第四話 妖怪スシイヌ④
―城の治療室―
薄明の差し込む治療室の片隅――。
桜は静かに白い子犬のような妖怪の体に手を当てていた。
その手からじんわりと温かな光が溢れ、妖怪の傷を癒してゆく。治癒の念術―桜の力が、妖怪の小さな命を確かにつなぎ止めていた。
妖怪はぐったりとした体を横たえたまま、時折か細い息をついている。だが、かすかに揺れる尻尾が、その生命の灯がまだ絶えていないことを示していた。
「大丈夫……もう怖くないよ」
桜は小さく微笑みながら、妖怪の額をそっと撫でた。
部屋の外では、一同がそっと様子をうかがっている。
「……殿様が、妖怪を治療している…?」
友信が小声で呟くと、政秀が深々とため息をつく。
皆、困惑と心配をにじませた表情で顔を見合わせていた。善助は腕を組み、少し考え込むように目を細めている。
又兵衛はというと、部屋の外に座り込んで、天井をぼんやりと見上げていた。
数日後――。
桜の献身的な治療の甲斐あって、妖怪はようやく立ち上がれるようになっていた。
まだ足取りは少しふらついているが、すっかり表情は明るく、尻尾をちぎれそうなほどに振っている。
「元気になってきたね、よかった……」
桜は妖怪の背を撫でながら、ふっと微笑んだ。だが、その目にはどこか物思いにふけったような光が宿っていた。
何かを考え込むように視線を落とし、膝の上で小さく丸まる妖怪に指を遊ばせている。
その様子を、またしても一同が遠巻きに見つめていた。
(何を言い出すつもりだあ……)
(どうか……どうか平和な提案であってくれ……)
政秀が念じるように手を合わせている隣で、友信が気まずそうに汗をぬぐっていた。
そのときだった。
桜は白い子犬のような妖怪を両腕に抱き上げたまま、くるりと振り返った。
その顔には迷いのない笑顔が浮かんでいる。
「決めた!この子を城で飼う!」
あまりにも真っ直ぐな宣言に、その場にいた一同が一斉に頭を抱えた。
「やはりか」という雰囲気が、空気を重くもなく、むしろ呆れ混じりに漂う。
政秀が額に手を当てながら、恐る恐る口を開く。
「殿……さすがに、妖怪を飼うのは、いささか問題があるかと」
しかし、桜はふくれっ面になって言い返す。
「でもね、この子を外に出したら、また妖怪に襲われるかもしれないんだよ?」
「いけません。殿。」
その時、官兵衛の低くよく通る声が、その場の空気をすっと引き締めた。
ざわめいていた家臣たちが、思わず口を閉じる。官兵衛は一歩前へ出て、まっすぐに桜を見据えた。
「妖怪は元来、人に仇なす存在。それを大名家の当主たるあなたが飼うなど……」
官兵衛の声音は静かだったが、逆らうことを許さぬ威圧があった。
「領民には妖怪に殺された者もいます。これでは示しがつかない。それに」
官兵衛は、ゆっくりと視線を巡らせる。
周囲に控える家臣たちは、誰も口を開かない。重い沈黙が落ちた。
「その妖怪が、我々家臣や領民を襲わないという保証はどこにあるのですか?」
「……。」
桜は胸に抱いた小さな白い妖怪を、そっと抱き直した。
柔らかな毛が腕に触れ、かすかに温もりが伝わる。
「少しは、当主たる自覚を持っていただきたい。」
その言葉に、桜は一度うつむき、唇をきゅっと結ぶ。
けれど、やがて顔を上げた。
「でも……この子は、人を襲う妖怪じゃないかもしれない」
官兵衛は桜を睨む。
「……なに?」
「政秀が言ってた。稀に、人に友好的な妖怪もいるって。それって、妖怪すべてが人を傷つけるわけじゃないってことだよね?」
その瞬間、官兵衛の視線が鋭く政秀へ向けられた。
政秀は肩をすくめるようにして、ばつが悪そうに視線を逸らす。
「官兵衛の言うこともわかる。危険な可能性があることも。」
桜は、腕の中の妖怪を見下ろし、そっとその頭を撫でた。
小さな妖怪は抵抗することもなく、ただ大きな瞳で桜を見上げている。
「でも、それだけで悪意のない妖怪まで見捨てるなんて事、私はできない。」
「……。」
