第120話 風の草原に残された古い道標と、三人が選ぶ次の寄り道
小さな集落の石垣が見えなくなってからも、ルシルの耳には、あの朝の鐘の音が残っているような気がしていた。
乾いた街道を進む馬車の車輪が規則正しい音を立て、トルクとベルクの蹄が踏み固められた土を軽やかに叩いている。左右に広がる草原には朝の光が満ち、遠くの丘を渡ってきた風が、背の低い草を波のように揺らしていた。昨日まで見慣れなかった土地が、ほんの一晩を過ごしただけで少し親しみのある景色に変わったことを、ルシルは不思議に感じていた。
御者台から後ろを振り返れば、集落へ続く道がまだ草原の中に細く残っている。しかし、家々の屋根も井戸のある広場も、すでに低い丘の陰へ隠れてしまっていた。
(また一つ、帰ろうと思えば帰れる場所が増えたような気がするな。僕たちの家になったわけじゃないけど、あそこには知っている人たちがいて、どんな朝を迎えているのか想像できる。それって、旅を始める前には考えもしなかったことだ)
ルシルはそんな思いを胸に、手綱を握る指を軽く動かした。
栗毛のトルクが耳を後ろへ向け、御者台からの小さな合図を確かめるように首を揺らす。隣を歩く灰色のベルクはいつもどおり落ち着いており、二頭の歩調はよく揃っていた。
「ルシル君、まだ村のことを考えてた?」
馬車の窓から声をかけてきたのは、旅帳面を膝に載せたモモだった。
桃金色の長い髪を肩の後ろへ流し、緑色の瞳を楽しそうに細めている。帳面には、今朝受け取った焼き菓子の絵と、集落に響いていた鐘を描こうとした跡が残っていた。
「うん。少しね。昨日初めて訪ねた場所なのに、もう懐かしいような気がするんだ。モモはどう?」
「わたしも! 井戸のおじいさんが滑車を直してるところとか、畑のおばさんが野菜を採ってるところとか、今でも見える気がするよ。それに、あのお菓子の味も忘れられないなあ」
モモは嬉しそうに答えたあと、帳面の頁を指先で押さえた。
「でもね、わたし、今朝の鐘が何の合図だったのか聞きそびれちゃったんだ。井戸のこととか、お菓子のこととか、いろいろお話ししてたら忘れちゃって」
その声には少しだけ残念そうな響きがあった。
ルシルは前方の道を確かめながら、穏やかに笑った。
「そうだったね。僕も聞いてみたいと思っていたのに、すっかり忘れていたよ。でも、何でも一度に知る必要はないんじゃないかな。またあの集落を訪れることがあったら、そのときに聞いてみよう」
「そっか。次に会ったときのお楽しみにしておけばいいんだね!」
モモはぱっと表情を明るくした。
向かい側に座っていたシモンが、開いていた手帳から顔を上げる。
「鐘の意味が分からないままでも、今朝の思い出が失われるわけではありませんからね。むしろ、次に訪ねる理由が一つ増えたと考えてもよいのでしょう」
「シモン君、いいこと言うね! じゃあ、帳面には『何の鐘だったのかは、また今度』って書いておこうかな」
「それはよいと思います。ただ、今朝聞いた鐘が次に訪れた際にも同じように鳴るとは限りませんから、確かめる楽しみとして残しておくのがよいでしょう」
シモンの慎重な言葉に、モモは楽しそうに笑った。
「もう、シモン君は本当に細かいんだから。でも、そういうところも頼りになるよね」
「褒めていただいていると受け取っておきます」
眼鏡の奥でわずかに目を細めたシモンを見て、ルシルも声を立てて笑った。
三人の笑い声は馬車の中を通り抜け、朝の草原へ柔らかく広がっていった。
集落を出発してからしばらくの間、街道はほとんどまっすぐ南へ続いていた。
道の両側には背の低い草が広がり、ところどころに白い小花が咲いている。遠くには緩やかな丘が見えるものの、これまで通ってきた場所に比べれば起伏は少なく、空がずいぶん広く感じられた。
モモは旅帳面を閉じると、窓の外へ目を向けた。
「ねえ、ルシル君。昨日、村の人が言ってたとおり、木陰が少ないね。あっちにもこっちにも草はいっぱいあるのに、大きな木はほとんど見えないよ」
「そうだね。日差しが強くなる前に休める場所を探した方がいいって教えてもらったし、今日は早めに休憩を取ろうか」
ルシルが答えると、シモンも前方を見つめた。
