第115話 草原の朝に響いた小さな鈴と、道を分け合う旅人たち
丘の間に広がる草原へ、朝の光がゆっくりと差し込み始めていた。
夜の間は静かだった風が、空の明るさに合わせるように草の穂を揺らし、馬車の窓辺に吊るされた青い風魚の布を小さく動かしている。遠くの丘にはまだ薄い影が残っていたが、東の空はすでに明るく、雲の縁には淡い金色の光が浮かんでいた。
ルシルは寝台から体を起こし、しばらく窓の外を眺めていた。
昨夜は、三人で相談して選んだ野営場所で、落ち着いて休むことができた。馬車の周囲で大きな物音がすることもなく、夜の間に天候が崩れることもなかったため、朝を迎えた今も、木々の近くには穏やかな空気が流れている。
(昨日は早めに休む場所を決められたから、ずいぶん余裕があったな。今日も同じように進めるとは限らないけど、焦らずに考えていこう)
ルシルはそう考えながら、静かに身支度を始めた。
馬車の中では、すでにシモンが起きていた。
黒縁の眼鏡をかけ、いつもの紺色の外套を整えた彼は、窓から差し込む光を確かめながら、手帳を開いている。昨夜のうちに必要な確認は済ませていたため、今朝は出発前の点検と、今日の移動について考えているようだった。
「おはよう、シモン。今日はいい天気になりそうだね」
ルシルが声をかけると、シモンは顔を上げ、穏やかに一礼した。
「おはようございます、ルシル様。今のところ空は明るく、風も強くありません。ただ、丘の向こうの天候までは分かりませんので、出発前にもう一度空の様子を確認しておきましょう」
「うん。昨日も坂の上と下では風の強さが違ったからね。見えている空だけで全部決めないようにしよう」
ルシルが頷くと、シモンは少しだけ微笑んだ。
以前なら、ルシルが起きる前に出発の準備をすべて整えようとしていたかもしれない。しかし今は、必要なことを三人で確認し、相談しながら進めることが自然になりつつある。
その変化を、シモン自身も悪くないと感じていた。
やがて、奥の寝台から布の擦れる音が聞こえた。
「……んん。おはよう……」
まだ少し眠そうな声とともに、モモがゆっくり体を起こした。
桃金色の長い髪は寝起きのため少し乱れており、緑色の瞳もまだ完全には開いていない。彼女は二人の姿を見つけると、小さく笑い、両手を上へ伸ばした。
「ルシル君、シモン君、おはよう。なんだか、すごくよく眠れた気がするよ。昨日は早く休めたからかな」
「おはよう、モモ。僕もよく眠れたよ。外も静かだったし、馬車が大きく揺れることもなかったからね」
「えへへ。じゃあ、昨日あそこで休むことにして正解だったね」
モモは嬉しそうに笑い、窓の外へ顔を向けた。
木々の枝には朝日が当たり、葉の間から細かな光が落ちている。昨日の夕方には橙色に染まっていた草原も、今は柔らかな緑色を取り戻していた。
「わあ、朝になると全然違う景色だね。昨日は木の影が長かったけど、今は光が下から入ってくるみたい。あとで帳面にも描いておこうかな」
「朝食と出発の準備が終わってからなら、少し時間を取れると思いますよ。ただし、まずは馬たちの様子を確認しましょう」
シモンがそう言うと、モモは元気よく頷いた。
「うん! トルク君とベルク君にも、おはようって言わなくちゃね」
三人は身支度を整え、馬車の外へ出た。
朝の空気は思っていたよりも冷たく、ルシルの頬を撫でた風には、夜の名残のような涼しさがあった。草の先には小さな露が残り、日差しを受けるたび細かな光が瞬いている。
木々の近くでは鳥が短く鳴き、その声に応えるように、少し離れた丘から別の鳴き声が聞こえてきた。
「気持ちのいい朝だね。昨日の昼間とは、空気の匂いまで違う気がするな」
ルシルがそう言うと、モモは大きく息を吸い込んだ。
「本当だ。草の匂いがするね。あと、ちょっと土の匂いもするかも。夜の間に雨が降ったわけじゃないのに、不思議だなあ」
