第三話
●
ある日のこと。わたしは役所のあるレジレル区域で、街の人たちに聞き込みをしていた。
聞いていたのは、最近の街の様子について。路地の治安悪化は役所の方でも話題になっていて、本格的に対応に当たることになった。
「座り込んでぼうっとしたり、寝たりしてる奴が増えたんだよ。通りづらくて困るね」
「あと、喧嘩も増えた気がするね。金のやり取りで、っていうのが多かったはずだよ」
聞いたことを、わたしは手早くメモしていく。答えてくれた人に礼を言うと、頑張ってと逆に応援されてしまった。些細なことだけど、嬉しくなって、やる気が湧き上がるようだった。
今日のところはここらで切り上げよう……と、振り返った目線の先で、わたしは思いがけない人を見つけた。
「――レオ! 偶然ね!」
駆け寄って声をかける。
レオは一緒にいた相手と少し言葉を交わしてから、わたしのところに来てくれた。
……取り込み中だったのだろうか。
「ごめんなさい。お話し中だったかしら……」
「いいよ。仕事終わりにちょっと話しただけ。むしろ助かった」
レオは眉を下げてそう言う。
助かった、ということは困っていたのだろうか。……詮索するのはなんだし黙っておこう。
「仕事ってことは、今日は何でも屋をしているのね」
「珍しいって、思ってるだろ」
「そんなことは……。……思ったわ」
嘘はつきたくなくて、素直に言ってしまう。
するとレオは、ふはっ、と吹き出して笑い出す。
「素直。世辞でも言えよ」
「レオには嘘をつきたくないの。気分を悪くしたなら謝るわ」
「まあ、気にしてないから、別に」
その言葉に、胸の内が跳ねる心地がした。
レオはちょっと笑っていて、その目元はどこか柔らかい。会うたびにほんのちょっとずつ近づいている気がして、わたしは嬉しかった。
もう少し話していても仕事には問題ないだろう。そう思ってわたしは、彼との雑談を続けることにした。
「そういえば。レオはどうして何でも屋を始めたの?」
質問をしたら、レオは視線を外して考え込んでしまった。
……しまった。ご兄弟の話と同じで、踏み込まない方がいい話だったのだろうか。
切り替えようと別の話題を出そうとした。けれどその前に、レオの口がゆっくりと開く。
「……小さい頃はいろんなところで働いていて、それで顔が広くなったから、って理由」
淡々とした口調だった。でも、苛立ちといった感情はなかったと思う。肩の力がちょっと抜けたわたしは、この話題をそのまま続けてみることにした。
「……小さい頃から働き者だったのね」
「小さい頃は、だろ。今は全然、怠けてばっかだし」
「そうかしら? 子どもたちのためにいっぱい動いていると思うけれど?」
わたしは小首を傾げてそう言う。レオは目を見開いて、また視線を反らしてしまった。ちょっとだけ照れているのかもしれない。
「この話終わりな。あんたは? この辺で何してたんだよ」
無理やりに話を切り替えようとする姿を微笑ましく思いながら、わたしは質問に答える。
「聞き込みよ。最近の路地の治安悪化について調査しているの」
すると、レオの目つきが少し変わった。目元に力が入る感じで、やっぱり彼も思うところがあるのかもしれない。
「レオからも、子どもたちに路地に入らないようにと伝えてちょうだいね」
「……おう」
レオは力のない感じで返事をする。無気力なだけなのかもしれない。けれど、わたしにはそれがいつもと違う様子に思えた。
……
…………
………………
次の日の夜。わたしは暗い道を駆け足で進んでいた。
路地の治安悪化の聞き込みについてまとめていたら、今までで一番の残業になってしまった。
ぽつぽつと酒屋の明かりがあるだけで、街道は薄暗くて不気味だ。手元のランプがぼんやりと辺りを照らしてくれて、少しだけ安心できる。
歩きながら、聞き込みからわかったことを思い出す。