「賛成です。水は昨日補給できましたが、だからといって休息を後回しにする理由にはなりません。特に今日は日差しを遮る場所が限られていますから、トルクとベルクの様子を見ながら進みましょう」
「うん。二頭とも今は元気そうだけど、疲れてから休むより、疲れすぎないように休んだ方がいいよね」
ルシルはそう答え、二頭へ穏やかに声をかけた。
トルクは耳を動かしたあと、街道の脇に生えている草へ一瞬だけ視線を向けた。ベルクは前を見たまま歩き続けており、その対照的な様子にモモが小さく笑う。
「トルク君、休憩って聞いて、もう草を食べることを考えてるのかな」
「どうでしょうね。言葉の意味を理解したかどうかは分かりませんが、草へ興味を向けていることは確かなようです」
「シモン君、それ、ほとんど答えになってないよ!」
モモが笑いながら抗議すると、シモンは涼しい顔で眼鏡を直した。
「分からないことを分からないと申し上げるのも、大切なことですから」
「それはそうだけど、今はもうちょっと夢のある答えが聞きたかったなあ」
そのやり取りに、ルシルは笑みを浮かべたまま前方へ視線を戻した。
街道の先には、まだ人影も馬車も見えない。
それでも、草原の向こうからは小鳥の鳴き声が聞こえ、風が吹くたびに小さな花々が揺れていた。知らない土地を進んでいるという緊張よりも、これから何が見つかるのだろうという期待の方が、今のルシルには大きかった。
やがて道の右側に、背の低い石がいくつか並んでいる場所が見えてきた。
最初は自然に転がっている石かと思ったが、近づくにつれて、そのうちの一つだけがほかとは違う形をしていることに気づいた。地面から人の腰ほどの高さまで突き出した細長い石で、上部は丸く削られ、正面には何かを刻んだような跡がある。
ルシルはその石を見つけると、少しだけ首を傾げた。
「シモン、あそこに立っている石、何かの目印かな。ほかの石とは形が違うみたいだね」
シモンは窓から身を乗り出さない範囲で前方を確かめ、静かに頷いた。
「自然石というより、人の手で整えられたものに見えますね。街道沿いに設置されていることを考えると、道標の可能性があります。ただ、まだ刻まれている内容までは分かりません」
「道標? じゃあ、次の町までの距離とかが書いてあるのかな!」
モモは興味を引かれたように、すぐ窓の外を覗き込んだ。
ルシルは石の周囲へ目を向けた。
街道の右側には馬車一台が十分に寄せられそうな平地があり、地面も比較的乾いている。ほかの通行人の姿は見えず、停車して確認することに大きな問題はなさそうだった。
「少し停めて見てみようか。せっかく見つけたんだし、道の情報が分かるかもしれないからね」
「ええ。周囲の地面を確認してからにしましょう」
シモンの返事を聞き、ルシルはトルクとベルクへ声をかけて馬車の速度を落とした。
二頭は落ち着いたまま歩調を緩め、やがて街道の端にある平地へ馬車を運んでいく。車輪が通る場所に大きな石や深い窪みがないことを確かめ、ルシルは安全な位置で馬車を停めた。
草原を渡る風が、御者台の脇を静かに吹き抜けた。
三人は馬車を降り、石の近くへ向かった。
近くで見ると、それはやはり人の手で加工された石柱だった。
表面には長い年月の間に刻まれた細かな傷があり、角は風雨にさらされたためか丸みを帯びている。正面には文字らしいものが彫られていたが、一部は削れて読みにくくなっていた。
モモは石柱の前で足を止め、顔を近づけすぎないようにしながら文字を眺めた。
「うーん……。何か書いてあるのは分かるけど、途中が消えちゃってるね。これ、いつ頃からここにあるんだろう」
「かなり古そうだね。でも、見た目だけでは分からないな」
ルシルは石柱の周囲を見渡した。
根元には草が生えており、土の中へしっかり埋め込まれているようだった。石柱の背後には短い草が続き、その向こうに緩やかな窪地が見える。
シモンは文字の残っている部分を確認し、少し考えるように目を細めた。
「少なくとも、街道に関係する目印であることは間違いなさそうです。こちらに方向を示すような刻みがあります。ただ、文字が摩耗しているため、現在も同じ意味で使われているかどうかは分かりませんね」
