第111話 草原の街道で聞いた水の話と、夕暮れまでに見つけたい場所
昼食を取った木陰が少しずつ遠ざかり、馬車の後方へ流れていく草原の景色に溶け込んでいった。
午後の陽射しは午前中よりも強くなっていたものの、南へ続く街道には絶えず風が通っていた。道の両側では背丈の低い草が同じ方向へなびき、ときおり吹き抜ける少し強い風が、遠くの丘の斜面に波のような模様を作っている。
ルシルは御者台で手綱を握り、トルクとベルクの歩調を確かめながら、緩やかに曲がる道を進んでいた。
昼の休憩では二頭とも落ち着いており、脚や馬具にも目立った問題はなかった。けれど、午前中から移動を続けていることに変わりはないため、午後は距離を稼ぐことよりも、休める場所を早めに見つけることを意識していた。
「ルシル君、少し風が強くなってきたね。さっきまで草がゆっくり揺れてたのに、今は向こうの丘まで一緒に動いてるみたい」
馬車の窓際から顔を上げたモモが、草原の向こうを眺めながら声をかけてきた。
彼女の膝には旅帳面が置かれているが、今は何も描いていない。昼食のときに見た白い花の絵を描き終えたあと、しばらくは景色を眺めることにしたらしい。
「そうだね。でも、今のところ馬車が大きく揺れるほどじゃないし、トルクたちも落ち着いているよ」
「ええ。ただ、風が強くなると体感温度も変わりますし、夕方には冷え込むかもしれません。今夜の場所を選ぶ際には、風向きも考えておきたいところです」
シモンは窓から入ってくる風の具合を確かめ、外套の襟元を軽く整えた。
その言葉を聞いたモモは、昨日の夕方に三人で野営場所を探したときのことを思い出したようだった。
「昨日も木の近くを選んだけど、風が当たりすぎないか確認したもんね。今日も木がある場所を探すの?」
「木があれば必ず安全というわけではありません。枝が折れそうな場所や、地面が柔らかい場所は避けなければなりませんから、まずは馬車を安定して止められることが大切です」
「そっか。木陰があると嬉しいけど、それだけで決めちゃいけないんだね」
モモは納得したように頷くと、窓の外へ視線を戻した。
ルシルは二人の会話を聞きながら、前方に広がる道を見つめた。草原は相変わらず穏やかだったが、午前中に見かけたような休憩に適した木立は、今のところ近くには見当たらない。
(昨日は運よく落ち着ける場所が見つかったけど、今日も同じとは限らないんだよね。水のこともあるし、日が傾く前に考えられることは考えておこう)
ルシルは手綱を持つ指の力をわずかに緩め、馬たちが無理なく歩ける速度を保った。
自由に旅をするというのは、好きな方向へ進むことだけではない。
どこで休むのか、何を食べるのか、何を優先するのか。その一つ一つを自分たちで決めることも、今の暮らしの大切な一部になっていた。
午後の街道には、しばらく三人以外の旅人の姿がなかった。
道の左手には低い丘が続き、右手には少し広い草地が開けている。遠くに見える木々はまばらで、町の屋根や畑のようなものは、まだどこにも見つからなかった。
モモは景色を眺めながら、午前中に見かけた石の並びについて話し始めた。
「そういえば、さっき道の横にあった石って、何だったんだろうね。あんなふうに並んでると、何か意味がありそうに見えるんだけど」
「僕も気になったよ。でも、文字が見えたわけじゃないし、今のところは分からないね」
「ええ。街道の端を示しているのかもしれませんし、以前に何かを置いていた跡なのかもしれません。確かな情報がない以上、決めつける必要はないでしょう」
シモンの説明を聞き、モモは少し考えてから旅帳面を開いた。
午前中に描いた小さな石の絵の横には、まだ短い言葉しか書かれていない。彼女は鉛筆を取り出すと、揺れる馬車の中でも書きやすいよう帳面を膝に押さえ、ゆっくり文字を書き足した。
「『道の横に石が並んでいた。何のためかは分からない』……これでいいかな」
「うん。見たことと、まだ分からないことが分かれているから、あとで読み返しても間違えにくいと思うよ」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。
「前だったら、たぶん『不思議な石』って書いて終わってたと思うんだ。でも最近は、どこが不思議だったのかも残しておきたくなってきたの」
シモンはその言葉に小さく頷いた。
「よい変化だと思います。記録は、あとから見返したときに役立つことが大切ですから。もちろん、モモ嬢の帳面は旅の思い出を残すものでもありますので、楽しかった気持ちまで細かく整理する必要はありませんが」
「うん! 楽しいことはいっぱい書くよ。だって、あとで読んだときに楽しかったことを思い出せなくなったら、ちょっと寂しいもん」
モモは帳面を閉じ、胸の前で大切そうに抱えた。
その様子を見て、ルシルは自然と頬を緩めた。
モモの旅帳面には、きれいな景色だけではなく、食べたものや出会った人、道で見つけた小さなものまで残されている。シモンの手帳とは書かれている内容が違うけれど、どちらも三人の旅を支える大切な記録になっていた。