「朝露で地面や草が湿っているため、匂いを感じやすいのかもしれませんね。ただ、原因を一つに決めることはできませんが」
シモンはそう答え、周囲の地面を確かめた。
昨夜、馬車を停めた場所には大きな変化はなく、車輪の周囲も安定している。木々の根元には露が残っていたが、馬車の近くは比較的乾いており、移動の妨げになるような状態ではなかった。
ルシルはトルクとベルクのところへ歩き、二頭へ声をかけた。
「おはよう、トルク、ベルク。昨日はゆっくり休めたかな。今日も一緒に進もうね」
トルクはルシルの声に反応し、鼻先を近づけてきた。
ベルクも穏やかに耳を動かし、落ち着いた様子で立っている。二頭とも昨夜から大きく体調を崩した様子はなく、ルシルが首筋を撫でると、トルクは気持ちよさそうに目を細めた。
「ふふっ、トルク君、朝から甘えん坊さんだね。ルシル君が来るのを待ってたのかな」
モモが笑いながら近づくと、トルクは今度は彼女の方へ鼻先を向けた。
「もしかしたら、朝ごはんを期待しているのかもしれないね」
ルシルが冗談めかして言うと、モモは声を上げて笑った。
「それなら、わたしと同じだね! 朝ごはんって大事だもん」
「モモ嬢とトルクを同じように扱ってよいのか、少々迷うところですが」
シモンが静かに言うと、モモは笑いながら頬を膨らませた。
「もう、シモン君! そこは笑ってくれてもいいのに!」
「いえ、十分に微笑ましいと思っていますよ」
そう答えたシモンの口元には、確かに小さな笑みが浮かんでいた。
三人は馬たちの状態を確認し、朝の世話を進めた。
水と飼料の残量を確かめ、二頭が必要な分を取れるようにする。昨夜の野営場所では新たな水の補給はできていないため、携行している水を使いながら、次に補給できる場所を見つける必要があった。
それでも、今朝の時点で急いで移動しなければならない状況ではない。
シモンは残量を確認し、手帳へ簡潔に書き留めた。
「今のところ、今日の移動を始めることに問題はありません。ただ、次の集落や水場については、引き続き情報を集めたいですね」
「うん。昨日会った旅人さんも、具体的な場所までは分からないって言ってたからね。もし今日、誰かに会えたら聞いてみよう」
ルシルが答えると、モモも頷いた。
「そうだね。でも、知らない人に聞くときは、ちゃんと挨拶してからだよね。昨日の人も親切だったし、今日もいい出会いがあるといいな」
その言葉を聞き、ルシルは穏やかに微笑んだ。
旅を続けていると、町や村だけでなく、道の途中でもさまざまな人と出会う。
昨日のように、短い会話だけで別れることもある。
それでも、知らない土地のことを教えてもらったり、互いの旅の無事を願ったりする時間は、ルシルにとって大切なものになっていた。
馬たちの世話を終えると、三人は簡単な朝食を取った。
木々の間から差し込む朝日を受けながら食べるパンは、昨夜と同じような携行食であっても、どこか違う味わいに感じられる。モモは草原を眺めながら食事を楽しみ、シモンは出発までの予定を簡潔に確認していた。
「今日は、まず昨日の続きの道を進むんだよね?」
モモが尋ねると、ルシルは頷いた。
「うん。ここから先も南へ続く街道を進むつもりだよ。ただ、丘が多いから、道がどんなふうに曲がっているかは、進みながら確かめる必要があるね」
「それから、次の町や水場が見つかるまでは、無理に遠くへ進みすぎない方がよいでしょう。今日も途中で休憩を取り、馬たちの様子を見ながら判断しましょう」
シモンの言葉に、モモは真剣な表情で頷いた。
「分かった。じゃあ、わたしも道の周りをよく見るね。でも、昨日みたいに景色を楽しむのも忘れないよ」
「もちろん。それが旅の楽しみだからね」
ルシルが笑うと、モモも嬉しそうに笑った。
朝食を終えたあと、三人は野営場所の片づけを始めた。
使った道具を収納し、敷物をたたみ、馬車の周囲に忘れ物がないか確かめる。モモは旅帳面を取り出し、昨日描いた夕方の景色と、今朝の木々の様子を見比べていた。