「昔の道標ってことかな?」
「その可能性はあります。道そのものが変わることもありますから、古い道標だけを頼りに進路を変えるのは避けた方がよいでしょう」
モモはその説明を聞きながら、石柱の側面へ回った。
そこには正面よりも浅い刻みが残っており、細い線が途中で二つに分かれているように見えた。
「あれ? こっちにも何かあるよ。道が二つに分かれてるみたいな形なんだけど、これも目印なのかな」
ルシルとシモンはモモの示した場所へ目を向けた。
確かに、石の側面には一本の線が途中で枝分かれするような刻みがあった。しかし、それが道を示すものなのか、単なる装飾なのかまでは判断できない。
「面白いね。昔、この辺りに別の道があったのかもしれない」
ルシルがそう呟くと、モモは嬉しそうに頷いた。
「そうだったら、ちょっとわくわくするね! 今は草原しか見えないけど、昔はここをたくさんの人が歩いてたのかな」
「可能性はあります。ただし、想像と確かな情報は分けておきましょう。旅帳面へ描くのでしたら、見えた形をそのまま残すのがよいと思います」
シモンが穏やかに助言すると、モモは笑顔で頷いた。
「うん! 分かった。じゃあ、勝手に意味を決めないで、見たまま描いておくね」
モモは馬車から旅帳面を持ってきて、石柱の形を描き始めた。
ルシルはその間、街道の先を眺めていた。
南へ続く道は相変わらず草原の中を伸びている。
しかし、石柱の背後にある窪地をよく見ると、草の生え方が周囲と少し違っていることに気づいた。短い草が帯状に続き、まるで誰かが何度も通った跡のようにも見える。
ただ、その帯は途中で途切れており、今も道として使われているのかは分からなかった。
「シモン、あの窪地の方を見てくれる? 草が少し短くなっている場所があるんだ」
シモンはルシルの隣へ立ち、示された方向を確かめた。
「確かに、周囲とは違うように見えますね。ただ、動物が通った跡という可能性もあります。人が利用していた道かどうかは、これだけでは判断できません」
「そうだね。僕たちは今の街道を進めばいいし、無理に確かめに行く必要はないかな」
ルシルはそう答え、石柱へ視線を戻した。
そのとき、少し離れた場所から鳥の羽ばたく音が聞こえた。
草原の低い草の間から小さな鳥が二羽飛び立ち、窪地の上を横切っていく。モモは驚いて顔を上げたが、鳥たちはすぐに風に乗り、遠くの草原へ姿を消した。
「わあ、びっくりした! あんなところに鳥さんがいたんだね」
「草の中で休んでいたのかもしれないね。僕たちが近づいたから驚かせちゃったかな」
ルシルが答えると、モモは少し申し訳なさそうに鳥の飛んでいった方向を見つめた。
「そうかもしれないね。ごめんね、鳥さんたち。わたしたちはもう少ししたら行くから、安心して戻ってきてね」
その声に、シモンが小さく微笑んだ。
「鳥たちが戻ってくるかどうかは分かりませんが、長居をしすぎない方がよいでしょうね。ここは日陰もありませんし、馬たちの休憩場所としては、もう少し適したところを探したいですから」
「うん。そうしよう」
ルシルは頷き、モモが描き終えるのを待った。
旅帳面には、古い石柱と、その周囲に生える草が丁寧に描かれていた。
モモは最後に、側面の枝分かれした線を小さく書き加えた。
「できた! ねえ、ルシル君。これ、いつか何の目印だったか分かる日が来るかな」
「どうだろう。でも、もし分かったら面白いね。今は分からないままでも、こうして見つけたことを覚えておけるから」
ルシルが答えると、モモは満足そうに笑った。
「うん。じゃあ、これは『草原で見つけた古い石柱』って書いておこうかな。意味はまだ分からないけど、ちゃんと見つけたものだからね」
三人は石柱から離れ、馬車へ戻った。
ルシルはトルクとベルクの様子を確かめ、二頭が落ち着いていることを確認してから、再び街道へ馬車を進ませた。
古い石柱は少しずつ後方へ遠ざかり、やがて草原の中に小さな影として残るだけになった。
モモは窓からその姿を見送りながら、少し考えるように呟いた。
「ねえ、ルシル君。あの石柱、誰が作ったんだろうね。今は文字が消えかけてるけど、作った人はきっと、誰かが道に迷わないようにって思ってたんだよね」
