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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第106話 草原を渡る風と、旅人たちが選んだ午後


 リーヴェルの町を離れてから、どれほど馬車を走らせただろうか。昼過ぎの陽射しは穏やかで、南へ続く街道の両側には、町の周辺で見かけた畑とは少し違う景色が広がり始めていた。


 整然と区切られていた耕作地は次第に数を減らし、その代わりに背の低い草が風に揺れる土地が増えている。遠くには緩やかな丘がいくつも重なり、青空の下を流れる白い雲の影が、その斜面をゆっくりと移動していた。


 馬車の御者台に座るルシルは、手綱を握りながら大きく息を吸い込んだ。町の中では焼きたてのパンや料理の匂い、荷車の軋む音や人々の声が絶えず感じられたが、今は草の香りと馬の足音が旅の時間を満たしている。


「やっぱり、町の外へ出ると空気が違うね。リーヴェルも楽しかったけど、こういう景色を見ると、また旅をしているんだなって感じるよ」


 隣に座っていたモモは、その言葉に嬉しそうに頷いた。膝の上には旅帳面が置かれているものの、今は開かずに両手で押さえており、風に揺れる草原を眺めることに夢中になっている。


「うん! 町の中もいろんなものがあって楽しかったけど、こっちはこっちで、どこを見てもきれいだね。あの丘の向こうには何があるんだろう。お花畑だったりするのかな?」


「それは、近づいてみないと分からないですね」


 馬車の後方から聞こえたのは、荷物の状態を確認していたシモンの声だった。黒縁眼鏡の位置を指先で直しながら前方へ目を向けた彼は、草地の広がりだけでなく、街道の路面や遠くの地形にも注意を払っている。


「ただし、見えている丘の向こうへ必ず道が続いているとは限りません。草地へ入り込む前に、通行できる場所かどうかを確認する必要があります」


「シモン君、まだ誰も丘に登ろうって言ってないよ?」


「モモ嬢の表情から、その可能性を考慮したまでです」


「ええっ、そんなに分かりやすかった?」


 モモが頬を膨らませると、ルシルは思わず笑ってしまった。シモンも口元をわずかに緩めたものの、視線はすぐに街道へ戻している。


「まあ、丘の向こうは気になるよね。でも、今日は無理に寄り道をしなくてもいいと思う。トルクとベルクの様子も見ながら、気持ちのいい場所があったら休憩しよう」


「賛成! おやつも食べたいし、景色も描きたいし、馬たちにもゆっくりしてほしいもん」


「最後の理由が最も重要ですね。もっとも、最初の理由がモモ嬢にとって最優先なのではありませんか?」


「そんなことないよ! おやつと景色とトルクたち、全部大切だもん!」


 力強く宣言するモモに、ルシルは肩を揺らして笑った。二頭の馬はそんな会話を知ってか知らずか、落ち着いた足取りで街道を進んでいる。


 栗毛のトルクは時折、道端の草へ興味を示すように耳を動かしていた。一方、濃い灰色のベルクは前方をまっすぐ見つめ、一定の歩調を保っている。


 リーヴェルの宿で十分に休ませてもらったおかげか、どちらにも疲労の色は見られなかった。それでも、元気だからといって長時間走らせ続ける理由にはならない。


 ルシルは手綱を通して伝わる二頭の動きを感じながら、速度を少し落とした。


「シモン、そろそろ休めそうな場所を探してもいいかな。急ぐ理由もないし、日が高いうちに一度、荷物の状態も確かめておきたい」


「はい。私も同じことを考えていました。少し先で街道の脇が広くなっていますから、地面の状態を確認してから停めましょう」


 シモンが示した先には、草地と街道の境目に、周囲より踏み固められたような平坦な場所が見えていた。そこは車輪を通す道から少し外れており、ほかの旅人が通行する際にも邪魔になりにくそうだった。


