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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第116話 細い木々の向こうに続く道と、旅人たちが見つけた小さな知らせ


 羊たちの鈴の音が丘の向こうへ遠ざかっても、モモはしばらく馬車の窓から後ろを振り返っていた。朝の草原を横切っていった白や薄茶色の群れは、もう低い斜面の陰に隠れてしまったけれど、年配の羊飼いが杖を掲げて別れを告げてくれた姿は、まだ鮮やかに思い出せる。最後まで草を食べようとしていた羊と、それを追いかける小柄な犬の様子を思い返したのか、モモの口元には何度も楽しそうな笑みが浮かんでいた。


「ねえ、ルシル君。さっきの羊さんたち、ちゃんとみんな一緒に進めたかな。最後に見えた子、まだ道の脇の草が気になってるみたいだったよね」


 御者台にいるルシルへ声をかけながら、モモは膝の上の旅帳面を開いた。先ほど別れたばかりだというのに、もう羊たちの姿を描きたくなったらしく、頁の端には小さな丸い体がいくつも並び始めている。


「きっと大丈夫だよ。羊飼いさんも犬も慣れているみたいだったし、あの子だけ置いていくようなことはしないと思うな。それに、最後はちゃんと群れの方へ歩き始めていたでしょう?」


「うん、そうだったね。あの犬さん、すごく頼もしかったなあ。羊さんが横へ行こうとすると、先回りして戻してたもん」


 モモは感心したように頷き、描きかけの羊の横へ小さな犬を描き加えた。走っている姿を表したかったようだが、四本の脚の向きが思うように決まらず、首を傾げながら何度か線を引き直している。


 隣で手帳を閉じたシモンは、その様子を横目に見ながら穏やかに口を開いた。


「羊飼いの方も、あの犬をよく信頼していらっしゃいましたね。もっとも、犬に任せきりではなく、群れ全体の動きを見ながら指示を出していました。互いの役割がはっきりしているからこそ、あれほど落ち着いて道を渡れたのでしょう」


「そう言われると、わたしたちにも少し似てるね。ルシル君が馬車を動かして、シモン君が道を確かめて、わたしが景色を見つけるの!」


 モモが嬉しそうに顔を上げると、シモンは眼鏡の位置を直しながら小さく笑った。


「モモ嬢の役割は、景色を見つけることだけではありませんよ。先ほども羊の群れに気づくのが早かったですし、昨日は野営場所へ入る道の状態にも注意を向けてくださいました。そうした観察は、旅の安全にも役立っています」


「えへへ、そうかな。でも、そうやって言ってもらえると嬉しいな。これからもいっぱい見つけるね!」


 ルシルは二人のやり取りを聞きながら、手綱を握る指の力をわずかに緩めた。トルクとベルクは羊たちが通り過ぎたあとも落ち着いており、今は朝の日差しを受けながら、乾いた街道を一定の歩調で進んでいる。


(みんなで旅をするって、こういうことなんだろうな。誰か一人が何でもできる必要はなくて、それぞれが見つけたことを持ち寄ればいい。僕も二人に助けられているし、二人もきっと同じように感じてくれているんだ)


 ルシルはそんな思いを胸に、前方へ目を向けた。


 街道はしばらく低い丘の間を縫うように続いていたが、羊飼いが話していたとおり、少しずつ左右の斜面が遠ざかり始めていた。道の先にはこれまでより広い草原が見え、風に揺れる草の波が、緩やかな起伏に沿って幾重にも重なっている。


 遠くの空には薄い雲が流れていたものの、雨を予感させるような暗さはない。道の表面も朝露が残っていた場所を過ぎると乾いており、車輪が深く沈むような轍は見当たらなかった。


「ルシル様、先ほど教えていただいた木々の並ぶ場所は、もう少し先でしょうか。地形はお話に近づいているようですが、まだ目印になるものは見えませんね」


 シモンは馬車の前方へ視線を向け、街道と草原の境目を確かめていた。羊飼いから聞いた情報は手帳に書き留めてあるが、そこには距離も所要時間も記されていない。


「うん。まだ見えていないね。でも、急いで探さなくてもいいと思うよ。木が並んでいる場所を見つけても、そこに水があるとは限らないって教えてもらったから、まずは道を間違えないことが大事だね」