ルシルはその言葉に、少しだけ目を細めた。
「そうかもしれないね。もちろん、本当の理由は分からないけど、道標だったなら、誰かの役に立つために置かれたんだろうな」
「なんだか不思議だね。作った人がもうここにいなくても、石はずっと残ってるんだもん」
モモはそう言って、旅帳面の表紙を指先で撫でた。
シモンはその様子を見ながら、穏やかに口を開いた。
「古いものには、作られた当時の事情が残っていることがあります。ただ、形だけが残っていても、その意味まで正しく伝わるとは限りません。だからこそ、分からないことを無理に決めつけない姿勢も大切なのでしょう」
「うん。わたし、昔だったら『きっと秘密の道があるんだ!』って言って、すぐ探しに行きたくなってたかもしれない」
モモは少し照れくさそうに笑った。
「でも今は、知らない場所へ勝手に入っちゃいけないことも分かるし、ルシル君たちと相談してから決めたいって思うんだ」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。
モモは今でも好奇心旺盛で、面白そうなものを見つけると目を輝かせる。
けれど、旅を重ねるうちに、好奇心だけで動くのではなく、周囲の人や場所のことを考えられるようになっていた。
それは彼女の明るさが失われたということではない。
むしろ、興味を持ったものを大切にする方法が、少しずつ増えているのだろう。
「僕は、モモのそういうところが好きだよ。面白いものを見つけるのが上手だし、最近はその先のことまで考えてくれるからね」
ルシルが自然にそう言うと、モモは一瞬だけ目を丸くした。
それから、頬を少し赤くして笑った。
「えへへ……。ルシル君にそう言ってもらえると、なんだかすごく嬉しいな。でも、わたしだけじゃなくて、ルシル君も変わったと思うよ」
「僕が?」
「うん。前より、何かを見つけたときにすぐ答えを出そうとしなくなった気がするの。今日も、あの石柱が何なのか分からなくても、楽しそうにしてたでしょ?」
モモはそう言って、御者台のルシルへ笑顔を向けた。
「わたし、そういうルシル君を見るのも好きなんだ。何でも知ってる王子様みたいな人じゃなくて、一緒に『何だろうね』って考えてくれるところが」
ルシルはその言葉に、少しだけ息を止めた。
モモが口にした王子様という言葉は、もちろん彼の過去を知っているからこそのものだった。しかし、その響きには以前の立場を惜しむような気持ちはなく、今のルシルをまっすぐ見ている温かさがあった。
(僕は、何でも知っていなくてもいいんだ。分からないことがあっても、二人と一緒に考えられる。それが今の僕にとって、どれだけ大切なことなのか……モモはちゃんと分かってくれているんだね)
ルシルは少し照れくさくなりながらも、穏やかに笑った。
「ありがとう、モモ。僕も、今の自分の方が好きかもしれないな」
その言葉を聞いたシモンが、静かに目を細めた。
彼は何も言わなかったが、ルシルの横顔を見つめる眼差しには、深い安堵が滲んでいた。
午前の時間が進むにつれて、日差しは少しずつ強くなっていった。
草原を渡る風はまだ涼しさを残していたものの、直射日光を受け続けると、馬たちにも負担がかかるだろう。ルシルは空の様子を確かめながら、早めに休憩できる場所を探し始めた。
やがて、街道の左側に低い丘が見えてきた。
丘の斜面には背の低い木が数本生えており、そのうちの一本はほかよりも枝を広げている。大きな木陰とは言えないが、近くの地面は比較的平らに見えた。
「シモン、あの丘の手前なら少し休めそうかな。木陰は小さいけど、風も通っているみたいだし」
シモンは前方を確かめ、少し考えてから答えた。
「候補にはなりそうですね。ただ、丘の近くは地面が傾いている場合がありますから、馬車を寄せる前に確認した方がよいでしょう。無理に木陰へ入れる必要はありません」
「うん。まずは安全に停められる場所を探そう」
ルシルは頷き、馬車をゆっくり進ませた。
近づいてみると、丘の手前には草の短い平地があり、街道からの段差も少なかった。
