第109話 午後の草原で見つけた、今夜の小さな居場所
昼食を終えた木陰には、午後の穏やかな風が吹き込んでいた。
木の枝が揺れるたびに、地面へ落ちた影がゆっくりと形を変え、草の上には細かな光の模様が浮かんでいる。遠くの丘は昼の明るさに包まれ、午前中に越えてきた道も、今では草原の一部に溶け込むように見えていた。
ルシルは折り畳みの卓を片づけながら、道の先へ目を向けた。
午前中は丘の間を通り、見晴らしのよい場所を越えてきた。昨日までとは違う景色をいくつも見られたことは楽しかったが、これからは今夜の野営場所も考えなければならない。
(景色がきれいだからって、どこでも休めるわけじゃないんだよね。今日は僕も、ちゃんと周りを見ながら進もう)
そう考えていると、すぐそばでモモが旅帳面を閉じる音がした。
「ルシル君、準備できたよ! さっきの木も描けたし、午前中の草原のことも忘れないうちに書いておいたんだ」
「もう描き終わったんだね。あとで見せてもらってもいい?」
「もちろん! でも、まだちょっと線が曲がってるところがあるから、夜になったら直すつもりなんだ。馬車が揺れてると、どうしても思ったとおりに描けないんだよね」
モモは少し残念そうに笑いながら、旅帳面を大切に抱えた。
桃金色の髪が風に揺れ、白い外套の裾が草の上を軽く撫でる。彼女はもう一度、昼食を取った木陰を振り返ると、名残惜しそうに目を細めた。
「ここもいい場所だったね。朝の野営場所とは違うけど、木陰が涼しくて、風も気持ちよかったなあ」
「そうだね。トルクとベルクも落ち着いて休めたみたいだし、ちょうどいい場所が見つかってよかったよ」
「ええ。ただし、午後も同じような場所が見つかるとは限りません。日が傾く前に野営場所を決められるよう、少し早めに候補を探し始めましょう」
シモンはそう言いながら、馬車の側面に取り付けられた道具の固定を確かめていた。
黒縁の眼鏡の奥にある瞳はいつもどおり真剣だったが、必要以上に急いでいる様子はない。馬具の状態を確認し、車輪の周囲を見てから、二頭の馬へ順番に声をかけている。
トルクはルシルが近づくと、何かを期待するように鼻先を寄せてきた。
「トルク、さっき休んだばかりなのに、もうお腹が空いたの?」
ルシルが笑いながら首筋を撫でると、トルクは小さく鼻を鳴らした。
その横では、ベルクが落ち着いた様子で耳を動かしている。灰色の毛並みには午後の光が柔らかく当たり、首を傾けるたびに淡い色合いが変わって見えた。
「トルク君は元気だねえ。ベルク君は、ちゃんと休んでから出発するって分かってるみたい」
「トルクも落ち着いていますよ。ただ、食べ物への関心が少々強いだけです」
「シモン君、それってわたしと似てるって言いたいの?」
「そこまでは申し上げておりません」
シモンが眼鏡の位置を直すと、モモは楽しそうに笑った。
「でも、ちょっと思ったでしょ?」
「……判断は控えさせていただきます」
「それ、絶対に思ったときの返事だよ!」
二人のやり取りを聞きながら、ルシルは馬車の準備を終えた。
昼食の道具はすべて所定の場所へ戻し、飲み水の残量も確認してある。リーヴェルで買った乾燥豆はまだ使っておらず、十分な水と調理時間を確保できる場所で使うつもりだった。
ルシルは最後に木陰を見回し、何も置き忘れていないことを確かめてから御者台へ上がった。
「それじゃあ、行こうか。今日は夕方になる前に、落ち着いて休める場所を見つけたいね」
「うん! わたしもちゃんと探すよ。お花ばっかり見てないで、地面とか木の場所とかも見るからね」
「頼りにしてるよ、モモ」
「任せて!」
モモが元気よく答えると、シモンは小さく頷いて馬車へ乗り込んだ。
三人の準備が整い、ルシルが穏やかに声をかけると、トルクとベルクはゆっくり歩き始めた。
