた場所へ運んだ。
ルシルとシモンは二頭の馬具を慎重に外し、身体に擦れたところがないか確かめていく。トルクは途中でモモの持っている容器へ視線を向けたが、ルシルが声をかけると落ち着き、作業が終わるまで待っていた。
ベルクはいつもどおり静かだったものの、馬具が外れると首を軽く振り、肩の力を抜くような仕草を見せた。
ルシルはその様子を見て、思わず笑った。
「ベルクも、やっぱり馬具を外すと楽になるんだね。いつも落ち着いているから、あまり表情に出ないけど」
「そうですね。落ち着いていることと、疲れていないことは別ですから。こうした小さな変化も見逃さないようにしたいところです」
シモンはそう答えながら、外した馬具を丁寧に整えた。
モモが用意した水を二頭へ与えると、トルクは待ちかねたように口を近づけた。
ただし、勢いよく飲ませすぎないよう、ルシルは様子を見ながら量を調整した。ベルクも落ち着いて水を飲み、二頭が必要な分を取ったことを確かめてから、残りの水を適切に管理する。
そのあと、二頭が安全な範囲で休めるように整え、三人はようやく自分たちの荷物へ目を向けた。
馬車の周囲には夕方の光が差し込み、土手の影が少しずつ長く伸び始めていた。
風はまだ穏やかだったが、ときどき強めの風が吹き抜けるため、モモは窓辺の青い風魚の布が外へ大きく揺れないよう、位置を確かめた。
「今日はここでお泊まりなんだね。なんだか、ちゃんと休める場所が見つかってほっとしたな」
モモは馬車の横へ立ち、平地を見渡しながら笑った。
ルシルもその隣へ並び、少しずつ夕方の色へ変わっていく草原を眺めた。
「うん。さっきの人に教えてもらえてよかったね。もしあの石囲いのところで立ち止まらなかったら、ここを見つけられたかどうか分からないし」
「そうだね。わたしたち、道でいろんな人に助けてもらってるんだね」
モモは少しだけ声を落とし、遠くの丘へ視線を向けた。
「昨日の集落でも井戸を使わせてもらったし、今日は休み場を教えてもらったし……。わたし、旅って、自分たちだけで進んでるようで、実はたくさんの人に助けられてるんだなって思うよ」
ルシルはその言葉に頷いた。
彼自身も、同じことを考えていた。
道を教えてくれる人がいて、水を分けてくれる人がいて、休める場所を守ってきた人たちがいる。誰もが旅人のためだけに生きているわけではないのに、それぞれの暮らしの中で交わされる小さな親切が、遠くへ進む力になっていた。
「そうだね。僕たちも、いつか誰かに同じようなことができたらいいな。大きなことじゃなくても、道を教えたり、困っている人の話を聞いたりするだけで、助けになることもあるんだろうね」
ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに笑った。
「うん! わたしも、そういうことができる人になりたいな。もちろん、相手が困ってるかどうかちゃんと確かめてからだけどね」
その最後の言葉に、ルシルは思わず笑みを深くした。
モモは人を助けたいという気持ちが強く、以前は相手の事情を確かめる前に動こうとすることもあった。けれど今は、自分が何をしてあげたいかだけではなく、相手が何を望んでいるのかを考えるようになっている。
シモンは少し離れたところで馬具の確認を終え、二人の会話を聞いていた。
彼にとっても、こうした旅の時間は以前とは違う意味を持つようになっていた。王宮にいた頃、ルシルの安全を守ることは何より優先すべき責務であり、判断の多くは危険を避けるために行われていた。
今でもその思いが消えたわけではない。
しかし、ルシルが自分で周囲を見て、モモと相談し、必要なことを一つずつ覚えていく姿を見ていると、守ることと任せることは必ずしも反対ではないのだと感じるようになっていた。
(ルシル様は、以前から人の話を聞くお方だった。けれど今は、聞いた言葉を自分の暮らしへ結びつけようとなさっている。私も、先回りしてすべてを整えるだけではなく、この方が選ぶために必要なことを伝えられるようでありたい)
シモンはそんな思いを胸に、馬車の方へ歩み寄った。
「ルシル様、馬具の確認は終わりました。今のところ傷みは見られませんし、二頭も落ち着いています。夕食の準備を始める前に、明日の朝の出発に必要なものだけ整理しておきましょうか」
「うん。ありがとう、シモン。今日は火を使わない予定だから、食事の準備もそれほど時間はかからないと思うし、先に荷物を整えよう」
ルシルが答えると、モモも元気よく頷いた。
「わたしも手伝う! 明日の朝に慌てないようにしておけば、ゆっくり朝ご飯を食べられるもんね」
三人は馬車の中へ戻り、必要な荷物を確かめ始めた。
保存食の残量、水の容器、馬たちの世話に使う道具、明日の朝すぐ取り出したいものを順番に確認する。予備の馬具も決められた場所に収まっており、移動中にずれた荷物がないことを確かめると、シモンは手帳へ簡単な記録を残した。
モモは収納の奥にある包みを見つけ、そっと手を止めた。
