第108話 草原の朝、三人で確かめる次の道
草原の朝は、鳥の声よりも先に、風が草を揺らす音で始まった。
馬車の窓から差し込む光はまだ淡く、薄い雲を透かした空の色が、ゆっくりと夜明けの青から明るい水色へ変わり始めている。昨夜、三人が野営場所に選んだ木陰の周囲では、背の低い草が風に合わせて波のように傾き、枝先に残っていた小さな露が朝日を受けて光っていた。
ルシルは寝台の上で目を開けると、しばらく窓の外を眺めていた。町の宿で迎える朝とは違い、ここには廊下を歩く人の足音も、厨房から聞こえる食器の音もない。代わりに、馬が鼻を鳴らす低い声と、遠くで鳴く鳥の声が、静かな空気の中にゆっくりと広がっていた。
(昨日はずいぶん遠くまで来た気がするけれど、こうして朝になると、まだ旅の途中なんだって実感するな)
リーヴェルを出てから目にする景色は、少しずつ変わり続けている。町を囲んでいた畑も、道沿いの家々も、今は遠くに見えず、窓の向こうには草地と緩やかな丘が広がっているだけだった。
ルシルが静かに上体を起こすと、向かい側の寝台ではモモが毛布を抱き込んだまま眠っていた。桃金色の髪が枕の上に広がり、頬の近くには、寝る前にきちんとまとめたはずの髪が一房だけかかっている。
その隣では、シモンがすでに起きていた。膝の上に小さな手帳を置き、窓から入る光を頼りに何かを確認しているらしく、ルシルが動いた気配に気づくと、顔を上げて穏やかに会釈した。
「おはようございます、ルシル様。昨夜はよくお休みになれましたか」
「おはよう、シモン。うん、思ったよりぐっすり眠れたよ。風の音がずっと聞こえていたけど、不思議と気にならなかった」
「夜半には少し弱まりましたからね。雨も降りませんでしたし、馬たちも落ち着いていました。野営場所としては悪くなかったと思います」
シモンはそう答えながら、手帳を閉じて棚へ戻した。几帳面な動作はいつもどおりだったが、朝一番から急いで何かを片づけようとする様子はなく、窓の外へ目を向ける表情にも少し余裕がある。
ルシルはその変化をうれしく思いながら、寝台から足を下ろした。かつてのシモンなら、夜明けと同時に出発準備を終えようとしていたかもしれない。けれど今は、三人が目を覚まし、馬たちの様子を確かめ、それから今日の予定を相談するという時間の使い方が、自然なものになりつつあった。
「今日は、どこまで行けそうかな」
「道の状態次第ですね。昨日見た範囲では大きな分岐はありませんでしたが、この先も同じとは限りません。まずは周囲の様子を確かめて、それから考えましょう」
「そうだね。急いで行かなきゃいけない場所があるわけじゃないし」
ルシルが頷いたところで、毛布の中から小さな声が聞こえた。
「……おいしいものがある場所なら、ちょっと急いでもいいかも……」
二人が振り向くと、モモは目を閉じたまま、枕に頬を押しつけていた。どうやら会話の途中から聞こえていたらしく、本人はまだ夢の中にいるつもりなのか、毛布を抱えたまま動こうとしない。
「モモ、起きてるの?」
「起きてるような、起きてないような……。でも、おいしいものの話なら聞けるよ、ルシル君」
「残念だけど、まだ食べ物の話はしていないよ」
「じゃあ、これからする?」
その返事にルシルが笑うと、シモンも眼鏡の位置を直しながら小さく息を漏らした。モモはようやく片目を開け、二人の顔を順番に眺めてから、何かを思い出したように窓へ視線を向けた。
「あ、そうだった。今日は草原の朝なんだね。昨日は木の下で休んだから、朝になったらどんな景色が見えるのか楽しみにしてたんだ」
「それなら、外へ出てみようか。まだ少し肌寒いと思うけど、空がきれいだよ」
「行く! でも、その前に髪を直してくるね。昨日の夜はちゃんとまとめたはずなのに、どうして毎朝こうなるんだろう」
モモが髪を指で持ち上げて首を傾げると、シモンは何か言いかけて口を閉じた。ルシルはその様子を見て、あえて尋ねる。
「シモン、何か思いついた?」
「いえ。寝相と髪の乱れには一定の関係があるのではないかと考えましたが、朝から検証する必要はないでしょう」
「シモン君、それ、絶対にわたしの寝相が悪いって言おうとしたよね?」
「そこまでは申し上げておりません」
「じゃあ、今の間は何だったの?」
「慎重に言葉を選んでいた時間です」
モモが少しだけ頬を膨らませたあと、三人の間に笑い声が広がった。馬車の外では風が枝を揺らしており、葉の擦れ合う音が、朝の静けさにやわらかな響きを添えていた。
身支度を終えた三人は、馬車の扉を開けて外へ出た。
夜の間に冷えた空気はまだ草の根元に残っていたが、陽の当たる場所では少しずつ温もりが戻り始めている。木陰から離れて丘の方を眺めると、昨日は夕方の光に包まれていた草原が、朝にはまったく違う表情を見せていた。
低い丘の斜面には細い影が伸び、その向こうの草地では白い小花がところどころに集まって咲いている。風が吹くたび、花の周囲の草だけが先に揺れ、少し遅れて丘全体に緑色の波が広がっていった。
