第二話 治癒の念術③
あくる日。
城の廊下には、朝の冷たい空気がまだ残っていた。
磨き上げられた板張りの床に、障子越しのやわらかな光が帯のように落ちている。
遠くで足軽たちの掛け声がかすかに響くが、この一角だけは静かだった。
桜はひとり、ゆっくりと廊下を歩いていた。
けれどその足取りは、どこか落ち着かない。
桜(……友信になら頼めるかもしれないけど……)
立ち止まり、腕を組む。
脳裏に浮かぶのは、あの大柄な背中。
堂々とした体躯。
そして――独特のなまり。
『〜だあ。』と響く、あの温厚な声。
桜は思わず眉をひそめた。
(……あの巨体と、なまりじゃ、正体がばれちゃう。)
那智の父・八郎は長屋で暮らす町人だ。
きっと領主に仕える家臣―友信の事は知っているだろう。
(それに……もし疑われたら、私の正体まで……)
桜は小さくため息をつき、くるりと踵を返す。
歩く向きを変え、再び廊下を進む。
衣の裾がさらりと床をなぞる。
(政秀……は、さすがに歳が離れすぎてる。)
家老―赤松政秀の姿が思い浮かぶ。
白髪と白髭を蓄え、威厳と風格を備えた武将。
桜は首を振る。
また方向を変える。
まるで迷路の中をさまよっているみたいに、廊下を行ったり来たりする。
(官兵衛と又兵衛は……)
黒田官兵衛の冷ややかな視線。
槍を握る又兵衛の鋭い目。
(頼むだけで怒りそう……)
「……はあああ」
ついに声に出してため息をついた、その時。
廊下の向こうから、すっと風が流れ込んできた。
白い着物の裾がひるがえる。
黒いショートヘアがさらりと揺れ、きびきびとした足取りでこちらへ向かってくる影。
凛とした佇まい。
桜は目を見開いた。
「あ、善助!」
その声に、相手はぴたりと足を止める。
「……ッ。」
一瞬、驚いたように目を細めるが、すぐに姿勢を正し、静かに頭を下げた。
「これは殿。どうなさいましたか?」
白い着物の袖がすっと揺れる。
その所作は無駄がなく、美しい。
桜はごくりと唾をのむ。
(……善助。たしかに女性だけど……)
桜は大きく息を吸い込んだ。
意を決したように、善助の目をまっすぐ見つめる。
「お願いがあるの。」
善助はわずかに首をかしげる。
黒髪が肩にかかる。
「?……ハッ。なんなりと。」
迷いのない返答。
桜は一瞬、言葉を飲み込んだ。
(ここで引いたらダメだ。)
拳をぎゅっと握る。
「実はね――」
廊下の静寂の中。
朝の光が二人の間に差し込んでいる。
桜の胸の鼓動が、やけに大きく響いていた。
数日後。
八郎と那智の暮らす長屋の一室。
いつもなら、かすかな生活音と桜の明るい声が混じるその部屋は――
その日は、妙に静まり返っていた。
障子から差し込む昼の光。
けれど空気は重く、ぴんと張り詰めている。
那智は座布団の上に正座し、背筋を伸ばしていた。
その隣に座るのは、男物の着物をまとった善助。
いつもは首元で揺れている黒いショートヘアは、今日は後ろへ流すように整えられていた。
額が見え、顔立ちがよりはっきりとする。
だが、その整った顔には、わずかな緊張が浮かんでいた。
八郎は布団にもたれ、二人を見上げている。
その手から――
カラカラ……。
力の抜けた指先から湯呑がこぼれ落ちた。
転がる陶器の音が、畳の上でやけに大きく響く。
湯はこぼれ、畳にじわりと染みていく。
善助「……。」
那智が、意を決したように口を開いた。
「紹介します。おとっつぁん。」
声が、ほんの少し震えている。
部屋の空気が、さらに重くなる。
那智は一度、深呼吸をしてから、声を張った。
「私の……いい人ですッ!」
八郎「……ッッ!!」
息をのむ音。
八郎は微動だにしない。
ただ、目だけが大きく見開かれている。
その視線の先には――善助。
凛と背筋を伸ばし、那智の隣に座る姿。
だが、その内側では。
善助(……殿。)
ほんのわずかに唇を動かし、小声で後ろに控える桜へと話しかける。
善助(……さすがに、バレると思いますが。)
声は落ち着いているが、指先がわずかに固くなっている。
桜は善助の背後に座り、両手を胸の前でぎゅっと組んでいた。
桜(シッ。)
人差し指をそっと口元に当て、目で訴える。
沈黙。
外で子どもの笑い声が遠くに聞こえるが、この部屋の中だけが別世界のように静かだった。
八郎は、ゆっくりと善助を見上げる。
視線が、顔から肩へ、帯へと動く。
善助はその視線を受け止めながら、気まずさを押し殺す。
だが、逃げない。
凛とした瞳で、真正面から見返す。
那智が、とっさに善助の腕へと自分の腕を絡めた。
ぎゅっと。
その動きは不自然なほど勢いがあり、けれど必死だった。
善助の身体がわずかに揺れるが、すぐに踏みとどまる。
桜はそっと八郎のそばへ歩み寄る。
畳に膝をつき、優しく声をかけた。
「この二人、本当に仲良しなの。」
八郎の顔をのぞき込む。
「病気は絶対に良くなる。――だから早く元気になって、二人の応援してあげよ。ね?」
柔らかく、明るく。
だがその瞳は真剣だった。
八郎の喉が、ごくりと鳴る。
視線が、再び那智へ移る。
腕を絡め、少し頬を赤らめている娘。
その隣で、不器用ながらも堂々と座る善助。
やがて――
八郎はゆっくりと、口を開いた。
その目には、光るものがにじんでいる。
「どうか……どうか、那智を、よろしくお願いします。」
声は震えていた。
けれど、その言葉には偽りがない。
父の目だった。
誰よりも娘を思い、幸せを願う――
純粋な、父の目だった。
那智の唇が震える。
善助は一瞬、目を閉じ、そして深く頭を下げた。
部屋の重たい空気が、わずかにほどける。
桜は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じながら、小さく息を吐いた。
そんな三人を、八郎は静かに見つめる。
――那智。お前は本当に不器用で……
――とても優しい、自慢の娘だ――