ただし、木の根元に近い場所には小さな石がいくつか転がっている。ルシルは馬車を停めてシモンと地面を確かめ、車輪が安定する位置を選んだ。
馬車を寄せると、トルクとベルクは落ち着いて足を止めた。
ルシルは二頭へ声をかけながら馬具の状態を確認し、シモンは周囲に危険なものがないか確かめた。モモは木陰の広がり方を眺め、どこなら三人で座れるか考えているようだった。
「ルシル君、あの木の下なら少し涼しそうだよ。馬車を全部入れるのは難しいけど、わたしたちが休むには十分じゃないかな」
「そうだね。馬たちは風が通る場所で休ませよう。木陰へ無理に入れるより、その方が落ち着けるかもしれないから」
ルシルが答えると、モモは頷いた。
三人はトルクとベルクへ必要な水を与え、落ち着いて休めるようにした。
そのあと、木陰へ移動して短い休憩を取ることにした。
木の下には乾いた葉が少し落ちており、風が吹くたびに枝先が柔らかく揺れている。草原の広さに比べれば小さな木陰だったが、直射日光を避けられるだけでも、ずいぶん涼しく感じられた。
モモは腰を下ろすと、大きく息を吐いた。
「ああ、気持ちいい! やっぱり木陰ってありがたいね。さっきまでお日様がずっと当たってたから、ここに来たらすごく涼しく感じるよ」
「そうだね。昨日の集落の人が、日陰の少ない場所もあるって教えてくれた理由が分かった気がするよ」
ルシルはそう答えながら、水筒を手に取った。
冷たい水ではなかったが、喉を潤すには十分だった。
シモンは二人の様子を確かめてから、自分も水を飲んだ。
「今のところ、移動は順調ですね。道も大きく荒れていませんし、馬たちの状態にも問題は見られません。ただ、午後はさらに日差しが強くなる可能性がありますから、昼食後の移動については慎重に考えましょう」
「うん。今日はどこまで進むか決めていないし、無理をする必要はないよね」
ルシルは頷いた。
モモは木の幹へ背中を預けることなく、少し離れた草の上へ座り直した。
その視線は、丘の向こうに広がる景色へ向けられている。
「ねえ、ルシル君。あの丘の向こうって、何があるんだろうね。今は草原しか見えないけど、もう少し高いところから見たら、遠くまで見えるのかな」
「そうかもしれないね。でも、あそこまで登るなら足元を確かめないといけないし、今日は馬たちを休ませるために停まったからね」
ルシルが答えると、モモはすぐに頷いた。
「うん。今すぐ登りたいってわけじゃないよ。ただ、あの向こうに何があるのかなって考えるのが楽しいんだ」
モモはそう言って、草原を渡る風へ目を細めた。
ルシルも同じ方向を眺めた。
丘の向こうに何があるのかは、確かに分からない。
けれど、分からないからこそ、想像する楽しみがある。
そこにはまた別の草原が広がっているかもしれないし、小さな森があるかもしれない。あるいは、今まで見たことのない花が咲いている場所があるのかもしれなかった。
そのとき、シモンが少しだけ顔を上げた。
「お二人とも、あちらをご覧ください。丘の斜面に、何か白いものが見えます」
ルシルとモモは、シモンが示した方向へ目を向けた。
低い丘の中腹に、小さな白い影がいくつか揺れている。
最初は花かと思ったが、風に合わせて動いているわけではないようだった。
「何だろう。鳥かな?」
モモが目を細めると、ルシルも注意深く眺めた。
白い影は草の間をゆっくり移動しており、ときどき頭を下げるような動きを見せている。
「もしかして、羊かな。今朝じゃなくて昨日だけど、羊飼いさんと会ったばかりだから、そう見えるだけかもしれないけど」
ルシルがそう言うと、シモンは静かに頷いた。
「距離があるので断定はできませんが、羊のような動きに見えますね。群れの数は少なそうですし、周囲に人がいるかどうかも、ここからは分かりません」
モモはしばらく白い影を見つめたあと、嬉しそうに笑った。
「もし羊さんだったら、昨日の子たちとは別の群れかな。草原って、本当にいろんな動物が暮らしてるんだね」
「そうだね。僕たちが通っている道のすぐ近くにも、いろんな命があるんだな」
ルシルはそう答え、丘の斜面へ目を向けた。