 ただし、見た目だけで安全だと決めるわけにはいかない。ルシルは馬車を道端へ寄せる前に速度を十分に落とし、シモンが先に降りて地面を確認するのを待った。


「表面は乾いていますが、奥に柔らかい部分があるかもしれません。車輪を置く位置はこちらがよさそうです」


「分かった。トルク、ベルク、もう少しだけ頼むよ」


 二頭へ声をかけながら、ルシルはゆっくりと馬車を進めた。シモンの合図に合わせて車輪の位置を調整し、無理のない場所へ停車させる。


 馬車が完全に止まると、モモは待ちきれない様子で立ち上がりかけたが、すぐにシモンの視線に気づいて腰を下ろした。


「分かってるよ、シモン君。ちゃんと停まってから降りるし、足元も見るからね」


「それなら結構です。今日は草に隠れた窪みもありますので、特に気をつけてください」


「はーい。でも、先に言われる前に気づいたんだから、ちょっとは褒めてくれてもいいと思う!」


「では、以前より注意深くなったことは評価いたします」


「なんだか先生みたい!」


 そのやり取りを聞きながら、ルシルは馬車から降りた。足元の土は硬く、靴底に伝わる感触も安定している。


 近くを吹き抜ける風が草の先を一斉に傾け、少し遅れて遠くの斜面まで波のように揺れていった。


(こういう場所で、ただ立ち止まれるのが嬉しいんだよな)


 王宮にいた頃にも、美しい庭園や広大な敷地を見る機会はあった。しかし、そこで立ち止まる時間には、いつも何かしらの理由が必要だった。


 誰かとの約束、決められた予定、立場にふさわしい振る舞い。景色を眺めることさえ、ほかの用事の合間に許される短い時間でしかなかった。


 今は違う。


 草原を見たいから馬車を停め、馬を休ませたいから時間を使う。そんな当たり前の選択を、自分たちで相談して決められる。


 ルシルが空を見上げていると、隣へやってきたモモが同じように顔を上げた。


「ルシル君、何か面白いものが見えた?」


「ううん。空が広いなって思っていただけだよ」


「そっか。じゃあ、わたしも一緒に見ようかな」


 モモは特別な理由を尋ねることなく、ルシルの隣で空を眺め始めた。二人の背後では、シモンが馬具を確認する音が小さく響いている。


 しばらくすると、モモが雲の一つを指さした。


「あれ、パンみたいじゃない?」


「どれ?」


「ほら、あの丸くて、ちょっと端っこが膨らんでるやつ!」


 ルシルは示された雲を探し、思わず笑みを浮かべた。確かに、真ん中がふっくらと膨らんだ白い雲は、焼き上がったばかりの丸いパンに見えなくもない。


「本当だ。でも、モモは景色を見ても食べ物を思い出すんだね」


「だって、おいしそうな形なんだもん! ルシル君には何に見える?」


「そうだなあ……大きな羊かな。こっちが頭で、後ろが身体」


「えーっ、羊? どこが頭?」


 二人が同じ雲を指さしながら形を説明し合っていると、シモンが馬のそばから顔を上げた。


「お二人とも、雲の観察は構いませんが、足元への注意も忘れないでください。特にモモ嬢、先ほどから少しずつ後ろへ下がっています」


 モモは慌てて足元を見下ろした。そこには小さな窪みがあり、あと一歩下がっていれば靴を取られていたかもしれない。


「わっ、本当だ! ありがとう、シモン君!」


「空を見る際には、立つ場所を決めてからにしてください」


「うん! じゃあ、シモン君にも聞いてみたいな。あの雲、何に見える?」


 モモが再び空を指さすと、シモンは少しだけ困ったような顔をした。馬具の留め具から手を離し、彼女の指先を追って空を眺める。


「……そうですね。強いて言えば、横倒しになった水差しでしょうか」


「水差し!?」


 予想外の答えに、モモが目を丸くした。ルシルも雲を見直してみたが、言われてみれば細く伸びた部分が注ぎ口に見えなくもない。


「シモンらしいね。でも、確かに水差しにも見えるかもしれない」


「雲の形は常に変化しますから、正解があるものではありません。見え方が違って当然でしょう」


「じゃあ、三人とも正解だね!」


 モモは満足そうに頷いた。彼女がそう言い切ると、不思議とそれ以上の説明はいらないような気がして、ルシルはもう一度空を見上げた。


 さっきまでパンにも羊にも水差しにも見えていた雲は、風に流されながら少しずつ形を崩していた。


 その変化を惜しいとは思わなかった。今見えている景色が、次の瞬間には違うものになることも、旅の面白さなのだろう。


     ◇


 休憩場所の安全を確認したあと、三人は馬車の周囲でそれぞれの仕事を始めた。


 ルシルはトルクとベルクの様子を見ながら、水と休息の準備を整えている。モモは馬車から取り出した敷物を地面へ広げようとしていたが、風が端を持ち上げるため、なかなか思うようにいかなかった。