「わあ……。昨日と同じ場所なのに、全然違って見えるね」
モモは両手を胸の前で合わせ、目を輝かせながら周囲を見回した。すぐに旅帳面を取りに戻ろうとしたが、足元の露に気づいて立ち止まり、草を踏み荒らさない場所を選びながら木の根元へ歩いていく。
「ルシル君、あの丘、昨日より近く見えない? 夕方は影が濃かったから、もっと遠いと思ってたんだけど」
「確かにそう見えるね。光の当たり方で、距離の感じ方まで変わるのかな」
「ある程度は変わります。特に、目印の少ない草地では距離を見誤りやすいので、見た目だけで進む時間を判断しない方がよいでしょう」
シモンはそう説明しながら、二頭の馬の方へ向かった。トルクは人の気配に気づくと耳を動かし、ベルクは落ち着いた様子で顔を上げている。
昨夜から今朝にかけて、二頭は無理のない範囲で休めていた。シモンは足元の状態を確認してから、背や脚に異常がないかを一頭ずつ確かめ、ルシルも反対側へ回って毛並みや呼吸の様子を見た。
「トルク、おはよう。よく眠れた?」
ルシルが声をかけると、トルクは鼻先を寄せてきた。何か食べ物を期待しているような動きに、ルシルは思わず笑い、首筋をゆっくり撫でる。
「朝ご飯はもう少し待ってね。まずは体の具合を見せてもらわないと」
「トルクは相変わらず食欲旺盛ですね。食べたがること自体は悪くありませんが、与える量と順番は守りましょう」
「分かってるよ。シモンが確認してからにする」
その横で、モモはベルクの首元をそっと撫でていた。ベルクは静かに目を細め、モモの手が動く方向へ少しだけ首を傾ける。
「ベルク君は朝から落ち着いてるね。わたしだったら、こんなに広い場所にいたら走り回りたくなっちゃうかも」
「モモ嬢の場合、走り回る前に朝食を探されるのではありませんか」
「シモン君、今日はわたしの食いしん坊なところばっかり見てない?」
「昨日から継続して観察できる特徴ですので」
「観察って言った!」
モモは笑いながら抗議したが、ベルクを撫でる手は止めなかった。ルシルは二人のやり取りを聞きつつ、トルクの脚に傷や腫れがないことを確認し、シモンへ知らせた。
馬たちの状態に問題がないと分かると、三人は朝の世話を進めた。用意していた水を適切に分け、餌の量を確認し、馬車の周囲に忘れ物がないかを確かめていく。
草地には昨夜の風で運ばれてきた細い枯れ草が少し集まっていたが、車輪の近くに障害となるものはなかった。ルシルは馬車の下を覗き込み、目立つ異物が挟まっていないことを確かめてから立ち上がった。
「昨日は暗くなる前にここへ来られてよかったね。朝になって見ると、道からもそんなに離れていないし、地面も思ったより平らだった」
「ええ。ただ、昨夜は安全を優先して選んだ場所ですから、今朝も問題がないことを確認できて安心しました。草地は見た目が平らでも、柔らかい部分が隠れていることがありますので」
シモンは木の根元から少し離れた場所へ目を向けた。そこには草の色が濃く見える一角があり、足を踏み入れると地面が湿っている可能性があった。
ルシルも視線を向け、昨日その場所へ車輪を進めなかった理由を思い出した。遠くから眺めるだけでは分からない違いを、実際に歩いて確かめることの大切さを、旅に出てから何度も教えられている。
「シモンが地面を見てくれて助かったよ。僕だけだったら、木の下ならどこでも同じだと思っていたかもしれない」
「ルシル様も、昨日は馬車を動かす前に周囲をよく見ておられました。私だけで判断したわけではありません」
「そう言ってもらえるとうれしいな。前よりは、少しずつ分かることが増えてきた気がする」
シモンはその言葉を聞いて、静かに頷いた。
王宮にいた頃のルシルは、何かを知らないと認めることを恥じる人ではなかった。それでも、身の回りのことを自分で確かめる機会は限られていたし、危険を避ける判断を誰かに任せざるを得ない場面も多かった。
今は違う。分からないことがあれば尋ね、必要なら自分で試し、うまくいかなければ次に生かす。そうした積み重ねが、ルシルの表情を少しずつ変えていることに、シモンは気づいていた。
(以前なら、こうした時間を効率の悪いものと考えていたでしょうね。けれど、急いで出発することだけが、旅を無事に続ける方法ではないのです)
シモンは手帳をしまった棚の方へ目を向け、それから木陰で草原を眺めているモモを見た。彼女は白い花の位置を確かめながら、旅帳面の新しい頁を開いている。
その姿を見ていると、今日も予定どおりに進むことばかりを考える必要はないように思えた。
朝食は、馬車のそばに折り畳みの卓を出して取ることにした。
昨夜の片づけを終えていたため、準備はそれほどかからなかった。持っているパンと保存の利く食べ物を並べ、飲み水の残りを確かめながら、三人は木陰に腰を下ろした。
モモはパンを手に取る前に、卓の端へ置かれた小さな紙袋へ目を向けた。リーヴェルの市場で買った乾燥豆が入っている袋で、まだ開封していない。
