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第四話


 ●


 あの路地でわたしたちは思いをつなげた。

 いわゆる恋人同士になったのだが、日常の何かが変わることはあまりなかった。

 わたしは普段、施設の仕事が忙しいし、レオにはレオのやることがある。たまの休日に、彼と出かけていたことが、お金が必要なくなって、デートという名目になっただけだ。

 レオはというと、足を洗えるように少しずつことを進めているという。依頼人は検挙させて、自分は助かろうとしているなんて、そんなこと可能なのかと心配になるけれど、彼ならできてしまうのだろう。

 人のために働いて、時々、好きな人とあたたかくて甘やかな日を過ごす……そんな日常は、冬を超えて春へと移り変わった。


「すごい花の種類ね……!」

 眼前に広がる花々の幻想的な光景に、ため息がこぼれて見惚れてしまう。

 わたしとレオは、少し遠出のデートをしている。王都からの馬車で二時間ほどの場所にある花畑に来ていた。王族領の観光地で、貴族平民国内外問わず、多くの人が訪れるとか。

「でもびっくりしたわ。レオから誘ってくれるとは思わなかった」

「乗合馬車の予約に空席ができたって知り合いから教えてもらってさ。あんた行きたがってたし、ちょうどいいなって」

「……ちゃんと覚えていてくれて嬉しいわ」

 この場所は王族領なだけあって、事前の予約が必須となっている。歩いていける距離でもないから、平民たちは馬車の予約の奪い合いになってしまうのだ。

 人気があるうえに季節ものだから、予約を取ることは至難のこと。競争に負けて項垂れていたわたしを、レオは知っていたらしい。

「夢のような景色だわ。連れてきてくれてありがとう、レオ」

 花の香りをいっぱい吸い込んで、幸せな心地のままお礼を伝える。

 レオも目を細めながら、笑い返してくれた。

「その笑顔が見られたから、いいよ。お礼なんて」

「あら。昨日お願いしてきた"あれ”はいいの?」

「……それを言うのはいじわるじゃね?」

 ふてくされる顔がかわいくて、からかってしまったのが申し訳なくなった。ごめんなさいと謝って、わたしは持っていたバスケットを少しだけ開けてみせた。

 中には三種類のサンドイッチとデザートのイチゴが入っている。サンドイッチは私の手作りで、それがレオのお願いだった。

 「少し早いけどお昼にする?」

 バスケットの中をみつめたまま、レオは子どもっぽく頷いた。


 職員として働き出したときから、わたしはいわゆる一人暮らしをしている。とはいっても、仕事が忙しくて食事は買うようにしていたから、レオからお願いされたときは、胸が不安でいっぱいになった。

 だから、直前になって料理上手な職員の方に頼み込んだ。その人は平民で最初は驚かれたけれど、事情を離せばレオとの思い出話を条件に教えてくれることになった。これを恋バナというらしい。

 とはいえデートまで日にちがなかったから、今回は簡単なサンドイッチになった。これなら台所に立ったことのないわたしでも作れるかもと思えたけれど、案外、これが奥深いものだった。特に卵はいただけない。スクランブルエッグの出来栄えに、何度も頭を悩ませたものだ。

 なんとか形になっているサンドイッチたちを眺めて、修行の日々が思い起こされる。最終的には、味が良ければいいという結論には至ったけれど、どうせなら綺麗なものがいい。今日のために、二時間早起きして身支度をしたわたしと同じように。