車輪が土の上を転がり、木陰の休憩場所が少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
午後の草原は、午前中よりも明るい色に包まれていた。
高くなった太陽が草の葉を照らし、風が吹くたびに緑色の波が道の両側へ広がっていく。遠くの丘には薄い雲の影が落ち、明るい場所と暗い場所がゆっくり入れ替わっていた。
ルシルは手綱を握りながら、道の先と左右の地面を交互に確かめた。
今のところ道幅は十分にあり、深い轍も見当たらない。だが、少し先には草の丈が高い場所があり、その向こうの地面がどうなっているのかは分からなかった。
「シモン、あの先は少し草が高くなってるね」
「ええ。道そのものは続いているようですが、端の状態は分かりにくくなっています。無理に寄らず、中央を進みましょう」
「分かった。トルク、ベルク、ゆっくり行こう」
ルシルは二頭の歩調を確かめ、必要以上に速度を上げないようにした。
草の丈が高くなるにつれて、車輪の近くから聞こえる音も少し変わった。道端の細い葉が風に揺れ、ときおり馬車の側面へ軽く触れる。
モモは窓から外を眺めながら、興味深そうに目を細めた。
「ここ、さっきまでの草原と雰囲気が違うね。草が高いだけなのに、道が細くなったみたいに感じるよ」
「実際の道幅は、それほど変わっていないようです。ただ、左右が見えにくくなると、狭く感じることはあるでしょう」
「そっか。見えるものが変わると、同じ道でも違って感じるんだね」
モモは納得したように頷き、旅帳面を開こうとしてから、少し考えて手を止めた。
今は野営場所を探すことも大切な時間だ。
彼女は帳面を膝の上へ置き、窓の外へ視線を戻した。
「じゃあ、今日はちゃんと見る方を優先しようかな。描くのは夜でもできるし」
「ありがとうございます、モモ嬢。ただ、気づいたことを簡単に記録していただくのは構いませんよ」
「うん。でも、せっかくだから、まずは自分の目でいっぱい見ておきたいんだ」
その言葉に、ルシルは穏やかに笑った。
旅の初めから、モモは気になるものを見つけるのが得意だった。花や雲、町の人々の何気ない仕草まで、彼女の目にはさまざまなものが映っている。
今はその好奇心が、三人の旅を安全に進めるためにも役立とうとしていた。
しばらく進むと、草の高い場所を抜けた。
道の右側には低い斜面が続き、左側には少し広い草地が見える。その向こうには木が数本立っていたが、どれも道からは離れているようだった。
モモはその木々を見つけると、窓の外を指さした。
「ねえ、あっちの木の下なら休めそうじゃない?」
ルシルは馬車の速度を落とし、モモが示した方向へ目を向けた。
確かに木陰はありそうだったが、そこへ続く地面には草が深く生えている。道から直接入れる場所も、今の位置からでは分からない。
「木陰はよさそうだね。でも、馬車で近づけるかどうかは分からないな」
「ええ。あの辺りは地面の起伏も見えにくいですね。今の段階では候補として覚えておく程度にしましょう」
「そっか。遠くから見るとよさそうでも、近づけるとは限らないんだね」
モモは少し残念そうに言ったが、すぐに頷いた。
「じゃあ、ほかも探そう。まだ午後になったばかりだし、きっとどこかにいい場所があるよ」
ルシルはその前向きな言葉に励まされながら、再び道へ視線を戻した。
草原の中を進む時間は、町から町へ急ぐ旅とは少し違う。
目的地が決まっていないからこそ、どこで休み、どこまで進むのかを自分たちで考える必要がある。その一つ一つの判断が、自由な旅を続けるための大切な仕事なのだろう。
(自由って、何も考えなくていいってことじゃないんだね。自分たちで選べるからこそ、ちゃんと考えたいんだ)
ルシルはそんなことを思いながら、穏やかな速度で馬車を進めた。
やがて、道は緩やかに左へ曲がり始めた。