「そういえば、このお豆、いつ食べようか。市場で買ったときから楽しみにしてるんだけど、まだ出番がないね」
「乾燥したままでは食べられませんから、十分に水へ浸してから火を通す必要があります。今朝のように出発を控えているときより、落ち着いて調理できる場所を確保してからの方がよいでしょう」
「そっか。じゃあ、今日もお楽しみのままだね」
「保存できることが利点の食材ですから、急いで使う必要はありません。むしろ、水の残量を考えずに調理する方が問題になります」
シモンの説明を聞いたモモは、袋をそっと元の場所へ戻した。少し名残惜しそうな顔をしていたが、すぐにパンを見つめて表情を明るくする。
「じゃあ、今朝はこっちをおいしく食べよう。草原で食べると、普通のパンでもちょっと特別な感じがするんだよね」
「モモは、どこで食べてもおいしそうにしていると思うけど」
「それとこれとは別なの、ルシル君。町の宿で食べるパンと、草原で風に吹かれながら食べるパンは、同じ味でも気分が違うんだから」
ルシルはその言葉に頷き、パンを一口かじった。確かに、朝の風が頬を撫で、草の匂いが漂う中で食べると、いつもの食事にも少し違った楽しさがある。
シモンは二人の様子を眺めながら、水筒を卓の中央へ置いた。昨夜の野営で使った分を含め、残量にはまだ余裕があるものの、次に確実な水場が見つかるまでは無駄遣いできない。
「今日の移動について、一つ相談があります」
シモンがそう切り出すと、ルシルはパンを置いて顔を上げた。モモも口の中のものを飲み込み、話を聞く姿勢になる。
「昨日までの道は比較的分かりやすいものでしたが、この先は丘が増えています。道が曲がって見通しの悪くなる場所もありそうですので、午前中のうちに一度、進行方向を確認したいと思います」
「道を外れないようにするため?」
「それもありますが、次に休める場所を見つけるためでもあります。草原が続くからといって、どこでも安全に馬車を止められるわけではありません。日差しや風を避けられる場所があるか、地面の状態はどうか、馬たちを休ませられるかを確かめる必要があります」
ルシルは昨日の野営場所を思い浮かべながら、シモンの説明を聞いていた。広い草地を見ていると、どこまでも自由に進めそうな気がする。けれど実際には、馬車が通れる道を選び、馬の疲れを考え、夜を迎える場所を探さなければならない。
「分かった。じゃあ、まずは道に戻って、見通しのいいところで確かめよう。今日はどこかの町へ着くことを目標にしなくてもいいんだよね」
「はい。次の町までの距離は、まだ正確には分かりません。無理に進むより、途中で確実に休める場所を見つける方がよいと思います」
「それなら、わたしも賛成!」
モモはパンを持った手を少し上げ、楽しそうに続けた。
「草原をゆっくり進めるなら、昨日見つけられなかったものも見られるかもしれないし。あ、もちろん、道を探すのを邪魔しないようにするよ」
「モモ嬢が周囲の変化に気づいてくださるのは助かります。ただし、花を見つけるたびに馬車を止めることはできませんので、その点はご理解ください」
「全部の花で止まったりしないよ。すっごく珍しい花だったら、ちょっと相談するかもしれないけど」
「その『すっごく珍しい』という判断基準が、少々心配ですね」
モモが笑いながら首を傾げると、ルシルもつられて笑った。シモンは困ったような顔をしていたが、口元にはかすかな笑みが残っている。
朝食を終えたあと、三人は野営場所の片づけに取りかかった。
折り畳みの卓を戻し、食器を整理し、昨夜使った道具がすべて所定の場所へ収まっているかを確かめる。ルシルは車輪の近くに落ちていた細い紐を拾い、持ち込んだものではないと分かっても、そのまま残さず片づけた。
モモは木の根元に置いていた旅帳面を閉じ、描きかけの草原の絵が折れないように棚へしまった。最後に三人で周囲を見回し、野営した痕跡が必要以上に残っていないことを確認する。
「こうして片づけると、昨日ここで過ごしたのが少し不思議だね」
モモは木の枝を見上げながら、静かに言った。
「夕方に来たときは、ここが今日のお家みたいに感じたのに、もう出発するんだなあって」
「そうだね。でも、また別の場所で朝を迎えることもあるだろうし、そのたびに違う景色が見られるんじゃないかな」
「うん。だから旅って楽しいんだろうね。同じところにずっといないのは少し寂しいけど、その分、次の場所が楽しみになるから」
ルシルはモモの横へ並び、朝日に照らされた枝先を見上げた。風に揺れる葉の間から光がこぼれ、足元の草へ細かな模様を作っている。
(王宮にいた頃は、明日も同じ場所で朝を迎えるのが当たり前だった。でも今は、次にどんな朝が来るのか分からないことまで楽しみに思えるんだ)
その気持ちを言葉にしようとして、ルシルは少しだけ考えた。自分が王子だった頃のことを、ここで詳しく話す必要はない。ただ、今の旅が好きだということなら、素直に伝えられる。