「ねえ、ルシル君。昨日の絵と今の景色、同じ場所なのに全然違って見えるよ。昨日は影が長かったけど、今は木の下が明るいんだね」
「そうだね。時間が変わるだけで、こんなに雰囲気が違うんだな」
「うん。だから、朝のことも少し書いておこうかな。絵をもう一枚描くほどじゃないけど、朝露がきらきらしてたことは覚えておきたいんだ」
モモはそう言って、帳面の余白へ短い文章を書き加えた。
ルシルはその様子を見ながら、静かに微笑んだ。
旅帳面は、モモにとって単なる絵の集まりではなくなっている。
そこには景色だけでなく、そのとき何を感じたのか、誰とどんな話をしたのかも少しずつ残されていた。
それはきっと、これから先も大切なものになっていくのだろう。
準備が整うと、ルシルは御者台へ上がった。
シモンは馬具と車輪の状態を最後に確認し、モモは馬車の中で荷物が動かないように整える。
「それじゃあ、出発しようか。今日もよろしくね、トルク、ベルク」
ルシルが声をかけると、二頭はゆっくり歩き始めた。
馬車は木々の近くを離れ、草の短い平地から街道へ戻っていく。
後方には昨夜の野営場所が残り、朝日に照らされた木々が風に揺れていた。
モモは窓から振り返り、小さく手を振った。
「ありがとう、昨日の休み場! またいつか通ることがあったら、今度は違う季節の景色も見てみたいな」
ルシルはその声を聞きながら、穏やかに笑った。
街道へ戻った馬車は、低い丘の間を進み始めた。
昨日の午後に越えた坂の向こうとは違い、今朝の道はしばらく緩やかな下り坂が続いている。左右には草原が広がり、ところどころに背の低い木や小さな岩が見えた。
風は穏やかで、空も明るい。
ただし、丘の陰になる場所では地面に朝露が残っていることがあり、ルシルは車輪が滑りやすそうな場所を避けながら進んでいた。
「シモン、昨日より少し地面が湿っているところがあるね。夜の間に露が降りたからかな」
「その可能性はありますね。今のところ深い泥は見当たりませんが、丘の陰では乾き方が違うのでしょう。車輪の跡が濃く残っている場所には注意して進みましょう」
ルシルは頷き、二頭の歩調を落とした。
モモも窓の外へ目を向け、草の先に残る小さな水滴を眺めていた。
「朝露って、こんなにいっぱい残るんだね。昨日の昼間は乾いてたのに、朝になると草がきらきらしてるなんて、ちょっと不思議だな」
「夜の間に空気が冷えて、水分が草についたのかもしれないね。僕も詳しいことは分からないけど、こうして見るときれいだな」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん。こういうのも、旅してるから見られる景色だよね」
馬車はしばらく、穏やかな草原の道を進んだ。
丘の間を抜けると、前方には少し広い平地が現れた。
街道はその中央を緩やかに曲がりながら続いており、道の左手には低い木々が点々と生えている。右手には草の短い斜面が広がり、その向こうには遠くの丘が重なって見えた。
ルシルは前方の景色を眺めながら、ふと小さな音に気づいた。
最初は風に紛れていたが、しばらくすると、かすかな金属音のようなものが聞こえてきた。
「……ん?」
ルシルは少し首を傾げた。
トルクとベルクの蹄の音とは違う。
馬車の車輪が鳴る音でもない。
どこか遠くで、小さな鈴が揺れているような音だった。
「シモン、今、何か聞こえなかった?」
ルシルが声をかけると、シモンも顔を上げた。
「鈴のような音でしょうか。私にも、かすかに聞こえました」
「えっ、鈴?」
モモはすぐに窓の外へ顔を向けた。
「どこどこ? わたしにはまだ聞こえないよ」
三人はしばらく耳を澄ませた。
風が草を揺らす音の向こうから、確かに小さな鈴の音が聞こえてくる。
一定の間隔ではなく、少し不規則に鳴っているようだった。
「何か動いているものについてる鈴なのかな」
