第119話 草原の村に響く朝の鐘と、旅人が見つけた小さな贈り物
草原の小さな集落に朝が訪れたことを、ルシルは鐘の音で知った。
まだ薄い青色を残した空の下、家々の屋根を越えて、澄んだ金属音がゆっくりと広がっていく。大きな町の鐘楼から響くような重々しい音ではなく、どこか手作りの温かさを感じさせる軽やかな音だった。三度続けて鳴ったあと、少し間を置いてもう一度だけ響き、やがて草原を渡る風の中へ溶けていった。
馬車の窓辺に座っていたルシルは、手にしていた上着を膝へ置き、音のした方角へ顔を向けた。
昨夜、三人が休ませてもらったのは、集落の広場から少し離れた荷車用の空き地だった。干し草を保管する小屋から十分な距離を取り、ほかの荷車が通れるように馬車を停めてある。夜の間は火を使わず、持参した食料で夕食を済ませたため、周囲に余計な迷惑をかけることもなかった。
窓の外には朝露をまとった草が広がり、その向こうでは低い屋根の家々が柔らかな光を受け始めていた。
「今の音……鐘かな?」
ルシルが小さく呟くと、向かい側の寝床からモモが顔を上げた。
桃金色の髪は眠っている間に少し乱れており、本人はまだ半分ほど夢の中にいるような表情をしている。それでも鐘という言葉には興味を引かれたらしく、毛布を肩に掛けたまま窓の方へ身を寄せてきた。
「鐘? わたしも聞こえたよ。なんだか、きれいな音だったね。もう朝ご飯の時間ですよーって、みんなに教えてくれてるのかな?」
「どうだろう。集落の人たちが使っている合図なのかもしれないね。昨日は聞かなかったから、朝だけ鳴らすものなのかな」
ルシルはそう答えながら、モモの肩から滑り落ちかけた毛布を指さした。
モモは慌てて毛布を抱え直し、少し照れくさそうに笑った。
「えへへ。まだちょっと眠いけど、あの音を聞いたら起きたくなっちゃった。今日はどんな一日になるのかな」
「まずは顔を洗って、朝ご飯を食べて、それから昨日お世話になった人たちに挨拶かな。出発する前に、馬車を停めた場所もきれいにしておきたいしね」
そのとき、奥の寝床から衣擦れの音が聞こえた。
シモンはすでに眼鏡を掛け、上着の襟元を整えているところだった。二人の会話が聞こえていたらしく、穏やかな表情でこちらを向いた。
「おはようございます、ルシル様、モモ嬢。先ほどの鐘は、私にも聞こえました。集落の生活に関わる合図でしょうが、何を知らせるものなのかは、住民の方に伺わないと分かりませんね」
「おはよう、シモン。うん、そうだね。僕たちが勝手に意味を決めるのも違うし、機会があったら聞いてみよう」
「おはよう、シモン君! ねえ、朝ご飯を食べたら、ちょっとだけ村の中を見てもいいかな? 昨日はお水を汲んだり、泊まる場所を探したりしてたから、あんまり周りを見られなかったんだ」
モモが期待を込めて尋ねると、シモンはすぐに否定することなく、窓の外へ目を向けた。
「集落の方々の生活を妨げない範囲であれば、少し歩くのもよいと思います。ただし、昨日のお約束では、今朝ほかの荷車が来る可能性があるとのことでした。まずは馬車を移動できる状態に整えて、世話役の方へ出発予定をお伝えしましょう」
「そっか。ここはわたしたちだけの場所じゃないもんね。じゃあ、先に片づけを終わらせよう!」
モモは元気よく頷き、ようやく毛布を畳み始めた。
ルシルはその姿を見ながら、自然と笑みを浮かべた。
旅を始めたばかりの頃は、知らない土地で朝を迎えるたびに、次は何をすればいいのか考える時間が必要だった。しかし今は、三人とも自分にできることを少しずつ見つけられるようになっている。
それは旅に慣れたというだけではなく、互いの考え方を理解し始めた証でもあるように思えた。
朝食は、昨夜と同じく火を使わずに用意できるものを選んだ。
パンに保存の利く食材を添え、補給したばかりの水を使って喉を潤す。窓から差し込む朝の光はまだ穏やかで、食事をしている間にも、集落のあちこちから人の動く気配が聞こえてきた。
木の扉が開閉する音や、遠くで交わされる挨拶、桶を置く乾いた音が、静かな朝の空気に少しずつ重なっていく。
モモはパンを口へ運びながら、耳を澄ませていた。
「昨日の夕方とは、また違う感じがするね。夜は静かだったけど、朝になるとみんなが動き始める音が聞こえてくるよ」
「うん。僕たちは今日出発するけど、ここに暮らしている人たちは、今日もいつもの仕事を始めるんだろうね」
ルシルが答えると、シモンは水容器の蓋を閉めながら頷いた。
