第117話 草原の石垣と、旅人を迎える小さな集落の午後
午後の日差しを受けた草原の向こうで、低い石の列がゆっくりと輪郭を明らかにしていた。
御者台に座るルシルは、トルクとベルクの歩調を保ちながら、その石の並びを注意深く見つめていた。最初は自然に転がっている岩が偶然並んでいるだけにも見えたが、街道を進むにつれて、それぞれの石が人の手によって積み重ねられていることが分かってきた。高さは大人の膝ほどしかなく、ところどころ崩れた部分もあるものの、石の列は草原の一角を囲むように続いている。
馬車の窓から身を乗り出さないよう気をつけながら、モモもその景色を眺めていた。
「ルシル君、あれって、さっきの人が教えてくれた石垣なのかな? 遠くから見たときは石が並んでるだけだと思ったけど、近づいてみると、ちゃんと積んであるみたいだね」
「うん。僕もそう思うよ。道の右側にあるし、話してくれた特徴とも合っているね。ただ、あの先に本当に集落があるかどうかは、もう少し進んで確かめてみよう」
ルシルが答えると、シモンは開いていた手帳を閉じ、窓の外へ視線を移した。
「石垣の位置は、お聞きした説明と一致していますね。あの方のお話では、その先に家が何軒か集まっているとのことでした。もし集落が見えてきたとしても、まずは入口と通行できる道を確認するのがよいでしょう」
「そうだね。僕たちの馬車はそれなりに大きいから、狭い場所へ入ってしまうと、ほかの人の邪魔になるかもしれないし」
ルシルは頷きながら、街道の左右へ目を配った。
石垣の手前には短い草が生えた土地が広がっており、その奥には人が歩いてできたような細い踏み跡が見える。しかし、踏み跡は途中で石垣の陰に隠れてしまい、どこへ続いているのかまでは分からなかった。
馬車がさらに近づくと、石垣の内側に小さな畑があることも分かってきた。
畑には背の低い葉物が列を作って植えられており、土の表面には乾燥を防ぐためなのか、細かく砕いた草が薄く敷かれている。石垣は単なる道の目印ではなく、畑を囲い、草原を歩く動物などが入り込むのを防ぐためのものらしかった。
「わあ、畑だ! ルシル君、見て見て。ちゃんと野菜が育ってるよ。こんなに広い草原の中にも、畑を作って暮らしている人がいるんだね」
モモは嬉しそうに声を弾ませたが、すぐに少し考えるような表情になった。
「でも、畑があるってことは、ここにも水が必要だよね。近くに井戸があるのかな。それとも、どこかから運んでるのかな?」
「どちらの可能性もあると思うよ。畑の様子だけでは分からないけど、人が暮らしている場所が近いのは確かみたいだね」
ルシルが答えると、シモンも穏やかに頷いた。
「ええ。ただ、畑に使う水と旅人が飲む水では、管理の仕方が違う場合もあります。集落で井戸を見つけたとしても、利用できるかどうかは確認してからにしましょう」
「うん。勝手に使っちゃ駄目だもんね。ちゃんと聞いて、必要ならお金も払わなくちゃ」
モモは素直に頷き、再び畑へ目を向けた。
畑の向こうには、まだ家の姿は見えない。
しかし、石垣の奥へ続く踏み跡とは別に、街道から緩やかに右へ分かれる幅の広い道が現れ始めていた。道の入口には車輪の跡が残っており、馬車が通れる程度の幅もありそうだった。
ルシルはその分かれ道を見つけると、トルクとベルクへ穏やかに声をかけ、少し手前で馬車を停めた。
「シモン、あの道が集落へ続いているのかもしれないね。でも、まだ先が見えないから、ここで一度確かめようか」
「そうですね。街道から分かれている道ですし、車輪の跡もあります。もっとも、畑へ荷物を運ぶためだけの道という可能性もありますから、少し様子を見てみましょう」
シモンはそう答え、馬車を降りた。
ルシルも御者台から周囲を見渡したが、今のところ近くに人影はない。石垣の向こうには風に揺れる葉が見え、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくるだけだった。
