第113話 曲がり道の向こうで見つけた、小さな木陰と旅人の約束
街道の右手にあった石積みの目印が、馬車の後ろへゆっくりと遠ざかっていった。
朝のうちは低い丘の向こうまで広がっていた青空も、太陽が高くなるにつれて少しずつ色を変えている。雲は薄く、草原を渡る風には心地よい涼しさが残っていたが、御者台に座っているルシルの肩には、朝よりもはっきりとした日差しが届くようになっていた。
トルクとベルクは落ち着いた足取りで街道を進んでいる。二頭の蹄が乾いた地面を踏む音と、四輪の馬車が小さな凹凸を越える音が重なり、窓辺では青い風魚の布が風に合わせて揺れていた。
「ルシル君、さっきの石の目印、ちゃんと描けたよ!」
馬車の中から聞こえたモモの声に、ルシルは前方の道から視線を外さないまま笑った。
「もう描けたんだね。どんな感じになった?」
「石が四つくらい重なってて、横に草が生えてるの。あと、道が曲がってるのも分かるようにしたよ。あとで見せるから、ルシル君も覚えてる形と同じか教えてね」
「もちろん。でも、僕が見たときは石の数まで数えていなかったから、細かいところはシモンにも聞いてみようかな」
そう答えると、すぐにシモンの落ち着いた声が続いた。
「私も石の数を正確に確認したわけではありませんよ。目印の位置と道の曲がり方を優先して見ていましたので、絵の細部についてはモモ嬢が一番よく覚えているかもしれません」
「えっ、そうなの? じゃあ、わたしの絵が一番詳しいってこと?」
モモの声には、隠しきれない嬉しさが混じっていた。
「少なくとも、石の見た目についてはそうでしょうね。ただし、記録には見たことと、あとから想像したことを区別しておくとよいですよ。四つだったか五つだったか曖昧なら、無理に数を決めなくても構いません」
シモンの言葉を聞き、モモは帳面を見下ろした。
「そっか。わたし、石を四つ描いたけど、本当に四つだったかはちょっと自信ないかも。じゃあ、横に『石の数はたぶん』って書いておこうかな」
「それなら、あとで見返したときにも分かりやすいと思うよ」
ルシルがそう言うと、馬車の中から紙を擦る小さな音が聞こえてきた。
旅帳面に描かれるものが増えるたび、モモは以前よりも細かいところに目を向けるようになっていた。美しい花や珍しい雲だけでなく、道の形や休み場の様子まで残そうとしていることが、ルシルには嬉しかった。
石積みの目印を過ぎてから、街道は管理人の女性が教えてくれたとおり、緩やかに東へ向きを変えていた。
もっとも、道そのものが急に折れ曲がっているわけではない。低い丘の斜面を避けるように進むうち、いつの間にか太陽の見える位置が変わり、振り返ると来た道が草の向こうへ隠れてしまうような地形だった。
ルシルは二頭の歩調を確かめながら、前方の路面へ注意を向けた。
昨日までの草原には比較的まっすぐな道が多かったが、今朝は曲がり角の先を一度に見通せない。小さな石や乾いた轍もところどころにあり、車輪の片側だけが深い溝へ入らないよう、道の中央に近い安定した場所を選ぶ必要があった。
「シモン、今のところ道は乾いているけど、丘の陰になっている場所は少し色が違うね」
「ええ。土の種類が違う可能性もありますし、朝露が残っていたのかもしれません。見た目だけでは判断できませんので、深い轍のある場所は避けて進みましょう」
シモンは窓から身を乗り出さず、座ったまま前方を確認していた。
「それから、ここは左右に丘があります。風が弱く感じられても、開けた場所へ出れば急に強くなることがありますから、荷物の固定も今の状態を保っておいた方がよさそうです」
「分かった。次に休める場所があったら、荷物も一緒に確かめよう」
ルシルは頷き、手綱を握る力を必要以上に強めないようにした。
王宮を離れて旅を始めたばかりの頃は、何か気になることがあると、すぐにシモンへ答えを求めていた。しかし今では、まず自分が何に気づいたのかを伝え、二人と一緒に考えることが増えている。
(シモンに頼るのが悪いわけじゃない。でも、僕自身もちゃんと見て、判断できることを増やしていきたいな)
そう考えながら前方へ目を向けると、丘の斜面を横切るように、一羽の小鳥が飛んでいった。
小さな影は草の上を滑るように移動し、少し離れた場所に生えている低木へ姿を消した。