治安悪化の原因は、就業不振によるホームレスもあるのだが、それ以外に、薬物中毒者も居座っていることが発覚した。意識が呆然としている人や薬物を買うためにお金の諍いが起きているというもの。
その薬物がどんなものなのかは、まだはっきりとしていない。ここからは、実際に路地にいる人に対して調査を進めないといけないだろう。
ランプの明かりをぼんやり見つめながら考え込んでいると、――微かな悲鳴がわたしの耳に入った。
立ち止まって周りを見ると、横には路地。飲み込まれてしまいそうな深い闇が広がっていて、背筋が冷えていく心地がした。
わたしひとりが助けに行ったところで何もできないかもしれない。
……でも、見て見ぬふりはできなかった。
わたしは、逸る心臓を押さえつけて、ゆっくりと闇深い路地へと足を踏み入れる。
路地はさほど入り組んでおらず、真っ直ぐとした通りだった。けれど、迷わないというのも、不安を煽っていく。
――また、小さな悲鳴が聞こえた。
わたしは、少しだけ歩みを速める。
そしてようやく、その姿を見つけることができた。
薄暗くて定かではないが、男が二人いる。
ひとりは壁にもたれかかって力なく座っている。もうひとりは、その男を上から見下ろしていた。そして次の瞬間、見下ろしていた男は、もたれかかる男を――思い切り蹴り上げた。
わたしの口から小さく悲鳴が零れ落ちる。同時に駆け出して、ふたりの間に立ち塞がった。
蹴られた男は、ぐらぐらと視界が定まっていない様子だ。振り返って、キッと反射的に睨みつける。
「――え?」
声が零れ落ちた。信じられなかったから。
……信じたくない。けれど確かめたくて、持っていたランプを持ち上げて、蹴った男の人相を明らかにする。
良く知る――暗く赤い瞳が薄闇の中に現れた。
「…………レオ」
わたしの声は震えていた。けれど、目の前の彼は一切動じることなくそこにいる。闇夜にまじる赤い瞳は、まるで知らない人のようで、ぞくりと背筋が震えた。
「……どうして」
「なにがだよ」
淡々とした声に体が竦む。それでも知りたかった。
「……どうしてこの人を蹴ったの? 意識が朦朧とするほどなんて、どうしてこんな酷いこと……!」
わたしがそう言うと、レオは目を見開いて……そして、笑い出した。
楽しげにも見えるのに、その姿はどこか大袈裟で嘘のように思える。初めて見る姿に、彼のことがわからなくて、それが怖かった。
「……酷い、か……」
レオがぽつりと言う。
すると彼は、こちらへ一歩踏み出した。距離を詰められて、顔を覗き込まれたかと思えば、じっと見つめられる。
心音が耳に響く感覚は初めてではないのに、どんどん息が浅くなっていく。
彼のどこまでも冷たくて凪いだ表情からは、何も読み取ることができなかった。
「……そうだ。酷いことだよな、暴力なんて。おれはそういうことをして、金を稼いでるんだよ」
「お金って……そういう依頼なの……?」
問いかけると、腕を掴まれて、乱暴に引き寄せられた。
「……ああ。おれはこうやって生きてきてんだよ。だから、邪魔すんな」
刃物のような視線が突き刺さって、一瞬息が止まった。掴まれた部分がじくじくと痛み出して、顔が歪んでいく。
――怖い。
わたしの知っている、あたたかなレオとは全く違う。
本当に、わたしの知っている彼なんだろうか。
信じたくない気持ちが膨れ上がって、視界が涙で歪んでいく。
……本当にレオだったとしたら、どうしよう。
確かめたくて、わたしは震える喉を使って問いかけた。
「……じゃあ、子どもたちを傷つけろって依頼があったら、レオは受けるの……?」
すると、レオの目は見開かれて、その瞳が揺れた。
「――それは……」
レオが言い淀んで、わたしは目を見張った。
ああ、と確信して、小さく笑みがこぼれる。
「……よかった。あなたは、わたしの知るレオなのね」