「ええ。昨日、井戸を管理していた方も、今朝は別の作業をされているかもしれません。私たちが利用した場所も、次に使う方が困らない状態へ戻しておきましょう」
朝食を終えた三人は、馬車の中を整えてから外へ出た。
草原の空気には夜の冷たさがわずかに残っていたが、東の空から差し込む日差しは明るく、今日も穏やかな天気になりそうだった。トルクとベルクは二頭とも落ち着いており、ルシルが近づくと、トルクが待っていたように顔を寄せてきた。
「おはよう、トルク。ベルクも、よく眠れたかな?」
ルシルは二頭へ声をかけながら、首筋や脚の様子を確かめた。
長く旅を続けていると、馬たちのわずかな変化にも目を向けるようになる。歩き方に不自然なところはないか、馬具が擦れていないか、食欲はいつもどおりか。以前ならシモンに任せきりだったことも、今ではルシル自身が確かめるようになっていた。
ベルクは穏やかに鼻を鳴らし、トルクはルシルの手元へ視線を向けている。
「ふふっ。トルク君、今日も朝から元気だね。ルシル君の手に何かおいしいものがあると思ってるのかな?」
モモが笑うと、ルシルも苦笑した。
「残念だけど、今は何も持ってないよ。ちゃんと朝の分は用意してあるから、少し待っていてね」
その言葉を理解したかどうかは分からないが、トルクは耳を動かし、今度は馬車の方へ顔を向けた。
シモンは二頭の様子を見ながら、馬具の留め具を確かめていた。
「どちらも落ち着いていますね。昨夜は人の暮らす場所で休みましたが、大きな物音もありませんでしたし、十分に休息を取れたようです」
「そうだね。今日は出発を急がなくてもいいけど、あまり遅くなると日差しが強くなるかもしれないから、朝のうちに準備を終わらせよう」
三人は相談しながら、空き地に残したものがないか確認した。
馬車の周囲に落ちている小さな草くずや、昨夜の作業で動かした道具の位置を整え、借りた場所を元の状態へ戻していく。モモは馬車の近くに落ちていた短い紐を拾い上げたが、それが自分たちのものかどうか分からなかったため、勝手に持ち帰らず、シモンへ相談した。
「シモン君、これって、もともとここにあったものかな? わたしたちの荷物から落ちた感じじゃないんだけど」
シモンは紐の状態を確かめ、近くの木柵へ目を向けた。
「古い荷縄の一部かもしれませんね。私たちの持ち物ではないようですから、使えるものかどうかも含めて、管理されている方に確認するのがよいでしょう」
「分かった。じゃあ、なくならないようにここへ置いておこうかな」
モモは紐を道の邪魔にならない場所へ置き、再び周囲を見渡した。
そのとき、空き地の向こうから車輪の音が聞こえてきた。
小さな荷車を引いた男性が、家々の間からゆっくりと姿を現した。荷台には空の木箱がいくつか積まれており、男性は見慣れない馬車を見つけると、少し驚いたように目を向けた。
「おや、旅の人かい? 昨日はここに泊まっていたのかな」
ルシルは男性へ向き直り、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます。はい。昨日、集落の世話役の方に許可をいただいて、こちらで一晩休ませてもらいました。今、出発の準備をしているところです」
「そうだったのか。いや、荷車を置く場所が空いているか見に来ただけなんだ。急いでどいてもらう必要はないよ」
男性はそう言いながら、空き地の広さを確かめた。
ルシルたちの馬車は通路を塞がない位置に停めてあったため、荷車が通る余裕は十分にある。男性はそのことに気づくと、安心したように笑った。
「ちゃんと端へ寄せてくれているんだね。それなら、こっちも困らない。朝から気を遣わせて悪かったね」
「いえ、こちらこそお借りしている場所ですから。もし作業の邪魔になるようでしたら、すぐに動かします」
「大丈夫だよ。私は箱を取りに来ただけだからね。今日は畑から運ぶものがあるんだ」
男性は荷車を空き地の反対側へ寄せ、積んでいた木箱を一つずつ確かめ始めた。
その姿を見ていたモモが、興味深そうに尋ねた。
「あの、昨日この集落の畑を見たんですけど、ここではいろんな野菜を育てているんですか?」
男性は手を止め、モモの方へ顔を向けた。
「そうだね。季節によって違うけど、葉物や根菜、それから保存の利く作物も育てているよ。大きな町みたいに何でも手に入るわけじゃないから、できるだけ自分たちで育てるようにしているんだ」
「へえ……! じゃあ、昨日の畑で見た野菜も、みんなの食卓に並ぶんですね」
「そういうことさ。もちろん、育てたものを全部ここで食べるわけじゃないけどね。余った分をほかの場所へ運んで、必要なものと交換することもあるよ」