「今、鳥が飛んでいったよ。モモは見えた?」
「えっ、どこどこ?」
窓から外を見ていたモモが顔を上げたが、鳥の姿はもう見えなくなっていた。
「右側の低い木の方だよ。小さくて、茶色っぽい鳥だったと思う」
「そっかあ。見たかったな。でも、この辺りにも鳥がいるんだね。草がいっぱいあるから、虫とかも見つけやすいのかな」
「そうかもしれないね。僕たちには何もない草原に見えても、そこで暮らしている生き物にとっては、いろんなものがあるんだろうな」
ルシルがそう答えると、モモは窓の外へ目を向け直した。
遠くには人家も畑も見えない。それでも草の間には小さな花が咲き、ところどころに虫が飛び、丘の斜面には獣が通ったようにも見える細い筋があった。
「ねえ、シモン君。こういう草原って、夜になると動物がいっぱい出てくるのかな?」
「場所によるでしょうね。昼間は姿を見せない生き物もいるでしょうが、今ここに何が暮らしているかまでは分かりません。だからこそ、夜に休む場所を選ぶときは、足跡や地面の状態にも気を配る必要があります」
「なるほど……。わたしたちが寝ている間にも、誰かの暮らしが続いてるんだね」
モモはそう呟くと、帳面へ何かを書き加えた。
ルシルはその言葉を聞きながら、草原の向こうに広がる丘を眺めた。
王都では、人が暮らしていることを示すものが至るところにあった。建物の窓から漏れる明かり、石畳を行き交う馬車、商店の看板や市場の声など、誰かの生活はいつでも目に見える形で存在していた。
けれど、この草原では違う。
小さな鳥が一羽飛ぶだけで、そこにも自分たちの知らない毎日があるのだと気づかされる。
それは不思議な感覚であり、同時に、旅を続けているからこそ知ることのできる楽しさでもあった。
やがて道の傾斜が少し緩くなり、左右の丘の間隔が広がってきた。
前方には小さな窪地のような場所があり、その先で街道が再び緩やかな上り坂になっている。道の左手には背の低い木が数本生えていたが、枝の広がりは小さく、馬車を停めて休むには十分な場所とは言い切れなかった。
「そろそろ、午前の休憩を考えたいね」
ルシルが声をかけると、シモンは手帳を閉じて頷いた。
「そうですね。出発してからある程度進みましたし、二頭の様子を確認するにはよい頃合いです。ただ、あの木の周囲は少し地面が傾いているようですから、もう少し先を見てから判断しましょう」
「うん。無理にあそこへ停める必要はないね」
ルシルは二頭の歩調を変えず、ゆっくりと坂を上り始めた。
モモも窓から前方を眺めていたが、木陰を見つけたからといってすぐに休もうとは言わなかった。昨日、井戸のある休み場を探したときのことを思い出し、見た目だけで場所を決めないようにしているのだろう。
「ルシル君、あの坂の上まで行ったら、向こう側が見えるかな。もし広いところがあったら、そこで休めるといいね」
「そうだね。まずは上ってみよう。ただ、坂の向こうに誰かがいるかもしれないから、急がずに進むよ」
ルシルはそう答え、トルクとベルクへ穏やかに声をかけた。
二頭は慣れた様子で坂を上り、馬車の車輪も大きく跳ねることなく地面を進んでいく。
坂の上へ近づくにつれて、草原の向こう側が少しずつ見えてきた。
最初に現れたのは、緩やかに下っていく街道だった。その左右には比較的平らな草地が広がり、道から少し離れたところに、枝を横へ大きく伸ばした一本の木が立っている。
木の周囲には短い草が生えており、根元の近くには土の見える場所もあった。
モモが嬉しそうに声を上げた。
「見て、ルシル君! あそこなら休めそうじゃない?」
「うん。さっきの場所よりは平らに見えるね。ただ、道から入れるところがあるか確認してみよう」
ルシルは馬車をゆっくり進めながら、木の周囲を観察した。
街道から木の方へ向かって、車輪が通ったような薄い跡が続いている。草が完全に踏みつぶされているわけではなかったが、旅人がときどき休憩に使っている場所なのかもしれなかった。
シモンもその跡に気づいたらしく、窓の外を確かめていた。
「道から入る部分は比較的なだらかです。地面の状態を近くで確認する必要はありますが、休憩場所の候補にはできそうですね」
「じゃあ、少し手前で停めて、まず僕が見てこようか」