「そのとおりです。目印を探すあまり、ほかのことを見落としてしまっては意味がありません。今は街道を進みながら、周囲の変化を確認していきましょう」


 シモンが頷くと、モモも旅帳面を閉じて窓の外を見た。


「じゃあ、わたしは左側を見てるね。細い木が何本か並んでる場所なんだよね? でも、似たような木があっても、すぐに決めつけないようにするよ」


 その返事に、ルシルは思わず笑みを深めた。


「頼りにしてるよ、モモ。僕は前の道とトルクたちの様子を見ているから、何か気づいたら教えてね」


 馬車はそのまま、広がり始めた草原の中へ進んでいった。


 午前の時間がゆっくり過ぎるにつれ、道の左右に見える景色も少しずつ変わっていった。背の高い草がまとまって生える場所は減り、かわりに短い草の間から小さな石が覗くようになっている。丘の斜面には黄色い花が点々と咲いていたが、平地に入ると白い花も混じり始め、モモは窓の外を眺めるたびに新しい色を見つけていた。


 やがて、街道の左手に細長い影がいくつか見え始めた。


 最初に気づいたのはモモだった。


「ルシル君、あそこ! 左の方に、細い木が並んでるみたいに見えるよ。まだ遠いけど、ほかの木より背が高くて、枝が上に伸びてる感じがするの」


 ルシルは前方の安全を確かめてから、モモの示した方向へ目を向けた。街道の左側には、確かに細い幹を持つ木々が数本、少し間隔を空けて立っている。一本だけではなく、同じような形の木が並んでいるため、遠くからでも目印になりそうだった。


「本当だ。羊飼いさんが話していた場所かもしれないね。シモン、どう思う?」


「お話と特徴は一致しています。ただ、木々の近くに道があるかどうかまでは聞いていませんから、まずは街道から確認しましょう。水場があると期待して近づくのは避けた方がよさそうです」


 ルシルは頷き、二頭の歩調を保ったまま進んだ。


 木々が近づくにつれ、その周囲の様子もはっきりしてきた。細い幹はまっすぐ上へ伸び、葉は高い位置にまとまっている。木の下には背の低い草が生えていたが、周囲の地面には乾いた土が露出している部分も多く、湿った場所に特有の濃い緑色は見られなかった。


 木々の向こうには浅い窪地が続いていたものの、水面らしい光は見えない。ルシルは羊飼いの言葉を思い出し、そこが単なる目印であって、休み場や水場とは限らないことを改めて意識した。


「やっぱり、水があるようには見えないね。もちろん、ここから全部分かるわけじゃないけど」


 ルシルが呟くと、モモは窓から少し身を引き、木々の向こうを眺めた。


「うん。あの人が教えてくれなかったら、わたし、木が並んでるから水もあるかもって思っちゃったかもしれないな。ちゃんと聞いておいてよかったね」


「ええ。実際に見た景色と、教えていただいた情報が一致したことには意味があります。ただし、そこから先のことまで確かになったわけではありませんから、引き続き注意しましょう」


 シモンはそう答え、手帳へ短い記録を加えた。


 木々の並びを過ぎると、街道はわずかに右へ曲がり、広い草原の中央へ続いていた。道の先には低い丘が重なって見えるものの、これまでのように左右から迫ってくる感じはなく、空が一段と広くなったように感じられる。


 モモはしばらくその景色を眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。


「なんだか、空がすごく大きく見えるね。リーヴェルを出てからずっと草原を通ってるけど、場所によってこんなに違うんだなあ」


「そうだね。昨日は丘の間を通ることが多かったから、道の向こうが見えない場所もあったけど、ここはずいぶん遠くまで見えるよ」


 ルシルはそう答えながら、視線を前方へ戻した。


 見晴らしがよくなったからといって、道が安全になったとは限らない。草原の広さに気を取られず、車輪が通る位置や小さな石の散らばり方を確認しながら進んでいると、やがて道の右側に低い石の塊が見えてきた。