ふっ、と力が抜けて座り込んでしまう。レオはわたしの腕を掴んだままで、その赤い瞳は見開かれたまま。
「……あんた……どういう意味だよ、それ」
困惑したようにレオは言う。わたしは、まだ震える喉を抑えながら伝えた。
「目の前のあなたは、わたしが今まで知らなかったレオ……なんでしょう?」
暴力を振るう彼は、人を傷つけることを何も思わない冷酷な恐ろしさがあった。彼との力の差は圧倒的で、同じようにされたら、わたしはきっと死んでしまう。
そんな考えが頭に居座って、わたしの体はずっと震えていた。
「――でも、今まで見てきたレオの全部を、否定できないわ」
今まで見てきた優しい彼は、決して幻じゃない。
残酷な依頼も、レオはしているのだと知っただけ。
粗暴なことをしない聖人だと、勝手に決めつけていたのはわたし。今ここで口封じに脅されても、暴力を振るわれても、わたしは受け入れられる気がした。
「……それでも暴力は良くないわ。このことが明らかになったら、あなたは罪に問われてしまうもの……」
「その言い方だと、おれが捕まって欲しくないから、って意味みたいだな」
「街の人が傷つくのは嫌よ。……でもそれ以上に、レオと会えなくなるのはもっと嫌」
はっきり告げると、レオは顔を反らして黙ってしまった。
「……ねえ、レオ――」
詳しく知りたくて、彼に手を伸ばそうとした。
すると突然、
「あ”あ”あ”ぁぁぁ!」
わたしの背後で倒れていた男が、獣のような叫び声を上げた。
振り向いた時には男の腕が降り掛かる寸前で、わたしはぎゅっ、と目をつぶる。……強く体を引き寄せられる感覚と、人の悲鳴が同時に起こった。
そろりと瞼を開くと、わたしはレオに抱き寄せられていて。目の前の男は、また壁にもたれて意識を飛ばしていた。
「な、なにが起こったの……?」
突然の出来事に心臓が飛び出そうになっている。でも、レオの腕の中にいることに、酷く安心している自分もいた。
「……見境なくしてんじゃねえよ」
レオがぽつりと呟いた。
やはり、またレオがこの男を制したのだろう。
……だとしたら、レオは一方的にこの男をなぶっていたわけではないのかもしれない。
「助けてくれてありがとう……。あの、この人はどうしてしまったの……?」
レオを見上げて問いかける。彼は眉を顰めて少し考えてから、わたしの肩を押して、数歩距離を取った。
「あんた、路地の調査してるんだろ。なんで治安悪くなってんのか、ちゃんとわかったのかよ」
「えっ。それは……ホームレスと薬物中毒者が居座っているから……――っ!」
思い至ったわたしは、反射的に口を押える。レオはニヤリと笑った。
「その通りだよ。こいつは重度の銀華中毒者だ。幻覚によって意識が朦朧としてるから、飛ばしておかないと憲兵の厄介になりかねない」
「銀華……? ……ねえどうして、レオが……そんなことを知っているの……?」
当たり前のように、つらつらと言葉を続けるレオ。その姿に、考えたくない予想が浮かび上がっていく。
「……もしかして、そういう依頼なのかしら。自衛とか、守って欲しいみたいな……」
笑いながらそんなことを言っても、目の前の彼は、ピクリとも表情を変えなかった。
「――おれが、薬を売ってんだよ」
ああ……、と目の前が真っ暗になる。どうしてと、問い詰めたかった。けれど、わたしの頭は混乱していて、云う事を聞いてくれそうにない。
「……だから、おれとはこれきりにしろよ。こんなやつと一緒にいたって、いいことなんて何もない」
レオはそう言って、この場から去ろうとする。
「…………えっ」
わたしは目を見開いた。……それだけなのか、と思ったから。
「――待って、レオ!」
急いで駆け出して、彼の左手を掴んだ。びくりと肩が跳ねたけど、その場に留まってくれている。離れられる前に、わたしは、まとまっていない状態で言葉を紡いだ。