男性はそう答え、木箱の縁を軽く叩いた。
「今日はその準備をするんだ。箱が足りなくなると困るから、朝のうちに数を確かめておこうと思ってね」
ルシルはその話を聞き、昨夜見た家々の姿を思い出していた。
小さな集落だからといって、すべてのものを集落の中だけで賄っているわけではない。街道を通る荷車や旅人、近隣の町との行き来が、ここでの暮らしを支えているのだろう。
「僕たちも昨日、街道で荷物を運んでいる方に会ったんです。その人から、この集落のことを教えてもらいました」
ルシルがそう話すと、男性は少し考えるような顔をした。
「そうかい。この辺りを通る運び手なら、集落のことを知っている人もいるだろうね。ここは大きな道から少し入ったところにあるから、初めて来る人には分かりにくいんだ」
「はい。石垣を目印にして来たんですが、教えてもらっていなかったら、通り過ぎていたかもしれません」
「ははっ、それはあるだろうね。あの石垣は畑を囲っているものだけど、旅人には道の目印にもなっているみたいだ」
男性は笑いながら、木箱を荷車へ積み直した。
ルシルはその作業を少し眺めていたが、男性が一人で問題なく扱えていることを確かめると、必要以上に手を出すことはしなかった。
旅の途中で困っている人を助けたいと思うことは多い。しかし、誰かが自分の仕事をしているからといって、すべてに手を貸せばよいわけではないことも、少しずつ分かってきていた。
男性は最後の箱を整えると、三人へ軽く手を振った。
「それじゃあ、私は仕事に戻るよ。旅を続けるなら、道中気をつけてね」
「ありがとうございます。お仕事、頑張ってください」
ルシルが答えると、男性は笑って荷車を引き、家々の方へ戻っていった。
モモはその後ろ姿を見送りながら、少し考えるように首を傾げた。
「ねえ、ルシル君。わたしたちが昨日ここへ来たときは、静かな村だなって思ったけど、朝になると、いろんな人がお仕事してるんだね」
「うん。僕たちが見ていなかっただけで、昨日もきっと、みんなそれぞれの仕事をしていたんだろうね」
「そうだよね。旅をしていると、どうしても自分たちが通ったところしか見えないけど、その場所にはずっと前から暮らしている人がいるんだもんね」
モモはそう言って、家々の方へ視線を向けた。
朝の光を受けた屋根の下では、今日も変わらない生活が始まっている。
旅人にとっては一晩だけの休み場でも、そこに暮らす人たちにとっては、毎日を積み重ねていく大切な場所なのだ。
その違いを知ることも、旅の楽しさの一つなのかもしれなかった。
片づけを終えた三人は、馬車をそのまま置いて、世話役の女性へ挨拶に向かうことにした。
トルクとベルクのそばにはシモンが残り、ルシルとモモが広場へ向かう。昨日と同じ役割分担ではあったが、今回は道も分かっているため、二人の足取りには余裕があった。
広場へ出ると、井戸の周囲にはすでに何人かの住民が集まっていた。
水を汲む人、桶を運ぶ人、順番を待ちながら隣の人と話している人。昨日の午後とは違い、朝の井戸端には人々の暮らしがそのまま集まっているようだった。
ルシルは通行の邪魔にならない場所で足を止め、周囲を見渡した。
「朝は井戸を使う人が多いんだね。昨日の管理人さんもいるかな」
「どうだろう。あ、でも、あそこにいる人たち、みんな順番にお水を汲んでるみたい。ちゃんと決まりを守って使ってるんだね」
モモは声を少し抑えながら答えた。
井戸の近くでは、昨日とは別の女性が滑車を扱っていた。彼女は桶の水を受け取る人へ何か声をかけ、相手が頷くと、次の桶を引き上げている。
その様子を眺めていると、昨日世話になった年配の男性が、広場の向こうから歩いてくるのが見えた。
男性は二人に気づくと、親しげに手を上げた。
「おや、昨日の旅人さんたちじゃないか。よく眠れたかい?」
「おはようございます。はい、おかげさまでゆっくり休めました。昨日は井戸を使わせていただいて、本当にありがとうございました」
ルシルが頭を下げると、男性は穏やかに笑った。
「それはよかった。馬たちも元気そうだったし、無事に朝を迎えられたなら何よりだよ」
モモも嬉しそうに挨拶した。
「おはようございます! 昨日のお水、とっても助かりました。トルク君もベルク君も、ちゃんと飲めましたよ!」
「そうかい、そうかい。それならよかった。あの二頭は落ち着いていたから、世話をするのも楽だっただろうね」
男性はそう答え、井戸の方へ目を向けた。
