由紀子と隆也の結束
取調室の空気は由紀子の語りに合わせて、 ゆっくりとその温度を変えていくようだった。
「家の前にあの男がいたと美桜が言った夜、あたしはもう限界だと悟りました」
由紀子はデスクの上で組んでいた手を離して、掌を上に向けると、そのままぐっと握りしめてから石原に目を向けた。
「警察は何もしてくれない。あの山ほどの嫌がらせメールを見せても、メールだけでは証拠にならないと云われて…。事件が起きないと、動いてもくれないことがよく分かりました」
「申し訳…ありません」
石原は自分が責められたようで、思わず頭を下げてしまった。
由紀子はそれに気にも掛けずに続けた。
「大学も個々のトラブルには関われないとのことでした。しかし、美桜は…、美桜は怯えて眠れないんです。あたしは途方に暮れてしまいました。本当にどうすればいいのかわからなかったんです」
石原は黙って頷いた。
「その夜、あたしは隆也に手紙を書きました」
由紀子はゆっくりと語る。
「助けてください。その一言だけです。差出人の名前も書かず、局留めにして。あの人が気付いてくれることを祈りました」
辻川が思わず口を開いた。
「返事は?来たんですか?」
「はい。3日後、短い手紙が届きました」
由紀子はそれを思い出すかのように、殺風景な天井に目を向けた。
「すぐに会いたい。場所を指定してくれ」
それだけでした。あたしはそれを目にして、涙が溢れてきました」
石原は少し口角を上げて2度大きく頷いた。
「あなたはご主人を信じていたんですよね?」
「はい、隆也は家族を守るためなら何でもする人です。離婚したあとも、ずっとあたしたちのことを見ていてくれたんです」
由紀子は少し笑顔を見せてさらに続けた。
「あたしたちは人目のない公園で会いました。 夜9時、街灯の下に隆也は立っていました」
由紀子の声は少しだけ震えていた。
「ぱっと見て痩せたのが分かりました。でも目だけは昔のままでした」
隆也は由紀子を見つけると、すぐに駆け寄った。
「由紀子…。大丈夫か?美桜は?美桜はどうしてる?」
「その声を聞いて、あたしは隆也がどれほど苦しんできたのか、全部わかりました」
由紀子は一息ついてから続けた。
「あたしは美桜の状況を全部話しました。待ち伏せ、付き纏い、家の前の影。それに、養子であることまで知られていたことなど…」
石原と辻川は何も言わず頷いて、次の言葉を待った。
「隆也はしばらく黙っていました。でもその沈黙は恐怖ではなく、覚悟の沈黙でした」
「動こう。由紀子、僕たちで美桜を守るんだ」
「夫が続けたその言葉を聞いて、あたしは隆也がまだ家族で居てくれたんだと、心の底から思いました」
由紀子は目の前にあるミネラルウォータのボトルを掌で示して、石原を見た。
「いただいてよろしいですか?」
石原は黙って頷いた。
由紀子は小さく頭を下げてからボトルを口にした。しゃべり続けて、さすがに喉が渇いていたのだろう、微かに音を立ててボトルの半分近くを飲んでから、少し微笑みながら続けた。
「隆也はあの男、柳川颯真について調べていました。大学職員の友人を装って、周囲に聞き込みまでしていました。その結果、わかったことがひとつありました」
由紀子は石原をまっすぐ見た。
「彼は反社会的勢力の構成員の息子だったんです」
石原の表情が強張る。
「父親は市内に事務所を置いている「柳川興業」という不動産会社の社長でした」
石原はその社名を訊いて、さらに驚いた。不動産売買は表向きで、主に資金洗浄を生業としている指定暴力団「宏柳会」のフロント企業だ。石原は捜査4課ではないが、それぐらいの情報は得ている。
「えっ?ほんとですか?それ?」
石原は人差し指を立てて問い直した。
「はい、間違いないです。柳川颯真という男は同級生として美桜に近づき、裏では父親の情報収集役をしていたようです」
辻川は一瞬タイピングを止めて。由紀子に向き直った。
「つまり、美桜さんと知り合ったのは偶然ではなく、最初から狙われていた?」
「はい、あの柳川颯真は美桜に近付いたときから、あたしたち家族の情報を探っていたんです」
「由紀子、時間がない。美桜を安全な場所に移そう。僕たちで美桜を逃がすんだ」
「迷いはありませんでした。隆也となら、何があっても乗り越えられると思いましたから」
由紀子は静かに続けた。
「あたしたちは離婚してからも、ずっと家族だったんです。隆也はすでに逃がすルートを調べていました。防犯カメラの死角、夜行バスの乗り継ぎ、船の便、島の人口、住所登録の抜け道と、すべてあの人が調べてくれていました」
石原は思わず呟いた。
「そこまで?したんですか…」
「はい、あの人は命を懸けていました。美桜を守るために」
由紀子はゆっくりと息を吸って、石原と辻川を交互に見た。
「あたしが自首する役を引き受けたのは、その計画の一部なんです」
取調室の空気が再び張り詰めた。