「わたし、このことを知ってしまったから、脅されて暴力を振るわれると思ったの」
それだけなのかと思った理由はこれだ。
彼は、仕事では冷酷な人だと知ったから、わたしに対してもそうだと思っていた。
「でも、あなたは見逃してくれた」
「あんたがおれに惚れてるのを利用して、憲兵に突き出さないと思ったから、だとしたら?」
「ええ、そうよ。わたしはそうするわ。だから……あなたはわたしを信じてくれた、ということ」
レオの初めて見る姿にわたしが幻滅したかも、という考えを押し退けて、そう思ってくれたとしたら。……じわり、と胸に熱が生まれた気がした。
「――それが嬉しいの!」
自然と頬が緩む。振り返ってわたしの顔を見たレオは、大きく目を見開いていた。
「……もちろん、暴力は良くないし、人を廃人にするような薬を売っているのも良くないことだと思っているわ。それはもちろん、分かっているの。でもね……」
レオの手を強く握りなおして、わたしは息を吸い込んだ。
「――それは、レオから離れる理由にはならないの。……出会ったときに助けてくれたこと、さっき助けてくれたこと。子どもたちに優しくしていること、わたしに優しくしてくれたこと……信じてくれたこと。……そういうことから、わたしはあなたと一緒にいたいの」
わたしはレオを見つめて伝えた。見開かれた彼の紅い瞳が、大きく揺れている。
「――理解できねえよ……」
レオがぽつりと呟いた。視線を彷徨わせて、困惑したような声色をしている。
「むちゃくちゃだって、自分でも思うわ。でも……」
わたしは小さく笑って、レオを見つめた。
「――どんなあなたでも、傍にいたいの」
そうして、レオの左手を自分の両手で包み込んだ。
見つめた先の瞳が揺らいで、わたしはちょっと微笑む。
彼のことを怖いと思ったし、非道なことをしているなんて、本当は信じたくないくらい悲しい。
けど、事実だとしたら、受け止めたい。
全部知ったうえで、彼と一緒に出掛けたり、おしゃべりがしたい。
少しの沈黙の後、躊躇いがちに、レオの口がゆっくりと開いた。
「……あんたが大切に思う街の人間を、おれは傷つけるかもしれないのに?」
「……それはまた話が変わるわ。そんなことは許さない。街の人を支える役所の人間として、治安のことはいつか解決するわ!」
はっきり否定して宣言すると、レオは口を開けてポカンとしている。それでも、わたしは言葉を続けた。
「いつかはこの仕事を潰してしまうわね。すごく申し訳ないわ!」
レオは俯いてしまう。けれど少しの間の後、その肩が震えた。
「――……ふっ……ははっ……! 申し訳ないとか、思ってもないだろ……それ……」
目元が柔らかくなって、レオは小さな笑みをこぼす。
冷たくなっていた胸の内に、微かな熱が生まれた。どうしようもなく、わたしは彼の笑顔を求めてしまう。
「だから、覚悟しておいてレオ。わたしは、あなたを諦めないわ!」
また彼の手をぎゅっと握って、わたしは思い切り笑って見せた。
こんな自分とは離れろと、わざわざ言ってくれたレオの優しさを、わたしは手放せない。
「…………わがまま」
レオはぽつりと呟いてから、わたしに掴まれていたのをゆっくり振り払った。そしてそのまま、路地の奥へと進んでしまう。
もう追いかけようとは思わなかった。けれど、彼の背に大きな声で伝える。
「三日後! ペーナ通りの広場で待ってるわ!」
レオは振り返らなかった。すぐにその姿は闇の中に溶け込んでしまう。
見送った後、わたしは民間の医院へと駆け出した。
レオが三日後、来てくれるかわからない。けれど、約束をしてこの関係を繋いでおきたかった。
……
…………
………………
時間が流れるのは早く、もうその日は来てしまった。
