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離婚の真相

 誰もいない夜のオフィスは、何となく寒々しい。部屋の白い照明が書類の山を無機質に照らしている。山添隆也はデスクに置かれたファイルをじっと見つめていた。その表紙には黒い太字で案件名が記されている。

『東西開発コンサルティングに関わる資金流用報告書 山添公認会計士事務所』

ファイルを開いたまま動けずにいた。そこには企業の資金流用の痕跡が赤字でびっしりと記されている。表向きはただの不正会計なのだが、隆也は知ってしまった。この資金の流れの先に反社会的勢力が存在していることを。隆也は深くため息を吐いた。この案件を請けてから、生活は確実に変わり始めている。

最初の違和感はクライアントの担当者、金石真司が放った一言だった。

「山添先生、これ、深入りしないほうがいいですよ」

金石は終始笑顔なのだが、目は笑っていなかった。

「えっ?深入りしないほうがいいって?どういうことですか?」

隆也は報告書から目を上げて、金石の嘘っぽい笑顔を見た。

「いや、中途半端に首を突っ込むぐらいなら、今のうちに辞退されたほうが賢明だと…」

「でも、これって、御社の山下専務からご依頼いただいた案件ですよね?」

「ええ、まあ、そうなんですけどね…」

その視線は何かを知っている者の目から出ていた。その日から隆也の周囲で小さな異変が起き始めた。オフィスに差出人不明で、何も書いていない無地の便箋が入った白い封筒が届き、帰宅時の駅から自宅へ続く夜道では、黒っぽい乗用車が何度も後ろに付いた。また、家から1ブロック手前の4つ角には、スーツ姿の見知らぬ男性が立っていると云った具合だ。隆也は偶然だと言い聞かせようとしたが、胸の奥には冷たいものが沈んでいった。

 そんなある日の夜、帰宅すると、玄関の前に黒い影が立っていた。いつも1ブロック手前で立っていたあのスーツ姿の男性だった。その男性は隆也を見ると、薄ら笑いを浮かべた。

「おかえりなさい。お疲れさまでした。それにしても、奥様はお綺麗な方ですねぇ」

その一言で隆也の背筋が凍りついた。

「おまえっ!いったい何のつもりだっ!」

男は応えず、ただ声を出さずに不気味な笑顔を見せて、通りの闇のなかに消えた。

その夜、隆也は眠れなかった。隣で小さく寝息を立てる由紀子の寝顔を見つめながら、胸の奥で何かが崩れていくのを感じていた。

 翌日、隆也はクライアントの山下専務に電話を掛けて現状を伝えた。

「専務、せっかくご依頼いただきましたが、最近身の危険を感じています。この案件から辞退させていただきたいのですが…」

山下は電話口でひと呼吸空いたように思えた。

「えっ?身の危険?って?どうかしたんですか?」

隆也はこの2か月ほどで、身の回りに起きた異変を伝えた。

「そんなことがあったんですか…?でもそれとこの案件と関係はないでしょう?」

「いえ、逆にこの案件以外に思い当たることがないんですよ」

「山添先生、この案件を追えるのは、以前より会計監査をしていただいて、ある程度弊社の内情もご理解いただいている先生をおいて他にないんです。それにもう見られているんでしょ?」