「いえ、馬車を街道上に停めたまま長く確認するのも避けたいところです。後方からほかの馬車が来ていないことを確かめたうえで、入口の状態を見ながらゆっくり入るのがよいでしょう」
シモンの提案にルシルは頷き、道の前後を確認した。
近くにほかの旅人の姿は見えず、木の周囲にも人がいる様子はない。ルシルはトルクとベルクへ声をかけ、車輪が深い溝へ入らないように気を配りながら、街道脇の平らな場所へ馬車を進めた。
木陰の近くまで来ると、地面は見た目よりもしっかりしていた。
短い草の間には乾いた土があり、雨水が溜まったような窪みも見当たらない。ただし、木の根が地表へ出ている場所があったため、ルシルはそこを避けて馬車を停めた。
「ここなら大丈夫そうだね。木の根からも少し離れているし、馬車も傾いていないと思う」
「ええ。念のため、降りてから車輪の位置を確認しましょう」
シモンはそう答え、馬車の扉を開けた。
モモも旅帳面を閉じ、外へ出る準備を始めた。
木陰へ足を踏み出すと、草原の風が頬を撫でた。
日差しの下では少し暖かくなっていた空気も、木の枝が作る影の中では涼しく感じられる。頭上では葉が小さく揺れ、ところどころから光が落ちて、地面にまだらな模様を作っていた。
「わあ、いい場所だね! 木の下って、こんなに涼しいんだ」
モモはそう言いながら、木の幹を見上げた。
幹は太すぎず、表面には浅い筋がいくつも走っている。枝は街道とは反対側へ大きく広がっており、その下には三人が休むのに十分な影ができていた。
「昨日の休み場にあった木とは、少し形が違うね。あっちはもっと背が高かったけど、こっちは横に広がってる感じがする」
「確かにそうだね。枝の形が違うだけで、影のでき方も変わるんだな」
ルシルはそう答えながら、トルクとベルクの様子を確かめた。
二頭は落ち着いており、坂を上ったあとでも呼吸が大きく乱れている様子はない。シモンは脚や蹄を確認し、馬具の当たり具合にも問題がないことを確かめた。
モモは水の容器を取り出す準備をしながら、二人へ声をかけた。
「お水、今のうちに飲んでもらう? 昨日補給できたけど、使う量はちゃんと考えた方がいいよね」
「そうだね。二頭の様子を見ながら、必要な分を使おう」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「ええ。次に水を補給できる場所はまだ確定していませんから、残量は把握しておきましょう。ただし、節約するために馬たちへ必要な水を与えないという判断は避けるべきです」
「うん、分かってる。大事なのは、無駄にしないことと、ちゃんと飲んでもらうことの両方だよね」
モモは真剣な表情で頷いた。
その言葉を聞き、シモンはわずかに目を細めた。
「そのとおりです。よく覚えていらっしゃいますね」
「えへへ。だって、トルク君とベルク君も一緒に旅してるんだもん。わたしたちだけ元気でも駄目でしょ?」
モモはそう答え、二頭へ優しい視線を向けた。
ルシルはその様子を見ながら、穏やかに微笑んだ。
最初の頃からモモは馬たちを大切にしていたが、最近は可愛がるだけでなく、体調や水のことまで自然に考えるようになっている。旅の中で覚えたことが、彼女の行動に少しずつ表れているのだった。
三人は馬たちの世話を終えると、自分たちも木陰で休むことにした。
ルシルは馬車から飲み水を取り出し、モモは小さな敷物を広げた。シモンは街道の見える位置を確かめてから、木の根を踏まない場所へ腰を下ろした。
風が吹くたび、葉の間から落ちる光の模様が変わっていく。
モモはその様子を眺めながら、旅帳面を膝の上へ置いた。
「ねえ、ここも描いていいかな。大きな木が一本あって、向こうに道が曲がってて、丘が見えるの。昨日の休み場とは違うけど、ここも覚えておきたいんだ」
「いいと思うよ。僕も少し休みたいし、急いで出発する必要はないからね」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに筆記具を手に取った。
シモンは飲み水を口に含み、しばらく周囲を見渡していた。
街道は木陰から少し離れたところを通っており、旅人が通れば姿を確認できる。道の向こうには緩やかな丘が続き、その斜面を風が渡るたび、草の色が波のように変わっていた。