やがて、道の先に細い土煙が見えてきた。
ルシルは最初、風で乾いた土が舞い上がっているのかと思ったが、しばらく進むうちに、その土煙が一定の速さでこちらへ近づいていることに気づいた。
「シモン、向こうから何か来ているみたいだよ」
ルシルが声をかけると、シモンは窓から前方を確かめた。
低い丘の陰から現れたのは、一頭の馬に引かれた小さな荷車だった。荷台には布を掛けた荷物が積まれ、御者台にはつばの広い帽子をかぶった年配の男性が座っている。
「荷車ですね。こちらへ向かっているようですし、すれ違う場所を確認しておきましょう」
「うん。道幅は十分ありそうだけど、端に寄りすぎないようにするよ」
ルシルはそう答え、トルクとベルクへ落ち着いた声をかけた。
街道は二台の馬車がすれ違える程度の幅を保っていたが、両側の草地には浅い窪みがところどころにある。ルシルは道の状態を確かめながら、急に進路を変えないようにした。
向こうの荷車も速度を落とした。
御者台の男性は、こちらの四輪馬車と二頭の馬を見て、軽く片手を上げた。ルシルも挨拶を返し、互いに十分な間隔を取ってすれ違おうとしたところで、男性が穏やかな声をかけてきた。
「こんにちは。南へ向かう旅の方々かね?」
「こんにちは。はい、そうです。草原を抜けて、少しずつ南へ進んでいるところなんです」
ルシルが答えると、男性は馬を止め、こちらの様子を確かめた。
荷車には大きな木箱がいくつか積まれており、その隙間には縄や布の包みが見える。商人なのか、どこかへ荷物を運んでいる途中なのかは分からなかったが、男性の表情は穏やかだった。
「それなら、少し先の道について聞いておいた方がいいかもしれん。わしは今朝、南の方から来たところなんだ」
その言葉を聞き、ルシルはシモンへ視線を向けた。
シモンも静かに頷いたため、ルシルは馬車を安全な位置で止め、相手の話を聞くことにした。
「ありがとうございます。実は、この先で水を補給できる場所がないか探しているんです。もしご存じでしたら、教えていただけませんか」
男性は少し考えるように顎へ手を当てた。
「水か。そりゃあ、この草原を馬連れで進むなら気になるところだな。南へ行くと、道沿いに小さな休み場がある。井戸を使っているところで、旅人の馬にも水を分けてくれるはずだ」
モモが窓際から身を乗り出しかけ、慌てて姿勢を戻した。
「井戸があるんですか?」
「ああ。ただし、勝手に汲んでいい場所じゃないぞ。あそこには番をしている人がいるから、着いたら声をかけるんだ。人が飲む水と馬に使う水も、向こうの決まりに従った方がいい」
シモンは男性の言葉を聞き、丁寧に頭を下げた。
「貴重な情報をありがとうございます。その休み場までは、ここからどの程度でしょうか」
「わしの荷車なら、今朝そこを出てからここまで、途中で一度休んでいる。そちらの馬車でも、無理に急がなければ日が暮れる前には近くまで行けると思うがね。ただ、道が少し曲がっているから、見落とさないようにした方がいい」
男性はそう言って、南の方角へ手を向けた。
「低い丘が二つ続いたあと、道の右手に背の高い木が一本見える。そこから少し進むと、道の脇に広い土の場所があるんだ。休み場はその奥だよ」
ルシルは頭の中で説明を整理した。
低い丘が二つ。
右手に背の高い木が一本。
そして、道の脇にある広い土の場所。
どれもまだ実際に見たわけではないため、必ずその順番で現れると決めつけることはできない。それでも、何の情報もないまま進むよりは、ずっと心強かった。
「ありがとうございます。そこへ着いたら、まず管理している方に確認してみます」
「そうするといい。水が足りないからといって、途中の窪みにたまった水を使うのは勧めんぞ。雨のあとには水が残ることもあるが、馬にも人にもよくないことがあるからな」
男性はそう言いながら、自分の荷車を引く馬の首元を軽く撫でた。
その仕草には、長く馬と一緒に道を歩いてきた人らしい慣れがあった。
「それと、休み場に着く前に日が傾きすぎたら、無理をするな。あの辺りは道の脇に浅い溝がある場所もある。暗くなってから馬車を動かすのは面倒だ」
「はい。十分気をつけます」
シモンが答えると、男性は満足そうに頷いた。
モモは窓から顔を出さないよう気をつけながら、明るい声で礼を言った。
「教えてくれてありがとうございます! わたしたち、ちゃんと確認しながら進みますね」
「おう。旅は慌てないのが一番だ。若い人たちだけで大変なこともあるだろうが、馬を大事にしてやりなさい」
男性はそう言って笑い、手綱を持ち直した。
ルシルたちも改めて礼を告げ、互いの進路を確認してから荷車とすれ違った。
小さな荷車は北へ向かって進み、やがて丘の向こうへ姿を消した。
ルシルはその後ろ姿を見送りながら、胸の奥に広がった安堵を静かに受け止めていた。
(まだ水を補給できたわけじゃないけど、行き先の手がかりができたんだね。あの人に会えてよかった)
ただし、聞いた情報だけで安心してしまうわけにはいかない。