アトレ通りの噴水を覗き込んで、自分の姿を確認する。ちょっといい服を着たり、髪を編み込んでみたり。いつも通り、レオと出かける日の浮かれた自分がそこには映っていた。
ちょっとだけ右側がはねていることに気付いて、手で押さえつけていると、突然に後ろから声を掛けられた。
「――噴水があると、毎回覗き込んでるよな、あんた」
耳に馴染んだ声に、勢いよく振り返る。
「レオ……っ!」
思わず声が上ずってしまう。
来てくれた。嬉しい。そんなことばかり考えてしまう。
けれど、どこか気まずい空気があって、わたしたちは暫く黙り込んでしまった。
「……ん」
先に動いたのはレオだった。
わたしに向かって、左手を差し出してくれる。意図をすぐに理解して、その手に銀貨を乗せた。
心臓が駆け足になっていく。これは、そういうことなのだろう。
「……じゃあ、今日もよろしくね。前にも言ったスープ屋さんに新しいものが出たらしいの」
今度はわたしが先に歩き始める。
浮かれる気持ちを抑えないと、早足になってしまいそうだった。
「あのさ……」
「なあに?」
「……いや、……今日はいい」
横に並んだレオが神妙な様子で聞いてきた。けれど、何かを思って、その口は閉じてしまう。
今日はいい。その言葉は、わたしも同じ気持ちだった。
今は、彼と一緒にいられることを楽しみたかったから。
●
レオと出かけてから数日。
冬の寒さはどんどん強くなって、施設も忙しさが増していた。
仕事の紹介や孤児の保護といったことが主な職務で、この時期が最も多くなるらしい。
「オリヴィアさん、休憩取ってください。朝から窓口対応でお疲れでしょう」
「ありがとうございます。お言葉に甘えますね」
職員の方に声を掛けられ、そのまま荷物を取りに行く。今日はどの屋台で買おうか、レオのところに行って今度の休日の予約をしようか、なんて考えていると、にわかに受付のあたりが騒がしくなった。
なにかあったのだろうか、と様子を伺うと、職員の人だけでなく周りの人全員が、少年に支えられた青年を見つめていた。
青年――レオは遠目からもボロボロの姿をしていて、心臓が飛び跳ねると同時にわたしは駆けつけていた。
「レオ!? どうしたの、ねえ!」
「……あー……大きい声、出さないでくれ……。頭に響く……」
意識はあるようで、わたしは少しだけ安堵する。
事情を知っていそうな少年――アニスに目配せすると、彼は申し訳なさそうに頭を振った。
「偶然、路地で倒れてるところを見つけたんだ。今日は遊んでもらう約束をしてたんだけど、いつまでも来なくて……探してたらこんな姿だし……」
わたしと同じように、見つけた時はひどく驚いたのだろう。思い出すアニスの瞳には、どんどんと涙が溜まっていった。
わたしは慰めるためにアニスの頭を優しく撫で、ぼんやりとした様子のレオを見つめる。
「事情の説明……の前に手当をしないと。休憩室まで歩けそう?」
レオは頷いてくれて、わたしは彼を支えてゆっくりと移動する。近づくとレオの顔が打撲痕が複数ついていることがよくわかる。痛みを想像して、わたしは口をキュッと結んだ。
喧嘩でもしたのだろうか。けれど、器用な性分のレオがそんなことになるだろうかと、疑問も浮かんでくる。
レオを寝台に座らせて、わたしは急いで救急箱を取り出して手当を始める。顔に、腕に、腹部……。手はあまり傷ついていないことを考えると、一方的に暴力を振るわれたのかもしれないと思い至る。
レオは仕事について、線引きがしっかりしている。話してくれるとは思えないけれど、それでも心配で、わたしは口を開けた。
「レオ、この傷は誰に付けられたの?」
「……言わねぇ」
わかってはいたものの、教えてくれないことに少しだけ悲しみを感じる。踏み込むべきか、口を何度も開閉して考えた。
アニスを見ると、彼は、レオを心配そうにじっと見つめている。