シモンは手帳を開き、石積みの目印を通過したあと、道が緩やかに曲がっていたことを書き留めた。
さらに、今休んでいる木陰の位置と、街道からの入りやすさについても簡潔に記録する。
書き終えたところで、彼はふとモモの方へ目を向けた。
モモは木の枝を描こうとしていたが、紙の上で何度か線を引き直している。枝が横へ広がる様子をうまく表現できないらしく、首を傾げながら実物と絵を見比べていた。
「難しそうですね、モモ嬢」
「うん。葉っぱをいっぱい描くと、枝の形が分からなくなっちゃうんだ。だから、先に大きな枝だけ描こうかなって思ってるんだけど、どこから描けばいいのか迷ってるの」
モモは帳面を少し傾け、シモンにも見えるようにした。
そこには太い幹と、左右へ伸びる枝の線が描かれている。しかし実際の木は奥行きがあり、手前の枝と向こう側の枝が重なっていた。
シモンはしばらく絵と木を見比べてから、ゆっくり口を開いた。
「私は絵に詳しいわけではありませんが、最初に幹と大きな枝の位置だけを決めて、細かな葉はあとから加えてはいかがでしょう。すべてを正確に描こうとすると、かえって分かりにくくなるかもしれません」
「なるほど……。じゃあ、見えてる葉っぱを全部描かなくてもいいんだね」
「旅の記録として残すのであれば、モモ嬢が覚えておきたい特徴が分かることも大切でしょう」
その言葉に、モモは少し考えてから頷いた。
「そっか。わたし、この木の横に広がってる感じを覚えておきたいんだ。じゃあ、枝を大きく描いて、葉っぱは少しだけにしてみる!」
モモは嬉しそうに筆記具を動かし始めた。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、敷物の上で少し姿勢を変えた。
「シモン、絵の助言もできるんだね」
「助言というほどのものではありませんよ。私が普段、記録を書くときに意識していることをお伝えしただけです」
「でも、それって面白いね。シモンの手帳とモモの旅帳面は全然違うのに、どちらも大事なものを残そうとしてるんだ」
ルシルがそう言うと、シモンは手帳へ視線を落とした。
「確かに、目的は違っても、何を残すか選ぶ必要があるという点では似ているかもしれませんね」
「うん。僕も何か書いてみようかな。今は二人の記録を見せてもらうことが多いけど、自分が覚えておきたいこともあると思うんだ」
ルシルは何気なく口にしたが、その言葉にモモが顔を上げた。
「それ、いいと思う! ルシル君も旅帳面を作るの? だったら、三人で見せ合いっこできるね!」
「まだ決めてないよ。絵はモモほど上手に描けないし、道のことならシモンが詳しく書いてくれているから」
「同じものを書かなくてもいいんじゃないかな。ルシル君が楽しかったこととか、びっくりしたこととか、そういうのでもいいと思うよ」
モモは少し身を乗り出し、楽しそうに続けた。
「例えば、今日だったら『曲がった道の向こうに大きな木があった』って書いてもいいし、『モモが木を描くのに苦労してた』って書いてもいいんだよ」
「それだと、モモが苦労していたことばかり残っちゃいそうだね」
ルシルが笑うと、モモも声を上げて笑った。
「それは困る! じゃあ、ちゃんと上手に描けたことも書いてもらわないと!」
「まだ完成していませんから、先に結果を決めてしまわない方がよいのではありませんか」
シモンが穏やかに指摘すると、モモは筆記具を持ったまま頬を膨らませた。
「シモン君、そこは応援してくれてもいいのに!」
「もちろん応援していますよ。ただ、モモ嬢なら、完成するまで諦めずに描けると思っていますので」
その言葉を聞き、モモは一瞬きょとんとした顔になった。
やがて照れたように笑い、再び帳面へ目を落とした。
「……それなら、頑張って描くね」
木陰には穏やかな時間が流れていた。
ルシルは飲み水を少し口に含み、背後の木へ目を向けた。
枝の間から見える空は青く、葉の縁には日差しが透けている。風が吹くと、影の中にも明るい部分が生まれ、地面に落ちた光がゆっくり移動していった。
旅に出る前、ルシルは自由な時間を手に入れたら、もっと大きな何かをしたくなるのではないかと考えたことがあった。
遠い土地へ行くことや、見たことのない景色を眺めることは、もちろん楽しみだった。