 それは、以前通り過ぎた積み石の目印とは違い、自然に露出した岩のようだった。表面は丸みを帯びており、周囲には短い草が生えている。街道から少し離れた場所にあるため、馬車の通行を妨げるものではなかった。


「ルシル君、あの石、なんだか大きなパンみたいじゃない?」


 モモが楽しそうに言うと、ルシルは思わず笑った。


「言われてみると、そう見えるかもしれないね。少し丸くて、上の方がふくらんでるところが似てるな」


「でしょ? しかも、ちょっと焼き色がついてるみたいな色なんだよ。あれを見てたら、なんだかお腹が空いてきちゃった」


 モモはそう言って自分のお腹を押さえ、少し照れくさそうに笑った。


 シモンはその様子を見ながら、穏やかに口を開いた。


「モモ嬢、先ほど朝食を取ったばかりではありませんでしたか。もっとも、歩いているわけではなくても、景色を眺めているうちに食べ物を連想することはあるのでしょうね」


「もう、シモン君! お腹が空いたって言っても、今すぐ食べたいって意味じゃないよ。あの石がパンに見えるって話をしてるだけだもん」


 モモは笑いながら抗議し、もう一度岩の方を眺めた。


 ルシルは二人のやり取りを聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。何でもない石を見つけて、パンに似ていると笑い合う。そんな時間が旅の中に自然にあることを、彼は何より嬉しく思っていた。


 王宮にいた頃なら、道端の石に目を向ける余裕すらなかったかもしれない。今は誰かに急かされることもなく、馬車の上から見つけた小さなものについて、仲間と好きなだけ話せる。


(こういう時間が、僕は本当に好きなんだな。何か大きなことを成し遂げなくても、今日見つけたものを三人で笑い合える。それだけで、旅に出てよかったと思えるんだ)


 ルシルはそんな思いを胸に、トルクとベルクへ穏やかに声をかけた。


 午前の移動が続き、太陽が少しずつ高くなる頃には、街道の先に小さな変化が現れ始めた。


 それまでほとんど見かけなかった車輪の跡が、道の表面にいくつか重なっていたのである。深く刻まれたものではなく、乾いた土の上に残る薄い筋だったが、同じ方向へ伸びる跡が複数あることは分かった。


 シモンもそれに気づき、前方の地面へ目を向けた。


「ルシル様、道の表面に車輪の跡が増えているようですね。いつ通ったものかは分かりませんが、ここを馬車が利用していることは確かなようです」


「そうだね。羊飼いさんが、この先には人が暮らしている場所があるって言ってたし、そこへ向かう人たちが通るのかもしれないね」


 ルシルはそう答えながら、街道の先へ目を向けた。


 ただし、車輪の跡が増えたからといって、すぐ近くに町があるとは限らない。広い草原では、遠くの集落から荷物を運ぶ馬車が同じ道を通ることもあるだろう。


 モモも窓から道を見つめ、少し考えるように首を傾げた。


「じゃあ、ここから先で誰かに会えるかもしれないね。もし会えたら、水を補給できる場所を聞いてみたいな。でも、相手も急いでるかもしれないから、邪魔にならないようにしなくちゃ」


「ええ。まずは相手の様子を見て、話しかけられる状況かどうか判断しましょう。もちろん、無理に引き止める必要はありません」


 シモンが答えると、モモは素直に頷いた。


 そのまま少し進んだところで、ルシルは前方に小さな人影を見つけた。


 最初は草原の中に立つ細い木かと思ったが、近づくにつれて、その影がゆっくり動いていることに気づいた。街道の左側を歩いているようで、背中には大きな荷物を背負っている。