ルシルが呟くと、シモンは周囲を見渡した。
「可能性はありますが、まだ姿が見えません。音の方向からすると、前方の丘の向こうかもしれませんね」
モモは少しわくわくした様子で窓の外を眺めた。
「もしかして、羊さんとか牛さんかな? 首に鈴をつけてる動物っているよね」
「そうかもしれないね。でも、実際に見てみるまでは分からないから、少しゆっくり進もう」
ルシルはそう答え、トルクとベルクへ穏やかに声をかけた。
二頭は落ち着いた歩調を保ち、馬車はゆっくりと前方の丘へ近づいていく。
鈴の音は少しずつ大きくなってきた。
やがて、丘の斜面の向こうから、白っぽい小さな影がいくつも動いているのが見えた。
「あっ!」
モモが声を上げた。
「ルシル君、見て! あれ、羊さんじゃない?」
ルシルも前方へ目を向けた。
草原の斜面には、白や薄茶色の毛をした羊たちがゆっくりと移動していた。
数は一目では数えきれないほどで、草を食べながら歩くものもいれば、仲間の後ろについて進むものもいる。
その中の何頭かの首には、小さな鈴がついているようだった。
風に乗って聞こえていた音は、羊たちが動くたびに鳴る鈴の音だったらしい。
「本当だ。羊の群れだね」
ルシルは嬉しそうに笑った。
モモは目を輝かせ、窓から景色を眺めていた。
「わあ、すごい! あんなにたくさんの羊さん、初めて見たかもしれない。みんな一緒に歩いてるんだね」
シモンは群れの動きを確認しながら、少し真剣な表情になった。
「ルシル様、群れの進む方向に注意してください。今のところ街道から離れていますが、こちらへ近づいてくる可能性があります」
「うん。道を横切るなら、先に通ってもらおう。急いで進む必要はないからね」
ルシルはそう答え、馬車の速度をさらに落とした。
羊たちは草原の斜面をゆっくりと移動している。
群れの後方には、長い杖を持った人物が一人歩いていた。
年齢は遠くからでは分からなかったが、広いつばの帽子をかぶり、丈夫そうな外套を羽織っている。少し離れた場所には小柄な犬もおり、羊たちの動きに合わせて左右へ走っていた。
「羊飼いさんかな」
モモが尋ねると、シモンは頷いた。
「おそらくそうでしょう。犬も群れをまとめる役目をしているのかもしれませんね。ただ、こちらから近づきすぎると羊たちを驚かせる可能性がありますから、距離を保ちましょう」
「うん。トルクたちもびっくりしないように、ゆっくり停まろう」
ルシルは街道の幅と後方を確認し、通行の邪魔になりにくい位置で馬車を停めた。
羊たちはまだ少し離れた斜面にいたが、群れの先頭が街道の方へ向かっているように見えた。
やがて、羊飼いらしい人物がこちらに気づいた。
その人物は杖を軽く上げ、遠くから声をかけてきた。
「おおい! すまないね! 少しだけ道を横切らせてもらってもいいかい!」
声の主は、年配の女性だった。
日に焼けた顔には深い皺があり、帽子の下からは灰色の髪が少し覗いている。歩き方はしっかりしており、羊たちの様子を見ながら、慣れた動作で杖を使っていた。
ルシルは御者台から顔を上げ、穏やかに答えた。
「もちろんです! こちらは停まって待っていますので、どうぞゆっくり通ってください!」
「助かるよ! この子たち、急がせると余計にまとまらなくなるからね!」
女性はそう答え、羊たちの方へ向き直った。
小柄な犬が短く吠え、群れの外側へ回り込む。
羊たちはゆっくりと方向を変え、街道へ近づいてきた。
モモは窓からその様子を眺めながら、嬉しそうに笑っていた。
「すごいね、ルシル君。犬さんが動くと、羊さんたちも少しずつ向きを変えるんだ。ちゃんとお仕事してるんだね」
「本当だね。でも、全部の羊が同じように動くわけじゃないみたいだ。あの端にいる子は、まだ草を食べてるよ」
ルシルが指さすと、モモは小さく笑った。
「あっ、本当だ。みんなが歩いてるのに、一頭だけのんびりしてる。なんだかトルク君みたいだね」
