第五話 不穏な影⑤
桜の首筋へ――冷たい鋼の刃が迫った。その時――
――ギイイイイイインッ!!
雷鳴のような金属音が大地を震わせた。
土煙が巻き上がり、周囲の島津兵たちが思わず顔を覆う。
目を伏せていた桜は、いくら待っても痛みが来ないことに気づき、恐る恐る顔を上げた。
義弘が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながらも、その口元には、わずかに血の気を帯びた笑みが浮かんでいた。
「吉川……元春……!」
彼の刀を、鉄槍でがっちりと受け止めていたのは――毛利軍最強の将、吉川元春であった。
その顔には泥と血の飛沫が付いている。それでも眼光は鋭く、修羅のごとき気迫を放っている。
「……援軍感謝する、桜殿。だが、ここは引かれよ」
低く響く声。そこへ、息を切らせた又兵衛と友信が駆け寄り、桜の身体を抱き起こす。
「殿様っ! しっかりするだ!」
「少しの辛抱だ、動くな!」
桜は震える手で二人を握りしめた。
元春はその様子を一瞥し、槍を構え直す。
その視線の先――義弘が仁王立ちのまま、静かに金棒を持ち上げていた。
まるで鬼のような巨体、血を浴びた鎧、獣のような気迫。見上げる又兵衛が、思わず息を呑む。
「おっさん……まだ死ぬなよ?」
その軽口に、元春はわずかに口角を上げた。
「誰に言っておる、小僧」
又兵衛と友信に支えられ、後方へ退いていく桜を見届けると、元春は槍の柄を握り直し、一歩前へと踏み出した。
土が軋み、風が唸る。
義弘の目に、戦いを待ちわびた闘志が宿る。
「おまんとは、早う手ぇ合わせてみたかと思っちょった。このおいを差し置いて“西国最強”と呼ばれる男が、
どれほどのもんか――確かめたかと、思うてな」
元春は黙って槍を構え、わずかに口元を吊り上げる。
戦場の風が止まり、二人の巨星が、ついに相まみえた。
散り散りになっていた赤松兵たちは、土煙の向こうに又兵衛と友信に支えられる桜の姿を見つけ、次々と駆け寄ってきた。
「殿だ! 桜様がおられるぞ!」
叫びが広がると同時に、乱れていた兵たちの足並みが少しずつ揃いはじめる。敗走の混乱の中にも、再び「守るべき主」の姿を見つけたことで士気が戻りつつあった。
又兵衛は槍を肩に担ぎ、背後を鋭く見やる。
「振り返るな! 今は逃げるが勝ちだ、行けぇ!」
友信も桜を抱えながら怒号を飛ばす。
「全員、広島城へ急ぐだ!」
彼らの指示のもと、赤松兵たちは列を整え、荒れ果てた道を北へと駆け抜けた。
はるか後方では、地鳴りのような金属音が絶え間なく響く。
島津軍と、それを食い止める吉川隊がぶつかり合う。
その轟音は雷のように重く、戦場の空を震わせていた。怒号と悲鳴、金属の擦れる音が入り乱れ、遠くにまで血と鉄の匂いが漂ってくる。
やがて、赤松軍は広島城へ到着した。
毛利軍は各地に分散し、侵攻軍に対処している。この広島城には敵の奇襲に備え、四千の兵が守っていた。
重くそびえる城門が軋む音と共に開き、清水宗治が血相を変えて駆け寄る。
「さ、桜様! なんというお姿……その傷は……! はやく療所へ!」
焦りの顔を滲ませる宗治に案内され、桜達は広島城内の奥へ通された。
療所では、灯明の淡い光が静かに揺れていた。薬草の香りと血の匂いが混じる中、桜は横たわり、左足に包帯を巻かれている。額には汗が滲み、白い指が布団をきつく握りしめていた。
その左右には又兵衛と友信が、まるで狛犬が桜を守るように立っている。
そこへ、足音も静かに隆景が入ってきた。
「桜殿。援軍、まことに感謝する。」
落ち着いた声。その瞳には安堵と同時に、深い憂慮が宿っていた。
「傷は……大丈夫か?」
桜は痛みに耐えながらも、微笑を浮かべた。
「はい……なんとか。危ないところで、元春さんに助けていただきました。」
隆景は頷き、ゆっくりと桜の脇に腰を下ろす。
「……あれは島津の得意戦術、“釣り野伏”という。
退却を装って敵を誘い込み、左右と正面から一気に包囲して叩く。見事にして恐ろしい技よ。本当に無事でよかった……」
その言葉には、敵将としての義弘への評価と、桜の無事を心から安堵する思いが混じっていた。
又兵衛が眉をひそめ、槍の柄を軽く床に突き立てる。
「でもよ、なんで今まで争ってた九州の三家が同時に攻めてきたんだよ」
隆景はその問いにしばし沈黙し、やがて静かに口を開く。
「……間違いなく、織田家が絡んでおる。」
周囲の空気が一瞬で張りつめる。
「先日、九州に潜ませていた間者から情報が入ってきておった。今、九州の三家はみな、信長の傘下となっておる。
……この機に、織田家と敵対する毛利家へ同時侵攻するよう、要請したのであろう。」
桜は息をのんだ。
「そ……そんな……」
「織田……信長……っ」
友信は低くつぶやき、日本号の柄をぎり、と握りしめた。
その掌には、あの日――愛すべき女性の胸を貫いたときの、温かくも冷たい感触が蘇る。
胸の奥が鈍く痛んだ。