「今日は朝から水を使う人が多くてね。私は滑車の具合を見に来たところなんだ。昨日少し気になるところがあったから、念のため確かめようと思ってね」
「昨日、桶を戻すときに気をつけるよう教えていただいたところですか?」
ルシルが尋ねると、男性は感心したように頷いた。
「よく覚えていたね。そう、その滑車だよ。今すぐ使えなくなるわけじゃないけど、縄が触れるところを少し直しておきたいんだ」
ルシルは井戸の上部へ視線を向けた。
木製の滑車は長年使われてきたためか、縁の一部が擦り減っているように見える。ただし、ルシルには、それがどの程度の問題なのかまでは判断できなかった。
「そうなんですね。僕には詳しいことは分からないけど、毎日使うものだから、早めに気づけるのは大事なんでしょうね」
「そのとおりさ。大きく壊れてから直そうとすると、みんなが困るからね。少しずつ手を入れながら使っていくのが一番なんだよ」
男性はそう言って、井戸のそばに置かれた道具箱を指さした。
「今日は道具を持ってきたから、朝の水汲みが落ち着いたら見てみるつもりなんだ」
モモはその話を聞き、井戸の周囲へ改めて目を向けた。
昨日はただ、水を分けてもらえたことが嬉しかった。
けれど、その水を使える状態に保つためには、誰かが毎日道具を確かめ、壊れそうなところを直し、みんなが安心して使えるようにしている。
それは魔法で一度に何かを解決することとは違う、地道な仕事だった。
「なんだか、すごいですね。わたし、昨日はお水が汲めて嬉しいって思ってたけど、そのために毎日いろんなことをしてくれてる人がいるんですね」
モモが素直にそう言うと、男性は少し照れくさそうに笑った。
「そんな大げさなことじゃないよ。私だって、若い頃は年寄りたちに教えてもらいながら覚えたんだ。今は自分ができることをしているだけさ」
「でも、そうやって誰かが覚えて、次の人へ教えていくから、ずっと使えるんですよね。わたし、そういうのって素敵だと思います」
モモの言葉に、男性はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ目元を緩めた。
「ありがとう、お嬢さん。そう言ってもらえると、長くやってきた甲斐があるね」
ルシルは二人のやり取りを見守りながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
この集落の人たちは、自分たちが特別なことをしているとは思っていないのかもしれない。
けれど、旅人として立ち寄ったルシルたちには、その当たり前の暮らしを支える仕事が、とても大切なものに見えた。
井戸のそばでしばらく話したあと、二人は管理人へ改めて礼を述べ、世話役の女性の家へ向かった。
昨日と同じ扉の前で声をかけると、ほどなくして女性が姿を現した。
今日は昨日よりも動きやすそうな服装をしており、手には小さな布袋を持っていた。二人を見ると、すぐに思い出したように微笑んだ。
「あら、旅人さんたち。おはようございます。昨夜はよく休めましたか?」
「おはようございます。はい、とても静かで、ゆっくり休むことができました。今日はこのあと出発する予定なので、お礼をお伝えしたくて伺いました」
ルシルが答えると、女性は安心したように頷いた。
「それはよかったです。馬車を停める場所は、不便ではありませんでしたか?」
「いいえ。広さも十分でしたし、馬たちも落ち着いて休めました。使わせていただいた場所は片づけましたが、もし何か問題があれば教えてください」
「ありがとうございます。あとで私も見ておきますね。昨日、きちんと決まりを確認してくださったので、心配はしていませんけれど」
女性はそう言って微笑んだ。
モモは少しだけ前へ出て、明るい声で礼を述べた。
「本当にありがとうございました! 昨日は知らない場所だったから、どこで休もうかなって思ってたんです。でも、ここに泊まらせてもらえて、すごく安心しました!」
「そう言ってもらえると嬉しいですね。小さな集落ですから、旅人さんにできることは限られていますけれど、困っている方がいれば、できる範囲でお手伝いしたいと思っています」
女性はそう答え、二人の顔を見比べた。
「ところで、今日はこのまま南へ向かわれるんですか?」
「はい。そのつもりです。まだ次の町までの詳しい道のりは分からないので、街道へ戻ってから、様子を見ながら進もうと思っています」
ルシルが答えると、女性は少し考えるような表情になった。
