第107話 草原の木陰で見つけた、今夜の小さな居場所
リーヴェルを出発した日の午後、南へ続く街道を進む馬車の周囲には、穏やかな草原の景色が広がっていた。
昼過ぎには頭上にあった太陽も、少しずつ西へ傾き始めている。道の両側に広がる草は風に合わせて波のように揺れ、遠くの丘には雲の影がゆっくりと移動していた。
ルシルは御者台から前方を見つめながら、手綱を握る指先の力をわずかに緩めた。トルクとベルクは落ち着いた足取りを保っており、リーヴェルで十分に休ませてもらったおかげか、どちらにも目立った疲労は見られない。
それでも、元気だからといって日暮れまで走り続けるつもりはなかった。今日は町を出発したばかりであり、無理に距離を稼ぐ必要もないのだから。
「ルシル君、さっき見えてた木、少し近くなってきたね!」
隣に座るモモが、街道の先を指さした。
彼女の示した方向には、緩やかに盛り上がった土地の上に、数本の木が立っている。周囲は背の低い草に覆われており、遠目には馬車を停められそうな平坦な場所も見えていた。
「そうだね。あの辺りなら、風を少し避けられるかもしれない」
「もし泊まれる場所だったら嬉しいなあ。木の下で夕ご飯を食べて、暗くなったら星を見るの!」
モモは楽しそうに話しながら、膝の上に置いた旅帳面へ視線を落とした。先ほど休憩した場所で描いた小さな白い花の絵が、まだ頭の中に残っているのだろう。
その横顔を見ていたルシルは、自然と笑みを浮かべた。
「まずは安全に停められるか確認してからだね。泊まれそうになかったら、もう少し先を探そう」
「うん! ちゃんと分かってるよ。景色がきれいでも、馬車が傾いちゃったら困るもんね」
以前よりも少し慎重になった答えに、ルシルは嬉しくなった。
旅を始めた頃のモモなら、気に入った景色を見つけると、すぐに近づいて確かめたがったかもしれない。しかし今は、楽しみな気持ちをそのままに、馬たちや馬車のことも考えられるようになっている。
もちろん、好奇心の強さが変わったわけではない。むしろ、新しいものを見つけたときの表情は、旅を重ねるほど生き生きとしているように感じられた。
「シモン、あの場所が近くなったら、一度停めて確認しようと思うんだけど」
ルシルが後方へ声をかけると、馬車の中から落ち着いた返事があった。
「承知しました。私も周辺の地形を確認しておきます。ただし、街道から見える平坦な部分が、必ずしも馬車の重さに耐えられるとは限りません」
「そうだね。地面の状態は、実際に降りて見てみよう」
「はい。それから、水の残量も改めて確認しておきたいところです。今夜ここで過ごすのであれば、明日の移動分も考慮する必要がありますから」
モモはその言葉に頷き、少しだけ真剣な表情になった。
「お水って、まだあるんだよね?」
「あります。ただ、あるということと、好きなだけ使ってよいということは別です。飲用、調理、馬たちの分を分けて考えなければなりません」
「そっか。じゃあ、夕ご飯もお水をたくさん使わないものがいいのかな?」
「そうですね。今夜は比較的簡単に用意できるものを選ぶのがよいでしょう」
その答えを聞いたモモは、少し考え込んでから顔を上げた。
「じゃあ、リーヴェルで買ったお豆は、まだお預けだね」
「乾燥豆は十分な準備と加熱が必要ですからね。水を補給できる場所が確認できてから使うほうが安心です」
「うん! おいしく食べたいから、ちゃんと待つ!」
モモが力強く頷くと、ルシルは思わず笑ってしまった。
「モモは本当に、食べ物のことになると前向きだね」
「だって、おいしいご飯って大切でしょ? ルシル君だって、夕ご飯が楽しみじゃないの?」
「もちろん楽しみだよ。ただ、僕は今夜どこで食べることになるのかも楽しみかな」
「じゃあ、どっちも楽しみにしよう!」
そう言って笑うモモの声が、風に乗って草原へ広がった。
トルクが耳を動かし、ベルクもわずかに首を揺らす。二頭の歩調は変わらず、馬車は緩やかな上り坂へ差しかかっていた。
ルシルは前方の地面へ注意を向けながら、少しだけ速度を落とした。
遠くから見えていた木々の姿が、近づくにつれてはっきりとしてくる。