「僕は、こういう朝が好きだよ。起きて、みんなで話して、馬たちの様子を見て、それから今日のことを決める。何か特別な出来事がなくても、それだけで十分楽しいんだ」
モモは少し驚いたように目を瞬かせ、それから大きく頷いた。
「わたしも! それに、ルシル君がそういうことを言ってくれると、なんだかうれしいな。旅を始めた頃より、ずっと楽しそうに見えるから」
「そうかな」
「うん。前から優しかったけど、最近は何かを見つけるときの顔が違うんだよ。新しいおもちゃを見つけた子どもみたいに、目がきらきらしてる」
「それは、ちょっと恥ずかしいな」
ルシルが苦笑すると、少し離れた場所で馬具を確かめていたシモンが顔を上げた。
「モモ嬢の表現は少々率直ですが、私も同じように感じます。ルシル様が、ご自身で見たいものを選んでおられるのはよいことだと思います」
「シモンまでそう言うなら、本当なのかもしれないね」
「少なくとも、以前より周囲の景色について尋ねられることは増えました。私も答えられないことがありますので、その際は一緒に確かめていければと思っています」
ルシルはその言葉を聞き、穏やかに笑った。何でも知っているように見えるシモンが、自分にも分からないことがあると自然に話してくれるのが、うれしかった。
三人は馬車へ乗り込み、ゆっくりと野営場所を後にした。
トルクとベルクは落ち着いた足取りで道へ戻り、車輪が土の上を転がる音が草原に響く。ルシルは手綱を握り、急な揺れを避けるように速度を調整しながら、緩やかに曲がる道を進んだ。
朝の草原には、昨日の午後とは違う活気があった。草の間から小さな鳥が飛び立ち、少し先の斜面では、風に押されるように細い茎が一斉に傾いている。
モモは窓際へ座り、外の景色を眺めながら、気づいたことを時々ルシルとシモンへ伝えた。白い花が集まって咲いている場所や、草の丈が急に変わる場所、丘の上だけ風が強そうに見えることなど、彼女の視線は忙しく動いている。
「ねえ、あの斜面だけ草の色が少し黄色いよ。日当たりが違うのかな」
「可能性はありますが、土の状態や草の種類が違うのかもしれません。近くで見ないと判断は難しいですね」
「そっか。遠くから見ると同じ草原でも、よく見るといろいろ違うんだね」
「リーヴェルの畑でも、葉の形だけでは作物を決められないと教わったでしょう。草地でも同じように、見た目だけで分からないことは多いと思います」
シモンの言葉に、モモは市場で出会った野菜売りの女性を思い出したようだった。似た葉でも違う作物があると教わったとき、彼女は何度も見比べながら驚いていた。
「そうだったね。じゃあ、この黄色っぽい草も、勝手に名前を決めない方がいいね」
「名前を考えること自体は楽しいと思うよ。ただ、本当の名前だと思い込まなければいいんじゃないかな」
「それなら、わたしの絵には『朝の黄色い斜面』って書こうかな。これなら間違いじゃないよね」
「ええ。見たままの特徴を記録するのであれば、問題ないでしょう」
モモは満足そうに頷き、旅帳面を膝の上へ開いた。馬車が揺れるため細かな線は描けなかったが、丘の形と草の色の違いを簡単に記し、あとで落ち着いて描き直せるようにしておく。
しばらく進むと、道は低い丘の間へ入っていった。
左右の斜面が少しずつ近づき、広かった空が細長く見えるようになる。道幅そのものは馬車が通るのに十分だったが、土の表面には古い車輪の跡が残り、ところどころに小石が顔を出していた。
ルシルは速度を落とし、馬たちの足運びを確かめながら進んだ。シモンは前方の地面へ視線を向け、深い轍や大きな石がないかを注意している。
「ここは少し揺れそうだね」
「そうですね。右側に浅い窪みがありますので、少し左寄りを通りましょう。ただし、端へ寄りすぎないようにしてください」
「分かった。トルク、ベルク、ゆっくり行こう」
ルシルが声をかけると、二頭は落ち着いたまま歩調を保った。車輪が小石を越えるときに軽い揺れが伝わったものの、大きく傾くことはなく、馬車は慎重に丘の間を進んでいく。
モモは旅帳面を閉じ、窓枠へ手を添えて外を見ていた。先ほどまで明るく広がっていた草原が、丘に囲まれるだけで少し静かに感じられることが不思議だった。
「同じ道なのに、ここだけ別の場所みたいだね。さっきまでは空がすごく広かったのに」
「丘が近いからだろうね。音も少し違って聞こえる気がする」
ルシルがそう答えると、モモは耳を澄ませた。風の音は先ほどより弱く感じられ、その代わりに馬の蹄が地面を踏む音や、車輪が小石を越える音がはっきり聞こえてくる。
「ほんとだ。トルク君とベルク君の足音がよく聞こえる」
「風が遮られているのでしょう。こういう場所は一時的に休みやすいこともありますが、雨が降ったときに水が集まる地形かどうかは、別に確認する必要があります」
「なるほど。風が弱いからって、必ずしも野営に向いているわけじゃないんだね」
