幸せな日々と突然の離婚
由紀子は俯き加減のまま、ゆっくりと語り始めた。
「美桜を迎えてからの数年は本当に幸せでした。美桜はよく笑う子で、笑ったとき、姉にそっくりなんです」
石原は黙って頷き、辻川はタイピングし続ける。
「夫も美桜を本当の娘のように可愛がってくれました。休日には3人で近くの公園に行って、ブランコを押して遊び、滑り台で3人くっついて滑り降りたりして、帰り道にアイスクリームを買って…」
由紀子はどこか遠くを見ているような視線を見せて続ける。
「あたしはあの頃の家が大好きでした。夕方になると、キッチンから煮物の匂いがして、 夫が新聞を読みながら、高校生になった美桜に数学を教えたりして…。あたしも日常会話ができる程度の英語を教えました。そんな何でもない日々がずっと続くと思っていました」
由紀子は思い直したように、ひとつ頷いてから続けた。
「でもある日を境にして、夫は変わりました」
テーブルの上で組んでいた手の指先をそっと組み替えた。
「夜遅く帰るようになって、食事中もどこか上の空で…。あたしが話し掛けても、返事が遅れることが増えました」
「ご主人、あ、隆也さんのお仕事が忙しくなった?とか?」
石原が少し首を傾げて訊ねると、由紀子は左右に首を振った。
「忙しいというより、怯えているように見えましたね」
石原の眉がわずかに動く。
「怯えて?」
「はい、玄関の鍵を二重ロックにして、窓の戸締まりを何度も確認したり、夜中に突然起きると、外へ出て周りを見に行ったり…」
辻川がタイピングの手を止めた。
「何かに追われているようでした。でも、あたしには何も言ってくれませんでした」
「そんな日々が数ヶ月続いたある夜、夫が言ったんです」
由紀子は深く息を吸った。
「離婚しようと…」
取調室の空気が凍り付いたように思えた。
「あたしは耳を疑いました。理由を訊いても夫は何も言わないんです。ただ、「すまない」と繰り返すだけでした」
由紀子の目に微かに涙が滲んでいたが、石原はそれに気が付かないふりをして訊ねた。
「それで、あなたはどうしたんですか?」
「泣きましたよ。訳が分からないと、泣き叫びました。でも、夫はあたしの手を握って言ったんです」
由紀子は夫の声を思い出すように目を閉じると、その弾みで涙がひとしずくテーブルに落ちた。
「君と美桜を守りたい。だから離れるんだと」
石原は息を飲んで問い直した。
「守るために離婚するなんて、普通はあり得ませんよ」
「はい。あたしもそう思いました。でも夫の目は真剣でした。それは何か大きなものを背負っているような目でした」
由紀子は石原の目をじっと見つめて続けた。
「あたしが納得できないままでいると、署名捺印するようにと離婚届けを渡されました。慰謝料の代わりに、いま住んでいる戸建ての家を共有名義からあたし個人に変更したからと、夫は荷物をほとんど持たずに出ていきました」
「その後、連絡はないんですか?」
「ありません。でも、会計事務所のオフィスはそのまま使っていましたので、連絡しようと思えばできるんですけどね…」
由紀子は少しだけ微笑んだ。
「これだけの行動を理由なく起こしているのですから、あたしも通常の連絡はするなということだと判断しました。でも、手紙だけは届きました。差出人が適当な仮名で、例えば「鈴木太郎」とか「田中一郎」みたいな感じで、しかも、局留めまでしてです」
「内容は?」
「元気でいるか、美桜はどうしているか、そんな短い言葉だけです。でもあたしにはそれで十分でした」
石原は何度か頭を上下して頷いた。
「あなたは隆也さんが離婚を申し出た本当の理由を知っていたんですか?」
「いえ、わかりません。でも確信しています。あの人はあたしたちを守るために離れてくれたんだと」
由紀子はしっかりと前を向いて続ける。
「その頃のあたしは、まだ気付いていませんでした。あの人が恐れていたという影が、やがて美桜に向かって伸びてくることや…」
由紀子は一度目を閉じると、二度頷いてから静かに瞼を上げて呟いた。
「美桜が追われるようになったその理由も」
取調室の時計がまたカチンと音を立てた。物語は幸福の残像を残したまま、ゆっくりと暗闇の方角へ傾き始めていた。