けれど実際に旅を続けてみると、こうして木陰で休み、仲間が絵を描くのを眺めている時間にも、思っていた以上の満足感があった。
(何もしなくていい時間って、本当にあるんだな。王宮にいた頃は、休んでいるつもりでも、次に何をしなければならないか考えていた気がする)
ルシルは膝の上で両手を重ね、ゆっくり息を吐いた。
王位を手放したことを後悔しているわけではない。
むしろ、こうして自分の意思で旅を続けられることが、今の彼には何よりも大切だった。
ただ、王宮を離れたからといって、すべての考え方が一度に変わるわけでもなかった。
何か役に立つことをしていなければならないという感覚や、次の予定を決めておかなければ落ち着かない気持ちは、ときどき顔を出す。
そんなとき、モモは何気ない景色を楽しみ、シモンは必要なことを確かめながらも、以前より少しずつ休む時間を受け入れるようになっていた。
ルシルもまた、二人の姿から教えられているのかもしれなかった。
「ルシル様、少しお疲れですか」
シモンの声に、ルシルは顔を上げた。
「ううん、大丈夫だよ。ただ、ここは気持ちがいいなって思ってたんだ。道を進むのも楽しいけど、こうして何も急がずに座っているのもいいね」
「それならよかったです。今日はまだ先がありますが、今のうちに十分休んでおきましょう」
シモンはそう答え、手帳を閉じた。
その動作があまりにも自然だったので、ルシルは思わず笑みを深めた。
「シモンも、もう書き終わったの?」
「ええ。必要なことは記録しました。これ以上書く内容を探す必要もありませんから」
「そっか。じゃあ、もう少し一緒に休もう」
「はい。そういたしましょう」
二人は並んで木陰の向こうを眺めた。
少し離れたところではトルクが耳を動かし、ベルクは落ち着いた様子で立っている。馬たちの周囲にも木陰が届いており、強い日差しを直接受けずに休めているようだった。
やがて、街道の遠くからかすかな音が聞こえてきた。
最初は風に紛れていたが、しばらくすると規則的な蹄の音だと分かった。
ルシルが顔を上げると、シモンも同じ方向へ視線を向けた。
「誰か来るみたいだね」
「ええ。まだ距離がありますが、街道をこちらへ進んでいるようです」
シモンは立ち上がり、木陰から道の方を確認した。
丘の向こうから姿を現したのは、一頭の馬に乗った旅人だった。
落ち着いた色の外套を羽織り、背中には小さな荷物を背負っている。馬は速く走っているわけではなく、一定の歩調で街道を進んでいた。
ルシルは相手がこちらへ近づいてくる様子を眺めながら、馬車が街道の通行を妨げていないことを改めて確認した。
旅人は木陰の近くまで来ると、少し速度を落とした。
「こんにちは。ここで休憩かい?」
声をかけてきたのは、日に焼けた顔をした中年の男性だった。
声には疲れた様子がなく、馬も落ち着いている。ルシルは立ち上がり、穏やかに挨拶を返した。
「こんにちは。はい、午前の休憩を取っていたところです。こちらは街道から少し離れていますし、木陰もあって休みやすい場所ですね」
「そうだろう。この辺りを通るときには、俺もときどき使うんだ。今日は先を急ぐから寄らないけど、木の下は風が通って気持ちがいい」
男性はそう答え、木の枝を見上げた。
モモも立ち上がり、旅帳面を抱えたまま挨拶した。
「こんにちは! わたしたち、今朝は井戸のある休み場から来たんです。ここに木陰があって、すごく助かりました」
「井戸のある休み場か。なら、こっちへ来る途中で石を積んだ目印も見ただろう?」
「はい! ちゃんと見つけました。道が少し曲がってるところですよね」
モモが嬉しそうに答えると、男性は頷いた。
「そうそう。あそこは初めて通ると、道の向きが変わったことに気づきにくいんだ。昔からの道だから、地形に合わせて曲がってるんだろうな」
シモンは相手の言葉を聞き、静かに口を開いた。
「この先も、同じように見通しの悪い場所が続くのでしょうか」
「しばらくは丘が多いな。ただ、道が急に細くなるような場所ばかりじゃない。荷車も通る道だし、地面を見ながら進めば、普通の馬車なら困らないと思うよ」
男性はそう説明し、少し考えるように南側の丘へ目を向けた。
「ただ、昼を過ぎると日差しが強く感じられる場所もある。木陰が続くわけじゃないから、休めるところを見つけたら、馬にも無理をさせない方がいい」
