第四話 若き槍、若き当主
昼下がり。
姫路城の廊下には、穏やかな陽光が差し込んでいた。
障子越しにやわらかな光が帯のように伸び、磨き上げられた板張りの床を静かに照らしている。
遠くでは、城兵たちの訓練の掛け声がかすかに聞こえてくる。
桜は一人、ゆっくりと歩いていた。
桃色の着物の裾が、さらりと床をなぞる。
歩くたびに、かすかな足音が廊下に響いた。
城の生活にも少しずつ慣れてきたとはいえ、まだ分からないことばかりだ。
家臣たちの考え、城の仕組み、そして――
自分が当主としてどう振る舞うべきなのか。
桜は小さく息を吐いた。
その時。
廊下の突き当たりから、誰かが歩いてくる気配がした。
オレンジ色の髪が、ふわりと揺れる。
肩に槍を担いだ、少年の姿。4
歩き方は荒く、どこか苛立っているようにも見える。
桜はぱっと顔を上げた。
「あ、又兵衛。」
名を呼ばれた少年は、足を止めることなく桜を一瞥した。
鋭い目。
不機嫌そうに眉を寄せる。
そして――
「……ケッ」
舌打ちに近い声を漏らし、そのまま通り過ぎようとする。
桜は思わず目を瞬いた。
(……何か、怒ってる?)
廊下の中央ですれ違う瞬間。
桜はとっさに声をかけた。
「槍の練習?」
その言葉に。
又兵衛の足が、ぴたりと止まった。
「……ッ」
肩に担いでいた槍が、わずかに揺れる。
ゆっくりと振り向いた。
その顔には、はっきりとした苛立ちが浮かんでいた。
そして――
突然、勢いよく腕を伸ばす。
びしっ、と。
桜へ向かって人差し指を突きつけた。
「俺は、あんたが当主だって事、認めてねぇからなッ!」
廊下に、少年の声が鋭く響く。
桜は思わず息をのんだ。
「え……」
又兵衛は構わず言葉を続ける。
「戦国大名ってのはな!」
槍を肩から下ろし、床へ軽く打ちつける。
「いざ戦となれば、自ら先頭に立って、みんなを率いるもんだッ!」
槍の柄を強く握る手。
その目は、真っすぐ桜を睨みつけていた。
「あんたみたいな、世間知らずのお姫様が――」
吐き捨てるように言う。
「務まるわけがねぇッ!」
廊下に、沈黙が落ちる。
桜はしばらく何も言わなかった。
ただ静かに、又兵衛の目を見返していた。
又兵衛は苛立ったように視線をそらし、小さく舌打ちする。
「……たく。」
槍を肩へ担ぎ直す。
「せめて政秀や官兵衛がやればいいものを。」
「……。」
重い沈黙。
やがて桜は、ゆっくり口を開いた。
「……あなたがそう思うのも、もっともだと思う。」
静かな声だった。
怒りも、反論もない。
又兵衛の眉がぴくりと動く。
「だったら――」
桜は、その言葉を遮った。
「――でも。」
一歩、前へ出る。
「私だって今、自分なりに覚悟をもって当主を務めてる。」
まっすぐな視線。
逃げない目。
「だから――あなたにも、認めてもらいたい。」
又兵衛は黙った。
オレンジ色の髪の隙間から、鋭い視線だけが桜を見ている。
桜は続けた。
「又兵衛。」
「……なんだよ?」
不機嫌な声。
桜は、一瞬だけ息を吸い込んだ。
そして。
「私と、一騎打ちして。」
「……は?」
少年の目が、丸くなる。
その瞬間。
城の廊下を、静かな風が通り抜けた。
障子がわずかに揺れ、白い光が二人の間に流れ込む。
槍を持つ少年と。
未来から来た少女の当主。
二人の視線が、真っすぐぶつかっていた。
城の庭園。
昼の陽光がやわらかく差し込み、白い砂利の上に木々の影が揺れていた。
庭の中央には、広く踏み固められた地面があり、そこが稽古場として使われている。
その中央で――
桜と又兵衛が向かい合っていた。
二人の手には、それぞれ木の棒。
日本刀に見立てた稽古用の棒である。
庭園を囲む木々が、さわさわと風に揺れた。
その静けさの中。
又兵衛が、眉をしかめて口を開く。
「おい……なんで、一騎打ちなんだよ?」
又兵衛は肩をすくめるように言った。
「大体、あんたみたいなお姫様が、俺に勝てるわけねぇだろ。」
その言葉にも、どこか呆れが混じっていた。
桜は、静かに棒を握り直す。
「そんな事――」
一歩、足を踏み出す。
「やってみなくちゃ、わからないでしょ?」
そう言うと、桜は棒を持つ左手を前へ突き出した。
棒を片手で握り、腕をまっすぐ伸ばす。
身体は横を向き、極端なまでの半身。
右肩は大きく後ろへ引かれている。
見慣れない構え。
又兵衛の眉がぴくりと動いた。
(……なんだ?この構え。)
日本の剣術では、普通は両手で構える。
だが桜は――
棒を片手で持っている。
腕を突き出し、体は細く横を向く。
又兵衛はじっと観察する。
(意外と隙がすくねえ……)
突き出された棒の先端は、微動だにしない。
距離を詰めれば、真っ先に胸を貫かれる位置。
(だが……)
口元が、わずかに歪む。
(恰好ばっか決まっててもな)
又兵衛も静かに半歩引いた。
両手で棒を握り、肩幅に足を開く。
日本剣術の、正統な構え。
その時――
「こらっ! 又兵衛! 何をしている!」