 レオは「おー」と感心したように声を出して、そのままサンドイッチにかぶりついた。味に頓着がないことはわかっているけれど、できることなら美味しいと言って欲しい。

 欲張りな気持ちが溢れながら、レオのことをじっと見ていると、彼は眉を下げてこちらへ向いた。

「……そんな心配そうな顔しなくても、美味いよ。頼んだ時はこの世の終わりみたいな表情だったけど、ちゃんとできてる。すごいじゃん」

 褒めるだけでなく、レオは頭まで撫でてくれた。手付きがどこか子どもたちに向けるものなのは、少しだけむうっとしてしまうが、それでも嬉しい気持ちでいっぱいになる。

「よかった……。いい先生に恵まれたのもあるわね。これからも練習頑張るわ!」

「……その練習の成果は、誰に出してくれんの?」

「もちろん、レオよ! あなたに美味しいって言ってもらえるように頑張ったんだから!」

 レオは言葉を噛みしめるように、はにかんでいる。……自分から聞いておいて、照れないで欲しい。


 お腹いっぱいになった後、わたしたちはのんびりと敷物の上で休んでいた。このあたりは自由スペースらしく、植物も積んでいいらしい。

 昼寝をしているレオを横目に、わたしは子どもたちから教えてもらった花冠を編んでいた。出来上がった冠を、寝ているレオの頭にそっと乗せる。

 あまりにも穏やかな光景に、思わず笑みが零れた。

「……なにしてんの」

「ごめんなさい、起こしちゃった?」

「別にいいけど。……花冠?」

「可愛いでしょう? この間、教えてもらったの」

「あー、あの時のか。自分で被ればいいのに」

「レオも似合ってるわよ」

 本心から伝えるけれど、レオは「うれしくねー」と言いながら、自分の頭から花冠を外して、わたしの頭にぽんと乗せた。

 わたしが目をぱちくりさせていると、レオは満足そうに頷いて、

「こっちの方がいい。あんたは、おれのお姫様なんだから」

 そんなことを屈託のない笑顔で言ってくる。

 レオの言葉は、子どもっぽいのに強烈だから、刺さって抜けないのが難点だ。

 わたしは照れた顔を隠すので精いっぱいだった。


 王都に戻ってきたのはすっかり暗くなった夜だった。

 家の近くまで送ってもらって、つないでいた手を離すのが切なかったけれど、惜しむようなキスをしてくれたから、きっとなんでも許せてしまう。

 レオが行ってしまって、さて家に入ろうとしたとき、見慣れない風貌の男たちが扉の近くに留まっていた。

 男たちは騎士だ。剣を携えていて、それなのに憲兵ではなかった。

 嫌な予感が、冷たい汗となって背筋を伝っていく。

 これはいけないと思って、路を引き返そうとするけれど、それよりも早く気取られてしまった。

「――オリヴィアお嬢様! お待ちしていました。こんな夜間までの外出はご当主が心配されます」

 視界がぐらりと歪んだ心地がした。

 彼らはフォックスの家の騎士だ。

「……何の用事?」

「詳細は我々には何も。ですが、すぐに帰宅するよう、ご当主からの命です」

「……それは悪いことをしました。こんな夜分に行くのは申し訳ないですし、明日は仕事もありますので、帰省の予定を詰めるよう手紙を送ります」

「いえ、その……すぐ帰宅するように、とのことです。……手荒なことはしたくありません。ですから、馬車に乗ってくださいませ。お願い致します」

 その通達に、また眩暈がする。

 無理やり連れ帰れと、彼らは言われたのだ。

 彼らの不安げな表情に、恐怖と同時に、同情の気持ちも湧いてくる。

「わかり、ました。近隣の方々を不安にさせたくありません。――……早く案内しなさい」

 強い言葉を言う自分が、なんだかひどく不自然に思える。それでいて、じわじわと気分が悪い。上下を感じる関係なんて、ここしばらくは、無縁のものだったから。

 馬車に乗り込んで、ゆっくりと動き出す。

 柔らかいクッションに、質の良い車は、不快な思いをさせない。臀部を痛めながらの、昼間の乗合馬車とは大違いだ。

 王城に近づいていく。職場から離れていく。

 「大丈夫、帰ってこれる」と、言い聞かせながらも、胸騒ぎがおさまらなかった。


 大嫌いな建物の前に立っている。

 初めて侍従たちに出迎えられて、ハウススチュワードの案内で談話室に通された。手厚い歓迎に内心、鳥肌が立つ。

 談話室にいたのは、父と母のみ。もう一人の家族である兄は居なかった。

「お久しぶりでございます。オリヴィア、帰還いたしました」

「息災のようだな。座りなさい」

 返事をして、開いているところに腰掛ける。あまりの柔らかさにバランスを崩しそうになるけれど、どうにか持ち直した。

 メイドが出した紅茶を一口飲みこむ。花のような香りに、昼間を思い出して顔を顰めそうになる。

 けれど、決して表情を崩してはならない。無様な姿を見せてはいけない。ここはそういう場所だ。

「これは、まだ公になっていない話だ」

「……はい」

 父の視線に体が動けなくなる。しかも内密の話だなんて、今すぐ逃げ出したい気持ちだった。

「王太子殿下の婚約者であるサンドルド侯爵令嬢が、領地での事故で亡くなった。落馬で、打ち所が悪かったらしい」

「それは……悲しいことですわね」

「王太子は今年で十八歳、婚姻可能年齢になられる。よって、王太子婚約者の再決定が急がれている。……第一候補者はおまえだ、オリヴィア」

 嘘だ。そんなわけがない。現実的ではない。

「……今まで社交界に一切出ず、ろくな教育を受けていないわたしが、ですか?」

「王家に見合った格があり、十六歳になってまで婚約者がいないのはおまえくらいだ」

 そうなったのはあなたたちのせいだろう!