曲がり角の先には、背の低い丘が一つあり、その斜面を回り込むように道が続いている。丘の上には大きな木が一本立ち、枝を広げた姿が青空にくっきり浮かんでいた。
「あの木、立派だねえ」
モモは窓から見上げ、感心したように声を上げた。
「枝がすごく広がってる。あの下にいたら、きっと涼しいんだろうな」
「そうだね。ただ、丘の上だから風は強そうだよ」
「ええ。見晴らしはよさそうですが、野営場所としては慎重に考える必要がありますね」
シモンはそう答えながら、木の周囲へ視線を向けた。
丘の上は草が短く、地面の状態も比較的見やすい。しかし、そこへ続く道は見当たらず、馬車で近づくには斜面を上る必要がありそうだった。
「今のところ、あそこへ向かう理由はありませんね。道から外れてまで確かめる必要はないでしょう」
「うん。きれいな木だから、ここから眺めるだけでも十分だよ」
ルシルがそう言うと、モモも笑顔で頷いた。
「じゃあ、あの木は絵に描こうかな。丘の上に一本だけ立ってるの、なんだか格好いいもん」
モモは旅帳面を開き、木の形を簡単に描き始めた。
馬車の揺れで線が少し曲がるたびに、小さく笑いながら描き直している。その様子を見たルシルは、自然と頬を緩めた。
しばらくして丘を回り込むと、道の先が再び開けた。
そこには、それまでよりも低い草が広がる平坦な場所があり、遠くには細い木々が点々と続いていた。
道の左側には、古い車輪の跡が薄く残る小さな広がりが見える。
ルシルはその場所に気づき、馬車の速度を落とした。
「シモン、あそこはどうかな。道から少し広がっているし、地面も平らそうに見えるよ」
シモンは前方をよく確かめた。
確かに道の脇には、馬車が一台ほど止まれそうな場所がある。しかし、その周囲には木陰がなく、地面には細かな石が散らばっていた。
「一時的な休憩なら使えるかもしれませんが、今夜の野営場所としては、あまり適していないように思います」
「風を遮るものがないから?」
「それもあります。それに、道から近すぎる場所へ長時間馬車を置くと、ほかの通行者の邪魔になる可能性があります。今のところ人影は見えませんが、この道を使うのは私たちだけではありませんから」
ルシルはその説明を聞き、納得して頷いた。
リーヴェルの市場で荷物を運ぶ人たちのために道を空けたことを思い出す。草原に出てからは人と出会う機会が減ったが、だからといって道を独り占めしてよいわけではない。
「じゃあ、ここも候補から外そう。もう少し進んでみようか」
「ええ。ただし、日が傾くまでには余裕を持って決めたいですね」
「分かった。僕もそのつもりだよ」
三人は再び馬車を進めた。
午後の空には、薄い雲がいくつか浮かんでいた。
風に流される雲の影が草原を横切り、明るい場所と暗い場所がゆっくり入れ替わっていく。遠くの丘の色も少しずつ変わり、昼の強い光が柔らかくなり始めていた。
モモはその景色を眺めながら、ふと口を開いた。
「ねえ、ルシル君。昨日も今日も草原を走ってるけど、わたし、全然飽きないんだよね」
「僕もだよ。同じように見える場所でも、少し進むと違うものが見えてくるからね」
「うん。それに、三人で見てると、自分だけじゃ気づかなかったことも分かるんだ。シモン君が地面のことを教えてくれたり、ルシル君が遠くの道に気づいたりするから」
モモは嬉しそうに笑い、続けた。
「だから、今日も一緒にいい場所を見つけたいなって思うんだ」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
王宮にいた頃は、誰かと一緒に何かを決めることがあっても、その意味は今とは違っていた。
立場や責任が先にあり、自由に選べることは限られていた。けれど今は、どこで休むかという小さなことさえ、三人で話し合って決められる。
「そうだね。僕も、三人で見つけたいよ」