そのうちの一本は幹が太く、横へ広がった枝が大きな影を落としていた。ほかの木は少し離れた位置に立っており、草地の間にはところどころ土の見える部分がある。
ただ、木の周囲に明確な柵や建物は見当たらなかった。
「シモン、ここから先は歩いて確かめたほうがよさそうだね」
「はい。街道の脇に馬車を一時停止できそうな場所があります。まずはそこで停めましょう」
ルシルは頷き、二頭へ穏やかに声をかけた。
「トルク、ベルク、もう少しゆっくり進もうか。今から休める場所を探すからね」
馬たちは指示に従い、落ち着いて速度を落とした。
やがて馬車が街道脇の比較的硬い地面へ停まると、シモンが先に降り、周囲の状態を確かめ始めた。
モモもすぐに降りようとしたが、ルシルが馬車を完全に固定しているのを見て、少しだけ待つことにした。
「ねえ、ルシル君。わたしも地面を調べるの、手伝っていい?」
「もちろん。でも、草の中へ一人で入らないようにね。見えない窪みがあるかもしれないから」
「うん! シモン君の近くで見てくる!」
モモはそう答えると、足元を確かめながら馬車を降りた。
シモンは木々のある方向へゆっくり歩き、地面の硬さや傾斜を確かめている。モモは少し離れた位置からその様子を眺め、彼がどこに注意しているのかを観察し始めた。
「シモン君、そこって何を見てるの?」
「土の状態です。表面が乾いていても、下が柔らかければ車輪が沈むことがあります。それに、木の根が地面から出ている場所は避けたいですね」
「なるほど。平らに見えても、ちゃんと調べないと分からないんだね」
「ええ。特に今夜ここで過ごすのであれば、馬車を停めたあとに動かし直す必要がない場所を選びたいところです」
シモンは説明しながら、少し先の地面へ目を向けた。
そこには草が薄くなった一角があり、周囲よりも土がしっかりと踏み固められているように見える。ただし、誰かが休憩場所として使っていたのか、単に草が育ちにくいだけなのかは分からなかった。
シモンはその場所を慎重に調べ、木の枝が馬車へ接触しないかも確認した。
「ここなら候補になりそうですね。街道からもそれほど離れていませんし、地面の傾斜も小さいようです」
「じゃあ、ここで決まり?」
モモが嬉しそうに尋ねると、シモンはすぐには頷かなかった。
「まだ確認したいことがあります。周囲の見通しと、馬たちを休ませる場所です。それから、火を使うなら風向きにも注意が必要でしょう」
「そっか。まだいっぱいあるんだね」
「ですが、すべてを難しく考える必要はありません。確認する順番を覚えれば、少しずつ判断しやすくなりますよ」
その言葉に、モモはぱっと顔を明るくした。
「じゃあ、わたしも覚えたい! 今度から、泊まれそうな場所を見つけたら、自分でも考えられるようになりたいな」
シモンは彼女の表情を見て、わずかに目を細めた。
「それはよいことですね。ただし、判断に迷った場合は、無理に自分だけで決めようとしないでください」
「うん! 三人で相談する!」
迷いのない返事を聞いて、シモンは小さく頷いた。
少し離れた場所では、ルシルが馬たちの様子を確認していた。
トルクは草地へ興味を示しているものの、勝手に歩き出そうとはしない。ベルクも落ち着いており、馬車を停めたことで身体を休められると分かったのか、穏やかに鼻を鳴らしていた。
ルシルは二頭の首元へ手を添え、優しく声をかける。
「今日は町を出てから、いろんな景色を見たね。もう少ししたら、ゆっくり休めるから」
トルクはその声に応えるように耳を動かした。
馬たちの様子を見ながら、ルシルは遠くの草原へ目を向けた。
(こうして休む場所を探すのも、ずいぶん自然になってきたな)
王宮で暮らしていた頃には、夜を過ごす場所を自分で探すことなど考えたこともなかった。どこへ行くにも宿泊先が決められ、必要なものは誰かが準備してくれていたからだ。
今は、地面の硬さや風向き、馬たちの状態を確かめながら、その日の居場所を自分たちで決めている。
不便なこともある。
予定どおりに進まない日もあれば、思っていたより時間がかかることもある。