「それでしたら、ひとつだけお伝えしておきましょうか。この先の街道は、しばらく草原が続きます。道そのものは分かりやすいと思いますけれど、日差しを遮る場所が少ないところもありますから、馬たちを休ませるときは気をつけてくださいね」
「ありがとうございます。水は昨日補給できましたし、無理をせず進むようにします」
ルシルは丁寧に頷いた。
女性はその返事に安心したようだったが、すぐに別のことを思い出したらしく、手にしていた布袋へ目を向けた。
「そうそう。実は、ちょうどよかったんです。これから広場へ持っていこうと思っていたものがあるんですよ」
女性はそう言って、布袋の口を少し開いた。
中には小さな焼き菓子がいくつか入っていた。
表面は薄い黄金色で、丸い形をしているものもあれば、少し楕円形になっているものもある。大きさは手のひらに収まる程度で、焼き上がりの香ばしさが布袋の口からかすかに漂ってきた。
モモの目が、ぱっと輝いた。
「わあ……! おいしそう!」
思わず声を上げてから、モモは慌てて口元へ手を当てた。
「ご、ごめんなさい! あんまりいい匂いがしたから、つい……」
女性はその反応に声を立てて笑った。
「ふふっ、いいんですよ。そんなに喜んでもらえるなら、作った甲斐がありますね。これは今朝焼いたものなんです。広場で仕事をする人たちに分けようと思っていたんですよ」
「そうだったんですね。朝からお菓子を焼いていたんですか?」
ルシルが尋ねると、女性は頷いた。
「ええ。今日は少し多めに生地を作ったので、いつもよりたくさん焼けたんです。よかったら、旅のお供に少し持っていきませんか?」
その言葉に、モモは目を丸くした。
「えっ、いいんですか!? でも、広場の人たちに配るものなんですよね?」
「大丈夫ですよ。必要な分はちゃんと残してありますから。それに、旅人さんに食べてもらえるなら、私も嬉しいです」
女性はそう言って、布袋から焼き菓子を三つ取り出した。
ルシルは少し驚きながらも、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、昨日からいろいろお世話になっていますし、代金をお支払いした方が……」
女性は穏やかに首を振った。
「これは売り物ではありませんから、気にしないでください。昨日、井戸の使い方も、空き地の決まりも、きちんと守ってくださったでしょう? そういう旅人さんなら、気持ちよく送り出したいんです」
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ胸が詰まるような感覚を覚えた。
自分たちは、特別なことをしたつもりはなかった。
ただ、借りた場所を大切に使い、教えてもらった決まりを守り、迷惑をかけないようにしていただけだ。
けれど、それを見てくれている人がいる。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
「……ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて、いただきます。三人で大切に食べますね」
ルシルがそう答えると、女性は嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。旅の途中で、お腹が空いたときにでも食べてください」
モモは両手を胸の前で合わせ、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます! わたし、絶対おいしくいただきます!」
女性はその勢いに少し驚いたあと、また楽しそうに笑った。
「ふふっ。そんなに喜んでもらえるなら、また作りたくなってしまいますね」
二人は焼き菓子を丁寧に受け取り、もう一度礼を述べてから家を後にした。
広場へ戻る道すがら、モモはルシルが持つ包みを何度も見つめていた。
ルシルはその様子に気づき、思わず笑ってしまった。
「モモ、そんなに気になる?」
「だって、すっごくいい匂いがするんだもん! でも、ちゃんと三人で食べるって決めたから、今は我慢するよ。シモン君にも早く見せてあげたいな」
「そうだね。きっとシモンも喜ぶと思うよ。昨日のお礼を伝えに行っただけなのに、こんな贈り物までいただけるなんて思わなかったね」
ルシルがそう答えると、モモは少しだけ表情を柔らかくした。
「うん。でも、なんだか、お菓子そのものも嬉しいけど、あの人がわたしたちに渡したいって思ってくれたことが、もっと嬉しいかも」
その言葉に、ルシルは静かに頷いた。