隆也は言葉を失った。見られているって?その言葉は隆也の胸に深く突き刺さったが、それ以上、いま電話で訊くことが憚れる気がして、近日中に面談したいと申し入れた。

 その2日後、隆也が山下から呼び出されたのは、有名シティホテルの一室だった。

隆也が部屋に入ると、山下は窓際の肘掛椅子に座っていた。

「専務、ありがとうございます。無理をお願いして申し訳ありません」

妙だった。いつもの山下ではない。どこか落ち着きがない。

「専務、どうかされたんですか?」

隆也が訝しながら訊ねた。

山下は無言で窓の外を見下ろしている。この部屋は6階だが、駅前の様子は意外とよく見える。

「もう見られているようだな」

山下は目と首を動かして、隆也に下を見るよう指示した。

横断歩道にスーツ姿の男が立っている。

「あの横断歩道のところの男ですか?誰なんですか?」

「分からない…。でもさっきから…、そうだなあ、もう30分ぐらいはあそこに何もしないで立っている」

山下はテーブルを挟んだ前の椅子に座るよう隆也を促した。

「ええっ、僕だけじゃないんですか?」

隆也は問い返した。

「そのようですね。昨日からいる」

「昨日?」

「うちの会社の前にもいたし、今朝もいた」

山下はまた窓の下へ目を向けた。

「実はね、山添先生。この件はうちの社長、加藤が1枚噛んでいるんですよ」

「えっ?加藤社長が…?」

「ああ、東海開発っていう会社は加藤個人の財産隠しっていうか、ま、税金逃れするための会社で、ほぼ業務実態はないんです」

「ああ、それで…。おかしいなって思ってたんです。コンサルっていったい何やってる会社なんだろって」

「ま、そうでしょうね。山添先生だったら気が付かないはずがない」

今回の業務監査は、今度の役員会で加藤社長を架空売上と不当な流用並びに資金洗浄で、告発するための証拠集めの一環だということを認めた。

「山添先生を巻き込んでしまって申し訳ない」

山下は深く頭を下げた。

 その夜、隆也は家に帰ると、由紀子が夕食の準備をしていた。

「ただいま」

「おかえりっ。今日は早かったわね」

由紀子の声が弾んでいるように聞こえた。

「おかえりなさい」

リビングでテレビを観ていた美桜も隆也に向き直って笑顔を見せる。

隆也はここしばらくのあいだ、この案件で帰宅時間が遅くなっていた。いま由紀子や美桜の嬉しそうな弾んだ声を聞いて隆也は悟った。この家に自分がいてはいけない。自分がいる限り、由紀子も、美桜も、危険に晒される。

 隆也は眠れなかった。深夜のベッドで寝返りばかり繰り返していると、由紀子が目を覚ましそうで、仕方なく寝室からリビングへ移動した。灯りも点けずボーッとしながらサイドボード上に置いた家族写真を見つめた。去年の春に、3人でイタリア旅行した際のピサの斜塔前で、三脚を立ててセルフタイマーで撮った家族写真だ。塔の傾きがよくわかるアングルで、3人とも満面の笑顔で写っている。隆也は決心した。明日にでも実行しよう。離婚して美桜をこの世から隠すことを。

 翌朝、キッチンで朝食の準備をしている由紀子に呼び掛けた。

「由紀子、ちょっといいか?火を止めてこっちへ来てくれるかな?」

由紀子は隆也に振り向いた。

「ん?どうしたの?」

「大事な話があるんだ。美桜もここに居なさい。一緒に聞いてほしい」

隆也は一度俯いてから、二人に向かって押し出すような声を放った。

「離婚してほしいんだ」

由紀子は持っていた菜箸を落とした。

「えっ?何それっ。どうして?」

隆也は由紀子を見つめるだけで応えなかった。 (自分が原因で二人は狙われている)そんな言葉を口にすれば、恐怖を与えるだけなので、ひとことだけ応えた。

「守りたいんだ。二人を」

由紀子は茫然としている。美桜も意味が分からないというように首を振った。

「朝からどうしたの?どういうことなの?」

由紀子の大きな瞳から涙が落ちている。隆也も泣きたかったが、泣くことすら許されない気がして、ただ二人に頭を下げるしかなかった。

「本当にすまない。分かってくれ」

離婚後、隆也はほとんどの荷物を捨て、身を隠すように暮らし始めた。しかし、どうしても断ち切れないものがあった。家族への想い。隆也は局留めで短い手紙を送った。

「元気でいるか?美桜は笑っているか?どうか幸せでいてほしい」

返事は来ない。それでよかった。返事が来れば足がつく。隆也はただ祈るように手紙を書き続けた。そんなある日、隆也は噂を耳。にした。あの組織が別の標的を探しているらしいと。標的?それは彼が守ろうとした家族に向かう可能性があるということだ。美桜に何かが起きているかもしれない。隆也は震える手でペンを握った。由紀子だけが美桜を守れることを知らせなければ。


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