休み場までの距離も正確には分からず、井戸が今も利用できるかどうかも、着いて確かめる必要がある。ルシルはそのことを忘れないようにしながら、シモンへ声をかけた。
「シモン、今の話をどう思う?」
「十分に参考になる情報だと思います。実際に今朝その場所を通った方の話ですし、道の特徴も具体的でした。ただ、到着時刻については馬車の速度や休憩時間で変わりますから、あくまで目安として考えましょう」
「うん。僕もそう思う。日が暮れるまでに行けそうなら目指したいけど、急ぎすぎないようにしたいな」
「それがよいでしょう。今の水の残量であれば、無理をして馬たちを疲れさせるより、安全な移動を優先する方が合理的です」
シモンの返事を聞き、ルシルは頷いた。
モモは二人の会話が落ち着いたところで、旅帳面を開いた。
「わたし、さっきの人が教えてくれた目印を書いておくね。丘が二つあって、右に背の高い木が一本。それから、広い土の場所だよね」
「ええ。よく覚えておられます。ただ、順番を確認するときには、周囲の道の形も合わせて見てください」
「分かった! 見つけたものだけじゃなくて、どんな場所にあったかも覚えておくね」
モモは嬉しそうに鉛筆を動かし始めた。
ルシルはその様子を見て、自然と笑みを浮かべた。
少し前までなら、モモは旅の途中で見つけた花や食べ物のことを中心に記録していた。今でもその楽しさは変わらないけれど、最近は道の目印や水のことまで、自分から書き留めるようになっている。
その変化が、ルシルには嬉しかった。
シモンも同じように感じていたのか、モモの帳面へ目を向ける表情が少し柔らかくなっていた。
三人は再び馬車を進めた。
先ほどの男性から聞いた情報を頼りにしながらも、ルシルは目の前の道を丁寧に確かめた。
午後の陽射しはまだ明るいが、少しずつ光の角度が変わり始めている。草原に落ちる影は午前中よりも長くなり、風に揺れる草の色も、場所によって濃く見えたり淡く見えたりした。
やがて、前方に低い丘が現れた。
街道はその丘の間を緩やかに曲がりながら続いており、左右の斜面には短い草が広がっている。
「ねえ、あれが最初の丘かな?」
モモが窓の外を指さすと、ルシルも目を向けた。
「そうかもしれないね。でも、丘が二つ続くって話だったから、もう少し先まで見てみよう」
「ええ。今見えているものだけで判断せず、道の形を確認しましょう」
シモンはそう言いながら、手帳へ短く記録を残した。
ルシルは馬たちの歩調を落とし、丘の間を慎重に進んだ。
道の表面には細かな石が混じっていたが、車輪が深く沈むような場所は見当たらない。左右の草地には浅い窪みがあり、そこへ寄りすぎないように気をつけながら進んでいく。
丘を抜けると、前方にはもう一つ低い起伏が見えてきた。
モモはそれを見つけると、嬉しそうに顔を上げた。
「あっ、もう一つある! さっきの人が言ってた丘って、これのことかもしれないね」
「うん。そうだとしたら、この先に背の高い木があるはずだね」
ルシルはそう答えながら、遠くの景色へ目を向けた。
ただし、まだ木の姿は見えていない。
丘の向こうには草原が続き、道は緩やかに南へ曲がっていた。
シモンは周囲を確認し、少し考えてから口を開いた。
「今のところ、教えていただいた特徴と大きく違ってはいません。ただし、まだ目的の休み場を確認できたわけではありませんので、引き続き慎重に進みましょう」
「うん。焦らず行こう」
ルシルは頷き、馬車を進めた。
モモはしばらく窓の外を眺めていたが、やがて小さく息をついた。
「なんだか、目印を探すのって楽しいね。宝探しみたいだけど、ちゃんと旅に必要なことなんだもん」
「そうだね。僕も、あの人の話を聞いてから、いつもより道の先が気になってるよ」
「ただし、見つけることに夢中になりすぎて、足元の危険を見落とさないようにしてくださいね」
シモンが穏やかに注意すると、モモは笑いながら頷いた。
「分かってるよ。わたしは窓から見えるものを探して、ルシル君は馬車をちゃんと動かすんだよね」
「ええ。そして私は、道の状態や周囲の状況を確認します。役割を分けておけば、無理なく進められるでしょう」
三人は顔を見合わせ、自然と笑い合った。
それからしばらく、馬車は丘の間を抜ける道を進んだ。
風は相変わらず草原を渡っていたが、先ほどよりも少し穏やかになっている。遠くでは小さな鳥が低く飛び、草の間へ姿を消した。
モモはその鳥を見つけ、旅帳面へ描こうか迷ったものの、すぐに鉛筆を置いた。
今は目印を探す方が大切だと思ったらしい。
その様子を見ていたシモンは、何も言わずに小さく頷いた。
やがて、道の右手に一本の木が見えてきた。
周囲の木々よりも背が高く、枝を大きく広げたその木は、草原の中でよく目立っていた。
モモは思わず声を上げた。
「ルシル君! あれじゃないかな? 右側に一本だけ、すごく大きな木があるよ!」
ルシルも目を向けた。
確かに、男性が話していた特徴に近い木だった。
ただし、道から少し離れた場所にも小さな木がいくつか見えるため、本当に同じ木なのかはまだ分からない。
「そうかもしれないね。あの木の先に広い土の場所があるか、確認してみよう」
