第118話 井戸端に集まる暮らしの声と、草原の小さな村で迎える夕暮れ
石組みの井戸から引き上げられた水が、午後の日差しを受けてきらりと輝いた。
滑車に掛けられた縄がゆっくりと動き、木桶の底から落ちた雫が井戸の縁を濡らしていく。広場の中央には水を汲むための石畳が敷かれており、その周囲には長年使われてきたことを思わせる細かな傷や、何度も水を運んだ人々の足跡が残されていた。
ルシルは持参した水容器を両手で支えながら、井戸の管理をしている年配の男性の手元を注意深く見つめていた。
男性は慣れた動作で木桶を石組みの縁へ寄せると、縄が不用意に戻らないよう固定し、桶の水を別の容器へ移す準備を整えた。力任せに持ち上げるのではなく、重さを確かめながら少しずつ傾けているため、水面は揺れても大きくこぼれることがない。
「この井戸の滑車は、少し癖があってね。縄を引くときはいいんだが、桶を戻すときに急いで手を離すと、勢いがつきすぎることがあるんだよ。だから、初めて使う人には私が付き添うことにしているんだ」
男性はそう説明しながら、ルシルの持つ容器へ水を注いだ。
澄んだ水が容器の内側へ落ちる音を聞き、ルシルは少しだけ手元を持ち直した。水の重さが増すにつれて腕に伝わる感触も変わっていくが、男性が注ぐ量を調整してくれているため、慌てずに支えることができる。
「ありがとうございます。こうして実際に使わせてもらうと、井戸の管理が大切だということがよく分かります。毎日使うものだからこそ、壊れたり、誰かが怪我をしたりしないように気をつけているんですね」
「そういうことさ。井戸が使えなくなったら、困るのは私だけじゃないからね。家で料理をする人も、畑へ水を運ぶ人も、みんなここを頼りにしているんだよ」
男性はルシルの言葉に頷くと、容器の水位を確かめてから木桶を元の位置へ戻した。
その様子を少し離れたところで見守っていたモモは、井戸の周囲に並ぶ道具へ興味深そうな視線を向けていた。
木桶は一つだけではなく、用途の違うものがいくつか用意されている。水を運ぶための取っ手がついた桶、底が広く安定した桶、縁に補修の跡がある古い桶など、形も大きさも少しずつ違っていた。
「ねえ、ルシル君。ここの桶って、みんな同じ形じゃないんだね。あの大きいのは馬さん用なのかな。それとも、畑に運ぶときに使うのかな?」
モモが尋ねると、男性は彼女の視線を追ってから笑った。
「よく気づいたね、お嬢さん。あの大きな桶は、井戸から汲んだ水を一度受けるためのものだよ。動物に飲ませるときは、向こうの低い桶へ移して使うんだ。畑へ運ぶ人は、自分の家から持ってきた桶を使うことが多いね」
「なるほど! 同じお水でも、使い方によって道具を分けてるんですね。わたし、井戸があったら、みんなそこで直接お水を汲むだけなのかと思ってました」
「そういう場所もあるだろうけど、ここは人も動物も使うからね。井戸の中へ汚れが入らないようにするには、少し面倒でも決まりを作っておいた方がいいのさ」
男性は穏やかに答えながら、広場の端に置かれた動物用の桶を指さした。
モモはその説明を聞き、何度も頷いた。旅の途中で井戸を利用した経験はすでにあったが、場所が変われば使い方も変わるということを、改めて実感しているようだった。
シモンは二人の会話を聞きながら、持参した水容器の状態を確認していた。
飲料水を入れるものと、馬たちのために使うものは混同しないようにしてある。前の休み場で補給してから減った分を把握していたため、今回必要な量についても、管理人へ説明できるよう準備していた。
「ルシル様、こちらの容器はこれで十分です。残りは、もう一つの飲料水用容器と、馬たちの分ですね。管理人の方に確認していただいた範囲で補給すれば、当面の移動には余裕ができるでしょう」
「うん。水を補給できる場所が見つかって、本当によかったね。ここまで来る間、次にどこで補給できるか分からなかったから、少し気になっていたんだ」
ルシルはそう答えながら、容器を安全な場所へ置いた。
その声に不安を強く滲ませることはなかったが、シモンには、ルシルがこれまで水の残量を気にかけていたことが分かっていた。
王宮を離れてから、ルシルは旅の中で少しずつ新しい判断を覚えてきた。馬車を動かすことも、休む場所を選ぶことも、誰かに道を尋ねることも、最初から何でも自然にできたわけではない。