「うう、さっきまで気持ちいい風だったのに、こういうときだけ元気になるんだから!」


 敷物の片側を押さえながら、モモは反対側へ手を伸ばした。しかし、その隙に押さえていた端がめくれ上がり、彼女の足元へ巻きついてしまう。


 ルシルが手伝おうとすると、モモは少し恥ずかしそうに笑った。


「待って、もう一回だけやってみる! 今度は端っこに荷物を置けばいいんだよね?」


「軽いものだと風に持っていかれるから、置くものには気をつけてね。必要なら僕が反対側を押さえるよ」


「じゃあ、お願い! 一人でやるより、二人のほうが早そう!」


 ルシルが片側を押さえ、モモが反対側をゆっくりと広げると、敷物は無事に地面へ落ち着いた。端を押さえるために適当な石を拾おうとしたモモだったが、シモンから尖った石で布を傷めないよう注意され、結局は馬車に積んでいた荷物のうち、汚れても困らない丈夫な袋を利用することになった。


「こういうときも、ちゃんと考えないといけないんだね」


「旅では小さな工夫が積み重なりますからね。道具を一つ傷めると、その場では困らなくても、後で別の不便につながることがあります」


「でも、シモン君って本当にいろんなことを知ってるよね。敷物を広げるだけでも、そんなに考えるなんて」


 感心した様子のモモに、シモンは一瞬だけ言葉を探した。


「私も、最初から知っていたわけではありません。失敗した経験や、ほかの方から教わったことがあるだけです」


「シモン君も失敗するの?」


「もちろんです。失敗しない人間など、そうそういません」


 その答えを聞いたモモは、意外そうに瞬きをした。彼女にとってシモンは、道を調べ、荷物を整え、危険を見つけ、必要なときには誰よりも早く対処してくれる頼もしい存在だった。


 だからこそ、彼が当たり前のように失敗を認めたことが、少し新鮮に感じられた。


「じゃあ、わたしがいろいろ失敗しても、いつかシモン君みたいに詳しくなれるかな?」


「同じようになる必要はありませんよ。モモ嬢には、私が見落とすものを見つける力がありますから」


「えっ、そうなの?」


「例えば、私は先ほどの雲を見ても、食べ物には結びつけませんでした。景色の楽しみ方という点では、あなたから学ぶこともあります」


 真面目な表情でそう告げるシモンに、モモは少し照れたように頬を緩めた。


「それ、褒められてるのかな。それとも、わたしが食いしん坊だって言われてるのかな?」


「両方ではないでしょうか」


 横から答えたルシルに、モモは大きく口を開けた。


「ルシル君まで!」


 その声に驚いたのか、近くで休んでいたトルクが耳を動かした。ベルクは相変わらず落ち着いていたが、トルクのほうは三人の様子を確かめるように首を向けている。


 モモはすぐに馬たちへ歩み寄り、穏やかな声で話しかけた。


「ごめんね、トルク。びっくりした? 大丈夫だよ、喧嘩してたわけじゃないからね」


 トルクは鼻を鳴らし、彼女の手元を確かめるように顔を近づけた。何か食べ物を持っていると期待したのかもしれないが、モモの手は空だった。


「あれ、もしかしておやつが欲しかった?」


「今は決められた飼料を優先しましょう。道端の草も、種類や状態が分からないものを好きに食べさせないほうが安全です」


 シモンの言葉に、モモは素直に頷いた。


「そうだよね。トルク、おいしそうな草がいっぱいあるけど、勝手に食べちゃ駄目なんだって。あとでちゃんとご飯をもらおうね」


 まるで人間の子供へ言い聞かせるような口調だったが、トルクは特に不満を示さなかった。ベルクも穏やかに立っており、二頭とも旅の休憩に慣れてきたように見える。


 ルシルは馬たちの様子を確認しながら、リーヴェルで購入した予備の留め具を思い出した。


「そういえば、昨日までに準備しておいた留め具も、使わずに済むのが一番だね」


「そのとおりです。予備は故障を前提にしたものではなく、万が一の際に対応するための備えですから」


「なんだかシモン君らしい考え方だね。でも、準備があると安心して景色を楽しめるのも本当だと思う」


 ルシルがそう言うと、シモンは少し意外そうに彼を見た。以前なら、準備の必要性を説明しても、ルシルは理解を示しながらどこか窮屈そうに笑うことがあった。


 しかし今は、旅を楽しむことと備えを整えることを、別々のものとして考えていない。


(ルシル様も、ずいぶん旅の時間を自分のものにされましたね)