ルシルはその説明を聞きながら、前方へ目を向けた。道は少し先で再び開けており、そこから明るい光が差し込んでいる。
丘の間を抜けると、三人の前には新しい景色が広がっていた。
これまでよりもなだらかな草地が続き、遠くにはいくつかの低い丘が重なっている。道はその間を緩やかに曲がりながら伸び、ところどころに小さな木が立っていた。
モモは思わず窓へ身を寄せたが、すぐに姿勢を戻した。走行中に大きく体を動かさない方がよいことは、これまでの旅で十分に学んでいる。
「わあ、また広くなった! あの遠くの木、一本だけ形が違って見えるね」
「枝が横へ広がっているからかな。近くまで行けば、もっとはっきり分かりそうだ」
「ただ、あの木が道の近くにあるかどうかは、ここからでは判断できません。目印にはなりそうですが、寄り道の目的にはしない方がよいでしょう」
「分かってるよ、シモン君。今日はちゃんと道を進む日だもんね」
モモはそう答えながら、木の形を旅帳面の端へ小さく描いた。遠くのものを無理に詳しく描こうとはせず、今見えている形だけを残していく。
ルシルはその様子を横目で見て、自然と笑みを浮かべた。旅を始めた頃のモモなら、気になるものを見つけるたびにすぐ近くへ行きたがっていたかもしれない。
今も好奇心が強いことは変わらないが、三人で進む旅には、立ち止まることと進むことの両方が必要だと理解している。楽しみを我慢しているというより、後で思い返せるように工夫しているのだろう。
やがて、道の左側に少し広い場所が見えてきた。
草が短く、地面も比較的平らに見える一角で、道から無理なく入れそうだった。すぐ近くには低い木が二本あり、その間から草原の向こうまで見渡せる。
シモンは周囲を確かめ、ルシルへ声をかけた。
「ルシル様、あの場所で一度休みましょう。午前中の移動としてはちょうどよい頃合いですし、馬たちの様子も確認しておきたいと思います」
「うん。僕もちょうどそう考えていたところだよ」
ルシルは道の状態を見ながら馬車を寄せ、二頭に負担がかからないようにゆっくり停止させた。完全に止まったことを確認してから手綱を整え、シモンと一緒に馬車を降りる。
モモも後から降りてきたが、すぐに遠くへ歩いていくことはせず、まず二頭の馬の様子を眺めた。
「トルク君もベルク君も、元気そうだね。さっきの石が多い道、大丈夫だったかな」
「歩き方に大きな変化はありませんでしたが、念のため確認しましょう。足元に小石が挟まっていないかも見ておきたいところです」
シモンは馬たちを落ち着かせながら確認を進め、ルシルも教わったとおりに手伝った。モモは少し離れた場所で待ち、二人が作業しやすいように荷物を整えている。
確認を終えると、シモンは小さく頷いた。
「問題ありません。二頭とも落ち着いていますし、歩き方にも不自然なところはありませんでした」
「よかった。ここまで来ると、僕たちだけじゃなくて、トルクとベルクにもちゃんと休んでもらわないとね」
「そうですね。馬車の旅は、二頭の力を借りているからこそ続けられています。無理をさせないことが、結局は私たちの安全にもつながります」
ルシルはトルクの首筋を撫で、ベルクにも声をかけた。二頭は穏やかな様子で立っており、草原を渡る風が毛並みをゆっくり揺らしている。
休憩の間、三人は道から少し離れた場所に腰を下ろした。
ここからは、先ほど通ってきた丘の間の道と、これから進む緩やかな曲がり道の両方が見える。シモンは周囲を見渡し、道の先に大きな障害がないかを確かめながら、持っていた簡単な記録を見直した。
「今のところ、道は一方向へ続いています。ただ、先の丘を越えたところまでは見えません。午後も同じように、見通しのよい場所で進路を確認しながら進むのがよいでしょう」
「うん。無理に急がなくてもいいし、次の休める場所を探しながら行こう」
ルシルはそう答え、道の先を眺めた。遠くまで続く草原には、まだ見知らぬ景色がいくつも隠れているように思える。
モモは二人の話を聞きながら、足元に咲いている小さな花を眺めていた。花びらは白く、中心には淡い黄色が見える。昨日の道端で見た花と似ている気もしたが、同じ種類かどうかは分からない。
「ねえ、ルシル君。こういう花って、町の人たちも見てるのかな」
「どうだろう。近くに暮らしている人なら、きっと見慣れているんじゃないかな」
「そっか。わたしたちには初めての景色でも、誰かにとっては毎日の景色なんだね」
モモは花を摘まず、そのまま眺め続けた。草の間で揺れる小さな花は、風が強くなると少しだけ頭を下げ、弱まるとまた上を向く。
「リーヴェルでも、わたしたちが珍しいって思ったことを、町の人たちは普通にやってたもんね。市場の準備とか、家の前を掃くこととか、畑の柵を直すこととか」
「そうだね。旅をしていると、僕たちはいつも誰かの暮らしのそばを通っているんだと思う」