「ええ。もし見つからなければ、無理に草地へ入らず、いったん道の状況を整理しましょう」
シモンはそう答え、前方へ目を向けた。
ルシルは馬たちへ声をかけ、ゆっくり進んだ。
木の近くまで来ると、その幹が思っていたよりも太いことが分かった。
枝は左右へ広がり、地面には大きな影を落としている。木の周囲には短い草が生えていたが、根元近くには土が見えている場所もあった。
モモは窓から木を見上げ、感心したように息を漏らした。
「大きいねえ。遠くから見ても目立ってたけど、近くで見るともっと立派だよ」
「本当だね。これなら、道を通る人の目印になっていてもおかしくないな」
ルシルはそう答えながら、木の先へ視線を向けた。
街道はそこから少しだけ右へ曲がり、低い草地の間を続いている。
その先には、周囲よりも草の少ない広い場所が見えた。
「シモン、あそこに土の広い場所があるよ」
ルシルが声をかけると、シモンは身を乗り出さないように注意しながら、窓の外を確認した。
「確かにありますね。あの方の説明にかなり近いようです。ただし、馬車を入れる前に地面の状態を確かめましょう」
ルシルは頷き、道の脇へゆっくり馬車を寄せた。
広い土の場所は、街道から緩やかにつながっていた。
そこには車輪が通ったような浅い跡が残っており、周囲には踏み固められた地面が広がっている。少なくとも、最近まで人や馬車が利用していたように見えた。
シモンは馬車を安全な位置で止めてもらい、先に降りて周囲を確認した。
地面は比較的固く、車輪が深く沈みそうな場所は見当たらない。ただし、端の方には小さな石が集まっていたため、馬車を進めるなら中央寄りの方がよさそうだった。
「ルシル様、ここまでは問題なさそうです。もう少し先の様子を確認してから進みましょう」
「分かった。無理に入らないようにするよ」
ルシルはそう答え、トルクとベルクを落ち着かせながら待った。
モモは窓の外を眺め、少し離れた場所に何か建物らしいものがあることに気づいた。
「ねえ、あそこに屋根が見えるよ。木の向こうに、低い建物があるみたい」
シモンもその方角へ目を向けた。
確かに、木々の間から小さな屋根が見えている。
周囲には簡単な柵があり、その内側には木で作られた長い桶のようなものが置かれていた。
「休み場かもしれませんね。まずは管理している方がいるか確認しましょう」
シモンはそう言って、建物の方へ歩いていった。
ルシルは馬車のそばで待ちながら、周囲の様子を確かめた。
トルクとベルクは落ち着いており、少し長い移動のあとでも大きく疲れた様子は見せていない。それでも、休める場所が見つかったことに、ルシルはほっとしていた。
モモは馬車の中から顔を出し、木々の間に見える建物を興味深そうに眺めていた。
「本当に休み場だったら嬉しいね。水も補給できたら、今日は安心して休めるかな」
「そうだね。でも、まずはシモンが確認してくれるのを待とう」
「うん。勝手に井戸を使ったりしないよ」
モモは真剣な顔で頷き、窓から少し離れた。
しばらくすると、建物の扉が開いた。
中から出てきたのは、灰色が混じった髪を後ろで束ねた女性だった。
年齢は五十歳前後に見え、丈夫そうな布の服に前掛けを身につけている。女性はシモンの話を聞きながら、馬車と二頭の馬へ視線を向けた。
やがて、シモンがこちらを振り返り、ルシルへ手を上げた。
「ルシル様、こちらへ来ていただいて大丈夫です。休み場の管理をされている方が、話を聞いてくださるそうです」
ルシルは頷き、馬車をゆっくり進めた。
女性は馬車が近づくと、穏やかな表情で迎えてくれた。
「こんにちは。南へ向かう旅人さんたちかい?」
「こんにちは。はい、そうです。途中でこちらの休み場について教えていただいて、水を補給できないかと思って来ました」
ルシルが答えると、女性は二頭の馬を見て頷いた。
「なるほどね。ここは街道を通る人が休むための場所だよ。井戸の水は管理しているから、必要なら分けられる。ただし、馬に使う分と人が飲む分は、こちらで案内するから勝手に汲まないでおくれ」
「もちろんです。利用の決まりを教えていただければ、そのとおりにします」
シモンが丁寧に答えると、女性は満足そうに頷いた。
「それなら大丈夫だね。まずは馬を落ち着かせてやりなさい。二頭ともよく歩いてきたようだし、急いで水を飲ませるより、少し休ませてからの方がいい」
ルシルはその言葉を聞き、安心したように頷いた。
「ありがとうございます。僕たちも、少し休ませてから水をあげようと思っていました」
「それがいいよ。馬車はあっちの平らな場所へ寄せておくれ。ほかの旅人が来ても通れるようにしてくれれば、しばらく休んでいって構わないからね」
女性は柵の近くにある広い場所を指さした。
そこは草が短く、地面も比較的平らに見える。シモンが確認してから馬車を移動させることにし、ルシルは女性へ改めて礼を言った。
「助かります。実は、今日はずっと水の補給先を探していたんです」
「この辺りは、道を外れると水を見つけるのが難しいからね。知らずに進むと困ることもあるよ」