 シモンは胸の内でそう思ったものの、口には出さなかった。彼自身もまた、かつては何事も予定どおりに進めることこそが最善だと考えていた。


 今では、休憩の途中で雲の形を眺めたり、予定になかった景色のために少し時間を使ったりすることにも、以前ほど抵抗を覚えなくなっている。


 もちろん、安全に関わる部分を曖昧にするつもりはない。それでも、危険がないと確かめた場所でまで、時間の使い方を厳しく決める必要はないのだろう。


 敷物の上に腰を下ろしたモモが、そんな二人へ手を振った。


「ルシル君、シモン君! こっちで少し休もうよ。せっかく広げたんだから、ちゃんと使わないともったいないよ!」


「そうだね。馬たちも落ち着いているし、僕たちも休もうか」


「では、必要なものを取ってきます。飲み水と、昼食の残りではなく、別に用意してある軽食を確認しておきましょう」


「シモン君、おやつって言ってくれていいんだよ?」


「食べる時間と量を考えれば、軽食という表現でも問題ありません」


「もう、そういうところがシモン君なんだから!」


 モモは笑いながら旅帳面を開き、真っ白なページへ目を落とした。


     ◇


 休憩のために広げた敷物の上には、飲み水と簡単な軽食が並べられた。リーヴェルの市場で買った乾燥豆は、十分な水と火を使って調理する必要があるため、今ここで食べるものには含まれていない。


 モモはそのことを少し残念がっていたが、豆をどう料理するかという話になると、すぐに目を輝かせた。


「ねえ、あの豆って、スープにしたらおいしいのかな? 市場のおじさんは煮込み料理にも使えるって言ってたよね」


「種類によって向いている調理法は違いますが、十分に水で戻し、しっかり加熱すれば使えるでしょう。ただし、今は飲み水の残量も考える必要があります」


「じゃあ、次にちゃんと水を補給できる場所があったら考えようかな。せっかく買ったんだし、おいしく食べたいもん」


「いいね。僕も楽しみだよ。町で見たものを、今度は旅の途中で使ってみるのも面白そうだ」


 ルシルが頷くと、モモは嬉しそうに笑った。市場で買い物をしたときには、ただ珍しい食材を手に入れたという気持ちが強かったが、こうして旅先での使い方を考えると、買ったものが少しずつ自分たちの暮らしに結びついていくようだった。


 シモンは水筒の蓋を確かめながら、二人の会話を聞いていた。


「食料の種類が増えること自体は悪くありません。ただ、乾燥豆は保存が利く反面、調理の準備が必要です。簡単に食べられるものと組み合わせて管理するのがよいでしょう」


「なるほどね。お腹が空いたからって、すぐ食べられるわけじゃないもんね」


「ええ。特に長い移動のあとでは、調理に使える時間や燃料も考えなければなりません」


 モモは旅帳面の端に、小さく豆の絵を描いた。その隣へ「水」「火」「時間」と書き添え、少し考えてから「おいしく食べる」と付け足す。


 ルシルが覗き込むと、彼女は照れくさそうに笑った。


「忘れないように書いておこうと思って。わたし、食べ物のことなら絶対に覚えてるつもりだったんだけど、準備のことは抜けちゃうかもしれないから」


「いいと思うよ。僕も、馬車を動かすときに気をつけることは、何度も確認しているし」


「ルシル君でも?」


「もちろん。慣れてきたからこそ、確かめるのを忘れないようにしたいんだ」


 その答えに、モモは少しだけ真剣な顔になった。旅を始めた頃の彼女は、分からないことがあればシモンに尋ね、困ったことがあればルシルと一緒に考えるだけで十分だと思っていた。


 しかし、町や村を巡り、さまざまな人々の暮らしに触れるうちに、旅を続けるためには小さな判断がいくつも必要なのだと気づき始めている。


(わたしも、ただ楽しいって言うだけじゃなくて、ちゃんと三人の旅を支えられるようになりたいな)