「ありがとうございます。私たちも、二頭の様子を見ながら進むつもりです」
ルシルが答えると、男性はトルクとベルクへ目を向けた。
「いい馬たちだな。二頭とも落ち着いてるし、よく世話をしてもらってるんだろう」
その言葉に、モモの顔がぱっと明るくなった。
「そうなんです! トルク君とベルク君っていうんですよ。二頭とも頑張ってくれてるから、休むときはちゃんと休んでもらってるんです」
「そいつはいい。馬だって疲れるからな。大事にしてやってくれ」
男性はそう言って笑った。
ルシルは嬉しそうなモモを見ながら、ふと思いついたことを尋ねた。
「あの、もしよろしければ、この先で休憩に使えそうな場所をご存じですか。次の町や水場についても、まだ詳しくは分かっていないんです」
男性はすぐには答えず、少し考えるように顎へ手を当てた。
「そうだな……。この先にも道の脇が広くなっている場所はあるけど、俺が最後に通ったときから変わってるかもしれない。水については、確実に使える場所を今ここで教えるのは難しいな」
ルシルはその言葉を聞き、素直に頷いた。
「そうなんですね。分からないことまで教えていただく必要はありません。ありがとうございます」
「いや、旅をするなら、分からないことを分からないって言える方がいいさ。間違ったことを教えて、困らせるわけにもいかないからな」
男性は穏やかに笑った。
「ただ、ひとつ覚えておくといい。この辺りは丘の陰に入ると、思ったより早く日が落ちたように感じる場所がある。まだ明るいと思って先へ進みすぎると、休む場所を探す頃には足元が見えにくくなることもあるんだ」
シモンはその言葉を聞き、真剣な表情で頷いた。
「貴重なお話をありがとうございます。午後は早めに休憩場所を検討するつもりでしたので、参考にさせていただきます」
「それがいい。まあ、今日は空も明るいし、慌てなければ大丈夫だと思うけどな」
男性はそう答え、手綱を持ち直した。
馬が小さく耳を動かし、街道の先へ顔を向ける。
「それじゃあ、俺はそろそろ行くよ。あんたたちも気をつけてな」
「はい。教えてくださって、ありがとうございました」
ルシルが頭を下げると、モモも笑顔で手を振った。
「ありがとうございました! そちらも気をつけてくださいね!」
男性は軽く手を上げ、馬をゆっくり進ませた。
蹄の音は少しずつ遠ざかり、やがて丘の向こうへ消えていった。
三人はしばらく街道を眺めていたが、ルシルが振り返ると、モモは少し考え込んだような表情をしていた。
「モモ、どうしたの?」
「ううん。昨日の荷車のおじさんも、今朝の管理人さんも、今の人も、みんな道のことを教えてくれるんだなって思って」
モモは帳面を胸に抱え、ゆっくり続けた。
「でも、みんな全部知ってるわけじゃないんだよね。分かるところだけ教えてくれて、分からないところはちゃんと分からないって言ってくれるの。そういうのって、なんだかいいなって思ったんだ」
ルシルはその言葉に頷いた。
「僕もそう思うよ。知っていることを教えてもらえるのはありがたいし、知らないことを無理に決めつけないのも大切なんだね」
「ええ。旅では、親切な情報が必ずしも正確とは限りません。ですが、相手が誠実に伝えてくださったことと、私たちが自分で確かめる必要があることは、分けて考えられます」
シモンはそう答え、手帳へ視線を落とした。
先ほどの男性が話してくれた内容は、今朝の管理人の説明と矛盾していない。しかし、具体的な休み場や水場が確定したわけではなかった。
そのため、シモンは分かったことだけを簡潔に書き留め、未確認の場所を地図へ書き込むことはしなかった。
「それに、今の方は丘の陰で暗く感じることがあると教えてくださいました。これは今日の午後の判断に役立ちそうです」
「そうだね。昨日も早めに休む場所を探したけど、今日はもっと気をつけた方がいいかもしれないな」
ルシルがそう言うと、モモも頷いた。
「じゃあ、お昼を食べたあとに、どのくらい進むかちゃんと相談しよう。わたしも、木陰とか平らな場所を見つけたら教えるね」
「ありがとうございます、モモ嬢。ただし、景色を見ることに夢中になって、馬車の揺れで体勢を崩さないようにしてくださいね」
「分かってるよ。ちゃんと座って見るから大丈夫!」
モモは元気よく答え、再び敷物へ腰を下ろした。