わたしが知らないだけで、こういうことはあったのかとアニスに問うと。
「ううん。こんなにボロボロなのは初めて見た。喧嘩とかしないようにしてくれるのがレオだったし……」
そう言うとレオはふっと軽く笑って、アニスの頭を乱雑に撫でまわした。
「そりゃ、ガキたちの仲裁だったら怪我しないように止めるって」
「……じゃあ、その傷は仕事でできたものなの?」
わたしは確信めいたものを感じながら、レオを見つめた。彼はバツが悪そうに視線を反らして、私に背を向ける。
やっぱり、そうなのだと理解する。彼が請け負っている仕事は、わたしの依頼のようなお遊びではなく、時にこんな怪我をするものだと。
黒く靄がかった感情がこみ上げてきて、そのまま零れ落ちた。
「そんなにボロボロになってまで、しなくちゃいけない仕事なの……?」
レオが傷つくのが嫌だと、そんな思いが溶け出していく。
けれど、言葉にしてから後悔が追いついた。
おずおずとレオの様子を伺うと、彼は苛立つように、くしゃりと顔をゆがめて、わたしに言った。
「……あんたには、わからないことだろうな」
「――……っ」
明確に、レオから壁を作られたのがわかる。
ああ、やってしまった。言葉にしなければよかった。
果物が落ちて潰れるみたいに、心臓が痛みが走って、視界が歪んで、申し訳なさでいっぱいになる。悪いのはわたしなのに。
足元がなくなる心地だったけど、無様な姿を見せたくなくて、その場に踏ん張る。みっともない顔を見せないように、わたしは後ろを向いた。
「塗り薬を持ってくるわ。それに、もっと手当ができる職員を呼んでくる」
返事を待たずに、わたしは休憩室を出る。
見せずに済んだ涙を袖で拭って、歩きながら反省した。
わたしはなんて言えばよかったのだろう。けれど、踏み込みすぎたことだけが、あの場の事実だ。
ああ、やってしまった。言葉にしなければよかった。
また後悔がこみ上げてきて、今度は踏ん張り切れずにしゃがみこんでしまう。
心配のし過ぎ? いや、あんなにボロボロなところを見たら冷静ではいられないに決まってる。
レオの傷が、頭をよぎって泣きそうになった。
あんな姿、もう見たくない、嫌だ。
ふいに、この間、一緒に焼き芋を食べたことを思い出す。
あの時間は、わたしが買ったもの。でもさっきは……。
「わたしとレオって、お金の関係なんだなぁ……」
改めて自覚する事実に、胸がぽっかりとした感覚が生まれる。
時間を重ねて、気安くなったとしても、わたしとレオは普通の関係ではない。踏み込める間柄ではない。
わたしも、仕事関係の人間だから。
なら、これから友達になりましょうとも言えない。
踏み込んでしまった事実も、言ってしまった言葉も、戻すことはできないのだから。
●
あれから数日たっても、わたしの心が晴れることはなかった。
代わりを頼んだ職員に聞いても、レオはあの後、傷の原因を言わなかったらしい。
気まずさのまま見送りもできず、レオとはなにも話せていない。
そんな状態で迎えた休日に、わたしは当てもなく街を歩いていた。
できることなら、あの日に予約をして、レオと一緒に過ごしたかったけれど……。
思い出したとたんに、胃のあたりがぐっと重くなって、足が止まってしまう。
あの日から、不意に考えてしまうことがある。わたしは、どう言えばよかったのだろうか、と。
レオが心配なことを伝えたかった。
それなのに、傷ついた原因の仕事につなげてしまったことが、よくなかったのだろうか。
答えが出ないことを考えすぎて、なんだか頭が痛くなってきた気がして、わたしは、どこか休めそうなところを探し始めた。
この辺りは初めてくる場所で、土地勘がないせいか、同じところをぐるぐると回っている感覚になる。
さっきも同じ小路を通ったような、と近くの路地を覗き込むと、
「お前がへまをしたから、こんな大損になったんだろうが!」