それでも、その一つ一つが自分たちの旅を形作っているのだと思うと、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
やがてシモンが戻ってきた。
「ルシル様、確認できる範囲では、あの木の少し手前がよさそうです。馬車を停める場所と、馬たちを休ませる場所を分けられます」
「ありがとう。周りに危険そうなものはなかった?」
「今のところ、目立った問題は見つかっていません。ただ、完全に安全だと断言できる場所ではありませんから、夜間も注意は必要です」
「分かった。じゃあ、今日はあそこで休もうか」
ルシルがそう答えると、モモは嬉しそうに両手を合わせた。
「やったあ! 今日は草原の木陰でお泊まりだね!」
「ええ。ただし、まだ日が暮れるまで時間があります。先に馬車と馬たちの準備を済ませましょう」
「はーい!」
三人はそれぞれの役割を確認し、今夜の休息場所へ向けて動き始めた。
◇
馬車を移動させる際、ルシルはシモンの合図を受けながら、慎重に車輪の位置を調整した。
草地へ入り込む距離は短かったが、街道と違って地面の状態が一定ではない。少しでも不自然な揺れを感じたら停められるよう、トルクとベルクにはゆっくり歩いてもらう。
モモは安全な位置から二人の作業を見守っていた。
馬車が木の手前へ進むと、枝葉の影が車体の一部を覆い、先ほどまで直接当たっていた陽射しが少し和らいだ。
「ルシル様、その位置で一度止めてください」
シモンの声に合わせ、ルシルは手綱を引いた。
車輪が止まると、シモンは前後の状態を確認し、地面の傾きが大きくないことを確かめた。
「問題なさそうです。ここなら馬車を安定させられるでしょう」
「よかった。トルクもベルクも、ありがとう」
ルシルは二頭へ声をかけ、馬車を固定する準備を始めた。
モモも近づいてきたが、今度はすぐに手を出さず、シモンが何をしているのかを見ている。
「モモ、どうしたの?」
ルシルが尋ねると、彼女は少し照れくさそうに笑った。
「さっきシモン君に、確認する順番を覚えるといいって言われたでしょ? だから、今は何をしてるのかなって見てたの」
「なるほど。それなら、僕も説明しながらやってみようかな」
ルシルは車輪の状態を示しながら、馬車が勝手に動かないようにするための確認について話した。
モモは何度も頷き、時折質問を挟んでいる。
「じゃあ、馬車が平らなところにあっても、ちゃんと固定しないといけないんだね」
「そうだよ。見た目では分からないくらいの傾きがあるかもしれないし、何かの拍子に動いたら危ないからね」
「分かった! 今度から、停まったからってすぐに安心しないようにする!」
その答えを聞いたシモンが、少し離れた場所から口を開いた。
「ただし、確認することが増えたからといって、すべてをモモ嬢が担当する必要はありませんよ。役割を分けて協力することも大切です」
「うん! でも、何をしてるのか分かると、手伝えることも増えると思うんだ」
モモはそう答え、ルシルへ視線を向けた。
「それに、ルシル君とシモン君ばっかり働いてたら、わたしだけ遊んでるみたいになっちゃうでしょ?」
ルシルは少し驚いたように瞬きをした。
モモが旅の仕事を手伝おうとすること自体は、これまでにも何度もあった。しかし、今の言葉には、単に何かをしてみたいという好奇心とは違う気持ちが含まれているように感じられた。
「そんなふうに思わなくてもいいんだよ。モモだって、いろんなところで助けてくれてるんだから」
「うん、それは分かってるつもり。でもね、わたしも三人で旅をしてるんだから、できることはちゃんとやりたいなって思うの」
モモは少しだけ真面目な顔になり、続けた。
「楽しいことを見つけるのも好きだけど、みんなが安心して休めるようにするのも大切でしょ? だから、少しずつ覚えたいんだ」
ルシルはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「そっか。じゃあ、これからも一緒に覚えていこう。僕だって、まだ知らないことはたくさんあるしね」
「うん!」
モモは嬉しそうに頷いた。