「二人とも、前に誰かいるみたいだよ。歩いている旅人かな」


 ルシルが声をかけると、モモは窓から前方を覗き込んだ。


「本当だ! 背中に大きな荷物を背負ってるね。あれ、重くないのかな」


「距離があるので詳しくは分かりませんが、歩き方は落ち着いているようですね。こちらの馬車が近づくことには、まだ気づいていないかもしれません」


 シモンはそう答え、相手との距離を確かめた。


 ルシルはトルクとベルクの歩調を少し落とし、相手を驚かせないように進んだ。


 やがて人影がはっきり見える距離まで近づくと、それが若い男性であることが分かった。


 男性は丈夫そうな布の上着を着て、背中に大きな包みを背負っていた。片手には短い杖を持ち、足元を確かめながら歩いている。旅慣れているようにも見えたが、肩にかかった荷物の重さのためか、ときどき歩幅を小さくしていた。


 ルシルは十分な距離を保ったまま、声をかけた。


「こんにちは! 後ろから馬車が通ります。道の右側を進みますので、そのまま歩いていて大丈夫ですよ!」


 男性は振り返り、少し驚いたように目を瞬かせた。


 しかし、すぐに馬車の姿を確認すると、安心したように笑った。


「ああ、こんにちは。気づくのが遅くなってすみません。こちらは道の端を歩いていますから、どうぞ先へ行ってください」


 男性はそう答え、街道の左側へ少し寄った。


 ルシルは頷き、馬車をゆっくり進めようとしたが、そのときモモが小さく声を上げた。


「ルシル君、あの人の荷物、下のところが少しずれてないかな。紐が緩んでるみたいに見えるんだけど」


 ルシルは男性の背中へ目を向けた。


 確かに、大きな包みの下側が少し傾いており、片方の紐が緩んでいるように見える。歩くたびに包みが揺れ、その重さが片側へ寄っているようだった。


「本当だ。あのままだと歩きにくそうだね」


 ルシルはそう呟き、男性へもう一度声をかけた。


「あの、すみません。背中の荷物が少し傾いているように見えるんですが、大丈夫ですか?」


 男性は足を止め、驚いたように自分の肩へ手を伸ばした。


「えっ、荷物ですか? ああ、やっぱり……。さっきから片側だけ重いと思ってたんです。紐を締め直したつもりだったんですが、うまくできていなかったみたいで」


 男性は困ったように笑い、荷物を下ろそうとした。


 しかし、包みは思ったより大きく、片手で支えながら下ろすのは難しそうだった。


 ルシルは馬車を安全な位置で停め、男性へ声をかけた。


「よかったら、少しお手伝いしましょうか。荷物を下ろすだけでも、誰かが支えた方が楽だと思います」


 男性は少し迷ったようだったが、やがて申し訳なさそうに頭を下げた。


「ありがとうございます。実は、朝から何度か締め直しているんですが、どうも片方が緩みやすくて。少しだけ手を貸していただけると助かります」


 ルシルは頷き、シモンと相談してから馬車を降りた。


 トルクとベルクが落ち着いていることを確かめ、男性の荷物を下ろす手伝いをする。包みは見た目ほど極端に重いわけではなかったが、長い時間背負って歩くには十分な重さがありそうだった。


 地面へ下ろすと、男性は大きく息を吐き、肩を軽く回した。


「いやあ、助かりました。ずっと片方の肩に重さがかかっていたみたいで、思った以上に疲れていたようです」


 モモも馬車から降り、少し離れたところで荷物の様子を見ていた。


「大丈夫ですか? 肩、痛くなってませんか?」


「ええ、少し疲れているだけです。ありがとうございます。あなたが気づいてくれたんですよね?」


 男性が笑顔で尋ねると、モモは嬉しそうに頷いた。


「はい! 歩くたびに荷物が片方へ揺れてたから、ちょっと気になったんです。でも、無理して歩いてたなら、早めに気づけてよかったです」


 男性は感心したように目を細めた。


「よく見ていましたね。自分では背中が見えないから、なかなか気づけないんですよ」


 その言葉を聞き、モモは少し照れくさそうに笑った。


 シモンは荷物の紐を確認し、片側の結び目が緩んでいることに気づいた。


「こちらの紐が少し滑りやすくなっているようですね。結び方だけでなく、荷物の重さが左右へ偏っていることも原因かもしれません」


 男性は頷き、包みの口を少し開いて中を確かめた。


 中には布に包まれた小さな品物や、木製の道具らしいものがいくつか入っている。詳しい中身までは見えなかったが、形や重さが揃っていないため、歩いているうちに片側へ寄ってしまったのかもしれなかった。