休憩を再開すると、彼女は先ほど描いていた木の絵に戻った。
大きな枝の位置を先に決めたことで、さっきよりも描きやすくなったらしい。紙の上には横へ広がる木の形が現れ、根元には小さな馬車の絵も加えられていた。
ルシルが隣から覗き込むと、モモは少し照れたように笑った。
「どうかな。今度はちゃんと横に広がってる感じになったと思うんだけど」
「うん、すごく分かりやすいよ。木の下に馬車があるから、僕たちがどこで休んでいたのかも思い出せそうだね」
「でしょ? あとね、ここにトルク君とベルク君も描こうと思ってるの。二頭とも木陰で休んでたから」
「それなら、僕とシモンも描いてもらおうかな」
ルシルが冗談めかして言うと、モモは真剣な表情で帳面を見下ろした。
「うーん……。三人と二頭を全部描くと、木が小さくなっちゃうかも。どうしようかな」
「無理に描かなくてもいいよ。僕たちは、この木の下にいたことを覚えているから」
ルシルがそう答えると、モモは少し考えたあと、笑顔になった。
「じゃあ、木の横に『三人と二頭で休憩』って書くね。それなら、みんな一緒にいたことが分かるもん」
「いいね。僕もその方が好きかもしれない」
モモは嬉しそうに頷き、帳面へ文字を書き加えた。
シモンは二人のやり取りを聞きながら、木陰の外へ目を向けていた。
旅人が通り過ぎたあと、街道には再び静けさが戻っている。草原を渡る風の音は変わらず、遠くの丘の上では雲の影がゆっくり移動していた。
彼は手帳を閉じ、膝の上に置いた。
(以前なら、こうして休んでいる間にも、次の予定をもっと細かく決めようとしていたでしょう。ですが、今は分からないことを残したまま進むのも、必要な判断なのかもしれません)
もちろん、準備を怠るつもりはなかった。
水や食料、馬たちの体調、日暮れまでの時間など、考えなければならないことは多い。
しかし、すべての不確定なことを消してから出発するのは不可能だった。
分かることを確かめ、分からないことはそのまま認識し、状況が変われば相談して判断する。
その繰り返しこそが、今の三人に必要な旅の進め方なのだろう。
「シモン君、見て見て! 木の絵、完成したよ!」
モモの声に、シモンは顔を上げた。
差し出された帳面には、横へ大きく枝を伸ばした木と、その下に停まる馬車が描かれている。絵の横には『丘の向こうの木陰。三人と二頭で休憩』と書かれており、少し離れたところには小さな馬の顔も二つ添えられていた。
「なるほど。最初よりも木の形が分かりやすくなりましたね。特に枝の広がり方が、実際の姿によく似ています」
「本当? やったあ!」
モモは嬉しそうに笑い、帳面を大切そうに抱えた。
ルシルも絵を見ながら、満足そうに頷いた。
「これなら、あとで見返したときに今日のことを思い出せそうだね。さっき通った旅人のことも、書いておく?」
「うん。名前は聞かなかったけど、丘の陰で暗く感じることがあるって教えてくれた人だよね。そういうのも忘れないようにしたいな」
モモは再び帳面を開き、絵の下へ短い文章を書き足した。
『通りかかった旅人さんが、丘の陰では早く暗く感じることがあると教えてくれた。知らない道だから、早めに休む場所を探す。』
書き終えたモモは、自分の文字を見つめながら少しだけ微笑んだ。
「なんだか、わたしの帳面も、少しずつ旅に役立つものになってきた気がする」
「最初から役に立っていたと思うよ。モモが描いた景色を見ると、僕もそのときのことを思い出せるから」
ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに顔を上げた。
「そっか。じゃあ、これからもいっぱい描くね。でも、ちゃんと休むときは休むし、道も見るよ」
「ええ。それがよいでしょう。記録を残すために旅をしているわけではありませんからね」
シモンの言葉に、モモは素直に頷いた。
三人はそれからもう少し木陰で休み、飲み水を口にした。
太陽は朝よりも高くなり、木の影も少しずつ短くなっている。風は穏やかだったが、日差しの当たる場所では暖かさが増しており、午後はさらに気温が上がるかもしれなかった。
ルシルはトルクとベルクの様子を確認し、そろそろ出発の準備を始めることにした。
「二人とも、十分休めたかな。そろそろ進もうと思うけど、どう?」