 外面をかなぐり捨てて、みっともなくそう叫びたかった。

「……もう……決まったこと、なのですか?」

「いや、今回は王太子殿下の意志が介入する。候補者たちと面談をしたいとのことだ」

「……いくら格があろうと、他の令嬢に比べて教養も作法も身についておりません。……お気に召すとは思えない……」

 まともに教育されたのプレ・デビュタント直前の十二歳のとき。もう三年以上は経っている。

 こんな大博打、気が狂っているとしか思えなかった。

 けれど、父はしたり顔で言う。

「王太子殿下は市井に心を砕く方針だ。能力主義で平民からの登城も考えているらしい。――おまえとそっくりではないか」

 とっさに理解ができなかった。褒められたのか? いや、不愉快なのだろう。眉を顰めている。

 どこまでも、わたしには興味がない。利用できるとわかったから呼び戻しただけだった。

「……不敬ですよ、お父様」

「とにかく、明日から教育を行う。面談までに仕上げろ」

「……わたしは、平民になりたく思います」

 水面に一滴落としたように、部屋の空気が変わる。

 言ってしまった、とは思う。けれど、このままは嫌だった。わたしにはすでに決めた人生があったから。

「衣食住を提供し育ててくださったことは感謝しております。ですが、お父様はなにもしてくださらなかった。体裁だけ気にして、必要になったときだけ都合よく気に掛ける。だから、わたしは家を出たのに……」