誰かを怒鳴り付ける声が、辺りに響き渡る。
怪我人が出たら大変だと、わたしは仕事の質のままに動き出そうとする。声の主は男のようだから、できることなら人手を借りたいところだが、周りを見ても、人一人いなかった。
随分と人気の少ないところまで来てしまったのだなと思いつつ、立ち去る気にもなれなくて、そのままゆっくりと、路地を進んでいく。
かなり入り組んだ路を進んでいくと、陽も入らないような場所で、ふたりの男が喧嘩しているようだった。
わたしは気取られないように、路の端に置いてあった木箱の影に隠れて様子を伺った。
けれど、喧嘩というよりは一方的で、片方の男は、暴言を反抗することなく受けるだけだった。
怒鳴り付けている方は、平民にしては質の良い服を着ていて、本物らしからぬ不自然さがあった。もしかしたら、貴族なのかもしれない。
そして、もう片方は――
「……へまをしたのはそっちでしょう。取引の後、巡回兵に見つかってたんじゃあないんですか」
「口答えをするな! そんなことあるはずがない!」
平坦な声色で青年――レオは問いかけたけれど、男は苛立っていて、話をできる状態ではないらしい。
それどころか男は、レオに掴みかかって、一方的に殴る蹴るを繰り返していく。
先日の真実が、すぐ目の前にあるのに、わたしはピクリとも動けずにいた。
この場を納められるほど強い力を持っていないし、一芝居打ったとしてもうまくいく保証はない。
それにレオは、仕事について触れられることが嫌なんだと思う。
だからむしろ、わたしがここで出たところで、同類が何を考えているのだと思われるだけだ。
「ああ、このままじゃあいけない。やはり、子どもを売る方がよっぽど――」
「そんなことはっ! ……やめた方がいいと思います。人攫いは、今よりもっと人目に付きやすい」
「お前に言われなくともわかっている!」
男の言葉に、ひやりと背筋が凍った。
子供を売る……? 人身売買をしようとしている貴族がいたの……?
聞き間違いかと思いたいほど、男の非道な発言の後、レオは切羽詰まるように否定していた。その様子に、少しだけ安心する。
やはり、レオは子どもに優しい。わたしの知る、変わらない姿に安堵の胸をなで下ろすことができた。
「……もうやめるなり、事業を縮小した方がいいんじゃないですか。今度の王太子は正義感が強い方だと聞いています。今回は場所だけでしたけど、検挙されたら終わりですよ――っ!」
男はレオの進言を遮って、拳を振り上げ顔面を殴りつけた。さらには腹部を蹴り上げて、押さえつけるように何度も踏みつける。
すぐ近くで行わる暴力の気配に、身も心も震えていく。涙が出ないように、嗚咽がこぼれないように、口に手を当てて、わたしは祈ることしかできなかった。あの男が早く遠くへ行くように、と。
どれくらい経ったかわからない悲しくて恐ろしい時間がやっと終わる。
いまだに収まらない苛立ちを表しながら男は、ようやくこの場を立ち去った。
……あたりに静寂が広がっていく。
苦しそうに息をするレオの音が聞こえて、また泣きそうになるけれど、わたしは立ち上がって、彼へと近づいた。
ボロボロで見ていられないけれど、わたしは思い切ってレオの顔を覗き込んだ。
ぼんやりとした瞳がわたしを捉えると、一瞬だけ見開かれて、またあの時のように、バツが悪そうな顔をした。
「……あんた、なんでここに……」
「……喋らない方がいいわ。傷が痛むでしょう」
もう余計なことは言わない。そう心に決めて、わたしはただ傷の手当てをする。ハンカチを酷い傷に当てて、せめてもの止血をしていく。
傷を目の当たりにすると、やっぱり胸が痛い。視界が滲むけれど、決して手は止めなかった。
「いつから見てた」
答えずにいると。レオは「ちゃんと見てたってことだな」と、言い当ててしまう。