ルシルは町の裏道で見かけた人々を思い出した。掃除をしていた女性、荷物を運ぶ子どもたち、柵を直していた人々。誰も特別なことをしていたわけではないが、その一つ一つが町の暮らしを支えていた。
今は人影のない草原にいても、この道があるということは、ここを通る人がいるということだろう。昨日まで見かけた荷馬車や旅人たちも、それぞれの目的を持って移動していたはずだ。
「僕たちは自由に旅をしているけど、同じ道を使う人たちのことも忘れないようにしたいね」
「ええ。道を塞がないことや、休んだ場所をきちんと片づけることも、その一つでしょう」
シモンの言葉に、ルシルは頷いた。リーヴェルの市場で荷物を運ぶ人たちのために道を空けたことも、今なら旅の大切な経験として思い出せる。
モモは旅帳面を開き、花の絵の下へ短い言葉を書き加えた。
『わたしたちの知らない毎日が、この道にもある』
書き終えた文字を眺めてから、モモは少し照れたように笑った。
「なんだか難しいことを書いちゃったかな。でも、今日の花を見てたら、そう思ったんだ」
「いい言葉だと思うよ。モモが今日感じたことなんだから、そのまま残しておけばいいんじゃないかな」
「うん。あとで読み返したときに、この花のことも思い出せそうだしね」
モモは満足そうに帳面を閉じ、膝の上へ置いた。シモンはその様子を見ながら、かつてなら旅の記録といえば移動距離や必要物資のことばかり考えていた自分を思い返していた。
もちろん、それらは今も大切だ。けれど、どこで何を見て、誰がどんな言葉を残したのかという記録にも、別の価値があるのだろう。
休憩を終える頃には、陽が少し高くなっていた。
木陰の形が朝より短くなり、草原を渡る風にもわずかな温かさが混じっている。三人は再び馬車の準備を整え、道の状態を確認してから出発した。
午前中の残りは、緩やかな上り坂が続いた。
坂といっても急なものではなく、馬たちは落ち着いた歩調を保って進んでいる。ルシルは無理に速度を上げず、シモンと相談しながら道の中央を慎重に進んだ。
モモは窓から遠くの丘を眺め、ときどき旅帳面へ短い記録を残している。風の向きや雲の形が変わるたびに新しい発見があるらしく、彼女の表情は退屈とは無縁だった。
「ルシル君、あの雲、ちょっとパンに似てない?」
「どれ? ああ、あの丸い雲かな。確かに焼きたての丸パンみたいに見えるね」
「でしょ! しかも、その隣の細長い雲は、何かを塗ったパンみたいな形なんだよ」
ルシルは空を見上げ、モモの言う雲を探した。少し風に流されて形が変わりかけていたが、言われてみれば確かに食べ物のようにも見える。
「シモンはどう思う?」
「雲の形は常に変化していますので、特定のものに似ているかどうかは見る人の印象によるでしょう。ただ、モモ嬢がパンを連想された理由は理解できます」
「つまり、シモン君もパンに見えるってこと?」
「そう断定したわけではありません」
「でも、否定もしなかったよね」
モモが楽しそうに笑うと、シモンは少し困ったように空を見上げた。しばらく雲を眺めたあと、静かに口を開く。
「……少なくとも、右側の雲は焼き菓子に見えなくもありません」
「やった! シモン君も仲間だ!」
モモはうれしそうに両手を合わせ、ルシルも思わず笑った。シモンは眼鏡を直しながら前方へ視線を戻したが、その表情にはどこか楽しげなものが残っていた。
そんな会話を交わしながら進むうちに、道の先に少し高い丘が見えてきた。
丘の上へ続く道は緩やかに曲がっており、そこを越えれば向こう側の景色が見えそうだった。ルシルは手綱を握り直し、馬たちの歩調に合わせて慎重に進んでいく。
丘の途中では風が少し強くなり、馬車の窓に掛けた青い風魚の布が小さく揺れた。モモはその動きに気づき、布へそっと目を向ける。
「この布も、いろんな景色を見てきたね」
「青波で手に入れたものだから、海の風を思い出すよね。今は草原の風に揺れているのが、なんだか不思議だ」
「うん。海のそばにいたときは、こんなに広い草原を走るなんて想像してなかったなあ」
モモは布の模様を見つめながら、少しだけ懐かしそうに笑った。潮凪村で手に入れた貝殻の飾りも、馬車の中に大切にしまわれている。
旅先で手に入れたものは、数が増えるたびに思い出を連れてくる。けれど、どれも特別な宝物として飾り立てる必要はなく、こうして普段の暮らしの中にあることが、モモにはうれしかった。
「また海も見たいね。もちろん、今すぐ戻りたいって意味じゃないよ。いつか違う海を見たら、青波の海とどんなふうに違うのか比べてみたいなって」
「それも楽しそうだね。今は草原を進んでいるけど、旅を続けていれば、また海の近くへ行くこともあるかもしれない」
「ええ。行き先を決めるときには、道や季節のことも考える必要がありますが、選択肢としては十分にあり得るでしょう」
シモンの返事を聞いたモモは、満足そうに頷いた。未来の行き先が決まったわけではないが、いつか行ってみたい場所を思い浮かべるだけでも楽しい。
