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赤松天翔物語  作者: 姫笠
第三章 巨影

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第二話 槍の妖怪―槍幻⑥

――その時。

 地に倒れた又兵衛の胸の奥が、わずかに震えた。

 風が止み、虫の声すら消えた夜。世界そのものが呼吸を止める。

 胸の奥に残るのは、血潮の温もりか、怒りか、悔恨か。

 あるいは――そのすべてが、彼の中でひとつの熱となって灯っていた。

 その炎はやがて確固たる意思を得て、ゆらりと燃え上がる。


 ぶわり、と夜気が震えた。

 又兵衛の身体から淡い朱の光がにじみ出し、地に流れた血がじゅうっと蒸気に変わる。

 光は脈を打つように強まり、彼の輪郭を包む炎となった。

 それは静かに、しかし確かな意志を持って燃える――信念の焔。


「……ん?」

 妖怪・槍幻が異変に気づき、ぎしりと軋む音を立てて振り向く。

 そこには、月を背に、槍を手に立ち上がる又兵衛の姿があった。

 血と炎に染まった髪が風に揺れ、槍の穂先が朱く光を返す。

「ば……ばかな……!」

 槍幻の声が震える。

 その視線の先――又兵衛の瞳には、まるで灼けた鉄のような光が宿っていた。

 その眼差しは夜気を焦がし、闇を押し返すほどの熱を帯びている。

 又兵衛が槍を構えた。

 月光が刃を照らし、彼の瞳が紅く閃く。


 ――炎の念術――《紅蓮滅槍ぐれんめっそう


 轟音とともに、又兵衛の全身を紅蓮の炎が包んだ。

 燃え盛る焔は渦を巻きながら槍の穂先へと吸い込まれ、唸りを上げて形を変える。

 まるで生き物のように脈動し、ひとつの巨大な矛先を成した。


 ゴオオオオオオオオッ!!


「な……なんだ、これは!」

 槍幻が叫ぶ間もなく、炎の槍が一直線に突き進む。

 その瞬間、空気が焼け、大地が爆ぜた。

 槍幻は咆哮を上げ、自らの槍を振りかざす。

「ぬうううっ!!」

 だが、紅蓮の奔流は止まらない。

 受け止めた槍と腕が焦げ、皮膚が裂け、骨までも灼かれる。

 次の瞬間、炎が奔流となって槍幻の胸を貫いた。


「ぐ……ぬうぅぅううう――っ!!!」


 轟音とともに槍幻の身体が炎に包まれる。

 苦痛のあまりその巨体がのたうちまわる。

「――ギャアアアアアアアアッ――!!」

 悲鳴とともに、焦げた肉と紫の血が蒸気となって弾けた。

 やがてそれは崩れ落ち、黒い煤と霧だけを残して消えた。


「す……すごい……」


 桜の唇から、思わず息が漏れる。

 夜風がふたたび吹き抜け、燃えた庭の空気を撫でていった。

 炎は次第に薄れ、又兵衛の姿が現れる。

 その足取りは重く、数歩進んだところで、力尽きたように崩れ落ちた。

「又兵衛っ!」

 桜は叫び、すぐさま駆け寄った。

 倒れた身体を起こし、抱きしめる。

 焦げた布と血の匂いの中に、かすかな息遣いを感じた。

「……よかった……」

 桜の声が震える。

 その背中には、張り裂けんばかりの慈しみが宿っていた。

 その光景を見つめていた長治は、ふっと力が抜け、その場に膝をついた。

 夜空には、戦いの余韻を映すように、まだ赤い月が浮かんでいた――。

 

 ――

 

