第112話 井戸のある休み場で迎える朝と、南へ続く道の新しい目印
井戸のある休み場に夕暮れが訪れると、昼間は明るく見えていた草原の色が、少しずつ深い緑へと変わっていった。
街道の脇に立つ大きな木は西日に照らされ、枝の片側だけを金色に染めている。葉の間を通り抜ける風には昼間ほどの暖かさがなく、馬車のそばに立っていると、袖口から入り込む空気に夜の気配が感じられた。
ルシルは馬車の後部から夕食に使う食器を取り出しながら、少し離れたところで休んでいるトルクとベルクへ目を向けた。二頭は水を飲んだあとも落ち着いており、シモンが確認した場所で、時折耳を動かしながら周囲の音を聞いている。
「今夜は昨日よりも人の気配があるね。木の向こうに建物があるだけで、草原の真ん中にいる感じがずいぶん違うよ」
ルシルがそう言うと、食料を確認していたモモが顔を上げた。
「うん! 昨日は風の音と草の音がほとんどだったけど、今日は井戸の方から桶を動かす音が聞こえるもんね。なんだか、小さな村に泊まってるみたい」
「村というほどの規模ではありませんが、旅人のために管理されている場所ですからね。水を利用できるだけでなく、人がいることそのものが安心につながる場合もあります」
シモンはそう答えながら、馬車の車輪を固定した箇所をもう一度確認した。
地面は乾いており、昼間に見たときと大きな変化はない。風向きも急には変わっていなかったが、夜の間に強くなる可能性を考え、外へ出した道具を必要以上に広げないようにしていた。
モモは馬車の折り畳み式の卓を使う準備をしながら、ふと建物の方を振り返った。
「そういえば、管理人さんは夜もここにいるのかな。わたしたちが寝てる間にも、旅人が来たりするのかもしれないね」
「そうだね。でも、夜に来る人がいるかどうかは分からないし、ここで働いている人の暮らしも、僕たちが想像しているのとは違うかもしれないよ」
ルシルが答えると、モモは少し考えてから頷いた。
「そっか。明日の朝に会えたら、ありがとうってもう一回言いたいな。水を分けてもらえたの、本当に助かったもん」
「それはよいと思います。ただ、今夜は先方のお仕事を邪魔しないようにしましょう。必要な確認は済んでいますし、こちらも夕食を終えたら静かに休むのがよさそうです」
シモンの言葉に、モモは素直に頷いた。
三人は火を使わずに食べられるものを選び、馬車の中で夕食を取ることにした。
乾いた草が広がる場所で無理に火を起こす必要はなく、休み場の管理人からも、火を使う場合には場所を決めるように言われている。水を補給できたからといって、すぐに料理のために使い始めるのも得策ではなかった。
モモは保存していた食べ物を卓の上に並べ、三人分の取り分を考えながら、少し楽しそうに首を傾げた。
「ねえ、今日はどれから食べようか。いつもと同じように分けてもいいけど、せっかく水を補給できた日だし、最後に好きなものを残す食べ方にしてもいいと思うんだ」
「食べる順番で記念日らしくするんだね。それなら、僕はモモのおすすめに任せようかな」
ルシルが笑うと、モモは嬉しそうに胸を張った。
「任せて! 最初に塩気のあるものを少し食べて、それからパンを食べて、最後に甘いものを残すの。そうすると、食べ終わったあとも嬉しい気持ちが続くんだよ」
シモンは卓の上を見渡し、残りの食料を頭の中で確かめてから口を開いた。
「食べる順番はお任せしますが、明日以降の分は残してくださいね。特に甘いものは、モモ嬢が気づかないうちに予定より多く召し上がることがありますから」
「シモン君、そこは信用してよ! 今日はちゃんと三人分に分けたし、明日の分も残してあるんだから」
モモは頬を膨らませたものの、すぐに笑って卓の上を指さした。
その指の先には、確かに三人分の食べ物がきちんと分けられている。シモンはそれを確認すると、少しだけ申し訳なさそうに眼鏡の位置を直した。