「なるほど。確かに、重いものを片側へまとめて入れていました。急いで詰めたのがよくなかったんでしょうね」


 男性は苦笑しながら、中の荷物を少しずつ入れ直した。


 ルシルはその作業を見守り、必要なときだけ包みを支えた。シモンは紐の通し方を確認し、男性自身が背負いやすい位置へ調整できるよう、いくつか助言をした。


 やがて荷物を背負い直した男性は、数歩歩いてみると、驚いたように顔を明るくした。


「ああ、ずいぶん楽になりました! さっきまで片側へ引っ張られていたのに、今は重さがちゃんと背中に乗っている感じがします」


「それならよかったです。ただ、しばらく歩いてまた緩むようなら、無理せず休んで調整してくださいね」


 シモンがそう言うと、男性は深く頷いた。


「ええ、そうします。本当にありがとうございました。皆さんが声をかけてくれなかったら、たぶんこのまま歩き続けていたと思います」


 ルシルは笑顔で首を振った。


「いえ、困っているように見えたので、少し気になっただけです。荷物が安定してよかったですね」


 男性はその言葉を聞き、ほっとしたように微笑んだ。


 少し話をすると、彼は近くの集落へ品物を運ぶ途中だということが分かった。ただし、どこから来たのかや、何を運んでいるのかについて、詳しく尋ねる必要はなかった。


 ルシルたちも、自分たちが南へ旅をしていることだけを伝えた。


 シモンは相手が落ち着いた様子になったのを見て、丁寧に声をかけた。


「もし差し支えなければ、この先の道について少し教えていただけませんか。私たちは南へ向かっているのですが、次に水を補給できる場所がまだ分からないのです」


 男性は少し考えるように前方へ目を向けた。


「ああ、それなら、この先に小さな集落がありますよ。私もそこへ向かっているんです。ただ、ここからどれくらいかかるかは、馬車の速さによると思います」


 ルシルはその言葉に、少しだけ表情を明るくした。


「集落があるんですね。羊飼いの方からも、この先には人が暮らしている場所があると聞いていたんです」


「そうでしたか。なら、たぶん同じところの話でしょうね。街道をそのまま進めば、やがて道の右側に低い石垣が見えてきます。その先に家が何軒か集まっている場所があるんです」