それでも、分からないことを隠さず、仲間と相談しながら決めようとする姿勢は、以前から変わっていなかった。
(ルシル様は、ご自身がどれほど変わられたのか、まだ十分にはお気づきではないのでしょうね)
シモンはそんなことを考えながら、ルシルが水容器を運ぶ姿を見つめた。
かつての自分なら、こうした作業もできる限り先回りして済ませようとしたはずだった。しかし今は、必要なところで手を貸しながらも、ルシル自身が経験する時間を大切にしたいと思っている。
その変化を不思議に感じることもあるが、少なくとも今のシモンにとって、それは心地よいものだった。
やがて二つ目の容器にも水が入り、ルシルたちは馬たちの飲み水を用意することになった。
広場の入口では、トルクとベルクが落ち着いて待っていた。見慣れない集落の匂いや人の気配に耳を動かしているものの、大きく騒ぐことはなく、ルシルが近づくと二頭とも穏やかに顔を向けた。
「待たせたね、トルク、ベルク。もう少ししたらお水を飲めるからね。知らない場所だけど、ちゃんと落ち着いて待っていてくれてありがとう」
ルシルは二頭の首筋を撫で、声をかけた。
トルクは鼻先を寄せてきたが、ルシルの手に食べ物がないと分かると、今度は水を運ぶシモンの方へ顔を向けた。
その様子を見たモモが、くすくすと笑った。
「トルク君、もうお水が来るって分かったのかな。さっきまでルシル君の方を見てたのに、今はシモン君が持ってる桶ばっかり気にしてるよ」
「長く旅をしていますから、桶を見れば水が入っていると分かるのかもしれませんね。ただ、慌てて飲ませる必要はありませんので、落ち着いて準備しましょう」
シモンはそう答え、管理人に教えられた低い桶へ水を移した。
トルクとベルクは順番に水を飲み始めた。
鼻先が水面へ触れるたびに小さな波紋が広がり、午後の光を受けた水がきらきらと揺れる。モモはその様子を眺めながら、二頭が飲み終えるまで少し離れた場所で待っていた。
そのとき、広場へ続く細い道から、子どもたちの声が聞こえてきた。
「ねえ、あの馬車、見たことないよ!」
「本当だ。馬が二頭もいる!」
声の方へ目を向けると、家々の間から二人の子どもが姿を現した。
一人は短い茶色の髪をした少年で、もう一人は肩までの髪を後ろで束ねた少女だった。どちらもまだ幼く、見慣れない馬車が気になって仕方がないらしい。
二人は広場の入口で足を止めると、トルクとベルクを遠巻きに眺めていた。
ルシルは子どもたちに気づき、穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。僕たちは旅の途中で、この集落に立ち寄らせてもらっているんだ。馬たちがお水を飲んでいるところだから、少し離れて見ていてくれると助かるよ」
少年は目を丸くし、隣の少女と顔を見合わせた。
「こんにちは! あの、馬って触ってもいいの?」
その質問に、ルシルはすぐに答えず、トルクとベルクの様子を確かめた。
見知らぬ子どもたちが急に近づけば、どれほど落ち着いた馬でも驚くことがある。まして今は水を飲んでいる途中なのだから、無理に触れ合わせる必要はない。
「今はお水を飲んでいるから、触るのはやめておこうね。馬は大きいし、急に近づくとびっくりすることもあるんだ。でも、ここから見るだけなら大丈夫だよ」
ルシルがそう説明すると、少年は少し残念そうにしながらも頷いた。
「そっか。じゃあ、ここで見る!」
少女も隣で頷き、二頭の様子をじっと見つめた。
モモは子どもたちの方へ歩み寄り、明るい笑顔を向けた。
「こんにちは! 栗毛の子がトルク君で、灰色の子がベルク君だよ。二頭とも、わたしたちと一緒にいろんな場所を旅してくれてるんだ」
「トルクとベルク?」
少女が小さく繰り返すと、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! トルク君は食べるのが大好きで、ベルク君はとっても落ち着いてるの。性格は少し違うけど、どっちも優しい子なんだよ」
子どもたちは興味深そうに二頭を見比べた。
少年はトルクの方へ視線を向け、少女はベルクの落ち着いた様子を眺めている。どちらも約束を守って距離を保っており、馬たちを驚かせるような行動はしなかった。