モモは窓から顔を覗かせ、シモンが道の先を確かめている様子を見守っていた。
「シモン君、何か見える?」
「道は緩やかに曲がっていますね。少し先に木があるようですが、その向こうまではここから確認できません。ただ、馬車の通行を妨げるような大きな石は、少なくとも入口付近には見当たりません」
シモンが答えたとき、石垣の向こうから小さな物音が聞こえた。
何かを土の上へ置いたような音に続いて、草を踏む足音が近づいてくる。
三人がそちらへ目を向けると、畑の奥から一人の女性が姿を現した。
女性は年配というほどではないものの、日差しを受けた顔には長年の仕事を思わせる細かな皺があり、頭には布を巻いていた。片手には小さな籠を持ち、もう片方の手で袖をまくり上げながら、石垣の切れ目へ向かって歩いてくる。
女性は馬車に気づくと、少し驚いたように足を止めた。
「あら、旅の人かい? こんなところで馬車が停まっているから、道に迷ったのかと思ったよ」
その声は明るく、警戒するような響きはなかった。
ルシルは御者台から軽く頭を下げた。
「こんにちは。南へ向かって旅をしているんですが、この先に集落があると聞いたので、道を確かめていたんです。ここから右へ分かれる道を進めば、集落へ行けるのでしょうか?」
女性は馬車と二頭の馬を見比べてから、納得したように頷いた。
「ああ、そういうことかい。それなら、この道で合っているよ。少し進むと家が見えてくるから、そこで人に聞けばいい。ただし、道が曲がっているところは見通しが悪いから、馬車ならゆっくり行った方がいいね」
「ありがとうございます。教えていただけて助かりました」
ルシルが礼を述べると、女性は軽く手を振った。
「いいんだよ。旅人が通ることもあるからね。それに、あんたたちの馬はずいぶん落ち着いているじゃないか。ちゃんと世話をしてもらっているんだろうね」
その言葉に、ルシルは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。トルクとベルクっていうんです。二頭とも、ずっと一緒に旅をしてくれている大切な仲間なんですよ」
女性は少し目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
「へえ、名前まで教えてくれるとはね。そうかい、トルクとベルクか。立派な馬たちだねえ」
その声が聞こえたのか、トルクが耳を動かし、ゆっくりと顔を上げた。
モモはその様子を見て、思わず笑ってしまった。
「トルク、褒めてもらったのが分かったのかな。さっきまでおとなしくしてたのに、急に得意そうな顔になったよ」
「そう見えるね。ベルクはいつもどおり落ち着いているけど、きっとちゃんと聞いているんじゃないかな」
ルシルが答えると、女性も二頭を眺めながら目を細めた。
「馬は人の声をよく聞くからね。大事にされている子は、案外そういうところで分かるものさ」
シモンはそのやり取りを見守りながら、丁寧に口を開いた。
「もう一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか。私たちは飲料水の補給先を探しているのですが、この集落には旅人が利用できる井戸などがありますか?」
女性は少し考えるように首を傾げた。
「井戸ならあるよ。ただ、みんなで使っている井戸だからね。旅人が使うときは、世話をしている人に声をかけることになっているんだ。勝手に汲まれると、あとで誰がどれだけ使ったのか分からなくなるからね」
「承知しました。利用できるかどうか、管理している方へ確認します」
シモンが答えると、女性は満足そうに頷いた。
「それがいいね。集落へ入ったら、道なりに進んでごらん。家が何軒か見えてきたところに、少し広い場所があるんだ。井戸はその近くだから、誰かに聞けば分かるよ」