 男性はそう説明し、杖で南の方を示した。


「ただ、水を分けてもらえるかどうかは、私からは約束できません。集落には井戸があるはずですが、外から来た人がどんな条件で使えるのかまでは詳しく知らないんです」


 シモンはその言葉を聞き、丁寧に頷いた。


「ありがとうございます。井戸がある可能性が分かっただけでも助かります。利用できるかどうかは、実際に集落で確認することにします」


 男性は安心したように笑った。


「そうしてもらえるといいと思います。小さな集落ですから、町みたいに何でも揃っているわけじゃありませんけど、旅人が通ること自体は珍しくないはずですよ」


 モモはその話を聞きながら、少し嬉しそうにルシルを見た。


「ルシル君、もしかしたら今日中に人のいる場所まで行けるかもしれないね。でも、まだ距離は分からないから、無理に急がない方がいいよね」


「うん。まずは道を進んでみよう。もし途中で休んだ方がよさそうなら、集落へ着く前に休憩を取ればいいからね」


 ルシルが答えると、男性は穏やかに頷いた。


「それがいいと思います。私も歩いて行くので、途中で休みながら進むつもりです」


 しばらく会話を交わしたあと、男性はもう一度頭を下げた。


「それじゃあ、私はそろそろ行きます。本当にありがとうございました。皆さんも、どうかよい旅を」


「こちらこそ、道を教えていただいてありがとうございました。荷物、気をつけて運んでくださいね」


 ルシルがそう答えると、モモも笑顔で手を振った。


「ありがとうございました! 肩が痛くならないように、ちゃんと休んでくださいね!」


 男性は笑いながら頷き、街道の左側をゆっくり歩き始めた。


 先ほどまで片側へ傾いていた荷物は、今は背中の中央に落ち着いている。歩くたびに大きく揺れることもなくなり、男性の足取りも少し軽くなったように見えた。


 三人はその後ろ姿を見送り、馬車へ戻った。


 ルシルは御者台へ上がり、トルクとベルクの様子を確かめた。二頭は短い停車の間も落ち着いており、再び歩き始める準備は整っている。


「モモ、さっきはよく気づいてくれたね。あの人、荷物が楽になって本当によかったよ」


 ルシルが声をかけると、モモは少し照れくさそうに笑った。


「えへへ。なんとなく変だなって思っただけなんだけど、役に立ててよかったな。わたし、前だったら荷物が大きいなあって思うだけで、紐が緩んでるところまでは見てなかったかもしれない」


「それだけ、周りをよく見るようになったということでしょうね。気づいたことをすぐに決めつけず、ルシル様へ伝えてくださったのもよかったと思います」


 シモンの言葉に、モモは嬉しそうに頷いた。


「うん。わたし一人でどうにかしようとするより、三人で考えた方がいいもんね」


 ルシルは二人の顔を見ながら、穏やかに微笑んだ。


 誰かを助けるために、特別な力が必要なわけではない。


 モモの強力な魔法も、シモンの冒険者としての経験も、もちろん旅の中では大切なものだ。しかし、今のように小さな違和感へ気づき、相手へ声をかけることも、同じくらい大切なのだと感じられた。


(モモは本当に、いろんなことを見つけられるようになったな。僕も負けていられないね。何かを見つけたときに、ちゃんと立ち止まって考えられる人でいたい)


 ルシルはそんな思いを胸に、馬車をゆっくり進ませた。


 街道は再び草原の中へ続いていた。


 先ほど出会った男性の姿は、やがて緩やかな道の曲がり角の向こうへ見えなくなった。三人はそのまま南へ進み、午前の終わりが近づく頃には、道の右側に小さな石が集まっている場所を見つけた。