白い影はしばらく草を食むような動きを続けていたが、やがて丘の反対側へゆっくり移動していった。
三人はその姿を見送り、再び木陰で休憩を続けた。
モモは旅帳面を開き、古い石柱の絵の隣に、小さな白い影を描き加えた。
「羊さんかもしれないけど、まだ分からないから、白い動物って書いておこうかな」
「それがよいでしょう。見えたことをそのまま残しておけば、あとで思い返したときにも、何を確認できたのか分かりますから」
シモンが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、草原を渡る風に耳を澄ませていた。
遠くで鳥が鳴き、木の葉がかすかに擦れ合っている。
特別な事件が起きたわけではない。
けれど、こうして何でもない時間を三人で過ごせることが、ルシルには何より大切に思えた。
しばらく休んだあと、三人は少し早めの昼食を取ることにした。
馬車から持ってきたパンと保存食を分け、木陰でゆっくり食べる。
モモは食事をしながら、今朝の焼き菓子を思い出したらしく、少しだけ名残惜しそうに笑った。
「ねえ、ルシル君。あのお菓子、本当においしかったね。もう食べちゃったけど、なんだかまた食べたくなってきちゃった」
「そうだね。でも、同じものをまた食べられるかどうかは分からないからこそ、あの朝の思い出が特別になるのかもしれないよ」
ルシルが答えると、モモは少し考えるように首を傾げた。
「そっか。いつでも食べられるものじゃないから、余計に覚えてるんだね。でも、わたし、いつか似たお菓子を作ってみたいな」
「そのときは、僕も手伝うよ。料理はまだまだ覚えることが多いけど、三人で作ったら楽しそうだからね」
ルシルがそう言うと、モモはぱっと顔を輝かせた。
「本当!? じゃあ、いつか材料を揃えて、三人でお菓子作りをしようね!」
シモンはそのやり取りを聞きながら、少しだけ微笑んだ。
「お二人とも、私も参加することになっているのですね」
「もちろんだよ、シモン君! 三人で作るって決めたんだから、シモン君だけ見てるなんて駄目だよ」
モモが笑顔で答えると、シモンは軽く肩をすくめた。
「承知しました。では、その際は材料の計量や火加減の確認など、私にできることを担当しましょう」
「もう、シモン君ってば、最初からお仕事みたいに考えてる!」
モモは楽しそうに笑った。
ルシルも思わず声を立てて笑い、三人の笑い声が小さな木陰へ広がった。
昼食を終えたあと、ルシルは馬車のそばへ戻り、トルクとベルクの様子を確かめた。
二頭とも落ち着いており、休息を取ったことで疲れた様子も見られない。
しかし、太陽は少しずつ高くなっており、これからの移動では日差しへの注意が必要そうだった。
「シモン、午後はどれくらい進もうか。今日はこの先に大きな町があるって聞いているわけじゃないし、無理に距離を稼ぐ必要はないと思うんだけど」
ルシルが尋ねると、シモンは手帳を開き、これまでの道の情報を確認した。
「そうですね。昨日の集落では、南へ向かうとしばらく草原が続くと教えていただきましたが、次の休み場までの距離は分かっていません。午後は安全に進める範囲で移動し、早めに野営候補を探すのがよいでしょう」
「うん。僕もそう思うよ」
ルシルは頷いた。
モモも二人の会話を聞き、旅帳面を閉じた。
「じゃあ、午後は景色を見ながら、休めそうな場所を探すんだね。わたしもちゃんと周りを見てるよ!」
「頼りにしてるよ、モモ。でも、ずっと気を張っている必要はないからね。疲れたら休んでいいし、面白いものを見つけたら教えてくれればいいから」
「うん! 分かった!」
モモは元気よく頷いた。
三人は木陰を離れ、馬車へ戻った。
ルシルはトルクとベルクへ声をかけ、馬具の状態を確かめてから御者台へ上がる。
シモンは車輪と荷物の固定を確認し、モモは窓辺の青い風魚の布が引っかかっていないか確かめた。
準備が整うと、馬車は再び南へ向かって動き始めた。
午後の草原は、午前とは少し違う表情を見せていた。
日差しを受けた草の色は明るく、遠くの丘には薄い影が落ちている。
風は穏やかだったが、ときどき強めに吹くことがあり、そのたびに草原全体が大きく波打つように揺れた。