 そう思いながら旅帳面を閉じると、モモは草原へ目を向けた。風に揺れる草の間には、小さな白い花が点々と咲いている。


「ねえ、あのお花、近くで見てきてもいいかな? ここからでも見えるけど、形がちょっと気になるんだ」


 ルシルは花のある場所と、その周囲の地面を見比べた。敷物からそれほど離れておらず、草も比較的低い。


「僕も一緒に行こうか。シモン、馬たちをお願いしてもいい?」


「承知しました。ただし、街道から大きく離れないでください。草の下に窪みがあるかもしれませんし、私有地との境界も分かりませんから」


「分かった。すぐ近くで見るだけにするよ」


「シモン君、心配しなくても、お花を全部摘んだりしないよ!」


「そこまでは申し上げていませんが、摘まずに観察するのはよい判断です」


 モモは満足そうに頷き、ルシルと並んでゆっくり歩き始めた。


 草地は遠くから見ると平らに見えたが、実際には小さな起伏がいくつもあった。ところどころ土が露出している場所もあり、二人は足元を確かめながら進む。


 白い花は、近づいてみると想像していたよりもずっと小さかった。細い茎の先に幾枚かの花びらを広げ、風が吹くたびに頼りなく揺れている。


「かわいいね。大きな花じゃないのに、こうして集まって咲いてると、遠くからでも分かるんだ」


 モモは花のそばにしゃがみ込み、手を伸ばしかけてから途中で止めた。触れれば茎を折ってしまうかもしれないと思ったのだろう。


 ルシルも隣へ腰を落とし、花びらの形を眺めた。


「町の市場で教えてもらったこと、覚えてる? 葉っぱだけじゃなくて、茎や花も見たほうがいいって」


「うん! だから、ちゃんと見ておこうと思って。これも名前は分からないけど、絵にしておけば、あとで誰かに聞けるかもしれないもん」


「それなら、花の形だけじゃなくて、葉っぱがどこについているかも描いておくとよさそうだね」


「なるほど! ルシル君、ちょっと詳しくなったんじゃない?」


 モモが楽しそうに笑うと、ルシルも頷いた。


「僕も市場で話を聞いて、少し考え方が変わった気がする。知らないものを見つけたとき、すぐに名前を決めなくてもいいんだって」


「うん。分からないままでも、ちゃんと覚えておけるんだよね」


 モモは花をじっと見つめたあと、旅帳面を開いて形を描き始めた。風が強くなると紙がめくれそうになるため、ルシルが片側を押さえてやる。


 彼女の筆先は、花びらから茎へ、茎から葉へと少しずつ移動していった。絵は決して精密な植物図鑑のようなものではなかったが、モモが何に興味を持ち、何を覚えておきたいと思ったのかは、十分に伝わってくる。


「ねえ、ルシル君。わたし、旅帳面を始めてよかったなって思う」


「どうして?」


「前だったら、きれいだなって思っても、そのまま通り過ぎちゃったかもしれないでしょ。でも、描こうと思うと、もう少しよく見たくなるんだよね」


 モモは筆を止め、白い花へもう一度目を向けた。


「花びらの形とか、葉っぱのつき方とか、風が吹いたときの動きとか。絵に全部描けるわけじゃないけど、見ていた時間まで覚えていられる気がするの」


 ルシルは彼女の言葉を聞きながら、旅帳面のページへ視線を落とした。そこにはリーヴェルの市場や町並み、これまでの道で見つけた景色が少しずつ積み重なっている。


 どれも、誰かに命じられて記録したものではない。モモが自分で見つけ、自分で残したいと思ったものばかりだった。


「それって、すごくいいことだと思うよ。僕もモモの絵を見ると、あのとき何を話したか思い出すことがあるし」


「本当?」


「うん。景色だけじゃなくて、そこで一緒に過ごした時間も残っているみたいだから」


 その言葉に、モモはしばらく黙っていた。やがて頬をほんのり赤くし、旅帳面を大切そうに胸元へ引き寄せる。


「……じゃあ、もっといっぱい描こうかな。ルシル君とシモン君が、あとで見て楽しくなるようなものも」


「楽しみにしてるよ。でも、モモ自身が描きたいものを一番にしてね」


「うん! それはもちろん!」


 モモは明るく答え、再び花の絵へ向き直った。ルシルはその横顔を眺めながら、彼女が旅の中で少しずつ変わっていることを感じていた。


 ただ新しいものを見つけて喜ぶだけではなく、誰かの話を聞き、覚え、自分なりの形で残そうとしている。


 そして、その変化はきっとモモだけのものではない。


(僕も、旅に出る前とは違うものを見ているんだろうな)