 ただし、それは先ほど教えてもらった石垣とは違い、自然に散らばった石のようだった。ルシルは無理に目印と結びつけず、街道を進みながら周囲の地形を確かめた。


「まだ石垣は見えないね。集落までは、もう少し距離があるのかな」


 モモが窓から尋ねると、シモンは穏やかに答えた。


「そうかもしれませんね。ただ、今の時点では距離を判断できません。昼食を取る場所も考えながら進みましょう」


「うん。さっきの人も、途中で休みながら行くって言ってたもんね。わたしたちも、無理しない方がいいよね」


 モモはそう言って、窓の外へ目を向けた。


 草原の向こうには、背の低い木が数本まとまって生えている場所が見えた。


 ただし、街道から少し離れており、その手前には草の濃い場所が広がっている。地面の状態が分からないため、馬車を入れるには慎重な確認が必要そうだった。


 ルシルはその場所を見ながら、少し考えた。


「二人とも、そろそろお昼の休憩を考えようか。あの木のところも候補にはなりそうだけど、道から入れるかどうか分からないから、もう少し先も見てみよう」


「そうですね。今日はまだ移動を続ける余裕がありますし、無理に最初の候補へ入る必要はないでしょう」


 シモンが答えると、モモも頷いた。


「分かった。じゃあ、わたしもほかに休めそうな場所がないか探すね。今度は、地面が平らかどうかもちゃんと見るよ」


 ルシルは笑顔で頷き、馬車を進めた。


 やがて街道の左側に、草が短くなった小さな平地が現れた。


 そこには大きな木はなかったが、道からの段差が少なく、馬車を寄せられそうな広さがあった。近くには低い岩があり、その陰にはわずかな日陰もできている。


 ルシルは後方からほかの馬車が近づいていないことを確認し、シモンと相談してから、そこへ馬車を寄せることにした。


 地面の状態を確かめると、土は比較的乾いており、大きな窪みも見当たらなかった。長く滞在する場所ではないが、昼食と馬たちの休憩には使えそうだった。


「ここなら大丈夫そうだね。木陰は少ないけど、風も強くないし、少し休むにはよさそうだ」


 ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに笑った。


「うん! それに、ここからだと草原がよく見えるね。さっきの羊さんたちがいた場所とは違うけど、こういう広い景色も好きだなあ」


 三人は馬車を停め、トルクとベルクの世話を始めた。


 水の残量を確認し、二頭が必要な分を飲めるようにする。シモンは残りの量を改めて確かめ、次の補給先が見つかるまで無駄を出さないようにしようと考えていた。


 ルシルもそのことを理解しており、昼食には水を多く使わない携行食を選ぶことにした。


 モモは少し名残惜しそうに乾燥豆のことを思い出したが、今はまだ使わない方がよいと自分から言い出した。


「お豆は、ちゃんとお水を補給できてからにしようね。せっかく買ったんだから、おいしく食べたいもん」


 ルシルはその言葉に頷いた。


「そうだね。次の集落で水を補給できたら、どんな料理にするか考えてみよう。もちろん、使える場所や時間があるかどうかも確認してからだけど」


「うん! 楽しみにしておくよ」


 モモは嬉しそうに笑い、パンを手に取った。


 三人は草原を眺めながら、ゆっくりと昼食を取った。


 風は穏やかで、遠くの丘には薄い雲の影が落ちている。街道を通る人の姿は今のところ見えず、周囲には草の揺れる音と、時折聞こえる鳥の鳴き声だけが響いていた。


 モモは食事の途中で、ふと先ほどの男性のことを思い出した。


「ねえ、ルシル君。さっきの人、荷物が楽になって本当によかったね。あのまま歩いてたら、肩がもっと痛くなっちゃったかもしれないもん」


「そうだね。でも、本人もちゃんと気づいて、荷物を入れ直せたからよかったんだと思うよ。僕たちは少し手伝っただけだしね」


 ルシルが答えると、シモンも穏やかに頷いた。


「ええ。旅の途中では、自分でできることと、誰かの助けを借りた方がよいことがあります。大切なのは、無理をしていると気づいたときに、必要な対応を取れることなのでしょう」


