第二話 治癒の念術④
ある朝のことだった。
空は薄曇り。
風はなく、町全体がまだ目覚めきっていない静かな時間。
桜は、いつものように長屋の前に立っていた。
ここへ通い始めてから、もうどれくらい経っただろう。
朝露を踏みしめ、木戸の軋む音を聞き、病床の八郎へ声をかける――それが日課になっていた。
あの日、那智の“恋人”として善助を連れてきたこと。
八郎が涙を浮かべながら頭を下げたこと。
「よろしくお願いします」と震える声で言った父の目。
あれから八郎は、ほんの少しだけ生気を取り戻したように見えた。
桜は、胸の奥にかすかな希望を抱いていた。
今日もきっと、念術を施せば――
少しは楽になるはずだと。
桜は木戸の前で、いつもより少しだけ早口に声をかけた。
「ごめんくださーい!」
返事はない。
けれど気にせず、引き戸に手をかける。
がらり、と音を立てて戸が開く。
その瞬間。
桜の足が、止まった。
室内には――布団が、きれいに畳まれている。
いつもそこに横たわっていた八郎の姿は、ない。
代わりに、部屋の中央に那智がぽつりと正座していた。
背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いている。
室内は、異様なほど静まり返っていた。
そして――
かすかに漂う、線香の香り。
その匂いが、すべてを物語っていた。
桜の喉が、ひゅっと鳴る。
那智はゆっくりと立ち上がった。
歩み寄り、深く頭を下げる。
顔は伏せられているが、肩が小さく震えている。
そして、涙を必死にこらえた声で言った。
「……おとっつぁんは、昨日の夜、亡くなりました。」
その言葉が耳に届いた瞬間。
桜の目の前の景色が、ふっと色を失ったように感じた。
音が遠のく。
世界が、薄い膜に包まれたみたいにぼやける。
「……え……?」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえる。
足元がぐらりと揺れた。
力が抜け、膝から崩れ落ちる。
どさり、と土間に膝をつく。
冷たい土の感触が、じんわりと伝わる。
両手をつき、うつむいたまま、唇が震える。
「……ごめんなさい……」
声が、かすれる。
「私……絶対に良くなるって言ったのに……」
毎日、笑顔で言った。
“絶対に良くなるから。”
あれは、希望だったのか。
それとも――
桜の肩が震える。
那智はそっと、桜のそばにしゃがみ込んだ。
土間に膝をつき、桜の肩へ静かに手を添える。
その手は、温かかった。
「おとっつぁんは――」
一度、言葉を飲み込む。
「最後の最後まで、あなたに伝えてほしいって言っていました。」
桜が、ゆっくりと顔を上げる。
那智は、涙で赤くなった目で、それでも優しく微笑んだ。
「……ありがとう、ありがとうって。」
その言葉が、胸に刺さる。
八郎が、かすれた声で感謝を伝える姿が浮かぶ。
念術の光に包まれ、少しだけ楽そうに息をしたあの日々。
桜は両手で顔を覆った。
堪えていた涙が、一気にあふれ出す。
声を殺しきれず、嗚咽が漏れる。
「……っ……」
悔しさと、無力感と、喪失感。
治せなかった。
救えなかった。
それでも――
“ありがとう”と言ってくれた。
その事実が、余計に胸を締めつける。
長屋の外。
軒先の影の中で、善助が立っていた。
今日は護衛当番。
善助は、長屋に背を向けたまま、腕を組んでいる。
中からかすかに聞こえる、桜の泣き声。
振り向かない。
ただ、じっと立っている。
その顎はわずかに引き結ばれ、指先に力がこもっている。
守ることはできても、救うことはできない命がある。
善助は、静かに目を閉じた。
長屋の中では、桜の泣き声が、しばらく途切れることなく続いていた。
――城の広間。
広々とした畳敷きの部屋に、朝の光が障子越しにやわらかく差し込んでいる。
静かな空気の中、桜は正座したまま、まっすぐ前を見つめていた。
その視線の先には、赤松政秀。
腕を組み、静かに話を聞いていた政秀は、やがてゆっくりと目を細めた。
「なるほど……」
低く、落ち着いた声。
「治癒の念術専門の施設を作り、民が利用できるようにすると。」
桜は小さく息を吸い込み、力強くうなずいた。
「うん。」
言葉を探しながら、しかし迷いはない。
「たとえ重い病でも、初期の頃から治療すれば助かることもあると思うんだ。」
桜の脳裏には、あの長屋の光景がよみがえる。
畳の上に横たわる八郎。
念術の光。
少しだけ楽そうに呼吸をした顔。
そして――
線香の香り。
桜は一瞬だけまぶたを伏せたが、すぐに顔を上げた。
「あと、希望者に治癒の念術を教える体制を作って、そこで働いてもらうの!」
言葉が少しずつ熱を帯びていく。
「私一人じゃ、助けられる人の数には限界がある。」
桜は拳を軽く握った。
「でも、治癒の念術を使える人が増えれば、もっとたくさんの人を助けられると思うんだ。」
広間に、しんとした静けさが落ちる。
政秀はしばらく黙って桜を見つめていた。
やがて――
その目が、ゆっくりと大きく開かれる。
口元に、静かな笑みが浮かんだ。
膝に置いていた手を、ぐっと握る。
「……すばらしい政策かと!」
その声には、はっきりとした感嘆が込められていた。
その言葉を聞いた瞬間。
桜の顔がぱっと明るくなる。
瞳がきらきらと輝き、口元が思わずほころんだ。
「ほんと!?」
思わず身を乗り出す。
政秀はその様子に小さく笑いながら、うなずいた。
「気軽に治癒の念術を施してもらえるとなると、民からの支持も得られましょう。」
落ち着いた声で続ける。
「さらに近隣地域に知られれば、わが領内へ人が集まる可能性もある。」
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「さっそく皆を集め、合議を行いましょう!」
その声は広間に力強く響いた。
桜の胸の奥が、熱くなる。
八郎の顔が、ふっと浮かぶ。
(……無駄じゃなかった。)
もし、もっと早く治療できていたら。
もし、治癒の念術を使える人がもっと多かったら。
そんな思いが、この案を形にしていた。
桜は静かに拳を握りしめた。
姫路城――当主の間。
重厚な空気が漂う部屋。
政秀を中心に、重臣たちが集められていた。
桜もその場に座っている。
やがて、政秀が口を開いた。
「――というわけで、治癒の念術専門の施設を作りたい。」
視線が、集まる。
最初に口を開いたのは――黒田官兵衛だった。
「お見事な策かと。」
淡々とした声音。
「反対の余地はありません。」
その言葉に、部屋の空気がわずかに動く。
桜は思わず官兵衛を見る。
官兵衛はいつものように静かな顔をしていた。
隣では、善助が頷いている。
その白い着物の袖が、わずかに揺れた。
さらにその隣で、友信も大きくうなずく。
「ええ案だあ。」
温厚な声。
「民が助かるなら、それが一番だあ。」
政秀は満足そうに皆を見回した。
そして桜と目を合わせる。
静かに、優しく微笑んだ。
だが――
その一方で。
官兵衛は、黙ったまま桜を見ていた。
鋭い視線。
静かだが、まるで心の奥を探るような目。
(……政秀殿や善助の発案であれば、まだ理解できる。)
官兵衛の思考は冷静だった。
(このような政策、本当にこの小娘が考えたというのか……?)
桜はまだ若い。
当主となってから日も浅い。
それなのに――
領国の政策を動かすほどの案を出す。
官兵衛は細く息を吐いた。
その鋭い目を、じっと桜に向けたまま。
何も言わず、ただ黙していた。