 ルシルは視線を上げ、風の向こうに続く丘を眺めた。かつての自分なら、この道がどこへ通じ、どの土地を誰が治め、どんな役割を持っているかを先に考えていたかもしれない。


 今は、道の途中に咲く小さな花のことを、しばらく忘れずにいたいと思っている。


 それが何か大きな変化なのかは分からない。それでも、胸の奥に生まれた穏やかな気持ちは、確かに自分のものだった。


     ◇


 二人が敷物のある場所へ戻る頃には、午後の陽射しが少しだけ傾き始めていた。


 シモンは馬たちの様子を確認し終え、馬車の脇で簡単な記録をつけている。ルシルたちの足音に気づくと顔を上げ、モモの手にある旅帳面へ目を向けた。


「観察はできましたか?」


「うん! 白くて小さいお花だったよ。名前は分からなかったけど、葉っぱの形も描いてきたの!」


「それはよかったですね。植物の名前を知りたい場合は、土地の方へ確認するのが確実でしょう。似た姿のものもありますから」


「うん、勝手に決めつけないようにする!」


 モモはそう答えながら敷物へ腰を下ろした。歩いた距離は短かったものの、しゃがんで絵を描いていたせいか、足を伸ばすと気持ちよさそうに息を吐く。


 ルシルも隣に座り、シモンが広げていた道の記録へ目を向けた。


「この先は、まだしばらく草地が続きそうかな?」


「現在確認できる範囲では、その可能性が高いですね。ただ、丘の向こうの地形までは見通せません。夕方までに安全な場所を見つけることを優先したいところです」


「そうだね。今日中にどこかの町へ着く必要はないし、無理をしないで進もう」


「はい。天候は今のところ安定していますが、日が落ちてから場所を探すのは避けたいですから」


 モモは二人の会話を聞きながら、少し考えるように首を傾げた。


「ねえ、もしこの先に泊まれる宿がなかったら、今日は馬車で寝るんだよね?」


「そうなるでしょうね。ただし、停車する場所の安全と、水の残量を確認してから判断します」


「じゃあ、今日は久しぶりに、外で星が見られるかもしれないんだ!」


 モモの声が弾んだ。宿の部屋で眠る夜も嫌いではないが、馬車で過ごす夜には、窓の向こうに広がる空を眺められる楽しみがある。


 ルシルもその気持ちはよく分かった。


「晴れていれば、きれいに見えるかもしれないね。でも、暗くなってから外を歩き回るのは危ないから、見るなら安全な場所でね」


「分かってるよ。シモン君に怒られないようにする!」


「私が怒るかどうかではなく、安全かどうかで判断してください」


「はーい!」


 モモは元気よく返事をしたが、その顔には笑みが浮かんでいた。シモンもそれ以上は言わず、道の記録を閉じる。


 ルシルはそんな二人を見ながら、ふと口を開いた。


「そういえば、リーヴェルを出るときに思ったんだけど、僕たち、町に滞在するのもずいぶん慣れてきたよね」


 モモが不思議そうに顔を上げた。


「そうかな? わたしは毎回、新しい町に入るとわくわくするよ」


「それは僕も同じだよ。でも、最初の頃より、何を確かめればいいか分かるようになった気がするんだ。宿のこととか、馬たちのこととか、買い物のこととか」


 ルシルは指を折って数えながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「昔は、泊まる場所を決めるだけでも、全部シモンに任せてしまっていたと思う。でも今は、僕もモモも、自分で考えて聞けることが増えたでしょう?」