そこへ、井戸の管理人がゆっくり近づいてきた。
「おや、お前たち。こんなところで何をしているんだい?」
男性の声に、子どもたちは振り返った。
「知らない馬車が来てたから、見てたんだ!」
「ちゃんと離れてるよ。お馬さんがお水を飲んでるから、近づいちゃ駄目なんだって」
少女がそう説明すると、管理人は満足そうに頷いた。
「そうかい。それならいい。旅の人の馬だからね。勝手に触ったり、驚かせたりしないようにしなさい」
二人は元気よく返事をした。
ルシルはその様子を見ながら、自然と頬を緩めた。
知らない場所へ来た旅人を、子どもたちは少しの驚きと大きな好奇心で迎えてくれる。王宮にいた頃は、子どもたちが自分へこんなふうに話しかけてくることなど、ほとんどなかった。
今はただの旅人として、馬の名前を教えたり、触るときの注意を伝えたりできる。
その何気ないやり取りが、ルシルには嬉しかった。
しばらくすると、子どもたちは家の方から呼ぶ声を聞き、名残惜しそうに広場を離れていった。
「トルク、ベルク、またね!」
少年が大きく手を振ると、少女も小さく手を振った。
モモは二人を見送りながら、楽しそうに笑った。
「かわいい子たちだったね。トルク君とベルク君の名前、ちゃんと覚えてくれたみたい」
「うん。二頭とも人気者だね。僕たちが知らない場所へ来ても、こうして話しかけてもらえるのは嬉しいな」
ルシルが答えると、シモンも穏やかに頷いた。
馬たちが水を飲み終えると、三人は使わせてもらった桶を決められた場所へ戻し、井戸の周囲を汚していないか確かめた。
管理人はその様子を見ながら、少し感心したように目を細めていた。
「丁寧に使ってくれて助かったよ。旅の人の中には、急いでいるからって道具をそのままにしていく人もいるんだ。もちろん、悪気がない場合もあるんだろうけどね」
「こちらこそ、大切な井戸を使わせていただいてありがとうございました。おかげで、次の移動に必要な水を確保できました」
シモンはそう答え、事前に確認した利用料を支払った。
管理人は受け取った金額を確かめ、礼を述べた。
水の補給はこれでひとまず終わったが、ルシルにはもう一つ確認したいことがあった。
空を見上げると、太陽はまだ沈むほど低くないものの、午後の時間は確実に進んでいる。集落へ入る前に比べれば水の心配は減ったが、ここから再び街道へ戻って進むべきか、それとも今夜は近くで休むべきか、判断する必要があった。
「すみません。もう一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
ルシルが声をかけると、管理人は穏やかに頷いた。
「何だい? 分かることなら答えるよ」
「この集落には、旅人が馬車を停めて休める場所はありますか? もし難しければ、街道へ戻って野営できる場所を探そうと思っているんですが、まずは聞いてみたくて」
管理人は少し考えるように顎へ手を当てた。
「宿屋と呼べるようなものはないね。ここは小さな集落だから、泊まり客を受け入れる建物も用意していないんだ。ただ、荷物を運ぶ人が一晩休むことはあるよ」
「そうなんですね。では、馬車を停められる場所があるのでしょうか?」
「広場の裏手に、荷車を置くための空き地があるんだ。そこなら馬車を停めることはできると思う。ただし、私だけで決めていいことじゃないから、集落の世話役に確認してもらう必要があるね」
ルシルはその言葉に頷いた。
「もちろんです。もしご迷惑でなければ、その方へお話を伺いたいです」
管理人は少し笑い、広場の向こうにある家を指さした。
「あの家にいることが多いよ。今もいるかどうかは分からないけど、声をかけてみるといい。私からも、井戸を利用した旅人だと伝えておこう」
「ありがとうございます。何から何まで教えていただいて、本当に助かります」
ルシルが頭を下げると、管理人は軽く手を振った。
「気にしなくていいさ。旅をしている人は、知らない土地で分からないことも多いだろうからね。ただし、ここで暮らしている人たちにも都合があるから、決まりは守ってもらわないと困るけどね」
「はい。それはもちろんです」
ルシルは真剣な表情で頷いた。
モモも隣で何度も頷き、シモンは世話役の家の位置を確認していた。