鋭い声が、庭園に響いた。
二人が同時に振り向く。
縁側の上。
白い着物をまとった善助が、こちらを見下ろしていた。
「げッ。姉御。」
又兵衛が思わず顔をしかめる。
善助は縁側から一歩踏み出し、厳しい声で言った。
「殿へ棒先を向けるなど、なんと無礼なッ――」
桜がすぐに口を開いた。
「善助、ごめん。」
善助が止まる。
「私が頼んだの。」
「え――?」
桜はゆっくりと棒を下げた。
そして、少しだけ視線を落とす。
「当主として、何が必要なのか……」
言葉を探すように続ける。
「私にはまだ、わからない。」
庭の風が、桜の髪を揺らした。
桜はふと、空を見上げる。
青い空。
その向こうに――
別の光景が、蘇った。
崩れ落ちたビル。
黒煙。
逃げ惑う人々。
そして――
瓦礫の中で、動かなくなった父の手。
桜の瞳が、わずかに揺れる。
「せめて……」
棒を握る手に、力がこもる。
「前へ進む覚悟だけでも、示したい。」
善助は、その言葉を静かに聞いていた。
やがて、ゆっくりとうなずく。
「そう……でございましたか。」
善助は一歩下がり、縁側の柱に寄りかかった。
二人の対峙を見守る。
(だが……)
視線が、又兵衛へ向く。
(又兵衛は、他国にも知られた槍の使い手。とても殿が勝てる相手では……)
庭園の空気が、ぴんと張りつめる。
桜が静かに息を吐いた。
「……いくよ。」
又兵衛の口元が歪む。
「へっ。」
棒を軽く振る。
「いつでもこいよ。」
次の瞬間――
バッ
桜の足が地面を蹴った。
砂がわずかに跳ねる。
身体を前へ滑らせながら、左腕を一気に伸ばす。
棒の先端が、一直線に又兵衛の胸元を突く。
鋭い突き。
だが――
(なんだよ。)
又兵衛は冷静だった。
棒を横へ払う。
(ただの突きじゃねえか。)
カンッ
木と木がぶつかり、乾いた音が庭に響く。
桜の突きは弾かれた。
――だが。
桜の足は止まらない。
半歩、さらに前へ。
そして。
棒先の角度が、くるりと変わる。
今度は――
又兵衛の脚へ。
鋭い突き。
「……ッ!」
カンッ
さらに。
カンッ
カンッ
連続する突き。
休む間もない速さ。
(なんだッ――)
棒で次々と弾きながらも、又兵衛の目が見開かれる。
(この動きはッ)
この国の剣術では見慣れない、一直線の連撃。
善助の目も細められた。
(これは……)
善助の瞳に、驚きが宿る。
(異国の剣技……)
庭園の空気が、一気に張り詰めた。
その時――
桜が、いっきに踏み込んだ。
砂利が弾ける。
「ヤァ――ッ」
鋭い気合いとともに、身体が前へ伸びる。
今までの突きとは違う。
桜の足が深く踏み込み、身体全体が弓のようにしなる。
ばねのように引き延ばされた身体から、棒の先端が一直線に突き出された。
異様に距離の長い突き。
鋭く、速い。
狙いは――
又兵衛の胸元。
「――っ!」
一瞬、又兵衛の目が見開かれる。
だが、次の瞬間。
又兵衛の身体が反応した。
両手で握った棒をひるがえす。
カンッ
鋭い音。
桜の突きを、真正面から受け止めた。
そのまま、腕を大きくひねる。
棒同士が交差したまま、又兵衛の力が桜の腕へと伝わる。
又兵衛の腕力は、桜とは比べものにならない。
ぐいっ、と。
桜の腕が強引にねじ上げられた。
「――っ!」
体勢が崩れる。
その瞬間。
又兵衛の棒が、大きく振り上げられた。
そして――
ガンッ
容赦なく、桜の棒へ叩きつけられる。
衝撃が腕へ突き抜けた。
「いッ――」
思わず声が漏れる。
指先から力が抜ける。
握っていた棒が、手から離れた。
カラン……
棒は地面に落ち、乾いた音を立てながら転がっていく。
白い砂利の上を、からからと転がり――
そして。
コンッ!
棒の先が、桜の頭頂部を軽く叩いた。
だが、それでも十分痛い。
「いったぁッ」
思わず両手で頭を押さえる。
又兵衛は、何も言わない。
ただ、棒を肩に担いだまま立っている。
桜は、ゆっくり顔を上げた。
悔しそうに眉を寄せながら、小さくつぶやく。
「……負けた……。」
庭園に、静かな空気が戻る。
又兵衛はしばらく黙って桜を見下ろしていたが、やがて視線を外した。
そして。
ゆっくりと棒を肩へ担ぎ直す。
くるりと背を向けた。
「フンッ……。」
短い鼻息。
「そんなんじゃ、全然だめだ。」
その声には、怒りとも呆れともつかない響きが混じっていた。
数歩、歩き出す。
白い砂利を踏む足音が、静かに響く。
又兵衛は振り返らないまま言った。
「戦で死にたくなけりゃ――」
少しだけ足を止める。
「当主になるなんて、諦めるんだな。」
その言葉だけを残して。
又兵衛は再び歩き出した。
庭園の出口へ向かい、ゆっくりと遠ざかっていく。
やがて、橙色の髪も見えなくなった。
庭園には、静かな風だけが残る。
桜はまだその場に座り込んだまま、地面を見つめていた。
砂利の上には、転がったままの棒。
その横で、桜の手がぎゅっと握られる。
善助が、縁側から静かに見つめていた。




