第二話 治癒の念術②
その日を境に、桜は毎日のように長屋へと足を運ぶようになった。
朝露の残る小道を踏みしめ、木戸の軋む音を立てながら、病に伏せる男性のもとへと向かう。
男はまだ衰えたままで、寝たきりの状態が続いていた。
それでも桜は変わらず、微笑みを絶やさずに声をかける。
「絶対に良くなるから、大丈夫だよ。」
そのたびに男は、力ないながらも目を細め、小さくうなずいて両手を合わせた。
念術の光が彼を包むたびに、ほんの少しだけ呼吸が楽になったように見えた。
しかし、その変化は本当にわずかで、一進一退の状態が続いた。
それでも、桜は決して諦めなかった。どんなに微細な変化であっても、それは確かな前進なのだと信じていた。
「おかゆ、ちゃんと食べられた?」
「はい……少しですが……」
毎日、念術を施すたびに、桜はそっと話しかけ、親子の不安な心を和らげるよう努めた。
日が経つごとに、桜と親子の距離は少しずつ縮まり、治療の合間には自然と雑談が増えていった。
お互い硬かった表情が、少しずつやわらぎ、笑顔が生まれるようになっていった。
男の名は八郎。
娘の名は那智。
桜は、二人の名を自然に呼べるようになっていた。
ある日のこと。
その日も桜は念術を終え、額の汗を袖で拭った。
桜「……ふぅ。今日はここまで、かな。」
光が消え、部屋に静寂が戻る。
八郎はゆっくりと体を横に向け、深々と頭を下げた。
だが――その目には、どこか影があった。
「……私は、もうだめかもしれんません……」
声が、弱い。
那智がはっと顔を上げる。
「ちょっと! おとっつぁん!」
布団の脇に膝をつき、強い口調で言った。
「そんな事いうもんじゃないよ! 桜様も毎日来てくれているのに!」
八郎は視線を伏せる。
桜は黙ってその様子を見ていた。
(八郎さん……体だけじゃなくて、心も弱ってきてる。)
病は、体力だけでなく気力も削っていく。
希望が見えなければ、前を向く力も失われてしまう。
(……そうだ!)
桜はぱっと顔を上げた。
「ねぇ、八郎さん!」
八郎がゆっくりと目を向ける。
「病気が治ったらさ、何かしたい事って、ない?」
八郎「え……?」
「ほら、夢とか、目標とか!」
明るく、わざと大げさに言う。
八郎は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「ははっ……夢ですか」
しばらく沈黙が流れる。
那智が不安そうに父を見る。
やがて八郎は、かすれた声で続けた。
「この老いぼれに、そんな大層なものはございません。ただ……」
その時だった。
よどんでいた瞳に、ほんのわずか、光が宿る。
「ただ?」
桜は思わず身を乗り出した。
「なに? 言ってみて」
八郎はゆっくりと娘を見た。
「娘の……那智に、まだいい人を見つけてやれていない……」
那智「え……?」
八郎「それだけが、心残りなのです。」
部屋の空気が、しんと静まる。
桜と那智は、顔を見合わせた。
夕暮れ。
川の土手は、茜色に染まっていた。
水面がゆらゆらと揺れ、風が草を揺らす。
桜と那智は並んで歩いていた。
那智が、ぽつりと口を開く。
「おとっつぁんは――」
しばらく言葉を探すように視線を落とす。
「事あるごとに、私の事を心配していました。」
草を踏む音だけが続く。
「いい人はいないのか、とか。自分が元気なら捜してあげられるのに、と。」
桜は静かにうなずいた。
「娘想いな、お父さんなんだね。」
那智は苦笑する。
「ほんとに。私は、おとっつぁんが生きていてくれれば、それでいいのに。」
夕陽が彼女の横顔を照らしていた。
その目の奥には、涙をこらえる光があった。
那智は立ち止まり、桜に向き直る。
「桜様――お願いがあります。」
真剣な声音。
桜も足を止める。
「なに? 私にできる事なら――」
那智は一度、深く息を吸った。
「私の恋人――殿方の、ふりをしていただけませんか?」
「……へ?」
一瞬、風の音だけが響く。
「こんな事、桜様以外に頼めません。」
那智は真剣な目で、胸に当てた手を握りしめる。
「たとえおとっつぁんを騙すことになっても――私は、おとっつぁんが元気を取り戻して、病気を克服してほしい。」
那智は頭を深々と下げ、続ける。
「だからどうか……お願いします、桜様。」
沈黙。
(いやいやいや! さすがにバレるでしょ!)
心の中で全力でつっこむ桜。
だが――
顔を上げた那智の目は、揺らいでいなかった。
真剣そのものだった。
桜はぎゅっと拳を握る。
胸の奥が、熱くなる。
「よし……私に任せておいて。」
那智が顔を上げる。
桜は力強く言った。
「私が、那智さんの恋人役を、探してきてあげる!」
夕暮れの空に、二人の影が長く伸びていた。