その言葉に、ルシルは思わず笑った。
「トルクも食べ物があると、少しのんびりしちゃうからね」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに口を開いた。
「ただ、今は馬たちが羊の群れに驚かないようにしておきましょう。動物同士ですから、予想外の反応をすることもあります」
「うん。僕はこのまま二頭の様子を見ているよ」
ルシルは手綱を落ち着いて保ち、トルクとベルクへ声をかけた。
二頭は羊たちの姿を見て耳を動かしたが、大きく騒ぐことはなかった。
やがて、群れの先頭が街道へ入ってきた。
白い毛の羊たちが、ゆっくりと道を横切っていく。
鈴の音が近くで鳴り、蹄が乾いた土を踏む小さな音が重なった。
羊たちの中には、途中で立ち止まって草を食べようとするものもいたが、女性と犬が落ち着いて誘導し、少しずつ反対側へ進ませていた。
モモはその様子を見ながら、目を輝かせていた。
「かわいいなあ。みんな毛がふわふわしてる。あの小さい子、まだ子どもなのかな」
ルシルはモモの示した方向を見た。
群れの中には、ほかの羊よりも一回り小さな個体がいた。
薄茶色の毛をしたその羊は、少し大きな羊の後ろについて歩いている。ときどき周囲を見回しながらも、仲間から大きく離れることはなかった。
「そうかもしれないね。でも、年齢までは分からないな」
「うん。あとで羊飼いさんに聞いてみたいな。でも、今はお仕事の邪魔になっちゃうから、静かに見てようっと」
モモはそう言って、窓の近くへ座り直した。
ルシルはその言葉を聞き、嬉しくなった。
以前のモモなら、興味を持ったことをすぐに尋ねたくなっていたかもしれない。
しかし今は、相手が何をしているのかを見て、話しかけるタイミングを考えられるようになっている。
旅を続ける中で、彼女は少しずつ周囲への気配りを身につけていた。
羊たちは時間をかけて街道を横切り、反対側の草地へ移動していった。
最後の数頭が道を渡る頃、年配の女性がこちらへ近づいてきた。
「いやあ、待たせてしまって悪かったね。おかげで落ち着いて渡らせられたよ」
女性は帽子のつばを少し上げ、穏やかに笑った。
ルシルも笑顔で答えた。
「いえ、こちらこそ珍しい光景を見せていただきました。羊たちが鈴を鳴らしながら歩いているのが、とてもきれいでした」
「そうかい? 毎日見ていると、あんまり珍しくも感じなくなるんだけどね。でも、そう言ってもらえると嬉しいよ」
女性はそう答え、羊たちの方へ目を向けた。
犬は群れの外側で座り、こちらを警戒するように耳を立てている。
モモはその犬を見つめながら、少し遠慮がちに声をかけた。
「あの、こんにちは。羊さんたち、すごくかわいいですね。それに、あの犬さんもとっても賢そうです」
女性はモモへ顔を向け、にこりと笑った。
「こんにちは、お嬢さん。あの子はよく働いてくれるよ。羊たちが勝手な方へ行かないように、ちゃんと見ていてくれるんだ」
「やっぱりそうなんですね! さっきも、端にいた羊さんを上手に戻してましたよね。すごいなあ」
モモが感心したように言うと、女性は嬉しそうに頷いた。
「よく見てたね。あの子は、群れの動きを覚えるのが上手なんだよ。ただ、まだ若いから、ときどき張り切りすぎることもあるけどね」
その言葉に、モモは小さく笑った。
「ふふっ、なんだか楽しそう。わたし、羊さんをこんなに近くで見たのは初めてかもしれません」
「そうかい。なら、いいものを見られたね。ただ、羊たちは知らない人が急に近づくと驚くこともあるから、今はここから見ていておくれ」
「はい! ちゃんとここで見てます!」
モモは元気よく答えた。
シモンはそのやり取りを見守りながら、女性へ丁寧に声をかけた。
「道を横切る間、こちらの馬たちも落ち着いて待てました。ところで、もし差し支えなければ、この先の街道について少し伺ってもよろしいでしょうか」