女性はそう言いながら、井戸の方へ目を向けた。
「旅人さんたちには、ちゃんと水を持って歩いてもらいたいんだ。ここで分けられる分には限りがあるけど、必要な量を相談してくれれば、できる範囲で用意するよ」
シモンはその言葉に頷き、携行水の残量と必要な補給量について説明した。
女性は話を聞きながら、ときどき頷いていた。
「なるほど。三人と馬二頭なら、それなりに必要だね。今の井戸の状態なら、今日の分を分けることはできると思うよ。ただし、全部を一度に汲むんじゃなくて、順番にお願いしたいね」
「承知しました。必要な分を確認しながら、無理のない範囲でお願いできればと思います」
シモンが答えると、女性は穏やかに笑った。
「話が早くて助かるよ。代金についても、あとでまとめて伝えるからね」
モモは二人の会話を聞きながら、嬉しそうに目を輝かせていた。
ただし、すぐに井戸へ駆け寄ることはせず、ルシルの隣で静かに待っている。
その様子を見た女性は、少しだけ表情を和らげた。
「お嬢さんも、長い道を来たんだろう。疲れていないかい?」
「はい! ちょっと疲れたけど、みんな元気です。トルク君とベルク君も頑張ってくれたから、ちゃんと休ませてあげたいです」
モモが答えると、女性は二頭の馬を見て笑った。
「いい名前だね。馬を大事にしているのが分かるよ」
「えへへ、ありがとうございます!」
モモは嬉しそうに笑い、ベルクの方へ目を向けた。
ベルクは落ち着いた様子で立っており、トルクも周囲の匂いを確かめるように鼻を動かしていた。
ルシルは二頭の様子を見ながら、ここまで無事に進めたことへ静かな安堵を覚えた。
(よかった。まだ全部終わったわけじゃないけど、ちゃんと水を補給できそうな場所まで来られたんだね)
胸の奥にあった小さな緊張が、少しずつほどけていく。
けれど、それと同時に、今日ここへ来られたのは偶然だけではなかったことも思い出した。
午前中に水の残量を確かめ、午後は無理をせず進むと決めたこと。
途中で出会った男性の話を聞き、目印を一つずつ確認したこと。
そして、休み場らしい場所を見つけても、勝手に利用せず管理している人へ尋ねたこと。
その一つ一つが、今の安心につながっていた。
ルシルは隣にいるシモンへ目を向けた。
「シモン、今日もいろいろ教えてくれてありがとう。僕だけだったら、途中で見つけた草の濃い場所を水場だと思って、近づいていたかもしれない」
シモンは少し驚いたように瞬きをしたあと、穏やかに首を横へ振った。
「いえ、ルシル様も十分に慎重に判断されていました。私が申し上げたことをそのまま受け取るだけでなく、ご自身で考えておられましたから」
「そうかな」
「はい。今日の移動でも、馬たちの様子や道の状態をよく見ておられました。以前よりも、判断を任せていただく場面と、ご自身で決められる場面の区別がはっきりしてきたように思います」
その言葉を聞き、ルシルは少し照れくさそうに笑った。
「それなら嬉しいな。僕も、少しずつ旅に慣れてきたのかもしれないね」
「ええ。ですが、慣れた頃こそ確認を怠らないことが大切です。今後も一緒に考えていきましょう」
「うん。よろしくね、シモン」
シモンは静かに頷いた。
モモは二人の会話を聞きながら、嬉しそうに笑っていた。
「わたしも一緒に考えるよ! 今日は目印をちゃんと覚えてたし、少しは役に立てたと思うんだ」
「もちろんだよ、モモ。あの木を最初に見つけてくれたのもモモだったし、教えてもらったことを忘れないように書いてくれたのも助かったよ」
「えへへ。じゃあ、これからも頑張るね!」
三人は穏やかに笑い合い、馬車を休める準備を始めた。
シモンが地面を確認し、ルシルが馬車を平らな場所へ移動させる。モモは周囲に落ちている石や枝を見つけ、必要なものだけを二人へ知らせた。
馬車を止めたあと、三人はトルクとベルクの馬具を緩め、落ち着いて休めるように整えた。
休み場の女性は少し離れたところから様子を見ていたが、二頭が落ち着いていることを確認すると、井戸の準備へ向かった。
ルシルは馬たちの首筋を撫でながら、静かに声をかけた。
「トルク、ベルク、今日もありがとう。もう少ししたら水を飲めるから、ゆっくり休んでね」
トルクは鼻先を寄せ、ベルクも穏やかに耳を動かした。
モモは二頭のそばに立ち、嬉しそうに笑った。
「今日はちゃんと水のある場所まで来られたね。二頭とも頑張ってくれてありがとう」
その言葉を聞きながら、シモンは馬具の状態を確認していた。
長い移動のあとでも大きな傷みは見られず、予備の留め具を使う必要もなさそうだった。彼は一つずつ確認を終えると、ようやく小さく息をついた。
(無理をせずに進めたことが、何よりよかったですね。水の補給先も見つかりましたし、今日はここで十分に休ませるのがよいでしょう)
シモンはそう考えながら、二頭の様子をもう一度確かめた。
以前の自分なら、目的地までの距離や次の予定を優先して、もう少し進めるかどうかを考えていたかもしれない。
けれど今は、ここまで無事に来られたこと自体を大切にしたいと思っていた。