三人は管理人へ改めて礼を述べると、馬車を広場の端へ停めたまま、教えてもらった家へ向かうことにした。
ただし、トルクとベルクを長く放置するわけにはいかないため、シモンが馬車の近くに残り、ルシルとモモが話を聞きに行くことになった。
「ルシル様、私はここで馬たちを見ています。もし宿泊場所について何か条件があるようでしたら、すぐに判断せず、一度相談してください」
「うん、分かった。僕たちだけで決めないようにするよ。モモ、一緒に来てくれる?」
「もちろん! ちゃんとご挨拶して、泊まってもいいか聞いてみようね」
モモは元気よく頷いた。
二人は広場を横切り、管理人が教えてくれた家へ向かった。
その家はほかの建物より少し大きく、入口の横には木製の長椅子が置かれていた。軒下には乾燥させた草束が吊るされ、扉の近くには小さな鉢植えが並んでいる。
ルシルは扉の前で足を止め、モモと顔を見合わせた。
「それじゃあ、声をかけてみようか」
「うん。お仕事中かもしれないから、丁寧にね」
モモが小声で答えると、ルシルは扉を軽く叩いた。
少し待つと、家の中から足音が近づいてきた。
扉が開き、姿を現したのは、落ち着いた雰囲気の中年の女性だった。
濃い茶色の髪を後ろでまとめ、袖を肘までまくり上げている。手には布巾を持っており、何か家事をしていたところらしかった。
「はい、どちら様でしょう?」
女性は二人の姿を見て、少し不思議そうに首を傾げた。
ルシルは丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。突然お訪ねしてすみません。僕たちは南へ向かって旅をしている者です。先ほど井戸を利用させていただいたのですが、管理をしている方から、馬車を停めて休める場所についてはこちらで相談するとよいと教えていただきました」
女性は話を聞き、納得したように頷いた。
「ああ、旅の方でしたか。井戸のところに馬車が停まっているのは、少し前に見かけましたよ。今夜、この集落で休みたいということですか?」
「はい。もし可能なら、馬車を停めて一晩休ませていただきたいと思っています。ただ、難しいようでしたら、街道へ戻って別の場所を探しますので、無理にお願いするつもりはありません」
ルシルがそう答えると、女性は少し考えるように目を細めた。
モモは隣で静かに待っていた。
家の中からは、かすかに煮込み料理のような匂いが漂ってくる。夕食の準備をしていたのかもしれないと思い、モモは長く引き止めてしまわないか少し気になっていた。
やがて女性は穏やかに口を開いた。
「広場の裏手にある空き地なら、荷車を停めるために使うことがあります。今夜は大きな荷車が来る予定も聞いていませんから、場所は空いているはずですよ。ただ、火を使う場合や馬の世話については、いくつか守っていただきたいことがあります」
ルシルは安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます。決まりがあるなら、きちんと守ります。どのようなことに気をつければよいでしょうか?」
女性は扉を少し開けたまま、広場の方へ目を向けた。
「まず、空き地の奥には干し草を置く小屋がありますから、その近くでは火を使わないでください。それから、馬をつないでおく場所は決まっています。荷車の通り道を塞がないようにしていただければ、基本的には問題ありません」
「分かりました。今夜は火を使わずに過ごすこともできますし、馬たちの場所についても確認します」
ルシルが答えると、女性は少し驚いたように目を瞬かせた。
「ずいぶん準備のいい旅人さんですね。普通は、焚き火ができないと困ると言われることもあるんですが」
その言葉に、モモは明るく笑った。
「わたしたち、馬車の中で休めるようにしてあるんです。食べ物も持っているので、今夜は火を使わなくても大丈夫ですよ!」
「まあ、そうなんですか。それなら安心ですね」
女性は穏やかに微笑んだ。
ルシルはその様子を見ながら、もう一つ確認しておきたいことを思い出した。
「それから、利用料などが必要でしたら、お支払いします。井戸も使わせていただきましたし、場所を借りる以上、こちらの決まりに従いたいので」
女性は少し考えたあと、頷いた。