女性は杖を地面へ軽くつき、頷いた。
「もちろんだよ。あんたたち、南へ向かってるんだろう?」
「はい。今朝は少し北の丘の間にある場所から出発しました。次に水を補給できる場所や、休憩に使える場所について、分かる範囲で教えていただけると助かります」
女性は少し考えるように南の方へ目を向けた。
「そうだねえ。この道をしばらく進むと、丘が少し低くなって、草原が広く見えるところに出るよ。そこから先は、道の左側に細い木が何本か並んでいる場所があるんだ」
ルシルはその言葉を聞き、前方の地形を思い浮かべた。
「道の左側に、木が並んでいるんですね」
「そうそう。ただ、そこに水があるわけじゃないよ。木の向こうへ入れば水場があると思う人もいるけど、あの辺りは見た目より乾いていることがあるからね」
女性はそう説明し、少しだけ眉を寄せた。
「その先に人が暮らしている場所はあるけど、ここからどれくらいかかるかは、馬車の速さにもよるだろうね。私は羊を連れて動くことが多いから、あんたたちの移動時間までは分からないよ」
シモンは頷いた。
「ありがとうございます。確実に分かる範囲だけ教えていただければ十分です。水場についても、実際に確認するまでは当てにしないようにします」
「それがいい。草原じゃ、見た目だけで判断すると困ることもあるからね」
女性はそう答え、少しだけ笑った。
モモは二人の話を聞きながら、旅帳面を取り出していた。
「ねえ、シモン君。今のこと、わたしも書いておいていいかな。道の左側に細い木が並んでるけど、そこに水があるとは限らないんだよね」
「ええ。実際に見つけた場所ではなく、教えていただいた情報だと分かるようにしておくとよいでしょう」
「分かった!」
モモは嬉しそうに頷き、帳面へ短い文章を書き加えた。
女性はその様子を見て、少し驚いたように目を細めた。
「おや、旅のことを記録してるのかい?」
「はい! 見た景色とか、おいしかったものとか、教えてもらったことを描いてるんです。あとで見返したときに、どんな旅だったか思い出せるようにしたくて」
モモはそう答え、帳面を少しだけ見せた。
そこには、昨日の野営場所の木々や、今朝の朝露について書かれた頁が開かれていた。
女性は絵を覗き込み、嬉しそうに笑った。
「いいねえ。こういうのは、あとで大事な宝物になるよ。私も若い頃は、羊を連れていろんな場所を歩いたけど、今となっては細かい景色を思い出せないところもあるからね」
「そうなんですか?」
「そうさ。でも、不思議なものでね。道の形は忘れても、そこで誰と話したかとか、どんな風が吹いていたかは覚えていることがあるんだよ」
女性はそう言って、草原の向こうへ目を向けた。
その横顔には、長い年月をこの土地で過ごしてきた人らしい穏やかさがあった。
ルシルはその言葉を聞きながら、静かに頷いた。
「僕たちも、そういう思い出をたくさん作れたらいいなと思っています。急いで目的地へ行くよりも、途中で出会ったものを大切にしたいんです」
女性はルシルへ顔を向け、少しだけ目を細めた。
「それなら、いい旅になるだろうね。ただし、楽しむことと、無理をすることは別だよ。道が続いているからって、いつまでも歩き続けなきゃいけないわけじゃない」
ルシルはその言葉に、穏やかに微笑んだ。
「はい。昨日も、まだ明るいうちに野営場所を決めたんです。三人で相談して、無理に先へ進まないことにしました」
「それは賢いね。草原じゃ、暗くなってから場所を探すのは面倒だからさ」
女性は満足そうに頷いた。
そのとき、少し離れた場所から羊の鳴き声が聞こえてきた。
女性が振り返ると、群れの端にいた一頭が、ほかの羊たちから少し離れて草を食べていた。
「あらあら、またあの子だよ。食いしん坊でねえ。ほかの子が進んでても、気に入った草があると動かなくなるんだ」
女性は苦笑しながら、犬へ短く声をかけた。
