美桜の青春と違和感
取調室の由紀子は静かに口を開いた。
「あの人はあたしたちを守るために離れたんです。あの人なりのやり方で」
石原は深く息を吐いた。
「あなたは元のご主人、隆也さんの言葉を信じているんですね」
「はい、もちろんです。あの人は嘘をつく人ではありません。家族を守るためなら、どんな苦しみも選ぶ人なんです」
由紀子の瞳には揺るぎない確信が宿っていた。
「だからあたしもあの人と同じ道を選びました。美桜を守るために」
取調室の時計がまたカチリと音を立てた。物語は、いよいよ追われる娘の章へと進んでいく。
由紀子は天井を見上げるようにして、少しだけ表情を緩めた。
「美桜は明るい子でした。大学に入ってからは、ますます社交的になって…。友達もたくさんできて、毎日が楽しそうでした」
石原は黙って耳を傾けている。辻川はキーボードを叩く手を止め、由紀子の横顔を見つめていた。
「美桜は文学部に入りました。小さい頃から本が好きで、特に海外文学が好きでした。姉に似たんだと思います」
由紀子の声はどこか誇らしげだった。
「ゼミでは同じ学年の男の子と仲良くなったみたいで…。最初はただの友達だったんです」
「その人が後の元カレなんですか?」
石原が静かに訊ねる。
「はい。彼は〈柳川颯真〉って云います。最初はとても優しい子だったそうです。話をよく聞いてくれて…。誕生日には手作りのしおりを作ってくれたりと、美桜は嬉しそうに話していました」
由紀子は少しだけ微笑んだ。
「あたしは美桜が恋をしたんだと、そのときは嬉しかったんです。でもある日から、美桜の様子が変わりました」
由紀子はテーブルの上で指先をそっと組み替えた。
「いつものようによく笑うんですけど、目が笑っていないんですね。家に帰ってきても、スマホを気にしてばかりで、通知が鳴るたびに、肩をびくっと震わせるようになって…」
石原の表情が引き締まる。
「どうしたんですか?何か言ってませんでしたか?」
「最初は何も言いませんでした。「ちょっと疲れてるだけ」って…。でも、あたしは気付いていました。美桜は何かから逃げているって」
由紀子は石原から目を逸らすように、何もない空間に視線を移して続けた。
「ある日、美桜が言ったんです」
由紀子は娘の声を思い出すように目を閉じた。
「お母さん、颯真ね、ちょっと変かも知れないって」
「変?」
石原が問い返す。
「はい、最初は優しかったけど…。だんだん、美桜の行動を全部知りたがるようになってきたんだそうです」
由紀子は淡々と続けた。
「講義が終わる時間に、教室の前で待っていたり、サークルの集まりがあると云えば、理由をしつこく聞いてきたり。友達と写真を撮れば、これは誰なのかと詮索する。大した理由もなく、たまたま帰り道を変えれば、どうしてルートを変えたんだと追及するとか、そんな具合です」
辻川は思わず眉根を寄せた。
「それって…。もうストーカーですね」
「ええ。優しさが監視に変わっていったんでしょうね」
由紀子は憤懣やるかたないという表情で続けた。
「ある夜、美桜が泣きべそかいて帰ってきました」
由紀子の声がわずかに震えた。
「お母さん、あたし怖いの。それでね、別れたいって言ったら、あの人笑ってね、別れないよって言うのよ。僕たちはずっと一緒なんだからって。もう訳わかんないっ」
美桜は俯き加減で続ける。
「それにね、あの人の家ね、やっぱ、何か変だよ。地元では有名らしいんだけど…」
説明し辛そうに顔を上げた。
「あたしはすぐに警察に相談んしようって言いました。でも…」
石原が先に言葉を継いだ。
「警察から証拠がないと言われた?」
「はい。待ち伏せも、つきまといも、証拠がなければ指導もできないと」
由紀子は悔しさを押し殺すように唇を噛んだ。
「美桜はどんどん追い詰められていきました。 スマホに日に何十件というメッセージがくるんです。
「今どこにいるの?」
「返事して」
「僕を無視しないで」
「君のことは全部わかっているからね」
辻川が息を呑んで由紀子を見つめた。
「それは完全にストーカーじゃないですか」
「はい、でも、み、美桜は…、美桜は…、あたしたちに迷惑かけたくないって、しばらく黙っていたんです」
由紀子は静かに目を伏せた。
「あたしは気付いてあげられなかった。美桜がどれほど怯えていたのか」
「ある日、美桜が震える声で言ったんです」
「お母さん…あの人、家の前にいた」
取調室の空気がわずかに凍りついた。
「あたしはすぐに美桜を抱き締めました。でもあたしは悟ったんです」
由紀子はゆっくりと顔を上げた。
「あの影がついにあたしたちの家にまで来たんだと」
「あなたの元ご主人が恐れていた影とですか?同じものなんですか?」
「はい、美桜を追っていた柳川颯真という男は、ただの同級生ではありませんでした」
由紀子の声は静かだった。しかし、その静けさの奥に深い恐怖が潜んでいた。
「ここから先は美桜を守るために、あたしと隆也が動き始めた話になります」
取調室の時計がまたカチリと音を立てた。物語は幸福の残像を完全に失い、暗い影の中へと踏み込んでいく。