モモは窓からその景色を眺め、思わず感嘆の声を漏らした。
「わあ……。草が一斉に動くと、本当に海みたいに見えるね。青波で見た海とは色が違うけど、風が通るたびに波ができるところは少し似てるかも」
ルシルはその言葉に微笑んだ。
「そうだね。海の波は水が動いているけど、ここでは草が動いているんだね。同じ風でも、場所によって見えるものが違うんだな」
「うん! なんだか、旅をしてると、前に見た景色と今の景色がつながっていく気がするよ」
モモはそう言って、窓辺に揺れる青い風魚の布へ目を向けた。
青波で手に入れたその布は、今も馬車の窓辺に飾られている。
風を受けるたびに小さく揺れる姿は、まるで海の記憶を草原まで運んできたようだった。
ルシルはその様子を見ながら、少しだけ胸を温かくした。
旅先で手に入れたものは、単なる荷物ではない。
その場所で出会った人や、見た景色、交わした言葉を思い出させてくれる大切なものなのだ。
しばらく進むと、街道の先に緩やかな下り坂が現れた。
道は大きく曲がってはいなかったが、左右の草原が少し低くなっており、その向こうに浅い谷のような地形が広がっている。
ルシルは馬車の速度を落とし、慎重に進んだ。
「少し下り坂になってるね。トルク、ベルク、ゆっくり行こう」
二頭はルシルの声に応えるように歩調を緩めた。
馬車の車輪が小さな石を踏むたびに、かすかな振動が伝わってくる。
シモンは窓から前方を確かめ、道の状態を見守っていた。
「今のところ大きな問題はなさそうですが、下りきった先の地面がどうなっているかは、まだ分かりませんね。速度を抑えたまま進みましょう」
「うん。分かった」
ルシルは頷き、手綱を穏やかに保った。
やがて坂を下りきると、街道の右側に少し広い平地が現れた。
そこには草が短く生えており、地面も比較的平らに見える。
さらに奥には、低い木が数本まとまって生えている場所があった。
モモはその景色を見つけると、嬉しそうに声を上げた。
「ルシル君、あそこ! 木が何本かあるよ。もしかしたら、夕方に休める場所になるかな?」
ルシルは前方の道を確かめながら、木々の方へ目を向けた。
「そうだね。候補にはなりそうだよ。でも、まだ午後も早いし、ここで今夜の場所を決めるかどうかは、少し考えようか」
シモンも木々の周囲を見つめ、静かに頷いた。
「地面の状態を確認する価値はありそうです。ただ、ここから見える範囲だけでは、野営に適しているかどうかは判断できません。馬車を寄せる前に、もう少し近くで確かめましょう」
三人は相談し、街道の端へ馬車を停めた。
ルシルはトルクとベルクを落ち着かせ、シモンとともに平地の様子を確かめた。
木々の近くには乾いた葉が落ちており、地面は比較的固い。
しかし、奥の方には浅い窪みがいくつかあり、場所によっては車輪が傾いてしまう可能性があった。
ルシルはその様子を見ながら、少し考えた。
「木の近くまで入るのは難しそうだね。でも、手前の平地なら馬車を停められるかもしれない」
「そうですね。ただ、ここで一晩過ごすなら、風向きや地面の状態をもう少し確認したいところです。今すぐ決める必要はありませんから、候補として覚えておくのがよいでしょう」
シモンが答えると、ルシルは頷いた。
モモは木々の方を眺めながら、少しだけ首を傾げた。
「ねえ、ルシル君。あの木の下に、何か落ちてないかな。白っぽいものが見えるんだけど」
ルシルはモモの示した方向へ目を向けた。
確かに、木の根元近くに小さな白いものが見える。
石のようにも見えたが、形は少し不規則だった。
「何だろう。ここからだとよく分からないね」
ルシルがそう答えると、シモンは周囲の地面を確かめた。
「足元に問題がなければ、少し近づいて確認することはできそうです。ただし、草の中に何があるか分かりませんから、慎重に進みましょう」
三人は馬車を安全な位置に停めたまま、木々の方へゆっくり歩いた。
近づくにつれて、白いものの正体が少しずつ分かってきた。
それは、小さな木片だった。
表面には白い塗料のようなものが残っており、片側には細い穴が開いている。
モモはその前で足を止め、興味深そうに眺めた。