ルシルが穏やかに答えると、シモンも小さく頷いた。
「私も同じ考えです。安全面についてはできるだけ注意しますが、最終的には皆で納得できる場所を選びましょう」
「うん!」
モモの明るい返事が馬車の中に響き、三人は自然と笑顔になった。
それからしばらく進んだ頃、道の先に小さな木立が見えてきた。
今まで見かけた木々とは違い、数本の木が少し離れて並び、その周囲には低い草が広がっている。
木立の手前には道から緩やかに続く平坦な場所があり、遠くからでも馬車が入りやすそうに見えた。
モモが最初に気づき、窓の外を指さした。
「あっ、ルシル君! あそこ、ちょっとよさそうじゃない?」
ルシルも前方へ目を向けた。
確かに、今まで見てきた場所よりも条件がよさそうだった。木陰があり、道から少し離れていて、地面も比較的平らに見える。
「うん。今までの場所よりはよさそうだね。シモン、どう思う?」
「近づいて確認する価値はありそうです。ただし、木の根元や地面の柔らかさには注意しましょう」
「分かった。じゃあ、まずは近くまで行ってみよう」
ルシルは馬たちの歩調を落とし、慎重に木立へ近づいた。
道の脇には草の短い場所があり、そこから木立の手前へ緩やかに入れそうだった。
シモンは馬車を一度安全な位置に止めてもらい、先に降りて地面の状態を確かめた。
ルシルも御者台から降り、シモンの少し後ろを歩く。
足元の草は短く、土の表面には大きな窪みが見当たらない。ただし、木の根元に近づくと地面が少し盛り上がっており、車輪を寄せすぎない方がよさそうだった。
「この辺りなら、比較的平らですね」
シモンは足元を確かめながら言った。
「ただ、木のすぐ下へ馬車を入れるのは避けましょう。根が張っている場所もありますし、枝の状態も確認しておきたいところです」
「うん。少し離れたところなら、車輪も安定しそうだね」
ルシルは地面を見回し、馬車を置く位置を考えた。
道から適度に離れ、木陰にも近い場所がある。風を完全に遮るほどではないが、周囲の草が大きく揺れていないことから、先ほどの丘の上よりは穏やかな環境に見えた。
モモも馬車から降り、二人の近くへやってきた。
「どう? ここ、よさそう?」
「今のところは悪くありません。ただ、もう少し周囲を確認しましょう」
シモンはそう答え、木立の反対側へ視線を向けた。
そこには低い草地が続き、少し離れた場所に緩やかな窪地が見えた。窪地の底は周囲より草の色が濃く、湿り気がある可能性が考えられる。
「向こう側は避けた方がよさそうですね。雨が降ったときに水が集まる地形かもしれません」
「じゃあ、馬車はこっちの高い方に置こうか」
「ええ。こちらなら、少なくとも今確認できる範囲では問題なさそうです」
モモは二人の話を聞きながら、木立の周囲を見回した。
木々の間には細い枝が落ちているが、大きな障害物は見当たらない。風が吹くと葉が擦れ合い、柔らかな音が聞こえてくる。
「ねえ、ここ、夜になったらどんな音がするんだろう。昨日の場所とは木の数が違うから、風の音も変わりそうだね」
「そうだね。葉が多いから、昨日より少し賑やかかもしれない」
「楽しみだなあ。あ、もちろん、ちゃんと安全な場所か確かめてからだけどね」
モモはそう付け加え、シモンへ笑いかけた。
シモンは小さく頷き、周囲をもう一度見渡した。
「今のところ、大きな問題は見当たりません。日が傾くまでにはまだ余裕がありますし、ここを今夜の野営場所にしてもよいと思います」
「本当? じゃあ、ここに決めようか」
ルシルはモモの顔を見てから、シモンへ視線を戻した。
モモは嬉しそうに頷き、シモンも落ち着いた表情で同意する。
「うん! わたし、ここ好きだよ。木がいっぱいあるし、草もきれいだし、道からも少し離れてるから落ち着けそう」
「私も賛成です。ただし、馬車の位置と馬たちの休ませ方は、きちんと整えましょう」
