第五話 不穏な影⑥
やがて隆景は陣図を広げ、指先で城の周囲をなぞる。
「現在、この広島城には、四家連合が三手に分かれて迫っておる。
まずは城の南、ここに島津軍一万。その中央には――島津義弘。」
桜はごくりと息をのんだ。あの“鬼”のような男の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
まるで敗走を演じるかのように統制された島津兵。
おびき寄せられた味方を、狂気すら感じる勢いで襲いかかる伏兵たち。
血に染まりながらも崩れぬ陣形。
彼らは、ただの兵ではない。――まさしく鬼の軍勢のようだった。
隆景は陣図に指を滑らせながら、低く重い声で続けた。
「次に――城の北。ここには九州の一家・大友家の軍一万が迫っておる。
率いるは立花道雪および高橋紹運。」
その名を聞いた瞬間、又兵衛と友信が顔を見合わせた。
隆景は視線を上げ、彼らの反応を見届けると、静かに言葉を重ねた。
「この二人の武勇、軍略は天下に轟いておる。
“雷神”と“風神”――他国の者たちはそう呼び、恐れおののくほどじゃ。」
場に一瞬、重い沈黙が落ちた。
灯明の炎が揺らめき、陣図の上で隆景の影が長く伸びる。
「そして次に――城の南東。」
隆景は扇子の先で陣図の一角を指し示した。
「ここには九州の一家・竜造寺軍。そして四国を制した長曾我部軍、それぞれ一万。
合わせて二万が布陣しておる。」
友信が思わず息を呑み、声を漏らす。
「に……二万……?」
その顔は蒼ざめ、広げられた陣図を見つめる目が揺れていた。
隆景は小さく頷き、続ける。
「まぎれもなく兵力でいえば、ここが主力。
ゆえに――我が小早川隊八千、村上水軍一千、そして宇喜多殿より援軍として明石隊四千。合わせて一万三千でこれを押さえる。」
隆景の冷静な声の裏には、すでに戦場の修羅場を見通した者の覚悟がにじんでいた。
又兵衛が槍の石突きを床に突き、苦笑交じりに問う。
「……あの“鬼”みてえなやつは、どうすんだ?」
隆景は扇を閉じ、視線を南へと移す。
「島津軍は吉川隊八千に抑えてもらう。
島津義弘――あやつの武勇は、四家の中でも群を抜いておる。
兄上でなければ、とても押さえられぬであろう。」
その声には、兄・元春への揺るぎない信頼があった。
そして、隆景のまなざしがゆっくりと桜へ向けられる。
「そして――」
その一言に、場の空気がわずかに張りつめた。
「大友軍には、貴殿ら赤松軍のみであたってもらいたい。」
「おいおい!」
又兵衛が即座に割って入る。
「俺たちは四千、敵は一万だろ? 抑えられると思ってるのかよ?」
怒気をはらんだ声。だがその裏には、仲間を失うことへの恐れが見え隠れしていた。
隆景は真っ直ぐに又兵衛を見返し、静かに答える。
「しばらくの間、時を稼いでもらえればよい。
我ら小早川隊が主力を討ち破り、勝利を決める。
それまで――なんとか耐え凌ぎ、城下を守っていただきたいのじゃ。」
その言葉に、桜は黙して聞いていた。
けれど、胸の奥から湧き上がるものを抑えきれず、ゆっくりと口を開いた。
「……姫路城下と変わらず、この広島の町にも、民たちの暮らしがあります。そこを戦場にするわけにはいかない。」
桜は胸の前で拳を握りしめ、まっすぐ隆景を見つめた。
「城下は私たちが守ってみせます。――一緒に頑張りましょう、隆景さん。」
隆景の目が一瞬、やわらいだ。
彼女は深く息を吐くと、桜の手をそっと両手で包み込んだ。
「恩に着るぞ、桜殿。……どうか、よろしくお願い申し上げる。」
ここに、四家連合4万対三家連合2万9千の、壮絶な戦いが幕を開けようとしていた。




