取調室の由紀子
取調室の蛍光灯は白々しく、由紀子の影をデスクの上に薄く落としていた。壁の時計は9時57分を指している。
「では、改めてお伺いします。藤森さん、あなたが娘さんを殺したというのは本当なんですね?」
石原の声は低く慎重だった。由紀子はまるでその質問を待っていたかのように静かに頷いた。
「はい。本当です」
「昨夜のことだとおっしゃいましたね。何時ごろですか?」
「覚えていません」
「覚えていない?」
「はい、気付いたときには、すでに終わっていました」
石原は片眉を上げて、辻川をちらりと見る。辻川は無言でタイピングを続けている。
「では、死体はどこに?」
「言えません」
「なぜ言えないんです?」
「言ったら、娘が困るからです」
石原は言葉を失ってしまった。(困る)とはどういう意味なのか。死んでいるなら困るも何もないはずだ。
「凶器は?」
「言えません」
「あなたは娘さんを守るために殺したとおっしゃいました」
「はい」
「どういう意味ですか?」
由紀子は俯き加減のまま、テーブルの上で組んでいる自分の手を見つめた。その指先は微かに震えているようにも見えたが、表情は相変わらず穏やかだった。
「娘は追われていました」
「追われていた?」
「はい、ずっと。もう限界でした」
石原は思わず身を乗り出した。
「誰に追われていたんです?」
「それも言えません」
「なぜ?」
「言ったら、また来ますから」
(また来る)その言葉で、辻川が初めて顔を上げた。
「来るって、誰が?」
「だから言えません。娘を守るために、あたしはここに来たんです」
石原はまた深く息を吸い込んで、椅子に背を預けた。この女は嘘をついているのか、それとも本気でそう信じているのか、とても判断がつかない。
「藤森さん、あなたの娘さんは何とおっしゃいますか?お名前を教えてください」
「山添美桜です。美しい桜と書いて(みお)です」
「えっ?山添さんって、実の娘さんじゃないんですか?」
「はい、あたしの姉の子、実際は姪っ子ですが、幼少期に養子として縁組しています」
「あ、そうなんですね。でもなんで?姓が…」
石原が問い掛けるまえに、由紀子がそれを遮った。
「はい、あたしたち、数年前に離婚しました。娘は元夫の姓を名乗っています」
「あ、なるほど。年齢は?」
「20歳です」
「昨夜、あなたは美桜さんを殺した。そうおっしゃるんですね?」
「はい」
「なのに、死体の場所も、凶器も、動機の詳細も言えない?」
「はい」
由紀子はゆっくりと俯き加減の顔を上げて、石原を見つめた。その瞳はまるで深い井戸の底のように静かで、何も映していないように見えた。
「普通、そんなことはあり得ませんよ」
「普通じゃないから、ここに来たんです」
唖然としている石原に、追い打ちを掛けるように由紀子が続ける。
「あたしは娘をこの世界から消しました。娘を、美桜を守るために」
「消したとは殺したという意味ですか?」
「はい、でも、あなたがたが思っているような殺し方ではありません」
石原は辻川に目で合図し、辻川は無言で頷きメモを取る。
「どういう意味です?」
「さっきも言いましたように、順番にお話しします。美桜が生まれた日のことから全部。そうしないと、あなたがたには理解できません」
由紀子は口角を上げて、うっすらと微笑んだ。その笑みには悲しみでも、狂気でもなく、確かな覚悟だけが宿っているように思えた。
「娘を守るために、あたしはすべてを捨てました」
取調室の空気がまたわずかに震えた。