 モモはその言葉を聞き、少し考えるようにパンを持つ手を止めた。


「そっか。わたしも、何でも一人でできるようにならなくちゃって思うことがあるけど、全部一人でやらなくてもいいんだね」


 ルシルはモモの顔を見て、穏やかに微笑んだ。


「もちろんだよ。僕だって、シモンやモモに助けてもらうことがたくさんあるし、これからもきっとそうだと思う。だから、困ったときは遠慮しないで言ってほしいな」


 モモはその言葉に、嬉しそうに頷いた。


「うん。ルシル君も、困ったときはちゃんと言ってね。わたし、できることなら何でも手伝いたいから」


 ルシルは笑顔で頷き、シモンも二人のやり取りを静かに見守っていた。


 昼食を終えると、三人はしばらく休憩を続けた。


 モモは旅帳面を開き、午前中に出会った羊たちの姿を描き始めた。鈴をつけた羊や、群れの外側を走る犬、杖を持った羊飼いの姿を小さく描き加えていく。


 その隣で、シモンは今日得られた道の情報を整理していた。


 羊飼いから聞いた細い木々の並ぶ場所は、実際に確認できた。


 さらに、荷物を運ぶ男性からは、街道の先に小さな集落があり、道の右側に低い石垣が見えてくると教えてもらった。


 ただし、集落までの距離や、井戸を利用できる条件については、まだ分かっていない。


 シモンはその違いを手帳へ書き分け、今後の判断に使えるようにしていた。


 ルシルはその様子を見ながら、少しだけ笑った。


「シモン、今日は新しい情報が増えたね。でも、まだ分からないことも多いから、焦らず進もう」


 シモンは顔を上げ、穏やかに頷いた。


「ええ。少なくとも、街道を進む方向については複数の方のお話が一致しています。今はその情報を参考にしながら、実際の景色を確かめていくのがよいでしょう」


「うん。僕もそう思うよ」


 ルシルはそう答え、草原の向こうへ目を向けた。


 遠くには、まだ知らない道が続いている。


 次の集落がどんな場所なのか、そこにどんな人たちが暮らしているのかは、今のところ分からない。


 それでも、今日の旅には新しい出会いがあり、少しずつ先の道が見え始めていた。


 やがて休憩を終えると、三人は馬車へ戻り、再び南へ向かって出発した。


 午後の街道には明るい日差しが広がり、風は草原をゆっくりと渡っていた。トルクとベルクは落ち着いた歩調で馬車を引き、ルシルは前方の道を確かめながら進んでいく。


 モモは旅帳面を大切そうに閉じ、窓の外へ顔を向けた。


「ねえ、ルシル君。今日は羊さんたちにも会えたし、荷物を運んでる人にも会えたし、なんだかいろんな人の旅を見た気がするね」


「そうだね。みんな、それぞれの目的があって道を進んでいるんだなって思ったよ。僕たちは自由な旅を楽しんでいるけど、羊飼いさんは羊たちと一緒に暮らしているし、さっきの人は荷物を届けるために歩いていたんだね」


 ルシルが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。


「うん。道は同じでも、みんな違うことをしてるんだね。そう考えると、なんだか面白いなあ」


 シモンも窓の外へ目を向け、穏やかに微笑んだ。


「同じ街道を利用する人たちが、互いに少しずつ助け合っているのでしょうね。道を譲ったり、情報を伝えたり、困っている人へ声をかけたりすることも、その一つなのだと思います」


 その言葉に、ルシルは静かに頷いた。


 王宮にいた頃は、道を進むことにも役目や予定が伴っていた。


 今は違う。


 自分たちの意思で進み、途中で出会った人と話し、必要なら立ち止まる。


 その自由が、ルシルには何よりも大切だった。


(今日も、いい一日になっているな。まだ集落には着いていないし、水を補給できるかどうかも分からない。でも、少しずつ先へ進んでいることは確かなんだ)


 ルシルはそんな思いを胸に、トルクとベルクへ穏やかに声をかけた。


 馬車は緩やかな道を進み、やがて前方の景色が少しずつ変わり始めた。


 草原の向こうには、低い石が横へ連なっているような場所が見える。


 まだ距離があるため、それが教えてもらった石垣なのかどうかは分からない。


 ルシルはその姿を見つけると、少しだけ目を細めた。


「二人とも、あの先に石が並んでいるように見えるよ。もしかしたら、さっきの人が話していた目印かもしれないね」


 モモはすぐに窓から前方を見つめた。


「本当だ! でも、まだ遠いから、ちゃんと近づいて確かめないと分からないね」


「ええ。今はそのまま街道を進みましょう。石垣であれば、近づくにつれて形がはっきりするはずです」


 シモンの言葉に、ルシルは頷いた。


 午後の光を受けた草原の中で、馬車はゆっくりと前へ進んでいく。


 羊飼いの鈴の音も、荷物を運ぶ男性の姿も、すでに遠くなっていた。


 けれど、今日出会った人たちから受け取った言葉は、三人の旅を確かに支えている。


 ルシルは手綱を握り直し、前方へ目を向けた。


 次に見つけるものが何なのかは、まだ分からない。


 それでも、三人で確かめながら進めばいい。


 そんな穏やかな思いとともに、馬車は南へ続く街道を進んでいった。

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