第二話 東播磨の領主―別所家⑤
その夜――。
官兵衛の部屋には、書物と書状が山のように積み上げられていた。机の上には広げられた地図、軍勢の配置や補給路を示す墨の線が幾重にも重なり、ところどころは朱筆で訂正が加えられている。横には急ぎの使者から受け取った書状が束ねられ、封を切らぬまま積まれていた。
官兵衛はその一枚一枚に筆を走らせる。筆先は迷いなく紙を滑り、次の戦に備えた策や城下への指示が、流れるように文字となって記されていく。
しかし、背を丸めた身体の疲労は限界に近づいていた。
机に伏せるようにして書き続けるうち、いつしか瞼は重く沈みはじめ、やがて頭がゆっくりと前後に揺れ出す――。
――
姫路城、三木城のある播磨の国。その北西―。
因幡の国―鳥取城。
夜の闇を焦がすように、城下町のあちらこちらから火の手が立ち上がり、赤黒い煙が月を覆っていた。炎に照らされた影は、痩せ細った村民や町民の群れ。骨と皮ばかりの姿で、石畳の上に座り込み、ある者は瓦礫に凭れかかり、またある者は地に突っ伏したまま動かない。子供の泣き声も嗄れて途絶え、静けさの中で虫の羽音さえ耳につく。
鳥取城の内部もまた、地獄絵図のようであった。兵も避難民も、皆が力尽きたように腰を下ろし、眼は落ち窪み、生気を失っている。かつて勇ましかった武士でさえ、刀を支えにしながら息絶え絶えにうずくまり、やせた頬をわずかに震わせるだけ。中には餓死した仲間の亡骸に手を伸ばし、震える手で肉を口に運ぶ者の姿まであった。その光景に誰一人声を上げることなく、ただ黙して見ぬふりをするしかなかった。
城をぐるりと囲むのは、織田家の大軍。高台に設けられた松明の列が蛇のように続き、闇を裂いて城を見下ろしている。まるで逃げ場のない罠に獲物を閉じ込めた狩人のごとく、城内をじりじりと追い詰めていた。
「こうも素早く、しかも完璧な兵糧攻めを完成させるとは……」
城下を見渡しながら、羽柴秀吉はゆっくりと呟いた。その声音には驚きと畏怖が入り混じり、額には冷たい汗が滲んでいる。
「おぬしは、まことに恐ろしい男じゃ……」
秀吉の視線が後方へ向けられる。暗闇の奥、揺れる灯の隙間から、一人の男が馬を進めて現れた。痩せた顔に浮かぶのは不敵な笑み。
「……官兵衛よ。」
秀吉の口からその名が洩れたとき、馬上の男――黒田官兵衛はわずかに顎を上げ、にやりと口角を吊り上げた。
――
「……はっ!」
官兵衛ははじかれたように目を覚ました。
目の前には小机の上、ろうそくの炎が心細く揺らめいている。蝋の滴がゆっくりと垂れ、紙の上に淡い光を落としていた。
どうやら書状の筆を取ったまま、うたた寝をしていたらしい。指先にはまだ墨の香りが残っている。
官兵衛は深く息を吐き、額の汗を拭った。心臓が早鐘のように打ち、夢の残滓が身体にまとわりついて離れない。
「……今のは、夢……なのか……?」
唇から洩れた声は、夜の静寂に溶けて消えた。
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