第二話 槍の妖怪―槍幻⑥
――その時。
地に倒れた又兵衛の胸の奥が、わずかに震えた。
風が止み、虫の声すら消えた夜。世界そのものが呼吸を止める。
胸の奥に残るのは、血潮の温もりか、怒りか、悔恨か。
あるいは――そのすべてが、彼の中でひとつの熱となって灯っていた。
その炎はやがて確固たる意思を得て、ゆらりと燃え上がる。
ぶわり、と夜気が震えた。
又兵衛の身体から淡い朱の光がにじみ出し、地に流れた血がじゅうっと蒸気に変わる。
光は脈を打つように強まり、彼の輪郭を包む炎となった。
それは静かに、しかし確かな意志を持って燃える――信念の焔。
「……ん?」
妖怪・槍幻が異変に気づき、ぎしりと軋む音を立てて振り向く。
そこには、月を背に、槍を手に立ち上がる又兵衛の姿があった。
血と炎に染まった髪が風に揺れ、槍の穂先が朱く光を返す。
「ば……ばかな……!」
槍幻の声が震える。
その視線の先――又兵衛の瞳には、まるで灼けた鉄のような光が宿っていた。
その眼差しは夜気を焦がし、闇を押し返すほどの熱を帯びている。
又兵衛が槍を構えた。
月光が刃を照らし、彼の瞳が紅く閃く。
――炎の念術――《紅蓮滅槍》
轟音とともに、又兵衛の全身を紅蓮の炎が包んだ。
燃え盛る焔は渦を巻きながら槍の穂先へと吸い込まれ、唸りを上げて形を変える。
まるで生き物のように脈動し、ひとつの巨大な矛先を成した。
ゴオオオオオオオオッ!!
「な……なんだ、これは!」
槍幻が叫ぶ間もなく、炎の槍が一直線に突き進む。
その瞬間、空気が焼け、大地が爆ぜた。
槍幻は咆哮を上げ、自らの槍を振りかざす。
「ぬうううっ!!」
だが、紅蓮の奔流は止まらない。
受け止めた槍と腕が焦げ、皮膚が裂け、骨までも灼かれる。
次の瞬間、炎が奔流となって槍幻の胸を貫いた。
「ぐ……ぬうぅぅううう――っ!!!」
轟音とともに槍幻の身体が炎に包まれる。
苦痛のあまりその巨体がのたうちまわる。
「――ギャアアアアアアアアッ――!!」
悲鳴とともに、焦げた肉と紫の血が蒸気となって弾けた。
やがてそれは崩れ落ち、黒い煤と霧だけを残して消えた。
「す……すごい……」
桜の唇から、思わず息が漏れる。
夜風がふたたび吹き抜け、燃えた庭の空気を撫でていった。
炎は次第に薄れ、又兵衛の姿が現れる。
その足取りは重く、数歩進んだところで、力尽きたように崩れ落ちた。
「又兵衛っ!」
桜は叫び、すぐさま駆け寄った。
倒れた身体を起こし、抱きしめる。
焦げた布と血の匂いの中に、かすかな息遣いを感じた。
「……よかった……」
桜の声が震える。
その背中には、張り裂けんばかりの慈しみが宿っていた。
その光景を見つめていた長治は、ふっと力が抜け、その場に膝をついた。
夜空には、戦いの余韻を映すように、まだ赤い月が浮かんでいた――。
――
又兵衛は、やわらかな光の中に立っていた。
霧のような白い風景。足元は淡く光る水面のように揺らめき、空も地も境を失っている。
「こ……ここは?」
呆然とつぶやいたその時、どこからか懐かしい笑い声が響いた。
前方に視線を向けると、そこには若かりし頃のままの父と母、そして妹の志乃の姿があった。
母は微笑みながら、そっと手を腰に当てて言う。
「ほんとうにもう……また無理をして」
父は朗らかに笑い、腕を組んでうなずいた。
「はっはっは! もういいじゃないか母さん。……立派になったな、又兵衛!」
その隣で志乃が両手を広げて、無邪気に叫ぶ。
「おにいちゃん、すっごく強くなった!」
懐かしい声。あたたかい光。胸が締めつけられるほどの安らぎ。
又兵衛は照れながら指で鼻をすする。
「へへっ」
誇らしげに胸を張る又兵衛と見届けると、三人はやがて前を向き、静かに歩き出した。
「……あ、まってくれ! みんな!」
必死に手を伸ばす。けれど、いくら走っても距離は縮まらない。
足が重くなり、息が乱れ、声も霞の中に溶けていく――。
――
屋敷の部屋。
障子越しの光がやわらかく差し込み、外では小鳥のさえずりが聞こえる。
温かな布団の感触。そして、自分の手を包む温もり。
又兵衛のまぶたがゆっくりと開く。
横を見ると、桜が彼の手を握ったまま、うつらうつらと居眠りをしていた。
「……と、殿?」
掠れた声に桜がハッと顔を上げる。
その瞳が彼の目と合った瞬間、ぽろりと涙がこぼれた。
「よかった……もう、目を覚まさないんじゃないかと……!」
勢いよく身を乗り出す桜の肘が、又兵衛のみぞおちに軽く当たる。
「いでっ……殿、肘が俺のみぞおちに……」
「あ、ごめん」
慌てて身を引く桜。だがその顔には、安堵の笑みが広がっていた。
「7日間も寝てたんだよ、又兵衛……ほんとにもう、心配したんだから」
「……まじかよ」
呟きながら、又兵衛はふと障子の向こうに目をやる。
柔らかな陽光の下で、庭の木々が風に揺れ、小鳥たちが軽やかに羽ばたいていた。
「……すまねえ、殿。心配かけた」
桜はにっこりと微笑み、優しく頷く。
「ううん……生きててくれて、ほんとによかった」
少し間を置き、桜が笑って言った。
「さ、帰ろ。お城に」
「おう」
――屋敷の門前。
朝の光が差し込み、草の露がきらめいていた。
長治が静かに頭を下げ、穏やかな声で言う。
「此度は世話になった。官兵衛殿にもよろしく伝えてくれ」
桜はにこやかに頷き、柔らかく返す。
「長治君も無事でほんとによかったよ……でも」
首をかしげながら続けた。
「当主なんだから、なにも自分で討伐に来なくてもよかったのに」
長治はふっとため息をつき、口元をわずかにゆがめた。
「……貴殿に言われたくはない。」
その言葉に、又兵衛が「はぁ」と肩をすくめ、呆れ顔で両手を頭の後ろに組む。
そこへ――スシイヌが勢いよく三人のまわりを駆け回った。
「ワンッ! ワンッ!」
跳ねるように尻尾を振るその姿に、又兵衛が口の端を上げる。
「まったくお前は、やっぱりちいせぇからなんの役にもたたねぇなっ!」
桜はむっとして頬をふくらませ、スシイヌをかばうように抱き上げた。
「なに言ってんの、又兵衛! スシイヌがいなかったら、私危なかったんだからねっ! ――ね、スシイ…」
「ワンッ!!」
桜の声に、スシイヌが食い気味に答えた。
「えっ……そうなの?」
又兵衛がぽかんと目を瞬かせる。
その瞬間――空高く、一羽の鳥が澄んだ声で鳴いた。
柔らかな朝風が吹き抜け、木々の葉を揺らし、戦いの名残をやさしく攫っていく。
桜はふと空を見上げ、微笑んだ。
「……行こっか。」
陽光が三人と一匹を包み込み、影がゆっくりと屋敷の外へ伸びていく。
――夜明けの空の下、彼らの歩みがまた始まった。