「わたしは大丈夫! 木の絵も描けたし、お水も飲んだよ」
モモは帳面を閉じ、立ち上がった。
「私も問題ありません。馬たちの様子を確認してから出発しましょう。次は昼食のために停まる場所を探すことになりますが、無理に遠くまで進む必要はありません」
シモンも立ち上がり、敷物を片づけ始めた。
ルシルは馬たちの方へ歩き、二頭の様子を確かめた。
トルクはルシルが近づくと耳を動かし、鼻先をこちらへ向けた。ベルクも落ち着いており、休憩の間に大きな変化はなかったようだった。
「二頭とも、もう少し一緒に進もう。次はお昼に休めるところを探すからね」
ルシルが優しく声をかけると、トルクは小さく鼻を鳴らした。
シモンは馬具を整え、車輪の周囲に問題がないことを確かめた。
モモは敷物をたたみ、飲み水の容器がしっかり収納されていることを確認する。最後に木の下を見回し、自分たちが持ち込んだものを残していないか確かめてから、馬車へ戻った。
「ルシル君、こっちは大丈夫だよ。忘れ物もないと思う!」
「ありがとう。じゃあ、出発しようか」
ルシルは御者台へ上がり、手綱を整えた。
トルクとベルクがゆっくり歩き始めると、馬車は木陰を離れ、街道へ戻っていった。
木の枝が作っていた涼しい影が後ろへ遠ざかり、再び明るい日差しが馬車を包む。
モモは窓から振り返り、先ほどまで休んでいた木を眺めた。
「ねえ、あの木、遠くから見てもやっぱり横に広がってるね。ちゃんと特徴を描けてよかったな」
「そうだね。今度この道を通ることがあったら、きっと見つけられると思うよ」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。
「そのときは、今日の絵と見比べてみたいな。木がもっと大きくなってるかもしれないし、季節が違ったら葉っぱの色も変わってるかもしれないもん」
「それは面白そうですね。ただ、同じ道を通る機会があるかどうかは、まだ分かりませんよ」
シモンがそう言うと、モモは少し考えてから頷いた。
「うん。でも、もしまた通れたら楽しみがあるって、いいことだと思うんだ」
その言葉を聞き、ルシルは穏やかに微笑んだ。
旅を続けていれば、二度と訪れない場所もあるだろう。
けれど、一度訪れた場所を覚えていることと、またそこへ行けることは、別の楽しみなのかもしれない。
今は先へ進む道を選んでいるが、いつか同じ道を戻ってくることがあっても、それはきっと悪いことではない。
木陰の向こうに続く街道は、緩やかな丘の間を進んでいた。
午前の光を受けた草原には、小さな黄色い花がところどころに咲き、風が吹くたび細い茎を揺らしている。道の先にはまだ町も村も見えないが、低い丘の向こうには、また別の景色が待っているはずだった。
ルシルは馬たちの歩調を確かめながら、少し先の道へ目を向けた。
木陰で休み、旅人と話し、知らなかったことを一つ教えてもらった。
それだけの出来事でも、今日の旅には確かな思い出が増えている。
モモの帳面には新しい木の絵が加わり、シモンの手帳には道の特徴が書き留められた。
そしてルシルの胸にも、あの木陰で過ごした穏やかな時間が残っていた。
「お昼は、どんなところで食べられるかな」
モモが窓の外を見ながら、楽しそうに言った。
「そうだね。できればまた木陰があるといいけど、平らで安全な場所なら、無理に木を探さなくてもいいと思うよ」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「ええ。日差しと馬たちの様子を見ながら、適切な場所を選びましょう。午後の移動については、昼食のときに改めて相談すればよいと思います」
「うん! じゃあ、わたしも休めそうな場所を探すね」
モモはそう答え、窓の外へ目を向け直した。
トルクとベルクの足音が、乾いた街道へ穏やかに響いていく。
ルシルは手綱を握り、二頭が無理のない歩調で進んでいることを確かめながら、曲がり道の先へ馬車を進めた。
空には薄い雲が流れ、草原の向こうには新しい丘が見えている。
昼食の場所も、その先で迎える夜の居場所も、まだ決まっていない。
それでも三人は、知らない道を進むことを必要以上に恐れず、分からないことを分からないまま大切にしながら、自分たちの旅を続けていた。