モモは食べ物が好きで、おいしそうなものを見ると目を輝かせる。
けれど、それだけではない。
誰かが自分たちのために何かをしてくれたとき、その気持ちをまっすぐ受け取って喜べるところも、モモの大切な魅力なのだろう。
ルシルは包みを持ち直し、穏やかに微笑んだ。
「僕もそう思うよ。きっと、旅が終わってからも覚えているんだろうね。この村で、朝に焼き菓子をもらったこと」
「うん! わたし、旅帳面にも描いておこうかな。お菓子の形も、あの人の笑顔も、ちゃんと覚えておきたいもん」
モモはそう言って、嬉しそうに歩き始めた。
広場の近くへ戻ると、井戸端では朝の水汲みが少し落ち着いていた。
先ほどの管理人は道具箱を開き、滑車の近くを確かめている。周囲には何人かの住民が集まっていたが、作業の邪魔にならないよう距離を取って見守っていた。
ルシルはその様子を見て、足を止めた。
「モモ、少しだけ見ていこうか。さっき、滑車を直すって言っていたから」
「うん。わたしも気になる!」
二人は井戸から少し離れた場所へ移動し、作業の様子を眺めた。
管理人は滑車の縁へ細い木片を当て、別の男性と何か相談している。どうやら擦り減った部分の状態を確かめ、必要な補修を考えているようだった。
ルシルには詳しい作業の内容までは分からなかったが、二人が慎重に話し合いながら手を動かしていることは伝わってきた。
やがて管理人がこちらへ気づき、軽く手を上げた。
「おや、まだいたのかい。出発の準備はどうだね?」
「はい、ほとんど終わりました。今、世話役の方へお礼を伝えてきたところです。滑車の具合はどうですか?」
ルシルが尋ねると、男性は少し笑った。
「大きな問題はなさそうだよ。ただ、擦れているところがあるから、今日はそこを整えておこうと思ってね。こういうのは、少しずつ手を入れておくのが大事なんだ」
「そうなんですね。無事に直るといいですね」
「ああ、ありがとう。旅人さんたちも、道中気をつけてな」
男性はそう答え、再び作業へ戻った。
ルシルとモモは邪魔にならないよう静かにその場を離れ、馬車のある空き地へ向かった。
シモンは二頭の馬のそばで待っていた。
ルシルたちの姿を見ると、すぐに顔を上げたが、モモが嬉しそうに何かを抱えていることに気づき、少し不思議そうな表情になった。
「お帰りなさい、ルシル様、モモ嬢。お礼のご挨拶は済みましたか?」
「うん。世話役の方にも、井戸の管理人さんにもお礼を伝えられたよ。それからね、思いがけないものをいただいたんだ」
ルシルはそう言って、焼き菓子の包みを見せた。
モモは待ちきれない様子で、隣から説明を始めた。
「シモン君、見て見て! 世話役の人が、今朝焼いたお菓子を分けてくれたんだよ! 三人で食べてくださいって!」
シモンは包みの中を覗き、少し驚いたように目を細めた。
「これは……ずいぶんありがたいお心遣いですね。昨日からお世話になっているのに、そこまでしていただけるとは」
「うん。僕も驚いたよ。でも、僕たちが決まりを守って使ってくれたから、気持ちよく送り出したいって言ってくれたんだ」
ルシルがそう説明すると、シモンは静かに頷いた。
「そうでしたか。それなら、ありがたくいただきましょう。お礼をきちんと伝えてくださったのであれば、あとはそのお気持ちを大切に受け取るのがよいと思います」
モモはその言葉に嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、出発する前に一つずつ食べてもいいかな? せっかくだから、まだ村にいるうちに味わいたいなって思って」
ルシルはシモンへ目を向けた。
シモンは少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「出発の準備は整っていますし、少し休憩する時間はあります。馬たちも落ち着いていますから、ここでいただいても問題ないでしょう」
「やったあ!」
モモは嬉しそうに声を弾ませたが、すぐに近くの家を思い出したのか、少しだけ声を抑えて笑った。
三人は馬車のそばに腰を下ろし、包みを開いた。
焼き菓子はまだほのかに香ばしく、表面には細かな焼き色がついている。大きさは揃っていないものの、一つひとつ丁寧に形を整えられており、手作りらしい温かさが感じられた。
モモは自分の分を両手で持ち、しばらく眺めてから小さくかじった。
その途端、緑色の瞳が大きく見開かれた。
「……おいしい!」
モモは口の中のものを飲み込んでから、感動したように続けた。