「失礼しました。今回は私が確認する前に、きちんと準備してくださっていたのですね」
「そうだよ。わたしだって、旅のことを少しずつ覚えてるんだから」
「ええ。そのとおりです。助かります」
素直に礼を言われたモモは、少し照れたように笑った。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、卓の上へ視線を落とした。王宮にいた頃なら、食事が出てくるまでに誰が何を準備し、どのように残りを管理しているのかを、ここまで意識することはなかっただろう。
今は食べる量を考えることも、道具を洗うための水を残すことも、自分たちの暮らしに直接つながっている。
(こういうことを面倒だと思わずにいられるのは、二人と一緒だからなのかもしれないな。何でも自由にできるわけじゃないけど、自分たちで考えて決められるのは、やっぱり嬉しい)
ルシルは食べ物を手に取り、窓の外に広がる夕方の景色へ目を向けた。
空にはまだ明るさが残っていたが、草原の遠くでは色が少しずつ薄れている。木々の影は長く伸び、井戸の屋根の下には、昼間よりも濃い陰ができていた。
食事の途中、建物の方から木の扉が閉まる音が聞こえた。
モモは思わず窓へ目を向けたが、誰かがこちらへ来る様子はない。休み場の管理人が夜の準備をしているのかもしれないと考え、再び食事へ戻った。
「今日会った荷車のおじさん、もうどこかに着いたかな。わたしたちとは反対方向に進んでたから、今頃はリーヴェルに近づいてるのかもしれないね」
「そうかもしれないけど、どこまで行くつもりだったのかは聞かなかったからね。途中で休んでいる可能性もあると思うよ」
ルシルが答えると、モモは頷いた。
「そうだね。でも、あの人が教えてくれた目印は本当に役に立ったよ。丘が二つあって、大きな木があって、その先に休み場があったんだもん」
「旅の途中で得た情報が、実際の景色と一致するのは心強いものです。ただし、道の状態は天候や季節で変わりますし、同じ目印でも見え方が違うことがあります」
シモンはそう説明しながら、手帳の一部を開いた。
そこには午後に聞いた道の特徴と、実際に確認できた場所が簡潔に記録されている。モモの旅帳面とは違い、必要な情報をすぐに見つけられるように書かれていた。
「例えば、あの大きな木が見えたからといって、そこから先の道が必ず安全とは限りません。今回は休み場まで問題なく進めましたが、今後も実際の状況を確かめる必要があります」
「うん。わたしも、見つけたからってすぐに決めつけないようにするね」
モモはそう答え、少し考えてから笑った。
「でも、今日みたいにちゃんと見つかったら、やっぱり嬉しいよね。宝探しが成功したみたいだったもん」
「それは否定しません。私も、目印が確認できたときには安心しましたから」
シモンが穏やかに答えると、モモは嬉しそうに笑った。
食事を終えた三人は、使ったものを片づけ、必要な分だけ水を使って食器を整えた。
モモは軽い道具をまとめ、ルシルは卓を拭き、シモンは食料の残りを確認する。誰か一人がすべてを引き受けるのではなく、できることを分けて進める時間は、以前よりも自然なものになっていた。
片づけが終わる頃には、窓の外がさらに暗くなっていた。
ルシルは馬車の扉を開け、外の空気を確かめた。
草原から吹く風は少し冷たくなっていたが、強く吹きつけるほどではない。空の高いところには最初の星が見え始め、休み場の建物には小さな灯りがともっていた。
「二人とも、少しだけ外を見てこない? まだ暗くなりきっていないし、馬たちの様子も確認したいんだ」
ルシルが声をかけると、モモはすぐに顔を上げた。
「行く! 夕方の草原って、昼間と色が違ってきれいだもん」
「では、私も一緒に参ります。足元が見えるうちに、馬具や車輪の状態をもう一度確認しておきましょう」