「もちろん。じゃあ、今夜はここで休もう」
三人の意見が揃い、ルシルは穏やかに笑った。
野営場所を決めたあと、まずは馬車を適切な位置へ移動させた。
ルシルが御者台へ戻り、シモンの合図を確認しながらゆっくりと馬車を動かす。
トルクとベルクは落ち着いた足取りで進み、平坦な場所へ入ると、ルシルの声に合わせて静かに止まった。
シモンは車輪の位置を確認し、必要な固定を行った。
ルシルも馬車を降り、左右の傾きや周囲の障害物を確かめる。木の根元からは十分に距離を取り、道を通る人の邪魔にもならない位置だった。
「これなら大丈夫そうだね」
「ええ。車輪も安定していますし、今のところ問題はありません」
シモンはそう答え、続けて馬たちの世話に取りかかった。
トルクとベルクの馬具を適切に整え、足元や体の状態を確認する。二頭は大きく疲れた様子もなく、ルシルが首筋を撫でると、落ち着いた反応を返した。
「今日もありがとう、トルク。ベルクもお疲れさま」
ルシルが声をかけると、トルクは鼻先を寄せてきた。
その様子を見たモモが、楽しそうに笑う。
「トルク君、今日もいっぱい頑張ったもんね。ちゃんと休んで、明日も元気に歩こうね」
「モモ嬢、餌を与える前に水の量を確認しますので、少々お待ちください」
「分かってるよ。今日は勝手に何かあげたりしないからね」
モモはそう答え、ベルクの首元をそっと撫でた。
シモンは水の残量を確認し、馬たちへ必要な分を与えた。
リーヴェルを出る前に十分な量を準備していたとはいえ、次の確実な水場はまだ分からない。だからこそ、無駄遣いせず、必要な分をきちんと使うことが大切だった。
「シモン、明日の朝までの分は大丈夫そう?」
ルシルが尋ねると、シモンは水の残量を確かめながら答えた。
「今夜と明朝に必要な分は確保できています。ただ、この先も同じように野営を続けるなら、早めに補給できる場所を探した方がよいでしょう」
「そっか。じゃあ、明日は水のことも考えながら進もう」
「ええ。道沿いに水場があるとは限りませんし、見つけても飲用に適しているかどうかは別の問題ですから」
ルシルはその説明を聞き、頷いた。
以前の旅でも、水が見える場所ならどこでも使えるわけではないと学んでいる。人が飲む水と馬たちに与える水をどう確保するかは、これからも大切な課題だった。
モモは少し考えてから、二人へ尋ねた。
「もし水が見つからなかったら、どうするの?」
「まずは残量を見て、無理のない行動を選ぶことになります。必要なら進路や休憩の取り方を考え直すこともあるでしょう」
「そっか。魔法で何でも済ませればいいってわけじゃないもんね」
モモは納得したように頷いた。
彼女には強い水の魔法がある。
けれど、それを使えば旅の準備や判断がすべて不要になるわけではない。三人で暮らし、馬たちと一緒に進む旅だからこそ、普段の生活の中でできることを大切にしたいと思っていた。
「じゃあ、わたしも水を大事に使うね。手を洗うときとか、必要以上に使わないようにする」
「ありがとうございます、モモ嬢。必要な衛生管理まで控える必要はありませんが、無駄を避ける意識は大切です」
「うん。ちゃんと必要なところには使うよ」
モモは真剣に頷き、それから少しだけ笑った。
「でも、乾燥豆を食べるときの水は、ちゃんと残しておきたいなあ」
その言葉に、ルシルは思わず笑ってしまった。
「モモは本当に、あのお豆を楽しみにしてるんだね」
「だって、せっかく市場で買ったんだもん。いつか三人で食べたいじゃない?」
「それは僕も楽しみだよ。でも、調理できる場所と水が揃ってからにしようね」
「うん!」
モモは嬉しそうに頷き、馬車の方へ目を向けた。
夕方まではまだ少し時間がある。
三人は馬たちの世話を終えると、野営の準備を進めることにした。
折り畳みの卓を出し、必要な道具を整理し、今夜使うものと使わないものを分けていく。