シモンは二人のやり取りを聞きながら、馬具の確認を続けていた。
彼にとって、旅の準備や安全管理は長く自分の役割だった。ルシルを支えるために必要なことを考え、問題が起きる前に対処することが、当たり前になっていたのである。
しかし今、ルシルとモモは、自分たちでも判断しようとしている。
それを頼もしく思う一方で、少しだけ不思議な気持ちにもなった。
(私がすべてを整えなければならない、というわけではないのですね)
もちろん、経験の差がなくなったわけではない。危険を見落とさないために、自分が注意すべきことも変わらない。
それでも、二人が旅の仕事を自分たちのものとして考え始めていることは、シモンにとって嬉しい変化だった。
彼は眼鏡の位置を直し、二人へ声をかけた。
「では、モモ嬢には荷物の整理をお願いしましょう。今夜使うものと、明日まで使わないものを分けておいてください」
「分かった! でも、どれを出せばいいか迷ったら聞いてもいい?」
「もちろんです。勝手に判断して必要なものを奥へしまい込むより、確認していただいたほうが助かります」
「うん! じゃあ、やってみるね!」
モモは張り切った様子で馬車へ向かった。
その後ろ姿を見送ったルシルは、シモンへ小さく笑いかけた。
「ありがとう、シモン」
「何がでしょうか?」
「モモがやってみたいって言ったことを、ちゃんと任せてくれて」
シモンは一瞬だけ意外そうな顔をした。
「できることを増やすのは、悪いことではありませんから。それに、私も助かります」
「うん。僕もそう思う」
ルシルはそう答え、馬たちの世話へ戻った。
◇
夕方が近づくにつれて、草原を渡る風には少しずつ冷たさが混じり始めていた。
木の枝が揺れるたび、葉の擦れ合う音が頭上から降りてくる。街道を通る旅人の姿は今のところ見えず、遠くの丘の向こうにも建物らしいものは確認できなかった。
モモは馬車の中で必要な荷物を整理し終えると、外へ顔を出した。
「ルシル君、シモン君! 今夜使いそうなもの、まとめておいたよ!」
ルシルが振り返ると、彼女は少し得意そうに胸を張っていた。
「ありがとう。大変じゃなかった?」
「ううん! 途中でちょっと迷ったけど、ちゃんとシモン君に聞いたから大丈夫!」
シモンはその言葉に頷き、整理された荷物を確認した。
「問題ありません。必要なものが取り出しやすくなっていますね」
「本当? やったあ!」
モモは嬉しそうに笑い、馬車の外へ降りた。
そのとき、少し離れた場所でトルクが鼻を鳴らした。
モモが振り向くと、栗毛の馬は首を伸ばし、彼女のほうを見ている。
「あれ、トルク。どうしたの?」
モモは近づきながら声をかけたが、トルクは特に困った様子ではなかった。むしろ、彼女が何か食べ物を持っていないか確かめているようにも見える。
その様子を見たルシルが笑った。
「たぶん、お腹が空いてきたんじゃないかな。そろそろ夕方だしね」
「そっか。トルクも夕ご飯が楽しみなんだ!」
「モモ嬢と同じですね」
シモンがそう言うと、モモは振り返って頬を膨らませた。
「シモン君、またそういうこと言う!」
「事実を申し上げただけですが」
「もう! じゃあ、シモン君は夕ご飯が楽しみじゃないの?」
モモが尋ねると、シモンは少し考えてから答えた。
「楽しみですよ。食事は旅の疲れを癒やす大切な時間ですから」
「ほら、やっぱり!」
「ただし、私は食事の準備が整っているかどうかも気になります」
「そこがシモン君なんだよねえ」
モモは呆れたように言いながらも、楽しそうに笑っていた。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、馬たちのために用意した飼料と水を確認する。
道端には草が生えていたが、種類や状態の分からないものを自由に食べさせるつもりはない。これまでの旅で積み重ねてきた経験が、そうした小さな判断にも生かされていた。
馬たちの世話が一段落すると、三人は夕食について相談することにした。
「今夜は、あまり水を使わずに済むものがいいんだよね?」
モモが尋ねると、シモンは頷いた。
「はい。保存してある食料を確認したところ、簡単に食べられるものがまだあります。無理に調理する必要はないでしょう」