三人は外套を羽織り、馬車の外へ出た。
足元の土は昼間よりも冷たく感じられ、草の間からは夜の虫の声が聞こえ始めていた。遠くの街道には旅人の姿がなく、昼間に見えた丘も、今は空を背景にした柔らかな影になっている。
トルクは三人が近づくと耳を動かし、鼻先をルシルの方へ向けた。
「今日もよく歩いてくれたね。水も飲めたし、今夜はゆっくり休もう」
ルシルが首筋を撫でると、トルクは落ち着いた様子で鼻を鳴らした。
ベルクも静かに顔を上げ、モモが近づくと穏やかに耳を動かした。
「ベルク君もお疲れさま。今日は途中で知らない荷車とすれ違ったけど、ちゃんと落ち着いてたね」
モモはそう言いながら、馬の様子をよく観察した。
昼間の移動で脚を痛めた様子はなく、二頭とも落ち着いている。シモンはその確認を終えると、馬具の位置とつないでいる場所を改めて確かめた。
「今のところ問題はありません。夜間も無理のない範囲で様子を見ますが、二頭とも十分に休めそうです」
「よかった。明日も一緒に進むんだから、今夜はしっかり休んでもらいたいね」
ルシルはそう答え、馬たちから少し離れて空を見上げた。
西の空にはまだ薄い橙色が残っていたが、東側はすでに青く暗くなっている。星の数も少しずつ増え、風に揺れる木々の葉が、夜空の端で静かに動いていた。
モモはその景色を見つめながら、しばらく言葉を発しなかった。
普段ならきれいなものを見つけるとすぐに声を上げる彼女が黙っているので、ルシルは少し不思議に思って隣へ目を向けた。
「モモ、どうしたの?」
「ううん。なんだか、今日はいろんなことがあったなって思ってたの。朝は水が足りるかなって心配してたのに、今はこうして落ち着いて星を見てるんだもん」
モモはゆっくりと答え、両手を胸の前で重ねた。
「旅って、楽しいことばっかりじゃないんだね。でも、心配したことがちゃんと落ち着いたあとって、いつもより景色がきれいに見える気がするんだ」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「僕もそう思うよ。今日は水のことが気になって、道の先を何度も見てたからね。今は急いで何かを探さなくてもいいと思うと、空を見る余裕ができたんだ」
シモンは二人の少し後ろで、馬車の方へ目を向けていた。
彼には、二人がこうして安心して景色を眺められる時間が、以前よりも大切に感じられていた。
王宮で働いていた頃は、何か問題が起きれば、その問題を解決することだけに意識が向いていた。解決したあとに誰かと空を眺める時間など、考えたこともほとんどなかった。
(私自身も、少し変わってきたのでしょうか。以前なら、明日の予定を先に決めることばかり考えていたはずです)
シモンは眼鏡の位置を直し、二人の隣へ歩み寄った。
「明日の準備は、今夜のうちに最低限だけ確認しておきましょう。詳しい道の相談は、朝に管理人の方へ伺ってからでも遅くありません」
その言葉に、ルシルは少し驚いたようにシモンを見た。
「シモンから、朝に考えようって言ってくれるのは珍しいね」
「そうでしょうか。今夜のうちに確認できないことまで考え続けても、正確な答えが出るとは限りませんから」
シモンは落ち着いて答えたが、その口元にはかすかな笑みがあった。
モモはその表情に気づくと、嬉しそうに笑った。
「シモン君も、ちゃんと旅を楽しむのが上手になってきたね!」
「モモ嬢、それではまるで、以前の私がまったく楽しんでいなかったように聞こえますが」
「だって、前は楽しいことを見つけても、すぐに次の準備を考えてたもん。今は一緒に空を見てくれるから、わたしは嬉しいよ」
モモがそう答えると、シモンは言葉を探すように少しだけ視線を逸らした。
ルシルはその様子を見て、穏やかに笑った。