ルシルはシモンと一緒に馬車の周囲を確認し、モモは卓の上へ食事に必要なものを並べた。
木立の間を抜ける風は穏やかで、草原の向こうから鳥の声が聞こえてくる。
モモは作業の途中で空を見上げ、少しだけ目を細めた。
「ねえ、ルシル君。ここ、夕焼けがきれいに見えそうじゃない?」
ルシルも顔を上げ、木々の間から見える空へ目を向けた。
太陽はまだ高い位置にあるが、光は少しずつ柔らかくなり始めている。木の枝の向こうには広い空が続き、雲がゆっくり流れていた。
「そうだね。木の間から見える夕焼けも、きっときれいだと思う」
「楽しみだなあ。昨日は広い草原の夕方だったけど、今日は木があるから、また違う景色になるよね」
「ええ。ただし、日が沈む前に夕食と必要な準備を済ませておきましょう」
シモンの言葉に、モモは元気よく頷いた。
「もちろん! ちゃんと準備してから、ゆっくり見るんだよね」
三人は作業を続けた。
夕食には、手持ちの食材から簡単に用意できるものを選ぶことにした。
乾燥豆は今回も使わず、調理に多くの水や時間を必要としない食事を中心に考える。
モモは少し名残惜しそうに紙袋を見つめたが、すぐに気持ちを切り替えた。
「今日は今日で、おいしく食べられるものがあるもんね。お豆はまた別の日のお楽しみにしよう」
「そうだね。旅の途中に楽しみが残っているのも、悪くないと思うよ」
ルシルがそう答えると、モモは嬉しそうに笑った。
「うん! それに、いつ食べるか分からないっていうのも、ちょっとわくわくするし」
シモンは二人の会話を聞きながら、必要な道具を整えていた。
彼にとって、食料の管理は旅を安全に続けるための大切な仕事だ。
けれど最近は、食べ物をいつ使うかという相談そのものが、三人の楽しみになっていることにも気づいていた。
(以前なら、保存食は必要なときに使うものとしか考えていなかったでしょうね。ですが、こうして楽しみに待つことも、旅の暮らしの一部なのかもしれません)
シモンはそんなことを思いながら、卓の上へ必要なものを並べた。
夕食の準備を進めているうちに、空の色が少しずつ変わり始めた。
太陽が傾くにつれて、木々の影が長く伸び、草原の上には柔らかな金色の光が広がっていく。
ルシルは一度手を止め、木立の向こうを眺めた。
遠くの丘は昼間よりも濃い色に見え、その輪郭が夕方の空に静かに浮かんでいる。
「きれいだね……」
思わず呟くと、隣にいたモモも顔を上げた。
「ほんとだ。さっきまで明るかったのに、もうこんな色になってる」
モモはしばらく空を眺め、それから旅帳面を取りに馬車へ向かった。
ルシルはその後ろ姿を見送り、シモンへ目を向けた。
「シモン、準備はもう少しかかりそう?」
「いえ、必要なことはほぼ終わっています。あとは夕食を済ませて、暗くなる前に最終確認をするだけですね」
「じゃあ、少しだけ景色を見てもいいかな」
「もちろんです。まだ明るさはありますし、ここからなら馬車の様子も確認できます」
シモンはそう答え、ルシルと一緒に木立の外側へ視線を向けた。
モモも旅帳面を抱えて戻ってきたが、すぐに描き始めることはしなかった。
まずは三人で、夕方の草原を眺める。
風が吹くたびに草が揺れ、木の葉が柔らかな音を立てる。
遠くの丘には雲の影が落ち、空の色は青から淡い橙へと少しずつ変わっていった。
「今日も、いろんな景色を見たね」
モモが静かに言った。
「朝は昨日の野営場所から始まって、丘の間を通って、お昼は木陰で休んで、それから今度はここに来たんだよね」
「そうだね。こうして振り返ると、今日もたくさんのことがあった気がするよ」
「大きな出来事はありませんでしたが、移動も野営場所の選定も、順調に進められました。馬たちにも無理をさせずに済みましたし、よい一日だったと思います」
シモンの言葉に、ルシルは頷いた。