「すごい、外側は少しさくっとしてるのに、中はやわらかいよ! 甘すぎないから、朝でも食べやすいし、噛むと香ばしい味が広がるの!」
ルシルも一口食べてみた。
確かに、表面には軽い歯応えがあり、中はほろりと崩れるような食感だった。素朴な甘さと穀物の香りが広がり、特別に豪華な材料を使っているわけではないのに、不思議と満足感がある。
「本当だ。おいしいね。昨日、畑で採れた野菜を見たけど、このお菓子も、きっとこの土地で暮らしている人たちが普段から食べているものなんだろうね」
ルシルがそう言うと、シモンもゆっくり味わいながら頷いた。
「ええ。派手な味ではありませんが、材料の風味がよく感じられます。保存の利くものとはまた違った、焼きたてならではのおいしさがありますね」
モモは嬉しそうに二人を見比べた。
「ねえ、これって、旅をしてなかったら食べられなかったかもしれないよね。お店で売ってるものじゃなくて、あの人が今朝作ったものなんだもん」
「そうだね。こういう出会いがあるのも、旅の面白いところだと思うよ」
ルシルはそう答え、もう一口だけ焼き菓子を食べた。
朝の風が草原を渡り、家々の間を抜けていく。
遠くでは井戸の滑車を確かめる音が聞こえ、近くの家からは誰かの笑い声が響いていた。
三人はしばらく言葉を交わしながら、焼き菓子をゆっくり味わった。
モモは最後の一口を食べ終えると、名残惜しそうに包みを眺めたが、すぐに満足そうな笑顔を浮かべた。
「ごちそうさまでした! ああ、おいしかったなあ。わたし、こういうお菓子を作れるようになりたいかも」
その言葉に、ルシルは少し驚いて顔を向けた。
「モモがお菓子を作るの?」
「うん! だって、誰かに食べてもらって、こんなふうに喜んでもらえたら嬉しいでしょ? もちろん、わたしも食べたいけどね!」
モモは最後の一言で照れくさそうに笑った。
シモンはその様子を見て、穏やかに口を開いた。
「料理を覚えるのも、旅の楽しみの一つかもしれませんね。ただ、材料や火を使える場所が必要ですから、機会を見つけて少しずつ試すのがよいでしょう」
「うん! 今すぐじゃなくてもいいんだ。いつか、三人で作ってみたいな」
モモはそう言って、空になった包みを丁寧に畳んだ。
ルシルはその姿を見ながら、胸の中で小さな楽しみが一つ増えたように感じていた。
旅の目的は、どこかへ急いで辿り着くことではない。
知らない景色を見て、知らない人と出会い、今までできなかったことを少しずつ覚えていく。
その中に、仲間と一緒に料理を作るという楽しみが加わっても、きっと悪くない。
むしろ、そういう何気ないことこそ、これからの旅を豊かにしてくれるのかもしれなかった。
焼き菓子を食べ終えた三人は、いよいよ出発の準備を整えた。
ルシルはトルクとベルクへ馬具を装着し、シモンは留め具や車輪の状態を最終確認する。モモは馬車の中へ戻り、荷物が移動中に倒れないよう整えてから、旅帳面を取り出した。
そこには昨日描いた井戸と家々の絵が残っている。
モモはその余白へ、小さな焼き菓子を三つ描き加えた。
丸い形と少し楕円形のものを並べ、隣には短い言葉を書き添える。
『朝の鐘と、焼きたてのお菓子。親切な人たちが暮らす、小さな集落』
モモは書き終えた文字を見つめ、満足そうに頷いた。
そこへルシルが馬車の入口から顔を覗かせた。
「モモ、準備はできた?」
「うん、できたよ! ねえ、ルシル君。今日のこと、旅帳面に書いておいたんだ」
モモが帳面を見せると、ルシルはその絵を覗き込んだ。
焼き菓子の形は少し大きめに描かれており、三つ並んだ様子がどこか楽しげだった。
「いいね。これを見たら、今日の朝のことを思い出せそうだ」
「でしょ? あとね、鐘の音も書いておきたかったんだけど、音ってどうやって描けばいいのかなって考えてたの」
モモは少し悩むように首を傾げた。
ルシルは帳面を眺めながら、しばらく考えた。
「鐘そのものを描いて、その周りに音が広がっていく線を描くのはどうかな。今朝、僕たちが聞いた音みたいに、草原へ広がっていく感じで」
「あっ、それいいね! じゃあ、あとで描き足してみようかな」
モモは嬉しそうに頷き、帳面を大切に閉じた。
ルシルはその様子を見ながら、旅帳面が少しずつ厚みを増していることに気づいた。
最初は、旅先で見たものを記録するためのものだった。
けれど今は、景色だけではなく、人との出会いや、食べたもの、感じたことまで残されている。
いつかこの帳面を開いたとき、三人はきっと、描かれた絵の向こうにある声や匂いまで思い出せるのだろう。