「じゃあ、温かいご飯は明日のお楽しみかな?」
「火を使うこと自体は可能ですが、風の状態や周囲への影響も考えなければなりません。今夜は火を使わずに済ませるほうが安全だと思います」
ルシルは木々の枝が揺れる様子を見上げた。
風は強すぎるほどではないものの、一定の間隔で草原を吹き抜けている。乾いた草が広がる場所で、無理に火を使う理由はなかった。
「僕も賛成だよ。今日は昼間に町を出て、ここまで来られたんだから、夕ご飯は簡単に済ませてもいいと思う」
「うん! じゃあ、食べる場所を決めようよ。せっかくだから、外の景色が見えるところがいいな」
モモが提案すると、ルシルは木の影が伸びる方向を確かめた。
馬車の近くには比較的平らな地面があり、三人で腰を下ろすには十分な広さがある。ただし、日が落ちれば気温も下がるため、長時間外で過ごすつもりはなかった。
「ここならよさそうかな。馬車にも近いし、何かあったらすぐ戻れるから」
「そうですね。食事を終えたら、暗くなる前に片づけましょう」
「はーい!」
モモは元気よく返事をし、先ほど整理した荷物の中から敷物を取り出した。
今度は風でめくれないよう、ルシルと協力して広げていく。
昼間の休憩で経験したことを覚えていたのか、モモは最初から片側を押さえ、ルシルが反対側を整えるのを待っていた。
「ほら、ルシル君! さっきより上手にできたでしょ?」
「うん。すごく手際がよくなったね」
「えへへ。ちゃんと覚えてたんだよ!」
モモは嬉しそうに笑い、敷物の上へ腰を下ろした。
ルシルも隣に座り、シモンが食料を持ってくるのを待つ。
少しすると、三人の前に簡単な夕食が並べられた。
保存してあったパンと、すぐに食べられるよう準備していた食料を分け合う。豪華な料理ではなかったが、草原の風を感じながら食べる夕食には、宿の食堂とは違った楽しさがあった。
「いただきまーす!」
モモは嬉しそうにパンを手に取り、一口食べた。
しばらく噛んでから、彼女は満足そうに頷いた。
「うん! やっぱり外で食べるご飯っておいしいね!」
「そうだね。景色を見ながら食べると、いつもと少し違う感じがするよ」
ルシルもパンを口に運びながら、遠くの丘へ目を向けた。
夕陽が草原を斜めに照らし、昼間は緑色に見えていた草の先が、ところどころ金色に輝いている。
モモはその景色を眺めながら、ふと思い出したように口を開いた。
「ねえ、ルシル君。リーヴェルの宿で食べたご飯もおいしかったけど、こういう夕ご飯も好きだな」
「僕もだよ。どっちがいいっていうより、それぞれ違う楽しさがあるよね」
「うん! 町にいるときは、知らない料理を食べられるのが楽しいし、外にいるときは、景色を見ながら食べられるのが嬉しいの」
モモは少し考えてから、シモンへ顔を向けた。
「シモン君は、どっちが好き?」
シモンは食事の手を止め、しばらく考えていた。
「どちらにも利点がありますね。宿では温かい料理や十分な設備を利用できますし、馬車で過ごす場合は、自分たちの都合に合わせて休めます」
「うーん、そういうことじゃなくて、どっちが好きか聞いてるんだけどなあ」
モモが少し不満そうに言うと、シモンは困ったように微笑んだ。
「そうですね……今夜のように、落ち着いた場所で食事をするのも悪くないと思います」
「それって、好きってこと?」
「ええ。そう考えていただいて構いません」
「やったあ! じゃあ、三人とも今夜の夕ご飯が好きなんだね!」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルはその様子を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
特別な料理があるわけでも、珍しい出来事が起きたわけでもない。
ただ三人で同じ場所に座り、同じ景色を眺めながら食事をしている。
それだけの時間が、今のルシルにはとても大切なものに思えた。
(こういう時間を、これからも大事にしていきたいな)
ルシルはそう思いながら、もう一口パンを食べた。
◇