 今まで抑えていた積怨がせき止めなく零れる。必死に捲し立てる。

 わたしが息継ぎをしたときに父は、

「――そうか」

 一言だけ、平坦な声でつぶやいた。

 ……怖かった。目を反らすとそちらには母がいたが、こちらも冷ややかな感情を向けている。

 味方はどこにもいなかった。

 絶望で何も考えられないまま、数年ぶりの自分の部屋で、いつのまにか、声を殺しながらひとりで泣いていた。

 愛しい人の名前は、闇に溶けるだけだった。


 家に戻されてからの日々は、平坦でつまらない。

 勉強、作法、ダンス、テーブルマナーを兼ねた食事。その繰り返しの日々。

 最初は反抗して出来の悪いようにわざと失敗して見せた。けれど、そうしたら鞭が飛んできた。二の腕、太もも、腰と人から見えないところにつけてきて質が悪い。

 さらには、酷くならないように回数制限があって夜にはしっかり手当をしてくる……恐ろしかった。

 簡単に暴力が飛んでくるこの場所にいたら自分の命が危ないと、理解するのは早かった。死ぬのは恐ろしい。そして、レオと再会するまで死ぬわけにはいかなかった。

 移動の途中で窓の外を見つめる。何もかもが恋しいのに、飛び出すことができない自分が、檻の中にいるみたいだった。


 ひと月が経ってしまった。そしてようやく、その日は来た。

 わたしは王城の庭園にいる。実家とは比べられないほど広く美しい木々と花々が、客人をもてなしていた。

 この場には、両親の目はない。ここで失敗してしまえば、わたしは自由になれる。不敬にならないように、慎重に出来の悪い令嬢を演じる。

 多少の叱責はあるだろうけど、殺されはしないと思う。ただ、ちゃんと失望されて捨てられるだけ。そのために、今日まで耐えてきた。

 先に案内されて紅茶を飲んでいたところで、空気が変わった。

 ゆったりとした足取りで、金髪碧眼の青年が歩いてくる。控えている侍女や侍従までうっとりと見惚れてしまうオーラが彼にはあった。

「初めまして、オリヴィア嬢。アーサー・エヴァン・ファナストレンだ」

「……未来の太陽にご挨拶申し上げます。オリヴィア・フォックスです。本日はお目通り叶うこと、大変光栄に思います」

「きみのことはフォックス伯爵から聞いていてね。会えるのが楽しみだったんだ」

「……恐縮です」

 第一候補というのはやはり父の根回しもあったらしい。

 アーサーはふんわりとした笑みを浮かべながら席に着くよう促す。

 彼は、全体的に線が細く儚げな印象をしていた。幼少は体が弱かったと聞いているから、その名残があるのだろう。

「自分にも、体が丈夫でない娘がいるから心配だと、伯爵にはよく気にかけてもらっていた」

「そう、なのですね」

 根回しが思っていた以上に過去から行っていたことに驚く。父の事を何もわかっていなかったのはわたしもみたいだ。こんなにも野心家だったなんて。

「あっ……!」

 驚きが手に伝わったのか、ティーカップを落としてしまった。わたしだけでなく、周りの侍女たちの息を呑む声がした。紅茶が、アーサーの靴にかかっていたからだ。

「で、殿下……! 申し訳ありません……!」

 好都合だ。この不敬で、苛立ってこの会を打ち切って欲しい。

 怯える表情を浮かべながら、わたしは内心そんなことを考える。

 けれどアーサーは、目をぱちくりした後、また変わらないふんわりとした笑みを浮かべた。

「問題ないよ。靴は拭けばいい。オリヴィア嬢は、火傷などしていないかい?」

 周りは和やかなアーサーにうっとりとして心を奪われている。

 けれど、悠然とした様子に、わたしは焦るばかりだった。

 