「ありがとうございます!」
モモも窓から笑顔で礼を述べた。
女性はモモの顔を見て、少し驚いたように瞬きをしたあと、優しく微笑んだ。
「まあ、元気な娘さんだね。旅は楽しいかい?」
「はい! 毎日いろんな景色が見られるし、いろんな人に会えるので、とっても楽しいです。今日も羊さんたちに会ったり、荷物を運んでいる人のお手伝いをしたりしたんですよ」
モモが嬉しそうに話すと、女性は感心したように頷いた。
「そうかい。羊なら、この辺りでもよく見かけるよ。草原が広いからねえ。荷物を運ぶ人っていうのは、もしかすると、この集落へ向かっている人かもしれないね」
「そうなんですか?」
「さあ、そこまでは分からないけどね。小さな集落だから、外から物を運んできてくれる人はありがたいんだよ」
女性はそう言って、籠を持ち直した。
その中には、畑で摘んだばかりらしい葉物がいくつか入っている。モモが興味深そうに眺めていることに気づくと、女性は籠を少し持ち上げた。
「これかい? 夕飯に使う野菜さ。今日は葉の具合がよかったから、少し多めに採れたんだ」
「わあ、おいしそうですね! 葉っぱがすごく元気そうです」
「そう言ってもらえると嬉しいね。畑の世話は手間がかかるけど、こうして育ったものを見ると、やっぱり頑張ってよかったと思うものさ」
女性は照れくさそうに笑い、畑の方へ目を向けた。
ルシルはその横顔を見ながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
広い草原の中にある小さな畑。
そこには、毎日土を耕し、水を運び、野菜が育つのを見守っている人の暮らしがある。
旅をしている自分たちは、こうした場所を通り過ぎていく立場だ。
けれど、そこで暮らす人たちにとっては、目の前の畑も、家も、井戸も、毎日の生活を支える大切なものなのだろう。
(僕たちにとっては初めて見る景色でも、ここで暮らしている人には当たり前の毎日なんだよね。その中へ少しだけお邪魔するんだから、ちゃんと相手の暮らしを大切にしなくちゃ)
ルシルはそんな思いを胸に、改めて女性へ頭を下げた。
「道も井戸のことも教えていただいて、本当にありがとうございました。畑仕事の途中に引き止めてしまって、すみません」
「気にしなくていいよ。ちょうど家へ戻るところだったんだから。それより、道の曲がり角には気をつけてね」
女性はそう答え、石垣の切れ目から畑の外へ出てきた。
ルシルたちはもう一度礼を述べ、教えてもらった道へ馬車を進めることにした。
女性は道の脇へ寄り、トルクとベルクがゆっくり歩き始めるのを見送ってくれた。
モモは窓から手を振りながら、明るい声で挨拶した。
「ありがとうございました! お野菜、おいしく食べてくださいね!」
女性はその言葉に声を上げて笑い、籠を持っていない方の手を振り返した。
「ああ、ありがとう。あんたたちも、よい旅をね!」
その姿が石垣の向こうへ隠れるまで、モモは何度か振り返っていた。
やがて馬車が分かれ道へ入ると、街道とは少し違う地面の感触が車輪を通して伝わってきた。
道は乾いた土を踏み固めたもので、ところどころ小さな石が混じっている。幅は馬車が一台通るには十分だったが、向かいから別の馬車が来た場合には、どちらかが広い場所で待つ必要がありそうだった。
ルシルは速度を落とし、曲がり角の先へ注意を向けた。
「思ったより静かな道だね。畑の近くを通っているから、もっと人がいるのかと思ったけど」
「今は午後ですから、家の中で仕事をしている方もいらっしゃるのでしょう。畑も、すべての時間に人がいるわけではありませんしね」
シモンが答えると、モモは窓から周囲を眺めた。
「そっか。そうだよね。さっきの人も、夕飯の野菜を採ってたところだったもんね。みんな、それぞれの時間に合わせて暮らしてるんだなあ」