「僕も嬉しいよ。これからも、準備が必要なときは一緒に考えて、休めるときには一緒に休もう」
「……ええ。そういたしましょう」
シモンは静かに頷いた。
三人はそれからしばらく、草原の夜空を眺めていた。
遠くでは風が草を揺らし、井戸のある建物の方からは、かすかな物音が聞こえてくる。誰かが暮らしている場所の近くで迎える夜は、昨日の野営とは違った落ち着きを持っていた。
やがて空が十分に暗くなると、三人は馬車へ戻った。
外へ出していた道具が残っていないことを確認し、扉と窓の状態を整える。青い風魚の布は窓のそばで静かに揺れており、旅の途中で手に入れた小さな品々も、いつもの場所に収まっていた。
モモは寝る前に旅帳面を開き、今日の最後の一文を書き足した。
『水のある休み場で、三人と二頭で夜を迎えた。星がきれいで、安心して見られたのが嬉しかった。』
書き終えると、彼女は帳面を閉じ、いつもの場所へ大切にしまった。
「明日はどんな景色が見られるかな。今日みたいに大きな木があるかもしれないし、もっと違うものが見つかるかもしれないね」
「そうだね。まずは道の様子を聞いてからだけど、僕も楽しみだよ」
ルシルが答えると、シモンは寝具を整えながら穏やかに頷いた。
「明日も無理のない旅にしましょう。今夜は十分に休んでください」
三人はそれぞれの寝る場所へ入り、静かな夜を迎えた。
馬車の外では、草原の風が途切れることなく吹いている。
けれど、その音は不安を呼ぶものではなく、今日一日の終わりを知らせる穏やかな響きになっていた。
ルシルは窓の向こうに見える小さな星を眺めながら、ゆっくり目を閉じた。
明日も南へ続く道を進む。
その先に何があるのかは分からないけれど、今は三人で選んだ旅の続きを楽しみにしていればよかった。
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翌朝、ルシルが目を覚ましたとき、馬車の窓の向こうには淡い朝の光が広がっていた。
昨夜はときおり風が強くなったものの、馬車が大きく揺れることはなく、三人とも落ち着いて眠ることができた。窓の外では小鳥の声が聞こえ、休み場の建物の方からは、木の桶を置くような乾いた音が響いている。
ルシルはまだ眠っているモモを起こさないように身を起こし、寝具を整えてから窓へ目を向けた。
昨夜は暗くてよく見えなかった井戸の屋根も、今は朝日に照らされて輪郭がはっきりしている。草原の向こうには薄い靄が残っていたが、空は明るく、少なくとも今すぐ雨が降りそうな様子はなかった。
「おはようございます、ルシル様。よくお休みになれましたか」
すでに起きていたシモンが、声を抑えて尋ねてきた。
「おはよう、シモン。うん、よく眠れたよ。昨日は少し心配なこともあったけど、ここに着いてから安心できたみたい」
「それは何よりです。外の様子を少し確認しましたが、馬たちも落ち着いております。夜間に大きな変化はなかったようです」
シモンはそう答え、窓の外へ目を向けた。
彼は早朝に一度起きて馬たちの様子を確かめていたが、まだ本格的な出発準備には取りかかっていなかった。昨夜のうちに必要な道具は片づけてあるため、朝食を終えてからでも十分に間に合うと考えていた。
「今日は、管理人さんにこの先の道を聞いてみようと思うんだ。昨日の荷車の人みたいに、何か目印を教えてもらえるかもしれないから」
「ええ。私も同じことを考えていました。ただし、相手のご都合もありますので、朝のお仕事が落ち着いた頃に伺うのがよいでしょう」
「そうだね。まずは僕たちも朝の準備をしよう」
ルシルは頷き、静かに立ち上がった。
そのとき、寝具の中から小さな声が聞こえてきた。
「……朝ごはん?」
二人が振り返ると、モモがまだ眠そうな顔でこちらを見ていた。
長い桃金色の髪は少し乱れており、普段の元気な様子とは違って、目元には眠気が残っている。