犬はすぐに立ち上がり、羊の方へ走っていった。
モモはその様子を見ながら、思わず笑った。
「なんだか、トルク君みたいだね」
ルシルも笑いながら頷いた。
「うん。トルクも食べ物があると、少し寄り道したくなることがあるからね」
女性は二人の会話を聞き、馬車の前にいるトルクへ目を向けた。
「おや、そっちの栗毛の馬も食いしん坊なのかい?」
「はい。トルクっていうんです。もう七歳で、いつも頑張って馬車を引いてくれるんですけど、食べ物には目がないみたいで」
ルシルが答えると、女性は楽しそうに笑った。
「いいじゃないか。よく食べて、よく働いて、ちゃんと休めるなら、それが一番だよ」
モモは嬉しそうに頷いた。
「そうですよね! わたしもそう思います!」
シモンはその言葉を聞きながら、少しだけ苦笑した。
「モモ嬢の場合は、食べることへの熱意が特に強いようですが」
「もう、シモン君! 今は羊さんのお話をしてたんだよ!」
モモが笑いながら抗議すると、女性も声を上げて笑った。
草原には、しばらく明るい笑い声が響いていた。
やがて、羊たちが再びまとまり始めると、女性は杖を持ち直した。
「さて、そろそろ行かないとね。この子たちも、次の草を食べに行きたがってるみたいだから」
ルシルは頷き、丁寧に頭を下げた。
「今日は道を教えていただいて、ありがとうございました。羊たちの様子も見られて、とても楽しかったです」
「こちらこそ、道を譲ってくれて助かったよ。あんたたちも、気をつけて旅を続けな」
女性はそう答え、穏やかに微笑んだ。
モモも嬉しそうに手を振った。
「ありがとうございました! 羊さんたちも、犬さんも、元気でね!」
女性は笑顔で手を上げ、羊たちの方へ歩いていった。
小柄な犬が群れの外側を走り、白や薄茶色の羊たちは、再びゆっくりと草原を進み始めた。
鈴の音が風に乗って遠ざかっていく。
ルシルはその様子を見送りながら、胸の内に温かなものが広がるのを感じていた。
知らない土地で出会った、名前も知らない羊飼いの女性。
短い時間しか話していないのに、その言葉や笑顔は、きっとしばらく忘れないだろう。
(こういう出会いがあるから、旅は楽しいんだな。何か特別なものを手に入れたわけじゃないけど、今日のことはきっと覚えていると思う)
ルシルはそう考えながら、御者台へ戻った。
シモンは羊たちが十分に街道から離れたことを確認し、モモは旅帳面を大切そうに閉じた。
「ルシル君、今日のこと、絶対に描いておくね。羊さんたちが鈴を鳴らしながら道を渡ってたところ、すごくかわいかったもん」
「うん。僕もあとで見せてもらうのが楽しみだよ」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「私も、今日の出来事は記録しておきましょう。道の情報だけでなく、羊の群れが街道を横切ることもあると分かりましたから」
「そっか。じゃあ、今度同じような場所を通るときは、鈴の音が聞こえたら気をつければいいんだね」
モモがそう言うと、シモンは穏やかに答えた。
「ええ。ただし、鈴の音が聞こえない場合でも、動物が近くにいる可能性はあります。今日の経験を一つの参考にして、周囲をよく見ることが大切でしょう」
「うん。分かった!」
モモは元気よく頷いた。
ルシルは二頭へ声をかけ、馬車をゆっくり進ませた。
街道には再び穏やかな静けさが戻り、羊たちの鈴の音は少しずつ遠くなっていく。
丘の向こうには、まだ知らない景色が広がっていた。
次の町も、次の水場も、今のところ確かな場所は分かっていない。
それでも、今日の旅には新しい思い出が一つ増えた。
ルシルは前方の道へ目を向け、トルクとベルクの歩調を確かめながら、穏やかに微笑んだ。
馬車の窓辺では青い風魚の布が揺れ、モモの旅帳面には、これから描かれる羊たちの姿が待っている。
三人は今日も、自分たちの速さで南へ続く道を進んでいった。