道の右側には石垣が続き、その内側には小さな畑がいくつか並んでいた。
畑の間には細い通路があり、木の棒を組み合わせた簡素な支柱が立てられている場所もある。左側には草原が広がっていたが、街道から少し離れた場所には低い柵が見え、その向こうで数羽の鳥が地面をつついていた。
モモはそれを見つけると、嬉しそうに声を上げた。
「ルシル君、あそこに鳥さんがいるよ! なんだか、地面を一生懸命つついてるね」
「本当だ。家で飼われている鳥なのかな。柵の中にいるみたいだし」
「たぶんそうでしょうね。集落が近いことを示すものの一つかもしれません」
シモンはそう答えながら、道の先へ目を向けた。
やがて緩やかな曲がり角を抜けると、三人の前に小さな集落の姿が現れた。
低い丘の裾に沿うように、木と石を組み合わせた家が何軒か建っている。
屋根は濃い茶色や灰色で、建物の間には細い道が通っていた。家の前には薪が積まれ、軒下には乾燥させているらしい草束が吊るされている。
遠くには小さな煙突から薄い煙が上がっており、風に乗って、かすかに薪の燃える匂いが漂ってきた。
モモはその景色を見た途端、ぱっと顔を輝かせた。
「わあ……! 本当に集落があったんだね!」
その声には、驚きと喜びが混じっていた。
リーヴェルを出てから、草原や丘の間を進み、野営を重ねてきた。
途中で旅人や羊飼いに出会うことはあったものの、こうして人の暮らす場所へ近づくのは久しぶりだった。
ルシルも思わず微笑み、目の前の景色をゆっくり眺めた。
「うん。教えてもらったとおりだったね。まだ集落の中へ入ったわけじゃないけど、こうして家が見えると、なんだか安心するな」
「ええ。もっとも、ここで何が補給できるかは、これから確認する必要があります。まずは馬車を停められる場所を探しましょう」
シモンの言葉に、ルシルは頷いた。
集落の入口には門や大きな柵はなく、道がそのまま家々の間へ続いていた。
しかし、家の近くには人が歩く細い通路もあり、馬車で不用意に進めば、住民の邪魔になってしまうかもしれない。
ルシルは道の幅を確かめながら、ゆっくりと馬車を進ませた。
すると、最初の家の前で薪を運んでいた男性が、馬車に気づいて顔を上げた。
男性は腕に抱えていた薪を壁際へ置き、少し不思議そうに三人を見た。
「旅の人かい? 見かけない馬車だね」
ルシルは馬車を停め、丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。南へ向かって旅をしている者です。飲料水を補給できる場所を探しているのですが、この集落の井戸を利用するには、どなたへお願いすればよいでしょうか?」
男性はその言葉を聞き、納得したように頷いた。
「ああ、水が必要なのか。だったら、もう少し先の広場へ行くといい。井戸の世話をしている人がいるはずだよ。ただ、今の時間に誰がいるかまでは分からないけどね」
「ありがとうございます。広場は、この道を進めば分かりますか?」
「そうだね。二つ目の家を過ぎたところで、道が少し広くなるんだ。そこに大きな桶が置いてあるから、すぐ分かると思うよ」
男性はそう答え、馬車の方を眺めた。
「それにしても、立派な馬車だね。こんな小さな集落へ来るには、ちょっと珍しいくらいだ」
ルシルは少しだけ笑い、穏やかに答えた。
「ありがとうございます。長く旅をするために使っているんです。馬たちにも無理をさせたくないので、休みながら進んでいます」
「そうかい。それなら、なおさら水は大事だね。井戸のことは、広場で聞いてみるといいよ」
男性はそう言って、再び薪を持ち上げた。
モモは窓から顔を覗かせ、明るく礼を述べた。
「ありがとうございました! お仕事の途中にすみません!」
「いいってことさ。気をつけて行きな」
男性は笑いながら手を振り、薪を抱えて家の裏手へ歩いていった。