「まあ、依頼主によってはああいうこともあるよ。それに比べたら、あんたは報酬は減らないし、楽な仕事だしでいい客だよ」
へらりと笑うレオに、まとまらないくしゃくしゃな気持ちがこみ上げてくる。
あんな男と一緒じゃない。むしろいいと言ってくれて嬉しい気持ち。
こんな痛めつけられるような仕事を受けないでほしい気持ち。
痛いはずなのに、無理して笑わないでほしい気持ち。
ぐるぐるとかき混ぜられてまとまらないまま、零れ落ちた。
「そうじゃないと、あなたと対等になれないじゃない」
「……ずうっと真面目だよな、あんたは」
そう言ってレオは、ぽろりと零れた涙を拭ってくれた。優しい手付きに、悲しかったはずが、ぽかぽかとくすぐったい心地になっていく。
もう、これでいいと思えた。
お金は、わたしたちをつなげるもの。
関係の作り方がわからなくて、逃げ続けていたわたしの弱さそのものだ。
「……仕事のことは、もう何も聞かないわ。けど、できることなら、怪我をしてほしくない」
やっと答えが出た気がする。
レオが傷ついてほしくない。
それが、わたしの伝えたかったこと。
「ほんとうに、無事でよかった……っ」
まとまった瞬間に、ぼろぼろと涙腺が決壊した。
この間からそれほど経っていないのに、また傷つけられて。場所が悪ければ死んでいたかもしれない。そう思うと怖くてたまらなくなる。
それにわたしは、何もできなかった。
初めて出会ったときの彼のように、物語のように助けることなんてできなかった。
「護身術を習っておけばよかったわ。あの家は嫌いだけど、習える環境だったのが悔しい。そうしていれば、あなたを助けられたのに」
「手段さえあれば助けてくれたってことかよ。勇気があるなあ、行動力が有り余ってる」
レオはくすくすと笑ってくれる。無理をしている様子がなくて、胸がほっとした。
ふいにお互いの視線がつながる。真剣なことが伝わってきて、わたしはじっと見つめ返した。
手が伸ばされて顔まで近づくと、レオはためらうようにしながらも、わたしを抱き寄せた。
レオの胸の中にいる。
強い鼓動が、自分のものか彼のものなのか、緊張で分からない。
土のにおいと、微かな血の匂いが鼻を突いて、なんだか泣きそうになった。
「もう、客じゃなくていい」
「えっ……?」
「金がなくても、一緒にいたい」
「いいの……? 友達になってくれる?」
「随分、控えめなんだな。――あんた、おれのことが好きだろう?」
きゅーっと喉が締め付けられて、何も言えなくなる。けれど、自分の心を否定したくなかった。
「そう、よ。そうじゃなきゃ、こんなに執着しない。レオが、いいの」
頬が熱くてくらくらするけれど、目の前のレオの視線はもっと熱っぽくて、めまいがする心地だった。
「……自惚れたらだめだって思ってた。あんたは、いつか家に帰るお転婆なお姫様だって。でも――」
レオに強く抱きしめられる。大事なものを守るみたいに、焦りを滲ませて。
「その壁がないなら、手に入れたくてたまらなくなる。あんたの興味が、ずっとおれに向てればいいのにって、思うんだ」
そう、低く単調な声色で、ぽつりと言った。
伝えられる言葉ひとつひとつに、心が乱れていく。彼を見上げれば、迷いのない瞳にまた息が詰まった。
「レオ、わたし……あなたが好き」
「……ああ」
「だから、名前を呼んで……?」
気持ちがつながっているというなら、これくらいのお願いを聞いてほしい。
見つめるとレオは、見たことないくらい優しい笑みを浮かべた。
「――……オリヴィア」
名前を伝えられると、頬に触れてわたしを引き寄せてレオは、触れるだけのキスをした。
一瞬のはずなのに、じんわりと熱が残っていく。
離れがたくて、でも満たされていた。
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