「おはよう、モモ。朝ごはんはこれからだよ。もう少し寝ていても大丈夫だけど、起きる?」
ルシルが尋ねると、モモはしばらく考えるように瞬きをした。
「起きる……。だって、今日は管理人さんにありがとうって言うんだもん。それに、朝の草原も見たいし」
そう言って身を起こしたものの、すぐには立ち上がらず、寝具の上で大きく伸びをした。
シモンはその様子を見て、少し笑った。
「慌てなくても大丈夫ですよ。まずは身支度を整えてください。朝食の準備は、ルシル様と私で始めておきます」
「うん、ありがとう。ちゃんと起きたら手伝うからね」
モモはそう答え、眠気を追い払うように頬を軽く押さえた。
三人はそれぞれ身支度を整え、朝の準備を始めた。
ルシルは馬車の外へ出て、トルクとベルクの様子を確かめた。二頭は穏やかに朝を迎えており、昨夜のうちに整えた場所にも問題は見当たらない。
シモンは馬具の状態を確認しながら、今日の移動に必要な道具を整理した。
モモは軽い食器を並べ、朝食に使う食べ物を取り出していく。
昨日と同じような作業ではあったが、朝の空気の中で行うと、少し違った気持ちになった。
井戸の近くでは管理人の女性が水汲みの道具を整えており、ときおり建物の中へ出入りしている。まだほかの旅人の姿は見えず、休み場には穏やかな時間が流れていた。
「ねえ、ルシル君。昨日は夕方だったから気づかなかったけど、あの建物の横にも小さな木があるんだね」
モモが指さした先には、建物の壁際に一本の若い木が立っていた。
大きな目印の木とは違い、背丈はそれほど高くない。細い枝には小さな葉が茂り、朝の風に揺れている。
「本当だね。昨日は水のことばかり気になっていたから、あそこまでは見ていなかったよ」
「わたしも。今日は少し余裕があるから、昨日見つけられなかったものが見えるのかもしれないね」
モモはそう言いながら、旅帳面を取り出そうとして、ふと手を止めた。
「でも、まずは朝ごはんだね。あとで時間があったら描こうっと」
ルシルはその言葉に笑い、朝食の準備を続けた。
食事を始める頃には、朝日が少し高くなっていた。
草原の薄い靄はほとんど消え、街道の先まで見通せるようになっている。遠くの丘には朝の光が当たり、昨日の午後とは違った柔らかな色合いを見せていた。
三人は馬車のそばで朝食を取りながら、今日の予定を相談した。
「今日は、まず管理人さんにこの先の道を聞いて、それから出発するかどうか決めたいな」
ルシルがそう言うと、シモンは頷いた。
「賛成です。昨日、水を補給できたことで余裕は生まれましたが、次の補給先までの距離はまだ分かりません。可能であれば、街道沿いの休憩場所についても伺いたいところです」
「うん。あと、どこかでおいしいものが買える場所があるかも聞いてみたい!」
モモが楽しそうに言うと、シモンは眼鏡の位置を直した。
「食料の補充も必要になるでしょうから、町や集落の情報は確かに重要です。ただし、まずは安全に進める道と水の確保が優先ですよ」
「分かってるよ。でも、おいしいものがあるかどうかも、旅の大事な楽しみだもん」
「それは私も否定しません。目的地に着いてから探す楽しみとして、覚えておきましょう」
シモンが穏やかに答えると、モモは嬉しそうに頷いた。
ルシルは二人の会話を聞きながら、朝の草原へ目を向けた。
昨日までは水の補給先を探すことが最も大きな課題だったが、今日は少し落ち着いて先のことを考えられる。だからといって何も気にせず進めるわけではないものの、心に余裕があるだけで、同じ道も違って見えるようだった。
朝食を終えた三人は食器を片づけ、休み場の管理人へ声をかけることにした。
女性は井戸の近くで道具を整理していたが、三人の姿を見ると手を止め、穏やかに笑った。
「おはよう。昨夜はよく眠れたかい?」
「おはようございます。はい、おかげさまでゆっくり休めました。馬たちも落ち着いています」