準備を終えた三人は、馬車をゆっくりと動かし、集落の広場へ向かった。
朝の水汲みはほとんど終わっており、井戸の周囲には先ほどよりも人が少なくなっていた。
管理人はまだ滑車の近くで作業をしていたが、馬車が通りかかると顔を上げた。
「おお、出発するのかい?」
ルシルは馬車を停め、御者台から軽く頭を下げた。
「はい。昨日から本当にありがとうございました。おかげで、水も補給できましたし、ゆっくり休むこともできました」
男性は穏やかに笑った。
「それはよかった。気をつけて行きなさい。南へ向かうなら、しばらくは草原が続くからね。日差しが強くなる前に、休める場所を見つけるといいよ」
「ありがとうございます。無理をせず進みます」
ルシルが答えると、男性は満足そうに頷いた。
モモも窓から手を振った。
「ありがとうございました! 井戸のお仕事、頑張ってくださいね!」
「ははっ、ありがとう。お嬢さんたちも元気でな!」
男性はそう言って手を振り返した。
馬車が広場を抜けると、昨日薪を運んでいた男性の家の前を通りかかった。
男性はちょうど外へ出てきたところで、馬車を見ると軽く手を上げた。
「おや、もう出発かい?」
「はい。昨日は道を教えていただいて、ありがとうございました!」
ルシルが答えると、男性は笑った。
「いいってことさ。旅は長いんだろう? 気をつけてな!」
その言葉に、ルシルはもう一度頭を下げた。
集落の出口へ向かう道には、朝の日差しが差し込んでいた。
石垣の向こうでは畑の葉が風に揺れ、昨日出会った女性の姿が遠くに見えた。
女性は畑の端で作業をしていたが、馬車に気づくと手を止め、こちらへ顔を向けた。
「あら、旅の人たち! もう行くのかい?」
ルシルは馬車の速度を落とし、笑顔で答えた。
「はい。昨日は道を教えていただいて、ありがとうございました。おかげで無事に集落へ辿り着けました」
女性は嬉しそうに笑った。
「それはよかったねえ。ちゃんと水も汲めたかい?」
「はい! 井戸も使わせてもらえましたし、泊まる場所も借りられました!」
モモが元気よく答えると、女性は安心したように頷いた。
「そうかい、そうかい。それなら何よりだ。あんたたち、これからも仲良く旅を続けるんだよ」
「はい! ありがとうございます!」
モモは大きく手を振った。
女性も手を振り返し、三人の馬車を見送ってくれた。
やがて石垣が途切れ、道は再び広い草原へ続いていった。
ルシルは御者台から前方を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
昨日、この石垣を初めて見つけたときは、その先にどんな場所があるのか分からなかった。
けれど今は、あの小さな集落に井戸があり、畑があり、親切な人たちが暮らしていることを知っている。
そして、朝の鐘の音や焼き菓子の香りまで、思い出の中へ加わっていた。
(知らない場所が、少しずつ知っている場所になっていくんだな。僕たちが通り過ぎたあとも、あの人たちはきっと、いつもの暮らしを続けていくんだろうね)
ルシルはそんなことを考えながら、手綱を穏やかに保った。
トルクとベルクは落ち着いた足取りで進み、馬車の車輪は乾いた道を静かに転がっていく。
窓の外では、モモが旅帳面を開き、朝の鐘を描こうと鉛筆を動かしていた。
シモンは今日の道のりを確認しながら、次に休めそうな場所を見つけたら早めに相談しようと考えていた。
ルシルは二人の様子を見て、自然と微笑んだ。
「さて、今日も南へ向かおうか。次はどんな景色が見えるかな」
モモは帳面から顔を上げ、嬉しそうに答えた。
「うん! きっと、また新しい発見があるよ。わたし、今度はどんな人に会えるのかも楽しみ!」
シモンも穏やかに頷いた。
「ええ。ただし、まずは安全に進みましょう。今日は水の心配も少なくなりましたし、無理のないペースで移動できるはずです」
ルシルは二人の言葉を聞き、前方へ視線を戻した。
草原の向こうには、まだ知らない道が続いている。
どこまで進めば次の町があるのか、どんな景色が待っているのか、今は分からない。
それでも、三人で相談しながら進めばいい。
そう思えることが、今のルシルには何より心強かった。
馬車の窓辺では、青い風魚の布が朝の風に小さく揺れていた。
その下では、モモの旅帳面に新しい絵が描き加えられていく。
草原の小さな集落で過ごした一夜と、朝に受け取った温かな贈り物。
それらを胸に、三人を乗せた馬車は再び南へ続く街道へ戻り、柔らかな朝の日差しの中をゆっくりと進んでいった。