桜と官兵衛は、言葉もなく視線を交わした。
その間に流れるのは、当主と家臣としての責任と覚悟を確かめ合うような、静かな緊張だった。
やがて桜は、小さく息をつき、ぽつりと呟く。
「……この子、いつもひとりぼっちなの。なんでか分からないけど、親も、仲間もいないみたいなの」
胸に抱かれた白い妖怪は、桜の着物に顔をうずめるようにして、じっと大人しくしている。
震えているのか、それとも安心しているのか、かすかに体が揺れていた。
「かわいそうだよ……」
その言葉は、とても小さかった。
けれど、はっきりとその場にいる者の耳に届いた。
やがて一人の男の胸の奥で、何かが静かに揺れる。
又兵衛の目に、遠い日の記憶が蘇った。
飯屋の店主が、大きな手を腰に当てながら呆れ顔で幼い又兵衛を見下ろした。
「……坊主、そう毎日余りものはでねえよ」
言われた少年は返す言葉もなく、小さな肩を震わせ、視線を足元へ落とす。裸足の足先が土埃にまみれ、踏みしめる力もなく揺れていた。
町の片隅では、往来を行き交う女たちが、声を潜めて囁き合っていた。
「あら、あの子。また同じ所にいるわよ」
「お父様が亡くなったんだって。まだ幼いのに、どうするのかしら」
「引き取ってくれる親族、いなかったのかしらねえ……」
少し離れた通りに立つ幼い又兵衛は、その声を背中に受けながら、ただぼんやりと空を見上げていた。真っ白な雲が流れていくのを、誰に手を引かれるでもなく、ぽつんと一人。声を上げることも、泣くこともせず、ただ黙って。
その時、通りを歩いてきた官兵衛と家臣の姿があった。
家臣は横目に少年を見やり、眉をひそめながら低く進言する。
「官兵衛様、なにも他家の子供を引き取らなくてもよろしいのでは……」
しかし官兵衛は足を止め、じっと幼い又兵衛を見つめ続けた。その瞳には憐憫と、揺るがぬ決意が浮かんでいた。
「されど……かわいそうではないか」
静かな言葉とともに、官兵衛は片手を差し伸べる。その掌は温かく、ためらいなく、まっすぐに幼子へと向けられていた――。
又兵衛は鼻の頭を少しかき、視線を逸らしながら呟いた。
「ま……いいんじゃねーの」
その言葉に、一同が驚きに目を丸くし、ばっと又兵衛の方を振り向く。
「こいつ、よええ妖怪に食われそうになってたしさ。悪さしたくてもできねえっしょ」
両手を頭の後ろに組み、気まずそうに後ろを向く。
「もし悪さしたら、そのときは俺が……きっつーくお灸をすえてやるよ」
彼の言葉はぶっきらぼうで、いつも通りだったが、どこか温かかった。
しばらく黙っていた官兵衛は、ゆっくりと息を吐き出した。
深く、大きなため息だった。
やがて、ふっと口角を上げ、腕を組んだまま桜を見る。
「分かりました……殿。飼うと言ったからには、途中で投げ出したりなさいませぬよう」
その言葉に、張りつめていた空気が、わずかにやわらいだ。
政秀や友信も、やれやれと言いたげに肩をすくめる。善助は静かに目を閉じて、無言で小さく頷く。
桜はうれしそうに、みんなを見回した。
「うん!ありがとう、官兵衛!みんな!」
その笑顔に、誰も文句を言えなかった。
善助が、思いついたように口を開く。
「飼うのでしたら、名前をつけてはどうでしょう。」
桜は目を輝かせた。
「そっか!えっと……」
しばらく考えた桜はやがて閃いたらしく、ぱっと顔を上げる。
「なんかこの子、体がお米みたいに白いし、頭が卵焼きみたいで……ほら、お寿司みたいで……。だから――スシイヌ!」
その瞬間、場が凍った。
あまりの命名に、その場にいた全員が絶句する。
まるで時間が止まったかのような沈黙。空の雲だけが、のんびりと流れていた。
その静寂に耐えかねて、友信が口を開く。
「殿様……さすがにダサ……」
言い終わるより早く、善助の鋭い肘が友信のみぞおちを捉えた。
「ぐほっ」
「……控えよ、友信」
善助が静かに言った。
白い子犬のような妖怪――スシイヌは、桜の腕の中で満足そうに尻尾を振った。