「確かに! わたし、宿でご飯のことを聞くのは得意になったと思う!」


「モモ嬢の場合、それは最初から得意だったように思いますが」


「ええっ、そうかなあ?」


 モモは少し考えたあと、自分でもおかしくなったのか笑い始めた。


 ルシルもつられて笑ったが、やがてシモンへ視線を向ける。


「でも、シモンにはずっと助けられてるよ。道を調べたり、馬具を確かめたり、僕たちが気づかないことを見てくれているから」


「それは私の役目ですから」


 いつものように返された言葉に、ルシルは少しだけ首を振った。


「役目だからっていうだけじゃなくて、シモン自身が一緒に旅をしてくれているのが嬉しいんだ」


 シモンはすぐには答えなかった。


 風が敷物の端を揺らし、少し離れたところでトルクが鼻を鳴らした。モモも何かを言いかけたが、シモンの表情を見て口を閉じる。


 ルシルは急いで言葉を重ねなかった。相手が答えを探しているときに、無理に続きを促す必要はないと思ったからだ。


 やがてシモンは眼鏡の位置を直し、いつもより少し柔らかな声で答えた。


「……私も、この旅に同行できてよかったと思っています。予定どおりに進まないことは多いですが、それを不都合だと感じるばかりではなくなりました」


「本当?」


「はい。もっとも、予定が立たないことと、準備をしなくてよいことは別ですので、そこは誤解なさらないでください」


 最後の一言に、ルシルは笑って頷いた。


「もちろん。そこはこれからも頼りにしてるよ」


「シモン君、今の言葉、なんだかすごく嬉しいね!」


 モモが身を乗り出すと、シモンは少しだけ困ったような表情になった。


「そこまで大げさな話ではありませんよ」


「大げさじゃないよ! だって、シモン君が楽しいって思ってくれてるなら、わたしも嬉しいもん」


 モモはまっすぐにそう告げた。シモンは返事を探すように一度だけ視線を外したが、やがて小さく頷いた。


「……ありがとうございます、モモ嬢」


 その声を聞いて、ルシルは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 王宮にいた頃のシモンは、常に自分の役目を優先していた。どれほど疲れていても表情に出さず、誰かのために働くことを当然のように受け入れていた。


 今も彼の責任感が変わったわけではない。それでも、こうして自分自身の気持ちを言葉にしてくれることが、ルシルには何より嬉しかった。


(シモンにも、もっと自分の好きなことを見つけてほしいな)


 そう思いながら、ルシルは遠くの草原へ目を向けた。


 旅はまだ続く。これから先、どんな町へ行き、どんな人と出会うのかは分からない。


 しかし、三人で相談しながら進むことができるなら、きっと新しい景色を楽しんでいけるだろう。


     ◇


 休憩を終える前に、シモンはもう一度周囲の状態を確認した。


 敷物の下に隠れていた小さな草の茎を避けながら布を畳み、使った道具を元の場所へ戻していく。モモも手伝い、荷物を片づける際には、風で紙が飛ばされないよう旅帳面を先に閉じた。