大きな事件が起きたわけではない。
誰かを助けたわけでも、珍しいものを手に入れたわけでもない。
それでも、三人で道を選び、景色を眺め、今夜の居場所を見つけたことには、確かな満足感があった。
「僕も、いい一日だったと思うよ」
ルシルはそう言いながら、木々の間から見える空へ目を向けた。
「こういう日が続くのも、悪くないね。急いでどこかへ行くんじゃなくて、今日見つけたものを大切にしながら進むのって、すごく楽しい」
モモはその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。
「うん! わたしもそう思う。明日もまた違う景色が見られるかもしれないし、どんな場所に着くのか楽しみだよ」
「ええ。明日は水の補給についても考える必要がありますが、無理のない範囲で進んでいきましょう」
シモンはそう答え、穏やかな表情で二人を見た。
三人の間に、しばらく静かな時間が流れた。
草原を渡る風が、木々の葉を揺らしている。
遠くで鳥が鳴き、トルクとベルクが落ち着いた様子で鼻を鳴らす声が聞こえた。
モモは旅帳面を開き、夕焼けの空と木々の輪郭をゆっくり描き始めた。
ルシルはその隣に腰を下ろし、しばらく空を眺めていた。
シモンも少し離れた場所へ立ち、馬車と周囲の様子を確かめながら、夕方の景色を楽しんでいる。
やがて、モモが筆を止めて顔を上げた。
「ねえ、ルシル君。今日のこと、旅帳面に何て書こうかな」
「そうだね……。今夜の場所を三人で見つけたことかな」
「三人で見つけた場所、かあ」
モモはその言葉を繰り返し、少し考えてから笑った。
「じゃあ、こうしようかな」
彼女は帳面の余白へ、ゆっくりと文字を書き込んだ。
『午後の草原で、三人の今夜の居場所を見つけた』
書き終えると、モモは嬉しそうに二人へ見せた。
「どう? 今日のこと、ちゃんと思い出せそうかな」
「うん。すごくいいと思うよ」
ルシルは穏やかに答えた。
「この場所を見つけたときのことも、三人で相談したことも、きっと思い出せると思う」
「私もよい記録だと思います。今日の野営場所は、皆で確認して決めた場所ですからね」
シモンの言葉に、モモは満足そうに頷いた。
夕方の光はさらに柔らかくなり、木々の影が草原の上へ長く伸びていた。
三人はそのあと夕食を済ませ、暗くなる前に馬車の周囲と馬たちの状態をもう一度確認した。
トルクとベルクは落ち着いており、野営場所にも大きな問題は見られなかった。
必要な道具を片づけ、夜の間に使うものを手の届く場所へ置く。
モモは旅帳面を棚へしまい、ルシルは窓の外へ目を向けた。
草原には夜の静けさが少しずつ広がり始めていた。
木々の間から見える空には、まだ夕方の色がわずかに残っている。
ルシルはその景色を眺めながら、今日一日を思い返した。
(今日は、ちゃんと自分たちで今夜の場所を見つけられたんだね)
それは小さなことかもしれない。
けれど、誰かに決めてもらうのではなく、三人で考えて選んだ場所で夜を迎えられることが、ルシルにはとても嬉しかった。
「ルシル君、明日もいい日になるといいね」
モモが隣から声をかけた。
ルシルは振り向き、穏やかに笑った。
「うん。きっと、いい日になるよ」
「明日のことは、明日になってから確かめましょう。今夜はまず、しっかり休むことが大切です」
シモンの言葉に、二人は笑いながら頷いた。
三人はそれぞれの寝台へ向かい、静かな夜を迎える準備を整えた。
馬車の外では、草原の風が木々の葉を揺らしている。
遠くの丘も、昼間に見た道も、今は夜の色に包まれ始めていた。
明日になれば、また新しい景色が待っている。
けれど今夜は、三人で見つけた小さな居場所で、ゆっくりと休めばいい。
ルシルは窓の向こうに広がる夜の草原を最後にもう一度眺め、穏やかな気持ちで目を閉じた。