 茶会の場が整うまで、庭園を歩くことになった。差し出された手を取るのが内心嫌だったけれど、品のいい笑みで飲み込む。

 アーサーは庭園の花々について教えてくれた。実は、この庭園は彼の所有で、幼少からの遊び場であると。よどみなく語られる知識は、彼の趣向がよく表れていた。

「あぁ、すまない。私ばかり話してしまって」

「いえ、殿下の慈愛の御心が知れて嬉しく思います」

 微笑んでみせると、照れくさいように眉を下げる。

 あまりにも優しい人間だと思う。けれど、一見に騙されてはいけない。彼は未来の為政者だ。

 そんな気持ちのまま、次の行動に移した。

 ぐらり、と体が倒れていく。足をもつれさせて、ドレスを駄目にしようとした。けれど、アーサーはしっかり反応して抱き留める。

「も、申し訳、ありません……」

「間に合ってよかった。足場が悪かったかな」

「いえ、わたしが……わたしがわるいのです……」

 目を潤ませて、おどおどした姿をつくり出す。

「父から聞いているかと思いますが、わたしはろくに散歩ができないような体をしています」

 彼の耳に近づいて、

「世継ぎなど、生み出せないほどかと……」

 ぽつりとつぶやいた。

 王族は血を継ぐことを重要視するだろう。さらには、このような場ではしたない話をすれば、わたしに価値など無くなるはずだ。

 さあ失望してくれ、と思いながら、ちらりと様子を伺えば、彼はなぜか苦しげな表情をしていた。

「そのような状態でもなお、民のために働いていたのか……意志が強いのだね、きみは」

「……はっ?」

 うまく呑み込めなくて取り繕った顔が一瞬崩れる。

 とても、嫌な予感がした。

「きみが役所で働いていることは知っているよ。婚約者候補のことだからね」

「そう、でしたか……」

「噂になっているとおり、私は能力ある者には平等に機会があるべきだと思っている。それは平民も、だ。そのためには、もっと民に寄り添った政策をすべきだと思っている」

 やめてほしい、それ以上、言葉を紡がないで。

「自ら市井に飛び込んで寄り添うきみを知って、私は尊敬の念を抱いたよ。是非とも、私と共にその模索をしてほしいと思った」

「……恐れながら殿下。わたしは……これからも役所で働きたく存じます。婚約者候補の身でありながら、おこがましい願いとはわかっておりますが……」

 冷静でいられないまま、わたしは言葉を続ける。

 もう、素直に願いを伝えるしかなかった。王族に楯突くだけでも不敬なのに。それほどに、目の前の男が恐ろしくてたまらなかった。

「そうだね。変わらず市井には出られるようにしてあげたいから、公務との調整をしないとね」

 悲鳴を上げないように口を押えるので精いっぱいだった。

 この人は、自分の都合のいいようにしか見ない。

 手詰まりになって、この場から逃げだしたい気持ちに駆られる。けれど、こんな重いドレスでは逃げることはできない。最悪、捕まって死だ。

 絶望が、視界を塗りつぶしていく。

「……うっ……ひっく……あ、あぁ……」

 涙がぱたり、ぱたりとこぼれていき、人目も気にせず、わたしは泣き崩れた。

 アーサーは、そんなわたしをあやすように頭を撫でている。

 わたし以外の全員が、これを歓喜の涙だと思っていた。

 慟哭の真実は、誰にも明かされることはない。


 王太子婚約者に内定した。

 フォックス邸の談話室で、嬉々として内定を報告してきた父を業火にくべる想像をしながら、わたしは微笑む。

 アーサーとはふたつ歳が離れており、この国の婚姻規定年齢は十八歳だ。

 正式な婚姻は二年先であり、婚約は半年後の彼の誕生日の後となった。その王太子誕生パーティにて、婚約発表がされると決まったらしい。

 父は、わたしが自由を諦めたと思っているだろう。しかし、わたしはある決意をした。

 あと二年……いや、婚約が発表される半年後の誕生パーティまでに、この状況を破壊してみせる。

 か弱いふりという、甘ったれた作戦をするべきではなかった。徹底的に、不適格な存在にならなくては。


 婚約者に内定したことでわたしの居住まいは王宮へと移された。これで、両親からの監視は和らぎ、暴力による支配に怯えずに済む。

 そして次に考えるべきこと。まずは王宮内でのわたしの評価を下げる。予想していたことだが、この婚約は父とアーサーの後押しがあって成立していた。当然、これに異を唱える者はいる。そして貴族以外。従者たちは、わたしがどんな存在かをこれから見定める。

「姿勢が崩れています! この程度もできないなんて……」

「も、申し訳ありません……」

 か細く気弱な令嬢で、どこまでも上達しない劣等な存在だとアピールする。

 これが未来の王妃なのかと疑問を持たせるのだ。

「オリヴィア嬢はどちらに!?」

「え? 今日は役所に出勤されると、つい先ほど外出されましたが……」

「本日は王太子妃教育の日ですよ! また侍女を言いくるめて無断外出を……っ」

 問題児になること。教育係からの印象は、たったの数日で地に落とすことに成功した。その他、侍女などからも不祥な人間だという噂が流れ始めている。

 それに併せて、父やアーサーの評価が下がっているが、わたしの知ったことではない。むしろ清々する思いだ。

 ……レオとは会うことができていない。限られた時間の中で彼を探すことは難しく、人を介することで存在を広めたくなかった。親しい友人たちの口が堅いことを祈るしかない。


 無断外出をすることは、早いうちに防止の手を取られた。一日の予定を侍女たちはしっかりと把握しており、移動の際には護衛まで最低一人は付き添うようになった。

 教育の際の小言は回を重ねるごとに増えていったが、実家よりかはましだった。

 今日はアーサーとの茶会だ。場所は彼の庭園で、嫌な思い出が掠めていく。

 初対面からまともな会話はできていなかった。彼の考えがいまだに読めない。

「来てくれてありがとう、オリヴィア嬢。王宮では窮屈な思いをさせてすまないね」

 開口一番に皮肉を言われて、笑顔が引き攣りそうになる。

 当たり前のことだが、きちんとわたしのことは聞き及んでいるらしい。それならば、早く見限って自由にしてほしいところだが、何か作意があるのだろうか。

「……殿下はなぜわたしをお選びに……? 王太子妃にふさわしくないと、自分でもわかっています。それなのになぜ……」

 アーサーは持っていたカップをゆっくりと置いて、ゆらりと濃い色の瞳を向けた。

「象徴、だからかな」

「象徴……?」

「きみは気付いていないようだったけれど、役所勤めのきみは、民からの評判がかなり良かった。貴族育ちでありながら平民に心を砕いてくれるし、自分たちと同じ目線で物事を考えてくれると」

 初めて知る事実に声を呑む。見返りを求めていたわけではないけれど、出会ってきた人々の笑顔を思い出して、じんわりと胸があたたかくなった。

「――……だからいいなと思った。きみが私の傍にいれば、民からの心証は保障されたも同然だから」

「そ、そんな簡単なことでしょうか」

「そうかな? あのオリヴィアが傍についているんだっていう気持ちは安心を感じるだろうね。誰かも知らない貴族よりもよっぽど知っている人間だよ。信に置かれるとはこのことだ。東の共和国では、これに近い政治方法をしているらしいよ」