ルシルが答えると、女性は満足そうに頷いた。
「それならよかった。昨日は少し風があったから、夜に強くならないか気になっていたんだよ」
「ありがとうございます。大きく揺れることもなく、安心して休めました」
シモンが丁寧に礼を言うと、女性は軽く手を振った。
「ここは旅人が休むための場所だからね。無事に朝を迎えられたなら何よりさ」
モモはその言葉を聞き、嬉しそうに一歩前へ出た。
「昨日は本当にありがとうございました! 水も分けてもらえたし、夜も安心して眠れました」
「そうかい。お嬢さんも元気そうでよかったよ」
女性はモモへ微笑みかけ、それから三人の様子を見渡した。
「今日はもう出発するのかい?」
「はい。そのつもりですが、もしよろしければ、この先の道について少し教えていただけませんか」
ルシルが尋ねると、女性は南へ続く街道の方へ目を向けた。
「そうだね。ここから先もしばらく草原の道が続くよ。ただ、昨日通ってきたところとは少し景色が変わる。低い丘が増えて、道もところどころ曲がっているから、遠くまで見通せない場所があるんだ」
シモンはその説明を聞き、手帳を取り出した。
「次に水を補給できる場所については、ご存じでしょうか」
「この先にも人が暮らしているところはあるけど、ここからどれくらいで着けるかは、馬車の速さによるね。途中で休む場所もあるが、どこでも水が使えるわけじゃない。今のうちに必要な分を持っていくのがいいよ」
女性はそう答え、少し考えてから続けた。
「道を進むと、右手に石を積んだ低い目印が見えるはずだよ。そこから先は、街道が少し東へ曲がっている。まっすぐ南へ進んでいるつもりでも、道の向きが変わるから、地形だけで方角を決めつけない方がいい」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「石を積んだ目印ですね。昨日も道の横に石が並んでいる場所を見かけたんですが、それとは別のものなんでしょうか」
女性は少し首を傾げた。
「昨日見た石がどんなものか分からないから、同じかどうかは言えないね。ただ、これから先にあるのは、道の脇に石を重ねて作った低い目印だよ。長くそこにあるものだけど、何のために置かれたかまでは、わたしも詳しく知らないんだ」
「そうなんですね。ありがとうございます。見つけたら、周りの道の形も一緒に確認してみます」
ルシルが答えると、女性は頷いた。
「それがいいよ。目印は便利だけど、古くなって崩れることもあるからね。見つからなかったからといって、慌てて草地へ入ったりしないように」
「はい。気をつけます」
シモンが答え、手帳へ説明を書き留めた。
モモも旅帳面を開き、簡単な絵と文字を残している。
「右手に石を積んだ目印があって、その先で道が少し東に曲がる……。うん、覚えたよ!」
モモは書き終えると、顔を上げて笑った。
女性はその様子を見て、少し感心したように目を細めた。
「旅の記録をつけているのかい?」
「はい! 見た景色とか、食べたものとか、教えてもらったことを描いてるんです。あとで読み返すと、いろんなことを思い出せるから」
「それはいいね。長く旅をしていると、昨日の景色と一昨日の景色が混ざってしまうこともあるから、書いておくのは役に立つよ」
モモは嬉しそうに頷き、帳面を大切そうに閉じた。
ルシルはそのやり取りを見ながら、女性へ改めて頭を下げた。
「いろいろ教えていただいて、ありがとうございました。昨日ここに来られたのも、途中で出会った方のおかげでしたし、旅先で親切にしてもらえるのは本当にありがたいです」
「そう思ってもらえるなら、こちらも嬉しいよ。あんたたちも、いつか道に迷っている旅人を見かけたら、知っていることを教えてやればいい」
女性は穏やかに笑った。
「旅の道は、そうやって人から人へつながっていくものだからね」