 又兵衛は、やわらかな光の中に立っていた。

 霧のような白い風景。足元は淡く光る水面のように揺らめき、空も地も境を失っている。

「こ……ここは?」

 呆然とつぶやいたその時、どこからか懐かしい笑い声が響いた。

 前方に視線を向けると、そこには若かりし頃のままの父と母、そして妹の志乃の姿があった。

 母は微笑みながら、そっと手を腰に当てて言う。

「ほんとうにもう……また無理をして」

 父は朗らかに笑い、腕を組んでうなずいた。

「はっはっは! もういいじゃないか母さん。……立派になったな、又兵衛!」

 その隣で志乃が両手を広げて、無邪気に叫ぶ。

「おにいちゃん、すっごく強くなった!」

 懐かしい声。あたたかい光。胸が締めつけられるほどの安らぎ。

 又兵衛は照れながら指で鼻をすする。

「へへっ」

 誇らしげに胸を張る又兵衛と見届けると、三人はやがて前を向き、静かに歩き出した。

「……あ、まってくれ! みんな!」

 必死に手を伸ばす。けれど、いくら走っても距離は縮まらない。

 足が重くなり、息が乱れ、声も霞の中に溶けていく――。


 ――


 屋敷の部屋。

 障子越しの光がやわらかく差し込み、外では小鳥のさえずりが聞こえる。

 温かな布団の感触。そして、自分の手を包む温もり。

 又兵衛のまぶたがゆっくりと開く。

 横を見ると、桜が彼の手を握ったまま、うつらうつらと居眠りをしていた。

「……と、殿?」

 掠れた声に桜がハッと顔を上げる。

 その瞳が彼の目と合った瞬間、ぽろりと涙がこぼれた。

「よかった……もう、目を覚まさないんじゃないかと……!」

 勢いよく身を乗り出す桜の肘が、又兵衛のみぞおちに軽く当たる。

「いでっ……殿、肘が俺のみぞおちに……」

「あ、ごめん」

 慌てて身を引く桜。だがその顔には、安堵の笑みが広がっていた。

「7日間も寝てたんだよ、又兵衛……ほんとにもう、心配したんだから」

「……まじかよ」

 呟きながら、又兵衛はふと障子の向こうに目をやる。

 柔らかな陽光の下で、庭の木々が風に揺れ、小鳥たちが軽やかに羽ばたいていた。

「……すまねえ、殿。心配かけた」

 桜はにっこりと微笑み、優しく頷く。

「ううん……生きててくれて、ほんとによかった」

 少し間を置き、桜が笑って言った。

「さ、帰ろ。お城に」

「おう」


 ――屋敷の門前。

 朝の光が差し込み、草の露がきらめいていた。

 長治が静かに頭を下げ、穏やかな声で言う。

「此度は世話になった。官兵衛殿にもよろしく伝えてくれ」

 桜はにこやかに頷き、柔らかく返す。

「長治君も無事でほんとによかったよ……でも」

 首をかしげながら続けた。

「当主なんだから、なにも自分で討伐に来なくてもよかったのに」

 長治はふっとため息をつき、口元をわずかにゆがめた。

「……貴殿に言われたくはない。」

 その言葉に、又兵衛が「はぁ」と肩をすくめ、呆れ顔で両手を頭の後ろに組む。

 そこへ――スシイヌが勢いよく三人のまわりを駆け回った。

「ワンッ! ワンッ!」

 跳ねるように尻尾を振るその姿に、又兵衛が口の端を上げる。

「まったくお前は、やっぱりちいせぇからなんの役にもたたねぇなっ!」

 桜はむっとして頬をふくらませ、スシイヌをかばうように抱き上げた。

「なに言ってんの、又兵衛! スシイヌがいなかったら、私危なかったんだからねっ! ――ね、スシイ…」

「ワンッ!!」

 桜の声に、スシイヌが食い気味に答えた。

「えっ……そうなの?」

 又兵衛がぽかんと目を瞬かせる。

 その瞬間――空高く、一羽の鳥が澄んだ声で鳴いた。

 柔らかな朝風が吹き抜け、木々の葉を揺らし、戦いの名残をやさしくさらっていく。

 桜はふと空を見上げ、微笑んだ。

「……行こっか。」

 陽光が三人と一匹を包み込み、影がゆっくりと屋敷の外へ伸びていく。

 ――夜明けの空の下、彼らの歩みがまた始まった。


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