夕食を終える頃には、空の色が少しずつ変わり始めていた。
西の空には淡い橙色が広がり、その上には薄い桃色の雲が浮かんでいる。反対側の空はすでに青みを深めており、遠くの丘の輪郭も昼間より柔らかく見えた。
三人は使ったものを片づけ、食べ残しや包み紙が地面に残っていないことを確認した。
モモは敷物を畳みながら、何度も空を見上げている。
「ルシル君、夕焼けがすごくきれいだよ!」
「本当だね。昼間とは全然違う景色になった」
「ねえ、少しだけ見ててもいいかな? 暗くなる前にはちゃんと馬車に戻るから」
ルシルはシモンへ視線を向けた。
シモンは周囲の様子を確かめ、少し考えてから頷いた。
「馬車の近くであれば構いません。ただし、日が沈むと気温が下がりますから、長く外にいすぎないようにしましょう」
「うん! ありがとう、シモン君!」
モモは嬉しそうに答え、馬車のそばに立った。
ルシルも隣へ並び、二人で夕焼けを眺める。
草原の向こうでは、太陽が丘の稜線へ近づいていた。
風に揺れる草の一本一本が夕陽を受け、遠くまで続く地面が柔らかな光に包まれている。
モモはしばらく黙って景色を眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……なんだか、今日一日がすごく長かった気がする」
「そう?」
「うん。朝はリーヴェルの宿にいたのに、今はこんなに広い草原にいるんだもん。町を歩いてたのが、ずっと前みたい」
ルシルはその言葉を聞き、朝の出来事を思い出した。
宿のエッダへ礼を伝え、トルクとベルクの様子を確かめ、町の市場広場を通って南へ向かった。
そのときには、今夜どこで過ごすことになるのか、まだ分からなかった。
けれど、こうして草原の木陰に馬車を停め、三人で夕食を終えている。
「確かに、朝とは全然違う場所にいるね。でも、こういう一日もいいなって思うよ」
「うん。わたしも!」
モモは頷き、旅帳面を取り出した。
彼女はページを開いたものの、すぐには筆を動かさなかった。
夕焼けの色を眺め、草の揺れ方を見つめ、少し考えてから紙へ線を引き始める。
ルシルはその隣で、静かに見守っていた。
モモが描いているのは、木の下に停まる馬車と、その向こうへ続く草原だった。
絵の端にはトルクとベルクの姿もあり、少し離れた場所には三人が夕食を食べた敷物が小さく描かれている。
「ねえ、ルシル君。今日の絵、こんな感じでいいかな?」
モモが旅帳面を傾けると、ルシルはそのページを覗き込んだ。
「すごくいいと思うよ。木の形も、馬車の位置も分かるし、今日ここで過ごしたことを思い出せそうだね」
「えへへ。実はね、夕焼けの色も描きたいんだけど、今はうまく表せないから、言葉でも残しておこうと思ってるの」
「それもいいね。どんなふうに書くの?」
モモは少し考え、旅帳面の余白へ短い文章を書き始めた。
『草原の木陰で、三人と二頭で夕ご飯。空が金色から桃色に変わって、とてもきれいだった。』
書き終えると、彼女は満足そうに頷いた。
「うん! これなら、あとで見たときに思い出せると思う!」
「そうだね。僕もきっと思い出せるよ」
ルシルがそう答えると、モモは嬉しそうに笑った。
そのとき、後ろからシモンの声が聞こえた。
「お二人とも、そろそろ日が沈みます。馬車の中へ戻る準備をしましょう」
振り返ると、シモンは馬車のそばに立ち、周囲を確認していた。
夕方の光を受けた黒縁眼鏡が、わずかに輝いている。
「はーい! シモン君、今日の絵もできたよ!」
「それはよかったですね。あとで拝見しても?」
「もちろん! 今度はシモン君にも感想を聞きたいな」
「承知しました。では、馬車の中でゆっくり見せてください」
モモは嬉しそうに頷き、旅帳面を大切に閉じた。
◇
夜の準備を終えた馬車の中には、外とは違う落ち着いた空気が流れていた。
窓の向こうでは、草原が少しずつ暗くなっている。夕焼けの色はほとんど消え、空には深い青が広がり始めていた。
ルシルは窓の近くへ腰を下ろし、今日の道のりを思い返していた。
リーヴェルを出発し、草原へ続く街道を進み、途中で小さな白い花を見つけた。
そして、今夜はこの木陰で休むことに決めた。