その言葉を聞き、ルシルはしばらく黙っていた。
特別に難しい話ではなかった。
けれど、昨日の午後に見知らぬ男性から道を教えてもらい、今朝はこの女性から次の道について聞いている自分たちにとって、その言葉はとても自然に胸へ入ってきた。
(僕たちも、いつか誰かに教えられることが増えるのかな。まだ知らないことばかりだけど、今日覚えたことなら、次に通る人へ伝えられるかもしれない)
ルシルはそう考えながら、女性へ微笑んだ。
「はい。僕たちも、誰かの役に立てることがあったら、そうしたいと思います」
「それなら十分さ。気をつけてお行き」
女性はそう言って、三人を見送るように軽く手を上げた。
三人はもう一度礼を告げ、馬車へ戻った。
出発前の確認は、いつもよりも少し丁寧に行った。
ルシルはトルクとベルクの様子を確かめ、シモンは馬具と車輪の状態を確認する。モモは昨夜使った場所に忘れ物がないか見回り、食器や道具が収納されていることを確かめた。
井戸で補給した水の容器も、馬車の中で動かないように固定されている。
乾燥豆の小袋はまだ使っておらず、ほかの食料と一緒に収納してあった。予備の馬具の留め具も、必要なときに取り出せる場所に収まっている。
「ルシル君、こっちは大丈夫だよ。昨日使った場所にも、何も残ってないと思う」
モモが報告すると、ルシルは頷いた。
「ありがとう。僕も馬たちの準備ができたよ。シモン、そっちはどう?」
「問題ありません。車輪の固定を外しても大丈夫ですし、馬具の状態も良好です。出発できます」
シモンの言葉を聞き、ルシルは御者台へ上がった。
モモは馬車の中へ入り、窓際の席へ座る。シモンも必要なものを確認してから乗り込み、ルシルへ合図した。
トルクとベルクがゆっくり歩き始めると、馬車は休み場の平らな地面を離れ、街道へ向かった。
井戸の屋根が少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
モモは窓から休み場を振り返り、建物の前に立つ女性の姿を見つけた。
「あっ、管理人さんが手を振ってくれてる!」
モモは嬉しそうに手を振り返した。
ルシルも御者台から軽く片手を上げ、シモンは丁寧に頭を下げた。
女性は三人を見送り、やがて建物の方へ戻っていった。
休み場が木々の陰に隠れる頃、ルシルは前方へ目を向けた。
南へ続く街道は、昨日よりも少し起伏の多い草原の中を進んでいる。
道の両側には低い丘があり、その斜面には細かな草が広がっていた。ところどころに小さな花が咲いているものの、昨日の白い花がまとまっていた場所とは違い、今朝は淡い黄色の花がまばらに見えている。
モモはそれを見つけると、嬉しそうに声を上げた。
「ねえ、ルシル君! 今日は黄色い花があるよ。昨日の白い花とは違うみたい!」
「本当だね。草の間に少しずつ咲いているから、近づかないと気づきにくいな」
「うん。でも、こういうのを見つけるのも楽しいよね。あとで休憩するときに、遠くからでも描けそうだったら描いてみようかな」
モモはそう言って、窓の外へ目を向けた。
シモンはその様子を見ながら、道の状態を確認していた。
今朝の街道は比較的乾いており、車輪が深く沈むような場所は見当たらない。ただし、管理人の女性が話していたとおり、少し先には道が曲がっている場所があり、丘の向こうまでは見通せなかった。
「ルシル様、この先は少し道が曲がっています。急な変化はなさそうですが、見通しが悪くなるところでは速度を落としましょう」
「うん。トルクたちにも無理をさせないようにするよ」
ルシルはそう答え、手綱を持つ手を落ち着かせた。
馬車は緩やかな坂を上り、丘の間へ進んでいった。
朝の光はまだ柔らかく、風も穏やかだった。