「荷車を停めるだけなら、それほど大きな負担にはなりませんが、場所の維持にも手間がかかりますからね。今夜の利用分として、決められた額をいただくことになります。それでよろしければ、使っていただいて構いませんよ」
「はい。ありがとうございます」
ルシルは丁寧に頭を下げた。
モモも隣で嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます! 馬たちにもゆっくり休んでもらえるので、とっても助かります!」
女性はその言葉を聞き、優しく微笑んだ。
「馬を大切にしているんですね。旅を続けるなら、それが一番ですよ。では、場所を案内しましょうか」
「よろしいんですか? お忙しいところ、すみません」
「大丈夫ですよ。ちょうど家の中の仕事も一区切りついたところですから」
女性はそう答え、布巾を家の中へ置いてから外へ出てきた。
ルシルとモモは彼女の後ろについて、広場へ戻った。
シモンは馬車のそばで二人を待っていたが、女性の姿を見つけると丁寧に一礼した。
「初めまして。同行しているシモンと申します。お忙しいところ、宿泊場所についてご相談に乗っていただき、ありがとうございます」
女性はシモンへ頷き、穏やかに答えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。空き地を使っていただけることになりましたので、場所をご案内しますね」
三人は顔を見合わせ、嬉しそうに微笑んだ。
井戸で水を補給できただけでも十分にありがたかったが、今夜の休み場まで見つかったことで、旅の予定に少し余裕が生まれた。
ルシルはトルクとベルクへ声をかけ、女性の案内に従って馬車をゆっくり進ませた。
広場の裏手へ回る道は、思っていたよりも幅があった。
家々の間を抜けると、草の短い平地が現れ、その奥には木造の小さな小屋が建っている。小屋の周囲には干し草の束が積まれており、女性が説明したとおり、火を使うには注意が必要そうだった。
空き地の一角には馬をつなぐための木製の柵があり、その近くには水桶を置ける場所も用意されていた。
「ここなら、馬車を停めても大丈夫ですよ。ただ、明日の朝には荷車が来るかもしれませんから、出発する前に周囲を片づけておいてくださいね」
女性がそう説明すると、シモンは頷いた。
「承知しました。通路を塞がない位置へ停め、使用後は元の状態へ戻します」
「ありがとうございます。それから、夜はあまり騒がないようにお願いしますね。近くの家には小さな子どももいますから」
モモは真剣な表情で頷いた。
「はい! 静かに過ごします!」
女性はその返事に笑い、空き地の奥へ目を向けた。
「それなら大丈夫でしょう。何か困ったことがあれば、先ほどの家へ声をかけてください。ただし、夜遅くなる前にお願いしますね」
「はい。本当にありがとうございます」
ルシルはそう答え、利用料を支払った。
女性は受け取った金額を確かめると、三人へ穏やかに微笑んだ。
「それでは、どうぞゆっくり休んでください。長旅でお疲れでしょうから」
そう言って、女性は家の方へ戻っていった。
三人はその後ろ姿を見送り、改めて空き地を見渡した。
馬車を停める場所としては十分な広さがあり、地面も比較的平らだった。小屋から距離を取れば、干し草の近くを通る必要もない。
ルシルはシモンと相談しながら、馬車の向きと位置を決めた。
トルクとベルクが落ち着いて休めること、明日の朝にほかの荷車が来ても邪魔にならないこと、夜の間に道を塞がないことを確かめてから、ゆっくりと馬車を停める。
シモンは車輪の状態を確認し、ルシルは二頭へ声をかけながら馬具を整えた。
モモも自分にできることを探し、馬車の中の荷物を片づけ始めた。
しばらくして準備が整うと、三人は空き地の端に立ち、夕方へ向かう空を眺めた。
太陽はまだ地平線へ近づくほど低くないものの、光の色は少しずつ柔らかくなっている。
集落の家々からは、夕食の準備をしているらしい匂いが漂い始めていた。
どこかで木を叩く音が聞こえ、遠くでは子どもたちの笑い声が響いている。
モモはその空気を胸いっぱいに吸い込み、嬉しそうに笑った。
「なんだか、いい場所だね。知らない集落なのに、みんな親切にしてくれて、ちょっと安心しちゃった」
ルシルも穏やかに頷いた。