ルシルとモモが楽しそうに馬たちへ声をかけている姿を見ると、その気持ちはさらに強くなった。
しばらくして、休み場の女性が戻ってきた。
「馬たちは落ち着いたかい? それなら、そろそろ水の用意をしようか。まずは人が飲む分から確認して、そのあと馬用の桶を使ってもらうよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
シモンが丁寧に答えると、女性は三人を井戸の近くへ案内した。
井戸は低い石組みに囲まれ、上には簡単な屋根が掛けられていた。
周囲には水を汲むための道具が整えられており、少し離れた場所には馬用の長い桶が置かれている。地面はよく踏み固められていたが、水がこぼれやすい場所には小さな溝が作られていた。
モモはその様子を興味深そうに眺めた。
「ちゃんと水が流れるようになってるんだね。井戸の周りがびしょびしょにならないようにしてるのかな」
女性はモモの視線を追い、頷いた。
「そうだよ。ここは馬も人も使うからね。水がたまったままだと足元が悪くなるし、道具も傷みやすい。だから、こぼれた水が流れるようにしてあるんだ」
「なるほど……。水を汲む場所にも、いろんな工夫があるんですね」
ルシルが感心したように言うと、女性は少し笑った。
「毎日使っていると、困ることが少しずつ分かってくるんだよ。最初から全部うまくできていたわけじゃないさ」
その言葉に、ルシルは静かに頷いた。
王宮でも、町でも、旅の途中でも、人々の暮らしは小さな工夫の積み重ねで成り立っている。
自分が知らなかっただけで、そうした工夫はあらゆる場所にあるのだろう。
女性は飲用に管理している水の扱いを説明し、三人が持っている容器を確認した。
シモンは容器の状態を見せ、補給したい量を相談する。
女性は井戸の使用状況を確かめたうえで、今日分けられる範囲を伝えた。
「このくらいなら問題ないよ。ただし、ほかの旅人が来ることもあるから、必要以上に汲み置きするのは遠慮してもらいたいね」
「もちろんです。こちらも持ち運べる量には限りがありますし、必要な分だけお願いするつもりです」
シモンの返事を聞き、女性は満足そうに頷いた。
ルシルも容器を運ぶ手伝いをし、モモは邪魔にならない場所で道具の扱いを見守った。
水を汲む作業は、思っていたよりも慎重さが必要だった。
容器を安定した場所へ置き、こぼさないように移し替える。満たした容器は重くなるため、持ち上げるときにも注意しなければならない。
ルシルはシモンに教わりながら、無理のない量ずつ運んだ。
「こうしてみると、水って本当に重いんだね」
「ええ。量が増えるほど運搬も大変になります。馬車へ積む際には、重さが偏らないようにする必要がありますから」
シモンはそう答え、容器を置く位置を確認した。
モモも手伝おうとしたが、重い容器を無理に持ち上げることはせず、軽い道具を運ぶ役割を引き受けた。
「わたしはこっちを持っていくね。重いのは二人に任せるけど、ちゃんと手伝いたいから」
「ありがとうございます、モモ嬢。役割を分けていただけると助かります」
シモンの言葉に、モモは嬉しそうに頷いた。
人が使う水の補給を終えたあと、三人は馬たちの水を用意した。
女性は馬用の桶を使うよう案内し、トルクとベルクが落ち着いて飲めるように場所を整えてくれた。
ルシルは二頭の様子を見ながら、急がせずに水を与えた。
トルクは最初に鼻先を近づけ、匂いを確かめてから飲み始めた。ベルクも落ち着いた様子で水を飲み、しばらくすると満足したように顔を上げた。
モモはその様子を見守りながら、ほっとしたように息をついた。
「よかった。ちゃんと飲めたね」
「うん。これで少し安心できるよ」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「ええ。ただし、補給できたからといって、明日以降の水を気にしなくてよいわけではありません。今後も同じように、早めに補給先を考えていきましょう」
「もちろん。今日のことは、ちゃんと覚えておくよ」
ルシルはそう答え、トルクの首筋を撫でた。
水を飲み終えた二頭は落ち着いており、馬車のそばでゆっくり休んでいる。
その姿を見て、ルシルはようやく今日の移動が一区切りついたことを実感した。
休み場の女性へ代金を支払い、改めて礼を告げると、三人は馬車の近くへ戻った。
陽はすでに西へ傾き始めていた。
草原の色は昼間よりも柔らかくなり、木々の影が少しずつ長く伸びている。風も先ほどより穏やかで、休み場の周囲には落ち着いた空気が流れていた。
モモは空を見上げながら、少し考えるように首を傾げた。
「ねえ、ルシル君。今日はここで休めるのかな? 水も補給できたし、馬たちも落ち着いてるけど」
ルシルはシモンへ目を向けた。
「僕も、できれば今日はここで休みたいと思ってる。でも、ここで夜を過ごしていいかどうかは、まだ聞いていないよね」
「ええ。休憩を許可していただいたことと、野営を許可していただくことは別です。まずは管理されている方へ確認しましょう」
シモンの言葉に、モモは頷いた。
「そっか。ちゃんと聞いてから決めるんだね」