「シモン君、これで大丈夫かな?」


「はい。あとは、地面に何も残していないか確認しましょう」


 三人は休憩した場所を見渡した。飲食に使ったものも荷物もすべて回収してあり、草地には馬車を停めていた跡がわずかに残っているだけだった。


 ルシルはその様子を確かめてから、二頭の馬へ歩み寄った。


「トルク、ベルク、休めたかな? もう少し先まで進もうと思うんだけど、よろしくね」


 トルクはルシルの声に耳を動かし、ベルクは穏やかに首を下げた。二頭の状態を見たシモンも、問題ないと判断したようだった。


「無理のない速度で進めば、まだしばらく移動できます。ただ、次に停まる場所は、夜を過ごせるかどうかも含めて考えたほうがよいでしょう」


「うん。景色がいいだけじゃなくて、馬車を安全に停められる場所を探そう」


「それなら、わたしも周りをよく見ておくね!」


 モモはそう言いながら御者台へ乗り込み、ルシルの隣へ腰を下ろした。シモンは最後に車輪と荷物の状態を確認し、馬車へ戻る。


 準備が整ったところで、ルシルは手綱を軽く動かした。


 二頭の馬がゆっくりと歩き始め、車輪が乾いた地面を転がる。休憩場所は少しずつ後方へ遠ざかり、草原の中に溶け込んでいった。


 街道は大きく曲がることなく、緩やかな丘の間を抜けて南へ続いている。道の両側には背の低い草が広がり、ときおり小さな木が一本だけ立っていた。


 モモは御者台から周囲を眺めながら、旅帳面を開こうとして手を止めた。


「どうしたの?」


 ルシルが尋ねると、モモは少し照れくさそうに笑った。


「さっき、描こうと思うとよく見るようになるって話したでしょ。でも、今は描かないで、ただ景色を見ていたいなって思ったの」


「それもいいと思うよ。全部を絵に残さなくても、覚えていられるものはあるだろうし」


「うん。あとで描きたくなったら、そのときに描けばいいもんね」


 モモは旅帳面を膝の上へ置き、風に揺れる草へ目を向けた。


 少し離れた場所では、小さな鳥が草の間から飛び立ち、低い空を横切っていった。その姿を追っているうちに、モモは自然と笑みを浮かべる。


「ねえ、ルシル君。わたし、旅をしていると、知らないことがどんどん増えていく気がする」


「知らないことが増える?」


「うん。前は、知らないものがあることにも気づいてなかったんだと思う。でも、いろんな場所へ行くと、あれは何だろう、これはどうなってるんだろうって、次々に思うの」


 ルシルはその言葉を聞きながら、街道の先へ目を向けた。


「分かる気がするよ。僕も、王宮にいた頃は知っているつもりだったことが、実際に外へ出ると全然違って見えることがあるから」


「例えば?」


「そうだなあ……市場のことかな。町に市場があるのは知っていたけど、朝早くから準備する人がいて、荷物を運ぶ人がいて、店を片づける人がいて、そうやって一日が成り立っているんだって、実際に見て初めて分かったことも多かった」


 モモは何度も頷いた。リーヴェルの市場で見た人々の姿が、彼女の中にも残っているのだろう。


「わたしも、野菜を売ってた人のお話、面白かったな。畑で見た葉っぱだけじゃ、何の野菜か分からないこともあるんだって」


「そうだね。知らないことを知るのも楽しいし、分からないまま覚えておくのも大切なのかもしれない」


 ルシルがそう答えると、モモは少し考え込んだ。


 やがて、彼女はふっと笑った。


「じゃあ、これからもいっぱい分からないものを見つけようね!」


「うん。もちろん」


 ルシルは笑って頷いた。


 馬車の後方から、シモンの声が聞こえてくる。


「ただし、分からないものを見つけたからといって、何でも触ったり食べたりしないでくださいね」


「シモン君! ちゃんと分かってるってば!」


「念のためです」


 いつものやり取りに、ルシルは思わず声を立てて笑った。


 モモは少しだけ不満そうに頬を膨らませたものの、すぐに笑顔へ戻った。シモンも後方で小さく息をつきながら、二人の会話を聞いている。


 草原を渡る風は、相変わらず穏やかだった。


 遠くの丘の上では雲の影がゆっくりと移動し、道端の草は馬車が通り過ぎるたびにかすかに揺れる。車輪の音と馬の足音が重なり、三人の会話が途切れたあとも、旅の時間は静かに流れていった。


 やがて街道の先に、少しだけ地面が高くなった場所が見えてきた。


 そこには数本の木がまばらに立ち、草地の中でも比較的見通しのよい一角が広がっている。遠目には馬車を寄せられそうな場所もあったが、実際に停められるかどうかは近づいて確かめなければ分からない。


 ルシルは手綱を握り直し、シモンへ声をかけた。


「シモン、あの木のある辺り、どう思う?」


 シモンは前方へ視線を向け、しばらく地形を確かめていた。


「候補にはなりそうですね。ただ、地面の状態と周囲の安全を確認する必要があります。日が落ちるまでにはまだ余裕がありますから、焦らず近づきましょう」


「分かった。じゃあ、まずは様子を見てみよう」


 モモも前方を覗き込み、木々の間に見える空を眺めた。


「もしあそこで休めたら、夕方の景色もきれいそうだね。星も見えるかな?」


「それは、夜になってからのお楽しみだね」


「うん! 楽しみ!」


 モモは嬉しそうに笑い、膝の上の旅帳面をそっと撫でた。


 リーヴェルの町で見つけたものも、今日の草原で見つけた小さな花も、これから先に待っている景色も、すべてが三人の旅の一部になっていく。


 ルシルは前方へ視線を戻し、トルクとベルクの歩調に合わせて馬車を進めた。


 かつて王子として歩んでいた道には、いつも誰かが決めた目的地があった。けれど今、彼の前に続いているのは、自分たちで選びながら進んでいける道だった。


 その先に何があるのかは、まだ分からない。


 だからこそ、ルシルは穏やかな期待を胸に抱きながら、草原の向こうへ続く街道を見つめていた。


 午後の風が馬車の窓を通り抜け、モモの楽しそうな声と、シモンの落ち着いた返事を運んでいく。


 三人と二頭の馬を乗せた馬車は、次の休息場所を探しながら、ゆっくりと南へ進んでいった。

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