「うん。道を教えてくれた人も、井戸の管理人さんも、世話役の人も、みんな丁寧に話を聞いてくれたね。僕たちも、ここで暮らしている人たちの迷惑にならないようにしよう」
「ええ。今夜は火を使わず、持っている食料で夕食を済ませるのがよいでしょう。水も補給できましたし、明日の移動については、夕食のあとに相談する時間を取れそうです」
シモンの言葉に、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! それなら、明日のことを考えながら、ゆっくりご飯を食べようね」
三人は馬車の中へ戻り、夕食の準備を始めた。
今夜は火を使わない約束をしているため、保存の利く食料を中心に食事を整える。モモは乾燥豆の袋を見つけると、少しだけ名残惜しそうに眺めたが、すぐに笑って元の場所へ戻した。
「お豆は、また今度だね。せっかくお水を補給できたけど、今日は火を使わないって約束したもん」
ルシルはその言葉に頷いた。
「そうだね。今度、ちゃんと料理できる場所が見つかったら、何を作るか考えよう。今日みたいに集落へ立ち寄ることもあるし、旅の楽しみはまだまだ残っているからね」
「うん! 楽しみにしておく!」
モモは笑顔で答え、食事の準備を続けた。
やがて三人は折りたたみ式のテーブルを囲み、夕食を取り始めた。
窓の外には、草原の向こうへ傾き始めた夕日が見える。
青い風魚の布が小さく揺れ、その影が馬車の壁へゆっくり映っていた。
ルシルはパンを手に取りながら、今日一日の出来事を思い返していた。
朝は木々の近くの野営場所から出発し、羊飼いと羊たちに出会った。
そのあと、荷物を運ぶ男性を手伝い、道の先に集落があることを教えてもらった。
午後には石垣を見つけ、畑仕事をしていた女性から集落への道を教わった。
そして今、こうして小さな集落の空き地で、安心して夕食を取っている。
(今日も、いろんなことがあったな。大きな事件が起きたわけじゃないけど、知らない人たちと話して、少しずつ道を進んで、ちゃんと休む場所まで見つけられた。それだけで、十分にいい一日だったと思う)
ルシルはそんな思いを胸に、二人へ目を向けた。
「ねえ、モモ、シモン。今日もありがとう。二人が一緒にいてくれたから、知らない集落でも落ち着いて行動できたよ」
モモは少し驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「えへへ、どういたしまして! でも、わたしもルシル君とシモン君がいてくれるから安心してるんだよ。知らない場所って、ちょっと緊張することもあるけど、三人なら大丈夫って思えるもん」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「私も同じです。旅の途中では、予定どおりに進まないこともありますが、三人で相談すれば、落ち着いて判断できることが増えました。今日も、無理に先へ進まず、集落で休むことを選べてよかったと思います」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
夕食を終える頃には、窓の外の空が橙色に染まり始めていた。
集落の家々からは細い煙が上がり、遠くで鳥が鳴いている。
トルクとベルクは落ち着いて休んでおり、馬車の周囲にも大きな物音はなかった。
モモは旅帳面を開き、今日見た井戸と、小さな集落の家々を描き始めた。
シモンは水の補給量と宿泊場所の条件を手帳へ記録し、明日の出発前に確認することを整理していた。
ルシルは窓辺に座り、夕暮れの景色を眺めていた。
遠くの草原には、低い丘の影が長く伸びている。
朝にはまだ知らなかったこの集落が、今は三人の旅の中に新しい思い出として加わっていた。
ルシルはゆっくり息を吐き、穏やかに微笑んだ。
明日もまた、南へ続く道を進むことになるだろう。
けれど今夜は、先のことを急いで考える必要はない。
ここで暮らす人たちの親切に感謝しながら、三人で静かな夜を過ごせばいい。
馬車の窓辺では、青い風魚の布が夕方の風に小さく揺れていた。
その向こうに広がる草原は、少しずつ夜の色へ変わり始めている。
ルシルは仲間たちの穏やかな声を聞きながら、今日もまた、自分たちの旅が大切なものになっていくのを感じていた。