丘の上へ近づくにつれ、空がさらに広く見えるようになった。
ルシルは馬たちの負担を考え、最後までゆっくりと坂を上った。頂上付近で道が平らになると、前方の景色が少しずつ姿を現した。
向こう側には、また別の草原が続いていた。
ただし、今まで通ってきた場所よりも丘の起伏が少なく、道の先には低い木々が点々と見える。遠くの地面には色の違う帯のようなものがあり、草の種類が違うのか、土が露出しているのかは、まだ分からなかった。
モモは窓の外を眺め、しばらく言葉を失っていた。
ルシルもその景色を見て、自然と馬車の速度を落とした。道はまだ続いているが、ここからなら周囲の様子を落ち着いて確かめられそうだった。
「きれいだね……」
モモが小さく呟くと、ルシルは頷いた。
「うん。昨日見た草原とも、今朝の草原とも違うね。同じ緑色の景色なのに、丘の形が変わるだけで、こんなに印象が違うんだ」
「遠くまで見渡せますね。道も、少なくともあの木々の近くまでは続いているようです。ただ、その先はまだ分かりません」
シモンは周囲を確認しながら、慎重に言葉を選んだ。遠くに見える木々の位置や道の曲がり方は分かっても、そこが安全な休憩場所なのか、さらに先へ進めるのかまでは判断できない。
ルシルはその説明を聞き、馬車を止めるのに適した場所がないかを確かめた。丘の上は風が強く、長く休むには向いていないように思える。
「ここで長く止まるより、少し下ったところで休む方がよさそうだね」
「私もそう思います。見通しはよいですが、風を遮るものがありません。昼食を取るなら、もう少し落ち着ける場所を探しましょう」
「じゃあ、あの木の近くまで行ってみる? 道から大きく外れないなら、少し休めるかもしれないし」
「ええ。ただし、近づいてから地面の状態を確認する必要があります。遠くから見て平らでも、馬車を止められるとは限りませんので」
モモは素直に頷き、再び窓の外へ目を向けた。ルシルは手綱を整え、二頭へ穏やかに声をかけながら、丘の向こう側へ続く道を進み始めた。
下り坂では、上りのとき以上に慎重な操作が必要だった。
ルシルは馬たちの歩調を乱さないように気を配り、シモンも車輪の動きと道の状態を注意深く見ている。モモは揺れに備えて座り直し、旅帳面を棚へしまった。
坂を下りきる頃には、陽がかなり高くなっていた。
道の脇には短い草が広がり、少し離れた場所では小さな鳥が地面をつついている。木々はまだ先にあったが、近づくにつれて枝の広がり方や周囲の地面が少しずつ見えるようになってきた。
「シモン、あの木の手前なら、馬車を止められそうかな」
「今の位置から見る限り、道の脇に少し広い場所がありますね。ただ、もう少し近づいてから判断しましょう」
「うん。トルクとベルクにも、そろそろ休んでもらいたいし」
ルシルは道の端に注意しながら、ゆっくり進んだ。やがて木々の近くへ到着すると、三人は周囲の様子を確認し、馬車を止められる場所を探した。
木の根元から少し離れた場所には、草の短い平坦な地面が広がっていた。道を通るほかの人の邪魔にもなりにくく、風も丘の上より弱い。
シモンが先に降りて地面を確かめ、問題がなさそうだと判断してから、ルシルは馬車を慎重に寄せた。
「ここなら、しばらく休めそうですね。昼食を取ってから、午後の進み方を相談しましょう」
「よかった。ちょうどお腹も空いてきたところだったんだ」
ルシルが笑うと、モモは待っていましたとばかりに顔を輝かせた。
「わたしも! 朝ご飯を食べたときは、まだまだ大丈夫だと思ってたんだけど、丘を越えたら急にお腹が空いてきちゃった」
「モモ嬢の場合、丘を越えたことと空腹の間に、どの程度の関係があるのかは不明ですね」
「あるよ、きっと。きれいな景色を見ると、お腹が空くことってあるもん」
「それは初めて聞く理論です」
シモンの返事に、モモは楽しそうに笑った。ルシルも笑いながら馬車を降り、二頭の様子を確かめるためにシモンの横へ向かう。
昼食の準備は、馬たちの世話を終えてからにした。
トルクとベルクは落ち着いており、朝からの移動による大きな疲れも見られなかった。水の残量を確認して必要な分を与え、無理なく休めるように整える。
そのあと三人は、木陰に卓を出して昼食を並べた。
風が葉を揺らす音が頭上から聞こえ、木漏れ日が卓の上に細かな模様を作っている。朝よりも温かくなった空気の中で食事を取ると、草原の静けさがいっそう心地よく感じられた。
モモはパンを食べながら、丘の向こう側を眺めた。
「ねえ、ルシル君。今日の朝からここまで来ただけでも、景色が何回も変わったよね」
「そうだね。最初は木陰の野営場所で、それから丘の間を通って、今はまた広い草原にいる。地図の上ではそんなに大きく動いていないのかもしれないけど、見えるものはずいぶん違うね」
「それが楽しいんだよね。わたし、同じような草原が続いたら退屈しちゃうかもって、ちょっとだけ思ってたんだ。でも、全然そんなことなかった」