大きな事件が起きたわけではない。
それでも、三人で相談しながら過ごした一日は、ルシルにとって十分に満たされたものだった。
モモは旅帳面を開き、シモンへ夕焼けの絵を見せている。
「どうかな、シモン君?」
シモンはページをじっくり眺め、少し考えてから答えた。
「よく描けていますね。馬車の位置や木の形だけでなく、周囲の広がりも伝わってきます」
「本当? 嬉しい!」
「それに、文章を添えたのもよいと思います。絵だけでは残しにくい色や、そのときの印象を補えますから」
モモはその言葉を聞き、ぱっと顔を明るくした。
「やったあ! シモン君に褒めてもらえた!」
「私は見たままの感想を申し上げただけですが」
「それが嬉しいんだよ!」
モモは楽しそうに笑い、旅帳面を胸元へ抱えた。
ルシルもその様子を見ながら、穏やかな気持ちになっていた。
シモンは相変わらず真面目で、何事にも慎重だ。
けれど、旅を始めた頃と比べると、モモの絵を眺めたり、景色について感想を話したりする時間が増えている。
それは小さな変化かもしれない。
しかし、ルシルにはとても嬉しいことだった。
「シモン、今日はありがとう。泊まる場所を探すのも、馬車を停めるのも、いろいろ助けてもらったね」
ルシルがそう言うと、シモンは少しだけ首を傾げた。
「いつものことですよ、ルシル様」
「うん。でも、いつものことだからこそ、ちゃんとお礼を言いたいんだ」
シモンは一瞬だけ言葉を止めた。
ルシルは穏やかに微笑みながら、続ける。
「僕もモモも、少しずつできることが増えてきたと思う。でも、それでもシモンに頼ることはたくさんあるし、これからも一緒に考えていきたいんだ」
その言葉を聞いたシモンは、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます。私も、できる限りお二人を支えていきたいと思っています」
「うん。よろしくね」
ルシルがそう答えると、モモも嬉しそうに身を乗り出した。
「わたしも! これからも三人でいろんなところへ行こうね!」
「もちろんだよ」
ルシルは笑って頷いた。
シモンも小さく微笑み、眼鏡の位置を直した。
そのあと、三人は明日のことを少しだけ話し合った。
朝になったら馬たちの状態を確認し、周囲の様子を見てから出発する。
次の町がどこにあるのかは、まだはっきりしていない。
けれど、今夜のうちに無理に目的地を決める必要はなかった。
「明日は、どんな景色が見られるかなあ」
モモが窓の外を眺めながら呟くと、ルシルは同じ方向へ目を向けた。
「分からないけど、楽しみだね」
「うん! もしまたお花があったら、今度は違う色のも見つけたいな」
「そのときは、ちゃんと安全な場所で観察してくださいね」
シモンの言葉に、モモは笑いながら頷いた。
「分かってるよ、シモン君!」
馬車の外では、夜の風が木の枝を揺らしていた。
草原の向こうには、まだ見ぬ道が続いている。
ルシルは窓から空を見上げ、そこに小さな星が一つ輝き始めているのを見つけた。
「モモ、ほら。星が見えてきたよ」
「えっ、本当!?」
モモは慌てて窓へ近づき、ルシルの指さす方向を見上げた。
深い青色の空に、小さな光が瞬いている。
「わあ……きれい」
モモはしばらく黙って星を眺めていた。
やがて、隣にいるルシルへ顔を向ける。
「ねえ、ルシル君。今日ここで泊まることにして、よかったね」
「うん。僕もそう思う」
ルシルは穏やかに答えた。
シモンも二人の後ろから窓の外を眺め、静かに頷いている。
三人が見上げる空には、少しずつ星の数が増え始めていた。
明日になれば、また新しい道を進むことになる。
けれど今夜は、この草原の木陰が三人と二頭の馬の居場所だった。
ルシルはそのことを嬉しく思いながら、窓の向こうに広がる夜空を見つめ続けた。
遠くの町の灯りも、王宮の華やかな明かりもない場所で、静かな夜がゆっくりと深まっていく。
馬車の中には、モモの楽しそうな声と、シモンの落ち着いた返事が響いていた。
そしてルシルは、今日もまた、自分たちで選んだ一日を過ごせたことに、穏やかな満足を感じていた。