 淡々と紡がれる声に、ひやりとした感覚を覚える。

 わたしはこの人の人形になるのかもしれないという恐怖が体をこわばらせた。

「……そんなに市井がいい?」

 ぎゅっと体を縮める。この人は、全て調べ上げたうえで、わたしに質問をしているんだ。全部見透かされていそうで、何も言いたくない。

「――……きみが折れないのは、やっぱりレオという青年がいるからかな」

 ひゅっと息ができなくなる。目を見開いても、アーサーは飄々とした態度で、どろりとした感情が込み上げてきた。

「……なにか、なにか彼にしたんですか……っ!」

「なにも。きみの親しい人物として挙がってきたから。それと同時に、フォックス邸周辺をうろつく不審人物とも」

 ぱちりと目の前が弾けた気がした。それでいて、レオの屈託のない笑顔がじんわりと呼び起こされる。

 屋敷の周りにいたのはわたしを心配してくれたのだろうか。その事実に、胸が詰まる思いだった。

「……よほど懇意な間柄のようだね」

「彼になにかしたら容赦しません。わたしは国を敵にする覚悟があります」

 殺意に似た決意を込めて、わたしはにらみつける。それでも、アーサーは揺らがなかった。

「いいね、また面白い報告が聞けそうだ。今日の茶会はここまでにしよう。怪我には気を付けてね、オリヴィア嬢」

 優雅な姿勢を崩さないまま、彼は立ち去る。

 後姿を見ながら、負けられないとこぶしを握った。


 王太子妃教育が始まってひと月が経過した。

 今日はようやく訪れた役所へ出勤する日だったけれど、そこでは異変が起こっていた。

「ご婚約おめでとうございます、オリヴィアさん!」

「……えっ」

 同期である職員の方が、心からの祝辞を送ってきた。

 前回復帰した時には、実家とのごたつきがあって欠勤していたということになっていて、婚約については内密で、こんなところにまでくるはずがないのに。

「どう、してそれを……?」

「あれ、辞表が出されたって聞きましたよ。あとひと月だとか。オリヴィアさんほどのデキる人はいないので、そこはショックです」

「これだから男は自分勝手なんだからっ。おめでたいことなんだから、けちけちするんじゃないよ。本当におめでとう!」

 サンドイッチを教えてくれた料理上手な職員の方も、心からの笑顔で伝えてくれる。

 仕事をしながら何度も言われる祝辞に、上手く笑えているかと不安になる。それでいて、本心ではその言葉が憎くてたまらないと思っている自分が、ひどく非常な人間に思えてくる。

 今日はとても疲れた。心が疲れてしまった。

 季節外れなのに、無性に焼き芋が食べたかった。春の花畑も見たい。……ここから誰か、連れ出してほしい。


 今日は早上がりをさせてもらって、物を取りに戻りたいと、市井に借りていた家に行くことにした。

 変わらず護衛という名の監視はいるけれど、家の中に入るのかと睨みつけたら「辺りを見て回ります」と出て行ってくれた。

 大家さんが気を利かせてくれて、この家は引き払われずに残っていた。物を取りに戻りたいという名目だったけれど、わたしの家はとても簡素なものだ。目立つものは、枕の傍にちょこんと座る黒猫のぬいぐるみくらい。

 埃を溜め込んでいる部屋をどうにかしたくて、少し立て付けの悪い窓を開ける。空を見ると橙色が少しずつ溶けていて、一日の終わりを感じさせる。

 今日もなにもできなかったことに虚しさを感じて、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。この子だけはわたしの味方だと、そう錯覚するくらいに慰められる思いになる。

「――……レオ」

 心細さに、ぽつりと彼の名前が零れた、瞬間――大きな影がわたしを覆った。茜色の光を背に、煤色の髪の毛が風に揺れている。その影は軽い様子で部屋に飛び入ってきた。数歩わたしに近づいてくるけれど、どんどん心が和らいでいくのを感じる……涙が出そうなほどに。

「……オリヴィア」

 名前を呼ばれ、強く抱き寄せられる。縋るようにわたしも背中に手をかけ、くしゃりとするまで強く掴んだ。彼の体温を確かめるられる……本物だった。土のにおいを胸いっぱいに吸い込んで、これが現実だと確信できる。

