娘を殺しました
午前9時20分。大阪府警本部一階の受付カウンター前に、ひとりの女が立っていた。白いブラウスに紺のカーディガン。ミディアムの髪は肩で揺れ、年齢は40代半ばだろう。どこにでもいそうな穏やかな主婦の姿だった。しかし、その口から発せられた言葉は、受付の若い女性警察官の思考を一瞬で凍らせた。
「娘を殺しました」
「えっ?いま何とおっしゃいました?」
女はまるで天気の話でもするかのように淡々として、その声に震えもない。後悔も、恐怖も、悲しみさえも感じさせず、同じ言葉を繰り返した。
「だから、娘を殺したんです」
「あ、はい、わかりました。いま係りの者を呼びますので、そのままお待ちください」
女性警察官は慌てて立ち上がり、奥の部屋へ走っていった。女は手を前で組み、まるで診察の順番を待つ患者のように静かに待っている。数分後、刑事らしき男性二人を伴って戻ってきた。
「この方です」
受付の女性警察官が、その女に掌を向けて差し示すと、女は能面のような顔で軽く会釈した。
「自首しに来ました。娘を殺しましたので…」
「わかりました。詳しい事情をお訊ねしますのでこちらへお越しください」
刑事たちは表情を変えずに頷き、受付カウンター横の廊下を指し示した。
廊下を歩くあいだも、女は一度も後ろを振り返らなかった。取調室に入ると、若いほうの刑事に指示されるまま、テーブルを挟んだ向こう側の椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。その仕草は修行のため、長い旅を終えてきた僧侶のように見えた。
「私は石原と云います。こっちは辻川です。まず、お名前とご職業を伺ってもよろしいですか?」
年配のほうの刑事、石原幸作が訊ねると、女はしっかり目を見据えながらも静かに応えた。
「藤森由紀子と申します。長らく高校の英語教師をしておりましたが、数年前に退職してからは、自宅で英会話教室を営んでおります」
刑事はメモを取りながら慎重に言葉を選ぶ。
「娘さんを殺したんですよね?どういうことですか?詳しくお聞かせください」
由紀子はほんの一瞬だけ目を伏せた。その表情は罪を悔いているのではなく、むしろ、何かを決意した顔つきだった。
「はい、殺しました。昨夜のことです」
「死体はどこに?」
「言えません」
「凶器は何ですか?」
「言えません」
「どうして殺したんですか?」
由紀子は顔を上げた。その瞳は驚くほど澄んでいた。
「娘を守るためです」
調書を取るため取調室隅のデスクで、パソコンのキーボードをたたいていた若いほうの刑事、辻川健太の手が止まった。
「守るため?殺したのに?」
石原が念を押すように訊き返した。
「はい、殺すしか…、他に方法がなかったものですから」
由紀子は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり瞼を閉じて頷いた。取調室の空気がわずかに揺れた。石原と辻川、二人の刑事は互いに視線を交わす。由紀子は続けた。
「娘はもうここにはおりません。遠くへ行きました。あたしが行かせました」
「行かせたって?どういう意味です?」
「だから殺したんです。娘がこの世界からいなくなるように…」
由紀子の声には一点の迷いもなかったが、その言葉の意味はまさに五里霧中だ。石原は深く息を吸って尋問を続けようとしたが、由紀子が先に口を開いた。
「どうか急がないでください。順番にお話しします。娘が生まれた日のことから全部」
石原、辻川の両刑事はまた眼を合わせた。この女はただの殺人犯ではないようだが、何かを隠しているようにも思える。それなのに、わざわざ何のために府警本部に自首したのか?由紀子は静かに微笑んだ。
「娘を守るために、あたしはすべてを捨てました」
取調室の時計がカチリと音を立てた。