「これ、何かの飾りだったのかな。白い色が残ってるし、穴も開いてるね」
ルシルは木片を見つめ、少し考えた。
「そうかもしれないね。でも、誰かが落としたものかもしれないから、勝手に持っていかない方がいいかな」
シモンも頷いた。
「ええ。古いものかどうかも分かりませんし、ここで使われていた道具の一部という可能性もあります。位置を覚えておく程度にしておきましょう」
モモは少し名残惜しそうに木片を眺めたが、すぐに笑顔で頷いた。
「うん。そうだね。じゃあ、旅帳面に描いておこうかな。何だったのかは分からないけど、ここで見つけたことは覚えておきたいもん」
ルシルはその言葉に微笑んだ。
旅を続けていると、知らないものに出会うことがある。
そのすべてを持ち帰ることはできないし、意味を確かめられるとも限らない。
けれど、見つけたことを覚えておくだけでも、旅の思い出にはなるのだろう。
三人は木片をそのままにして、馬車へ戻った。
ルシルはトルクとベルクの様子を確かめ、二頭が落ち着いていることを確認した。
太陽はまだ高い位置にあり、今すぐ野営の準備を始めるには少し早い時間だった。
シモンは手帳へこの場所の特徴を書き留め、ルシルへ顔を向けた。
「ルシル様、ここは野営候補として覚えておきましょう。ただ、まだ移動できる時間はありますから、もう少し先の様子を見てから判断してもよいと思います」
「うん。僕もそう思うよ。もしこの先にもっと休みやすい場所が見つからなければ、戻ることも考えられるしね」
ルシルが答えると、モモも頷いた。
「じゃあ、もう少し進んでみよう! でも、暗くなる前にはちゃんと決めようね」
「もちろん。今日は無理に遠くまで行くつもりはないから、安心してね」
ルシルは笑顔で答え、再び御者台へ上がった。
馬車はゆっくりと動き始め、木々のある平地を後にした。
午後の草原には、柔らかな風が吹いている。
遠くの丘には雲の影が落ち、空の青さは朝よりも少し深くなっていた。
モモは旅帳面を開き、今日見つけた古い石柱と、小さな木片の絵を並べて眺めた。
「ねえ、ルシル君。今日はなんだか、昔の人が残したものを二つも見つけたみたいだね」
ルシルは少し考えてから答えた。
「そうだね。ただ、木片がいつのものかは分からないから、昔のものとは限らないけどね。でも、誰かが作ったものが草原に残っているって、なんだか不思議だな」
「うん。わたしたちが通り過ぎたあとも、あの石柱や木片は、きっとあそこに残ってるんだよね」
モモはそう言って、窓の外へ目を向けた。
ルシルも前方の道を見つめながら、静かに頷いた。
旅人は、同じ場所に長く留まるわけではない。
けれど、通り過ぎた場所には、そこに暮らしていた人や、かつて道を歩いた人たちの痕跡が残っている。
それを見つけることも、旅の楽しみの一つなのかもしれなかった。
やがて街道の先に、再び緩やかな丘が見えてきた。
その向こうには何があるのか、まだ分からない。
ルシルは手綱を握りながら、少しだけ笑った。
「さて、次はどんな景色が見えるかな」
モモは嬉しそうに顔を上げた。
「きっと、また面白いものが見つかるよ! わたし、今日はまだまだいろんなものを見たいな」
シモンも穏やかに頷いた。
「ええ。ただし、夕方までには野営場所を決めましょう。新しい発見も大切ですが、今日の休息を確保することも忘れてはいけませんから」
「分かってるよ、シモン君! ちゃんと休む場所も探すからね!」
モモは笑いながら答えた。
ルシルは二人のやり取りを聞き、自然と微笑んだ。
南へ続く旅は、まだまだ終わらない。
けれど、どこへ向かうのか分からないことが、不安ばかりを生むわけではない。
三人で相談し、確かめながら進めば、知らない道も少しずつ自分たちの旅の一部になっていく。
ルシルはそんな思いを胸に、トルクとベルクへ穏やかに声をかけた。
馬車は午後の草原をゆっくりと進み、遠くの丘へ向かっていった。
その後ろには、今日見つけた古い石柱と、小さな木片のある木陰が残されている。
そして前方には、まだ知らない景色が広がっていた。
ルシルは仲間たちの声を聞きながら、今日もまた、自分たちの旅が少しずつ豊かになっていくのを感じていた。