 こみ上げるものがあって鼻がツンとするけれど、顔を胸に押し当て、唇を嚙んで我慢する。

 今、この瞬間を誰にも邪魔されたくなかった。

 レオの頬に触れて、首の後ろに手を掛けながら、少し強引にわたしの方へと顔を向けさせる。少し驚いて目をぱちりとさせたけれど、彼は柔らかく微笑んでいた。

 ぽろりと涙がこぼれる。彼はわたしを信じてくれているのだと思えて、たまらなく甘えたくなった。

 どちらからともなく息が混ざり合った。求め合って、与え合うような深いキスをしていく。

 空っぽになっていた心が満たされていく。

 話さないといけないことは沢山あるけれど、今は、彼の存在を焼きつけたくてたまらなかった。


 わたしたちは寝台に腰掛けてお互いの状況を整理していった。

 実家に拉致されてから婚約者に内定して、今に至るすべてをつまびらかに伝えていく。

「レオはどうしていたの? フォックス邸の周辺にいたと聞いたのだけど……」

「やっぱり見張られてたのか。最近、やたらと視線を感じると思ってた」

 その度に撒いていたと軽い調子で言うものだから、おそらく大事には至っていないと内心ほっとする。

「フォックスの屋敷にいたのはあんたについて情報を得られないかっていう偵察だった。まあ、入り込むとはできなかったから、不審者止まりで悪手だった。だから、方法を変えて情報を得られないかって行動してた。それであんたとはなかなか会えなかったのもある」

「じゃあ、今日来れたのはどうして? 偶然?」

「今日は時間が空いてた。アニスが『今日はオリヴィアがいるよ』って教えてくれて。でも、お互い見張られてるだろうから、機会を伺ってた」

「それで屋根から……すごいわね、レオって」

 驚きのまま褒めると、複雑そうな表情でわたしの頭を撫でてきた。

「変わんねえなあ、あんた」

「レオの前だから」

 今はすごく自然に笑えている。あれこれ考えずにおしゃべりできるのが、特別なことだと実感していた。

「方法を変えてって、どういうこと?」

「あー…………おれが殴られてたときの貴族、トゥーナ子爵っていうんだけど、今はそこで働いてる。ちょっと昇進みたいな」

「えっ!?」

 咄嗟に口を押える。しばらくしても、外から何も声を掛けられないことにほっとしてから、わたしはレオに詰め寄った。

「大丈夫なの? また殴られたり蹴られたりしてない?」

「してない。というか、あのときはされておかしくない失敗をしたからであって、ちゃんと仕事してれば穏やかな人なんだよ」

「……二面性があるって怖いことなのよ……?」

 腹黒王太子を思い出して、苦虫を嚙み潰したような顔になってしまう。

「あのときは、自由に生きようとするあんたに見合いたくて足を洗おうとした。けど今はそんな状況じゃないし、むしろ入り込んだ方が貴族の事情が入ってきて助かった。王太子妃内定の話もすぐに入ってきたし」

「ずっと、変わらずわたしを信じてくれてた……?」

 少し心配になっておずおずと聞いてしまう。けれどレオは、少し興奮気味に肯定した。

「当たり前だろ! だって『問題児婚約者』って噂がすぐにおれの耳にまで届いたんだぜ? 暴れて回ってるんだろうなって確信したよ」

「……そ、そうなの……」

 返答に虚を突かれてしまう。まあ、変に信じ切られるよりかは、信頼されていると考えよう……。

「それに、おれは健気な男じゃねぇから。いつかは王宮に忍び込んで、連れ去りたいと思ってた」

「……失敗したらどうするつもりだったの……」

「あんたを殺してから殺される。誰にも渡さない方法だ」

「……無茶苦茶よ……」

 そう思うのに、嬉しいと感じる自分がいるのが不思議だ。王太子に楯突いたわたしと重なって、ああ心地がいい、なんて思う。弱っていた勇気が戻ってくるみたいだった。

「ねぇレオ。わたし、いいこと思いついたの」

「……悪だくみの間違いじゃねぇの」

「そうともいうわね。そのためには、あなたにお願いがあるの」

 初めてレオが、わたしを平民に変えてくれたときのように、自分の人差し指を彼の唇に当てる。

「最後の仕上げはあなたに任せたい。――オリヴィア・フォックスを殺してほしいの」

 レオの目が見開かれて、にやりと笑う。それにわたしも微笑み返した。

 自由になるためにわたしは、最悪の女になると決めた。こんなわたしでも愛してくれる人がいるから、もうためらいなく、最後の悪足掻きができる。


 ●


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