ルシルはその姿を見送り、再び馬車を進めた。
集落の中へ入ると、外から見ていたときよりも、暮らしの音がはっきり聞こえてきた。
どこかの家から木を叩く音が響き、別の家の軒下では布が風に揺れている。道の脇には小さな木箱が置かれ、その中には乾燥させた草束が整然と並べられていた。
モモは窓の外を眺めながら、目を輝かせていた。
「なんだか、すごく落ち着く場所だね。家がたくさんあるわけじゃないけど、ちゃんと人が暮らしてる音がするよ」
「そうだね。リーヴェルみたいに大きな町とは違うけど、こういう場所にも、それぞれの暮らしがあるんだね」
ルシルはそう答えながら、前方へ目を向けた。
やがて二つ目の家を過ぎると、道が緩やかに広がり、小さな広場のような場所が現れた。
広場の中央には丸い石組みの井戸があり、その近くには大きな木桶が置かれていた。
井戸の周囲には水がこぼれた跡が残っているものの、地面が深くぬかるんでいる様子はない。石組みの縁は長く使われてきたためか、ところどころ角が丸くなっていた。
その井戸のそばでは、一人の年配の男性が木桶の縁を確かめていた。
男性は灰色の髪を短く整え、丈夫そうな上着を着ている。手には小さな木槌を持ち、桶の側面を軽く叩きながら、何かを確認しているようだった。
ルシルは広場の入口で馬車を停め、シモンへ声をかけた。
「ここが教えてもらった広場みたいだね。井戸もあるし、あの人に聞いてみようか」
「ええ。ただ、作業中のようですから、邪魔にならないように声をかけましょう」
シモンはそう答え、馬車を降りた。
ルシルも御者台から降り、トルクとベルクが落ち着いていることを確認してから、井戸の方へ歩いた。
モモも二人の後ろについていったが、井戸の縁には近づきすぎず、少し離れた場所で足を止めた。
「こんにちは。お仕事中にすみません」
ルシルが声をかけると、男性は木槌を持つ手を止め、ゆっくり顔を上げた。
「おや、旅の人かい。どうしたね?」
ルシルは丁寧に頭を下げた。
「南へ向かって旅をしている者です。こちらの井戸を利用するには、管理している方へお願いする必要があると聞いたのですが、どなたへお話しすればよいでしょうか?」
男性は少し目を細め、三人の顔を順番に見た。
それから、広場の入口に停まっている馬車へ目を向ける。
「なるほど、水の補給か。だったら、ちょうどいいところへ来たね。今は私が井戸の世話をしているところだよ」
その言葉に、ルシルは少しだけ表情を明るくした。
「そうだったんですね。ありがとうございます。もし可能でしたら、飲料水と馬たちに必要な水を補給させていただきたいのですが」
男性はすぐには答えず、井戸の縁へ手を置いて少し考えた。
「水を分けること自体はできると思うよ。ただ、ここの井戸は集落のみんなで使っているからね。旅人がどれだけ汲むかは、ちゃんと確認しておきたいんだ」
「もちろんです。必要な量をお伝えしますし、利用料があるならお支払いします」
シモンが丁寧に答えると、男性は安心したように頷いた。
「そう言ってもらえるなら話が早い。まず、どれくらいの水が必要なのか教えてくれるかい?」
シモンは携行している水の残量と、馬車に積んでいる容器の状態を簡潔に説明した。
必要以上に多く汲むつもりはないこと、馬二頭の飲み水も確保したいことを伝えると、男性は一つずつ確認しながら聞いていた。
やがて男性は頷き、井戸の方へ目を向けた。
「そのくらいなら、今日の分としては問題ないだろう。ただ、馬に飲ませる水は、井戸の縁で直接使わないでほしいんだ。向こうに動物用の桶があるから、そちらへ運んで使ってもらうことになる」
男性が示した先には、広場の端に置かれた大きな木桶があった。
先ほどルシルたちが見たものとは別に、少し低い位置へ置かれた桶もあり、馬が水を飲みやすいように工夫されているらしかった。
「分かりました。教えていただいた方法で使わせてもらいます」