三人は再び女性のところへ向かった。
女性は建物の前で道具を片づけていたが、三人の姿を見ると手を止めた。
「水は足りたかい?」
「はい。おかげさまで必要な分を補給できました。本当にありがとうございます」
ルシルが答えると、女性は穏やかに笑った。
「それならよかった。馬たちも落ち着いているようだね」
「はい。それで、もう一つお尋ねしたいことがあるんです。もし可能なら、今夜はこちらの近くで休ませていただけないでしょうか」
女性は少し考え、馬車の方へ目を向けた。
「夜を越すのかい。それなら、あっちの柵の外側にある平らな場所を使うといい。ここを通る旅人が、たまに馬車を止めて休んでいく場所なんだ」
女性は建物から少し離れた場所を指さした。
そこには草の短い平坦な地面が広がり、近くには低い木が数本立っている。街道からも大きく離れておらず、馬車を止める余地は十分にありそうだった。
「ただし、火を使うなら場所を決めておくれ。草の近くで勝手に焚くのは困るからね。それと、朝には使った場所を片づけておいてほしい」
「もちろんです。火を使うかどうかも、必要を考えて決めます」
シモンが答えると、女性は頷いた。
「それなら構わないよ。馬をつなぐ場所についても、あとで案内してあげる」
「ありがとうございます。本当に助かります」
ルシルは深く頭を下げた。
女性は少し照れくさそうに笑い、手を軽く振った。
「そんなに何度も礼を言わなくていいよ。ここは旅人が休むための場所なんだから。ただ、次に来る人も使えるようにしてくれれば、それで十分さ」
その言葉を聞き、モモは嬉しそうに頷いた。
「はい! 昨日もちゃんと片づけたから、今日もきれいにして帰ります!」
「それなら安心だね」
女性はそう言って笑い、道具の片づけへ戻っていった。
三人は許可された場所へ向かい、地面の状態を確認した。
草は短く、車輪を置く場所も比較的平らだった。
シモンは木の枝や根の位置を確かめ、ルシルは馬車を止める向きを考えた。モモは周囲を歩きながら、足元に大きな石や枝が落ちていないかを確認している。
昨日の夕方と似た作業ではあったが、三人の動きには少しだけ余裕が生まれていた。
「ルシル君、こっちの地面は平らだけど、あの木の根っこが少し出てるよ」
モモが指さした場所には、確かに太い根が地面から顔を出していた。
ルシルはその位置を確認し、馬車を少し離して止めることにした。
「ありがとう、モモ。そこを避ければ、車輪も安定させやすそうだね」
「ええ。こちらの方がよいでしょう。木の枝も馬車へ当たりませんし、風も直接受けすぎない位置です」
シモンの確認を受け、ルシルは慎重に馬車を移動させた。
車輪を固定し、馬たちの安全を確かめると、ようやく今夜の場所が整った。
モモは馬車の横に立ち、周囲を見回した。
「今日はちゃんと水も補給できたし、夜に休める場所も見つかったね。朝はどうなるか分からなかったから、なんだか嬉しいな」
「そうだね。途中で教えてくれた人にも、ここの管理人さんにも助けてもらったよ」
ルシルが答えると、シモンも静かに頷いた。
「旅では、こうした情報や人とのつながりが大切になります。自分たちだけで判断できることには限りがありますから」
モモはその言葉を聞き、少し考えてから口を開いた。
「じゃあ、今日の旅帳面には、水を見つけたことだけじゃなくて、教えてくれた人のことも書いておこうかな」
「いいと思うよ。あの人が教えてくれなかったら、ここへ来るまでにもっと時間がかかっていたかもしれないからね」
ルシルの言葉に、モモは頷いた。
「うん。名前は聞かなかったけど、ちゃんと覚えておきたいな」
モモはそう言って、旅帳面を取り出した。
馬車のそばに置いた小さな卓へ帳面を広げ、午後に見た景色を順番に描き始める。
低い丘が二つ。
道の右手に立っていた大きな木。
土の広い場所と、その奥に見えた小さな建物。
そして、井戸のそばに置かれた馬用の桶。
どれも細かな絵ではなかったが、モモは一つずつ丁寧に描いていった。
ルシルはその隣に座り、旅帳面を眺めた。
「今日は、目印がちゃんとつながってるね。あの人の話を聞いたときは、どんな場所なのか想像するしかなかったけど」
「うん。実際に見てみると、思ってたより分かりやすかったよ。でも、知らなかったら通り過ぎちゃったかもしれないね」
モモはそう答え、絵の横へ文字を書き始めた。
『草原の道で、親切な人に水のある休み場を教えてもらった。丘を二つ越えて、大きな木を見つけたら、本当に休み場があった。トルク君とベルク君も水を飲めてよかった。』
書き終えたモモは、少し離れて文字を眺めた。
「これでよし! あとで読み返したら、今日のことをちゃんと思い出せそう」
「うん。僕も今日のことは忘れないと思うよ」
ルシルはそう答えながら、夕方の空へ目を向けた。
陽はさらに傾き、草原の向こうには淡い橙色が広がり始めている。
昨日の夕方とは違い、今日は井戸のある休み場で夜を迎えることになった。
同じ草原の旅でも、休む場所が変われば、そこで聞こえる音も、見える景色も少しずつ違う。