モモはそう言いながら、旅帳面を取り出した。食事の邪魔にならないように卓の端へ置き、今朝から描いた絵をルシルへ見せる。
そこには、野営場所の木、黄色っぽく見えた斜面、丘の間の道、遠くに見えた一本の木、そして先ほど越えてきた丘の形が、それぞれ簡単な線で残されていた。
「まだ途中なんだけど、あとで見返したら、どこを通ったか思い出せるかなって」
「うん。モモの絵を見ると、僕もそのときの景色を思い出せるよ。特に、この丘の間の道なんて、音まで違って聞こえたことを覚えてる」
「ほんと? じゃあ、音のことも書いておこうかな。絵だけだと分からないこともあるもんね」
モモは嬉しそうに頷き、帳面の余白へ短い言葉を加えた。シモンは二人のやり取りを聞きながら、自分の手帳にも必要な情報を整理している。
移動の記録と、旅の思い出の記録。
書いている内容は違っていても、どちらも三人が今日という日を過ごした証になる。ルシルはそのことを思いながら、卓の上に並ぶ二冊の帳面を眺めた。
「シモンの手帳とモモの旅帳面を合わせたら、すごく詳しい旅の記録になりそうだね」
「確かに、記録している内容はかなり違いますね。私の方には、食料や水の残量、移動時の注意点などが中心に書かれています」
「わたしの方には、お花とか雲とか、おいしかったものとか!」
「どちらも大切だと思うよ。僕だけだったら、きっと覚えきれないことがたくさんあるから」
ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに笑い、シモンも穏やかに頷いた。
昼食を終えたあと、三人は木陰で少し長めに休んだ。
陽は高くなっていたが、風が通るため暑さはそれほど厳しくない。馬たちも落ち着いており、無理に急いで出発する必要はなかった。
ルシルは木の幹にもたれず、少し離れた草の上に腰を下ろして、道の先を眺めていた。モモは近くで旅帳面に絵を描き足し、シモンは道と馬車の状態を見ながら、午後の移動について考えている。
しばらくして、ルシルは静かに口を開いた。
「ねえ、シモン。もし今日、この先でいい野営場所が見つからなかったら、どうするのがいいと思う?」
シモンはすぐに答えず、少しだけ考えた。
「まず、日が傾く前に安全な場所を探すことを優先します。適した場所が見つからなければ、進む距離を短くすることも考えなければなりません。ただ、暗くなってから無理に探し回るのは避けたいですね」
「そっか。じゃあ、午後は景色を見るだけじゃなくて、休める場所も意識して探した方がいいんだね」
「ええ。もちろん、ルシル様が一人で判断される必要はありません。私も確認しますし、モモ嬢にも周囲の様子を見ていただければ助かります」
モモは顔を上げ、旅帳面を閉じた。
「わたしも見るよ! 木がある場所とか、地面が平らそうなところとか、気づいたらちゃんと教えるね」
「ありがとうございます。ただし、見つけた場所へすぐ向かうのではなく、まず相談してください」
「うん、分かってる。今日はちゃんと三人で決めるんだもんね」
その言葉に、ルシルは微笑んだ。
三人で決めるということは、誰か一人がすべてを背負わなくてもよいということだ。ルシルはその当たり前のようで大切なことを、旅の中で何度も感じていた。
シモンには経験があり、モモには自分たちとは違うものを見つける目がある。そしてルシル自身にも、馬車を動かしながら道の様子を確かめ、二人の意見を聞いて判断する役割がある。
誰かが完璧である必要はない。
それぞれが気づいたことを持ち寄れば、きっと一人では見つけられなかった答えに近づける。そんな安心感が、ルシルの胸の中に静かに広がっていた。
「じゃあ、午後もよろしくね。僕もできるだけ周りを見るようにするよ」
「もちろんだよ、ルシル君!」
「承知しました。安全を確保しながら、無理のない範囲で進みましょう」
三人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。
木陰を抜ける風が少しだけ強くなり、草の上に落ちた影がゆっくりと揺れた。遠くの丘の向こうには、まだ名前も知らない場所へ続く道が伸びている。
ルシルはその道を眺めながら、次に何が見えるのかを思い浮かべた。
町があるのかもしれないし、また別の草原が続くのかもしれない。途中で旅人と出会うこともあれば、誰にも会わずに一日を終えることだってあるだろう。
けれど、どんな景色が待っていたとしても、今はそれを楽しみに思える。
ルシルは立ち上がり、草の上に置いていた荷物を持ち上げた。モモも旅帳面を大切にしまい、シモンは馬車へ戻って午後の出発準備を始める。
昼の光を受けた草原には、細い道が緩やかに続いていた。
三人と二頭の馬は、十分に休んでから再びその道へ向かう。今日の終わりにどこへ辿り着くのかは、まだ誰にも分からない。
それでもルシルは、急ぐ必要のない旅の時間を大切にしながら、次の景色へ進んでいこうと思っていた。