それは潮凪村で手に入れた三つの貝鈴を包んだものだった。
今は壊れないように布で包み、馬車の中へしまってある。モモは包みを開くことなく、その形を指先で確かめた。
「ねえ、ルシル君。これ、潮凪村の貝鈴だよね。こうしてしまってあると、なんだかずいぶん前のことみたいに感じるな」
「うん。でも、あの村で過ごした時間も、僕たちの旅の大切な思い出だよ。今は揺れて壊れないようにしまっておこう」
ルシルは穏やかに答えた。
モモは包みを元の位置へ戻し、少しだけ名残惜しそうに微笑んだ。
「そうだね。また安全に飾れる場所があったら、三つ並べて音を聞きたいな。あの村の風を思い出せそうだもん」
シモンは二人の会話を聞きながら、収納の扉を確かめた。
「その際は、揺れで落ちないようにする必要がありますね。馬車の中に飾るなら、固定方法を考えましょう」
「シモン君、そういうところは本当に抜かりないね!」
モモが笑うと、シモンも小さく微笑んだ。
「せっかくの思い出の品ですから、壊さずに大切にしたいだけですよ」
その返事に、モモは一瞬だけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑って頷いた。
「うん。わたしもそう思う!」
荷物の確認を終える頃には、窓から差し込む光が少しずつ柔らかくなっていた。
ルシルは馬車の外へ出て、夕暮れの草原を眺めた。
低い土手の向こうでは、草が風に合わせて静かに揺れている。遠くの丘の稜線は夕方の光を受けて淡く輝き、空の端には薄い橙色が混じり始めていた。
馬車の近くでは、トルクとベルクが落ち着いて休んでいる。
トルクはときどき草へ顔を近づけ、ベルクは周囲の音に耳を動かしながらも、穏やかな様子を保っていた。二頭が無理なく休めていることを確かめると、ルシルの肩から自然と力が抜けた。
「ルシル君、外にいたんだね」
背後からモモの声が聞こえた。
振り返ると、彼女は旅帳面を胸に抱え、馬車の入口から顔を覗かせていた。
「うん。少し景色を見ていたんだ。夕方になると、同じ草原でも色が変わるね」
ルシルが答えると、モモは隣へ歩み寄った。
二人はしばらく並んで立ち、土手の向こうに広がる空を眺めた。
「きれいだね。朝はもっと明るい色だったのに、今は草も空も少し金色に見えるよ」
「そうだね。海辺の夕暮れもきれいだったけど、草原の夕暮れはまた違うな」
ルシルはそう答え、遠くの丘へ目を向けた。
モモは旅帳面を開こうとしたが、すぐには鉛筆を取り出さなかった。
その代わり、少しだけ首を傾けて、目の前の景色をじっと見つめている。
「どうしたの、モモ。今日は描かないの?」
ルシルが尋ねると、モモは少し照れくさそうに笑った。
「ううん、あとで描くつもり。でも、今はちゃんと見ておきたいなって思ったの。描くことに夢中になると、景色が変わっていくところを見逃しちゃうかもしれないから」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「そっか。それもいいね。絵に残すことも大切だけど、今ここでしか見られない景色もあるもんね」
「うん。わたし、旅帳面をつけるようになってから、いろんなものを描きたくなったんだけど……最近は、描かないで見てる時間も好きになってきたんだ」
モモはそう言って、夕暮れの空へ視線を戻した。
その横顔はいつもの明るさを残しながらも、少しだけ落ち着いた表情をしていた。
ルシルは彼女の隣で風を感じながら、何も言わずに景色を眺めた。
草原を渡る風は昼間よりも涼しくなっており、遠くで小鳥が鳴いている。街道を通る人の姿はなく、馬車の近くではトルクが小さく鼻を鳴らした。
やがてシモンも馬車から出てきた。
彼は二人が並んで夕暮れを眺めていることに気づくと、少し離れた場所で足を止めた。
以前の彼なら、夕食の準備や夜間の安全確認を優先し、すぐに声をかけていたかもしれない。しかし、今は二人が何をしているのかを見て、急ぐ必要がないと判断すれば、その時間を尊重することもできるようになっていた。
しばらくして、ルシルが振り返った。
「シモン、荷物の整理はもう大丈夫かな」
「はい。明日の朝に必要なものは取り出しやすい位置へまとめてあります。夕食の準備もすぐに始められますので、もう少し景色を楽しんでいただいても問題ありませんよ」
その返事に、ルシルは柔らかく笑った。
「ありがとう。じゃあ、もう少しだけ見ていようかな。シモンも一緒にどう?」
シモンは一瞬だけ目を細め、それから静かに頷いた。
「それでは、お言葉に甘えましょう」
三人は馬車のそばに並び、夕暮れの草原を眺めた。
低い土手の向こうでは、草が風に合わせて波のように揺れている。
空の色はゆっくりと変わり、遠くの丘の影が少しずつ深くなっていった。
モモは両手で旅帳面を抱え直し、小さく息を吐いた。
「ねえ、ルシル君、シモン君。今日もいろんなものを見つけたね。古い石柱も、白い木片も、石囲いも、それからこの休み場も」