今夜は木々の葉擦れに混じって、休み場の建物から人が動く音が聞こえてくる。
遠くの街道を通る荷車の音も、ときおり風に乗って届いていた。
ルシルはその音に耳を傾けながら、穏やかな気持ちで息をついた。
(今日は、ちゃんと人に助けてもらいながら進めたんだね。自由な旅だからって、何でも自分たちだけでやらなくてもいいんだ)
王宮を離れたとき、ルシルは誰かに決められた暮らしではなく、自分で選ぶ人生を歩みたいと思っていた。
その気持ちは今も変わらない。
けれど、旅を続けるうちに、自由であることと、誰の力も借りないことは違うのだと感じるようになっていた。
困ったときには尋ね、教えてもらったことに感謝し、自分たちもできることをする。
そうした小さなやり取りがあるからこそ、見知らぬ土地でも安心して進めるのかもしれない。
ルシルがそんなことを考えていると、シモンが近くへ戻ってきた。
「ルシル様、馬たちの準備は整いました。今夜は管理人の方が案内してくださった場所で、落ち着いて休ませられそうです」
「ありがとう、シモン。今日は本当に助かったよ」
「いえ。私も、休み場が見つかって安心しています。これで明日の移動についても、落ち着いて考えられそうですね」
シモンはそう答えながら、夕方の空へ目を向けた。
その表情には、以前のように次の予定を急いで決めようとする緊張はなかった。
必要なことは確認する。
けれど、確認が終わったなら、今ある時間を楽しむことも大切にする。
そんな考え方が、少しずつ自然なものになっているようだった。
モモは二人の会話を聞き、嬉しそうに顔を上げた。
「じゃあ、今日はもう急いでどこかへ行かなくていいんだね!」
「うん。今日はここで休もう。明日のことは、夕食を食べながらでも相談できるから」
「やった! じゃあ、今夜はゆっくりできるね。あっ、でも夕ご飯の準備はちゃんと手伝うよ!」
モモはそう言って立ち上がり、馬車の方へ歩き始めた。
ルシルはその後ろ姿を見送りながら、自然と笑みを浮かべた。
シモンも小さく笑い、二人のあとへ続いた。
三人は馬車の収納を確認し、今夜の食事に使うものを相談した。
水を補給できたとはいえ、無駄に使ってよいわけではない。
乾燥豆はまだ使わず、今夜も手元にある保存の利く食べ物を中心に、無理のない食事にすることになった。
モモは少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに笑った。
「豆は、ちゃんと時間をかけて料理できるときのお楽しみにしておこうね。今日は水を補給できた記念に、いつもよりおいしく食べることにする!」
「同じ食べ物でも、気持ちが違うとおいしく感じることはあるかもしれないね」
ルシルが答えると、シモンも穏やかに頷いた。
「食事を楽しむこと自体はよいことです。ただし、明日の分まで食べてしまわないようにしましょう」
「もう、シモン君! ちゃんと分かってるってば!」
モモは笑いながら答え、三人は夕食の準備を続けた。
休み場の周囲には、夕方の柔らかな光が広がっていた。
井戸の屋根には長い影が落ち、木々の葉は風に揺れながら、少しずつ色を深めていく。
トルクとベルクは落ち着いて休んでおり、馬車の窓には青い風魚の布が静かに揺れていた。
ルシルは食事の準備を手伝いながら、今日一日を振り返った。
朝は水の残量を確かめるところから始まり、昼にはまだ補給先が見つからず、午後になってようやく道の先を知る人に出会った。
そして今は、井戸のある休み場で、三人そろって夕食を迎えようとしている。
大きな事件が起きたわけではない。
けれど、自分たちで考え、人の話を聞き、無理をせずに進んだ結果として、今夜の場所を見つけられた。
それだけで、今日という一日には十分な意味があるように思えた。
「ルシル君、何か嬉しそうだね」
モモが不思議そうに尋ねると、ルシルは彼女へ目を向けた。
「うん。今日はいい日だったなって思ってたんだ。水のことが心配だったけど、ちゃんと補給できたし、今夜も落ち着いて休めそうだから」
モモはその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。
「わたしもそう思う! それに、知らない人に親切にしてもらえるのって、やっぱり嬉しいよね」
「そうだね。明日も、そういう出会いがあるかもしれないね」
ルシルが答えると、シモンも穏やかに頷いた。
「ええ。ただし、明日も必ず同じように進めるとは限りません。だからこそ、今日できたことを大切にしながら、次の道を考えていきましょう」
「うん。焦らず、三人でね」
ルシルはそう答え、夕方の空へ目を向けた。
草原の向こうには、まだ見知らぬ道が続いている。
次の町がどこにあるのかも、その先にどんな景色が待っているのかも、今は分からない。
けれど、今日のように一つずつ確かめながら進めば、きっとまた新しい場所へたどり着けるだろう。
夕暮れの風が、休み場の木々を静かに揺らした。
三人はその音を聞きながら、今日の旅を終えるための穏やかな時間を過ごしていた。