昨日は水を探すことに意識が向いていたため、遠くの景色を眺める余裕が少なかった。今日は必要な水を持って出発できたことで、ルシルも少し落ち着いて周囲を見ることができていた。
もちろん、次の補給先が確定しているわけではない。
だからこそ、今日も早めに休憩を取り、馬たちの状態を確かめながら進むつもりだった。
モモは窓際で旅帳面を開き、今朝見た黄色い花の形を思い出しながら、小さな絵を描き始めた。
シモンは道の特徴を記録し、ルシルは前方を見つめる。
三人の役割は自然に分かれていたが、誰か一人がすべてを決めているわけではなかった。
見つけたものを伝え、気づいたことを相談し、必要なら進み方を変える。
そうした小さな積み重ねが、今の三人の旅を支えていた。
しばらく進むと、街道の右手に低い石の集まりが見えてきた。
最初は自然に転がっている石のようにも見えたが、近づくにつれて、いくつかの石が重ねられていることが分かった。
モモは旅帳面から顔を上げ、窓の外を見つめた。
「ルシル君、あれって……今朝教えてもらった石の目印かな?」
ルシルも右手へ目を向けた。
道の脇には、膝ほどの高さに石を積み重ねたものがあり、周囲の草は少し短くなっている。石の一部には土が付着していたが、すぐに崩れそうな様子は見えなかった。
「そうかもしれないね。管理人さんは、右手に石を積んだ低い目印があるって言ってたから」
「ええ。形は説明と一致しています。ただし、道の向きも確認しましょう」
シモンはそう答え、前方へ目を向けた。
街道は石の目印を過ぎたところから、緩やかに左へ曲がっている。
地図の上で考えれば、南へ進んできた道が少し東へ向きを変える形になっていた。
「本当だ。道が少し曲がってるね」
ルシルが言うと、モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、やっぱりあれが目印だったんだね! 昨日の大きな木もそうだったけど、教えてもらったものを見つけると嬉しいな」
「うん。でも、今日も見つけたからって急がずに進もう」
「もちろん! わたしはちゃんと窓から見てるよ」
モモはそう答え、旅帳面へ石の形を描き始めた。
ルシルは馬車の速度を少し落とし、曲がる道の先を確認した。
丘の向こうには、また新しい草原が広がっていた。
遠くには小さな木々が見え、空の下には緩やかな起伏が続いている。まだ町や村の姿は見えないが、道は途切れることなく先へ伸びていた。
シモンは手帳を閉じ、前方の景色へ目を向けた。
「今朝教えていただいた目印は確認できました。ここから先は、また実際の道の状態を見ながら進みましょう」
「うん。次はどんなものが見つかるかな」
ルシルはそう答え、穏やかに笑った。
モモも窓の外を見つめながら、嬉しそうに頷いた。
「きれいな花も見つけたいし、休憩できる木陰もあるといいね。それから、次の町ではおいしいものも探したいな!」
「その前に、まずは今日の昼食をどうするかですね」
シモンがそう言うと、モモは笑いながら振り返った。
「もう、シモン君! ちゃんと今日の分はあるでしょ? でも、お昼も楽しみだね!」
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、前方へ視線を戻した。
朝の光を受けた街道は、丘の間を緩やかに曲がりながら南へ続いている。
昨日は水を探し、今日は新しい目印を見つけた。
その先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。
けれど、三人で話しながら進む道には、知らない景色を見つける楽しさがあった。
トルクとベルクの足音が、乾いた街道へ穏やかに響いていく。
ルシルは手綱を握り直し、二頭の歩調を確かめながら、ゆっくりと馬車を進めた。
草原を渡る風が窓の青い風魚の布を揺らし、モモの旅帳面には、今朝見つけた新しい目印が一つ加わっていた。