ルシルは頷き、今日通ってきた道を思い返した。
「そうだね。どれも大きな事件じゃなかったけど、僕は楽しかったな。知らないものを見つけて、分からないことは分からないままにして、知っている人がいたら教えてもらう。そんな一日だったね」
シモンも穏やかに口を開いた。
「ええ。そして、今夜休める場所も確保できました。旅としては十分に実りのある一日だったと思います」
モモはその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。
「うん! 明日も、こんなふうに三人でいろんなものを見つけられたらいいな」
ルシルは二人の顔を順番に見つめた。
モモは明るく笑い、シモンはいつもの落ち着いた表情で立っている。
その姿を見ていると、胸の奥に穏やかな温かさが広がっていった。
(僕は、こんな時間が欲しかったんだろうな。誰かに決められた場所へ向かうんじゃなくて、自分たちで道を選んで、疲れたら休んで、知らないものを見つけたら一緒に考える。そういう毎日を、これからも大切にしていきたい)
ルシルは静かに息を吸い、夕暮れの空へ目を向けた。
王位を手放したことを後悔しているわけではない。
けれど、かつての自分がどれほど多くのものを持っていたのか、そして今の自分が何を大切にしたいのかを、旅の途中で考えることはあった。
その答えは、まだ一つに決まっているわけではない。
ただ、今この場所で二人と並んで夕暮れを見ている時間が、何よりも大切だということだけは、はっきりと分かっていた。
やがて日がさらに傾き、草原の色が少しずつ落ち着いてくると、シモンが穏やかに声をかけた。
「ルシル様、モモ嬢。そろそろ夕食の準備を始めましょう。暗くなる前に済ませておけば、夜はゆっくり休めますから」
「うん。そうしようか」
ルシルは頷き、馬車へ向き直った。
モモも旅帳面を閉じ、明るい声で答えた。
「じゃあ、今夜は保存食をおいしく食べる方法を考えよう! 温かい料理は作れないけど、三人で食べればきっと楽しいよね」
「そうですね。無理に工夫しようとして食料を無駄にしない範囲でお願いします」
シモンの返事に、モモは楽しそうに笑った。
「もう、シモン君! 分かってるってば!」
そのやり取りを聞きながら、ルシルは馬車の入口へ歩いた。
夕食は、パンと保存食を中心にした簡単なものになった。
それでも、三人で今日見た景色や出会った人のことを話しながら食べる時間は、決して味気ないものではなかった。
モモは古い石柱の絵を見せながら、側面に刻まれていた線が何に見えたかを話した。
ルシルは道が枝分かれしているように見えたと答え、シモンは文字の摩耗が激しい以上、意味を断定できないことを改めて伝えた。
モモはその説明を聞きながら、少しだけ笑った。
「うん。分からないままでもいいんだよね。でも、もしどこかの町で昔の道に詳しい人に会えたら、聞いてみたいな」
「そうだね。いつか話のきっかけになるかもしれないし、旅帳面に残しておいてよかったね」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。
シモンも二人の会話を聞きながら、穏やかな表情で食事を続けた。
夕食を終える頃には、窓の外が少しずつ暗くなり始めていた。
三人は食器や荷物を片づけ、馬車の周囲をもう一度確認した。
トルクとベルクは落ち着いており、風も先ほどより少し弱まっている。
ルシルは二頭の様子を確かめたあと、馬車の扉の前で立ち止まった。
低い土手の向こうには、夕暮れの最後の光が残っていた。
草原の中にあるこの小さな休み場は、誰かが立派な建物を建てた場所ではない。
けれど、これまで多くの旅人が通り、必要なときに休み、またそれぞれの道へ進んでいったのだろう。
ルシルは今日出会った男性の言葉を思い出し、静かに微笑んだ。
(僕たちも、ここを大切に使わせてもらおう。そして明日の朝には、次に来る人が困らないようにして出発しよう。それが、この場所を使わせてもらった僕たちにできることなんだろうな)
ルシルが馬車へ戻ると、モモはすでに旅帳面を開いていた。
今日の最後の頁には、低い土手と、その手前に停められた馬車が描かれ始めている。
窓の外には、夜を迎えようとする草原が静かに広がっていた。
ルシルはモモの隣へ腰を下ろし、描きかけの絵を覗き込んだ。
「今日は、この休み場も描くんだね」
「うん。だって、ここもわたしたちの旅の大切な場所になったからね」
モモは笑顔で答え、鉛筆を動かし続けた。
シモンはその向かい側で手帳を閉じ、二人の様子を静かに見守っている。
馬車の外では、草原を渡る夜風が低い土手の草を揺らしていた。
遠くの丘の向こうには、まだ知らない道が続いている。
けれど今夜は、その先を急ぐ必要はなかった。
三人は自分たちで選んだ小さな休み場で、今日出会った人の親切と、草原に残された古い石の記憶を胸に、穏やかな夜を迎えようとしていた。