ルシルが答えると、男性は満足そうに頷いた。
「それから、井戸の滑車は少し古いからね。水を汲むときは、私が手伝おう。慣れていない人が急に引っ張ると、縄が絡まることがあるんだ」
「ありがとうございます。助かります」
ルシルはもう一度頭を下げた。
男性は木槌を脇へ置き、井戸の縁を軽く叩いた。
「さて、そうと決まれば、まずは容器を持っておいで。水を汲む前に、どれだけ入るか確かめようじゃないか」
ルシルは頷き、馬車へ戻った。
モモもその後ろについていきながら、嬉しそうに小さく笑った。
「ルシル君、よかったね! ちゃんとお水を分けてもらえそうだよ」
「うん。本当によかった。でも、まだ作業はこれからだから、井戸の使い方を守って、きちんと補給しよう」
「もちろん! わたしも手伝うね。何か運ぶものがあったら言ってね」
モモはそう答え、馬車の荷台へ目を向けた。
ルシルは必要な容器を取り出しながら、少しだけ胸を撫で下ろしていた。
リーヴェルを出てから、何度も水の残量を確かめ、次の補給先を探してきた。
その途中で出会った人たちが、少しずつ道を教えてくれた。
羊飼いは細い木々の並ぶ場所を教えてくれ、荷物を運ぶ男性は石垣の先に集落があると話してくれた。
畑仕事をしていた女性は集落への道を示し、薪を運んでいた男性は井戸の場所を教えてくれた。
そして今、ようやく井戸を管理する人へ直接お願いすることができた。
(僕たちだけで進んでいるつもりでも、実際にはいろんな人に助けてもらっているんだな。知らない土地を旅するって、道を覚えるだけじゃなくて、そこで暮らしている人たちのことを知っていくことでもあるんだね)
ルシルはそんな思いを胸に、容器を持って井戸の方へ戻った。
男性はすでに滑車の縄を確かめており、三人が近づくと穏やかに笑った。
「さあ、それじゃあ始めようか。水を汲むのは難しいことじゃないけど、ここの井戸にはここのやり方があるからね。慌てず、順番にやっていこう」
ルシルは頷き、シモンとモモもそれぞれの位置についた。
午後の広場には、井戸の滑車がゆっくり回る音が響き始めた。
石組みの縁を越えて引き上げられた桶からは、澄んだ水が静かに揺れている。
モモはその様子を見つめながら、思わず嬉しそうに息を吐いた。
「わあ……! きれいなお水だね」
男性は少し誇らしそうに笑った。
「そうだろう。ここの井戸は、集落のみんなで大事にしているんだ。だからこそ、使う人にはちゃんと約束を守ってもらいたいのさ」
その言葉を聞き、ルシルは静かに頷いた。
「はい。大切に使わせていただきます」
ルシルがそう答えると、男性は満足そうに目を細めた。
こうして三人は、草原の小さな集落で、ようやく次の旅へ向けた水の補給を始めることができた。
まだ、この集落の名前も、ここで暮らす人たちのことも、ほとんど知らない。
それでも、井戸のそばに立っているだけで、この場所が長い時間をかけて守られてきたことが少しずつ伝わってくる。
ルシルは水を受ける容器を支えながら、広場の向こうに並ぶ家々へ目を向けた。
旅人にとっては、ほんの短い立ち寄り先になるかもしれない。
けれど、ここで出会った人たちの親切や、井戸を大切にする暮らしの姿は、きっと旅帳面の中にも、三人の記憶の中にも残っていくのだろう。
午後の柔らかな風が広場を抜け、馬車の窓辺に飾られた青い風魚の布を小さく揺らした。
トルクとベルクは落ち着いて待っており、モモは水の入った桶を見ながら、次に何を手伝えるか考えている。
シモンは井戸の使い方と補給量を確かめ、必要な記録を残す準備をしていた。
そしてルシルは、仲間たちの姿を見渡しながら、穏やかに微笑んだ。
南へ続く旅は、まだまだ終わらない。
けれど、今日もまた一つ、知らなかった場所へ辿り着くことができた。
その喜びを胸に、ルシルは井戸のそばで、次の容器へ水を移す準備を始めた。




