ストーカー化する元カレ
由紀子は取調室の冷たいテーブルにそっと手を置いた。その仕草はこれから語る内容の重さを予感させた。
「美桜の元カレは、最初ちょっと嫉妬深いかなって思う青年でした。でも、ある日を境に異常になりました」
石原は無言で頷いた。辻川はキーボードに触れたまま動かない。
「美桜が別れ話を切り出した翌日から、あの男は美桜の生活そのものに入り込んできました」
由紀子は口元を歪める。
「講義が終わると、教室の前に立っている。 サークルの帰り道には、少し離れた場所から付いてくる。駅の改札を出ると、柱の影に隠れている…。そんな具合です」
石原が眉をひそめた。
「それは明らかに〈つきまとい〉ですね」
「はい、でも、美桜は偶然かもしれないと自分に言い聞かせていました。怖かったんだと思います。認めたら、何かが壊れてしまうような気がするって…」
由紀子は娘の弱さを責めるような口調ではなく、ただ静かに事実を並べているだけだ。
「ある日、美桜のスマホが鳴り止まなくなりました」
由紀子はあの日の音を思い出すように目を閉じた。
「1日に100件近いメッセージが送られてきました。(どこにいるの?)(返事して)(僕を無視しないで)(君のこと全部わかってるよ)(いまは家にいるよね?)って、こんなのが毎日送られてくるんです」
辻川が息をのんだ。
「家にいるって?」
石原が訊き返す。
「はい。美桜は震えていました。どうしてわかるんだろって」
由紀子はデスクの上の自分の手を見つめた。
「あたしはすぐに近所の警察署に行きました。メールも見せたんですよ。でも…」
石原が静かに言葉を継いだ。
「証拠がないと言われたんですね?」
「はい。恋人同士のトラブルだと…」
取調室の空気がわずかに重く沈んだ。
「そんなある夜、美桜が泣きながら帰ってきました」
由紀子の声がわずかに震えている。
「お母さん、あの人が家の前にいた」
「あたしは玄関の外を確認しました。誰もいませんでした。でもポストに白い封筒が入っていたんです」
石原が身を乗り出した。
「封筒?」
「はい、中には何も書かれていない白紙の便箋が一枚だけ入っていて…」
辻川が思わず声を漏らした。
「気味が悪いですね」
「ええ。でも、あたしはその白紙の便箋を見て悟ったんです」
由紀子は俯き加減の顔をゆっくり上げた。
「あの影がついに美桜にまで伸びてきたんだと…」
石原の表情が強張る。
「ご主人が恐れていた影と同じものなんですか?」
「はい、あの男はただのストーカーではありませんでした。大学の帰りにとうとう捕まったんです」
由紀子の声は淡々としているのに、その奥に深い恐怖が潜んでいた。
「腕を掴まれて、こう言われたそうです。(美桜、僕たちは運命なんだよ。君は僕から離れられない。だって僕は君の全部を知ってるから)って」
「全部を知ってる?」
石原は息を呑んで訊き返した。
「そのあの男は美桜の行動だけでなく、あたしの英会話教室や、家の間取り、そして…」
由紀子は一拍置いた。
「美桜が養子であることまで知っていました」
取調室の空気が一瞬で凍りつき、石原も辻川も言葉を失った。
由紀子は一息ゆっくりと吐いて続けた。
「あの男はただの大学生じゃなく、あの組織と繋がっているんです」
石原の表情が強張る。
「あなたの夫が恐れていた組織?」
「はい、隆也が離婚してまで守ろうとした影が、美桜に向かって伸びてきたんです」
由紀子の声は静かだったが、それはまさに嵐の前の静寂のようだった。




