警察の動き
取調室の扉が閉まると、石原は深く息を吐いた。
「殺していない、か…」
由紀子の言葉は嘘にも真実にも聞こえた。しかし、刑事としての直感が告げていた。この女は嘘をついていない。ただし、すべてを話してもいない。
「あなたの原稿のなかでは、娘は美緒という名前でしたね」
石原の言葉に、由紀子は小さく微笑んだ。
「はい、現実と同じ名前にはしませんでした。 同じにすると、物語と現実の境界が曖昧になるから」
「境界?」
「ええ、あたしは現実をそのまま書いたわけではありません。でも、現実を理解するために書いた物語なんです。だから、少しだけずらしてあります」
石原は深く頷いた。
「つまり、あなたは物語を使って真実を語っている」
「はい、物語のほうが現実よりも正確に伝わることがありますから」
石原は由紀子が差し出した原稿を閉じ、深く息を吐いて辻川を見る。
「これは現実の写しではないが、現実の影を映している」
辻川が首を傾げる。
「どういうことです?」
「名前も職業も犯人も違う。でも、母が娘を守るために嘘をつくという構造だけは同じだ。 つまり、これは藤森由紀子の内面の記録なんだよ」
辻川は息を呑んだ。
「じゃあ、現実と物語は別物?ですか?」
「ああ、別物だ。だが、どちらも真実なんだよ」
そうかと云って、由紀子の自白だけで、捜査本部は設置できない。ましてや、逮捕状など請求すらできない。しかし、殺人事件の可能性がある以上、門前払いなどあり得ないが、現時点では遺体が見つからないし、凶器も出てこない。しかも由紀子が殺したという痕跡すら見つからない。まずは自分と辻川で裏どりすることにして、何らかの客観的な物的証拠を探していくしかない。
石原は現況を直属の上司である木村冴子に報告した。木村は石原が所属する刑事部の課長で、階級は警視だ。木村は石原と辻川にそれぞれに若い刑事を付けて4人態勢で捜査するよう指示した。それらが奏功して、大学での聞き込みは予想以上に黒い情報を得ることができた。美桜の元カレ、柳川颯真は待ち伏せやつきまとい、それに大量のメール送付など、美桜への異常な執着が明らかになり、それが高じて家の前にまで現れるという異常行動も確認することができた。さらにこの柳川颯真の父親が営む柳川興産という不動産屋は、広域指定暴力団「宏柳会」のフロント企業で、父親自身が宏柳会の若頭であることが判明し、それは由紀子の話と一致していた。しかし、まだ決定的な証左にはならないので、まずは柳川颯真を任意で呼び出すことにする。木村冴子の命で、辻川とバディを組んだ山本友梨香が大学通用門から駅へ続く道路脇で声を掛ける。友梨香は童顔で、30歳前だと思えない、制服を着れば十分高校生で通じる容貌だ。
「あのー、ちょっといいかな?」
「ん?俺?」
颯真はちょっと驚いて、自身の鼻先を指差した。
「はい、柳川さんだよね?」
颯真は満更でもないような顔をして微笑みながら頷いた。
「あたし、ちょっとあなたに訊きたいことあるんだけど」
友梨香は微笑み掛ける。
「うん、いいけど…。なに?」
「今からちょっと時間あるかな?」
「家帰るだけだからいいよ」
「じゃあ、ちょっと、こっちに来てくれる?」
颯真の後ろに辻川が近づいてきたのを確認してからバッジを見せて、道路わきに止めてあるシルバーメタリックのセダンを指差した。
「えっ?なに?警察?」
「そうです。山添美桜さんのことでお訊ねしたいことがありますのでご同行ください」
辻川が後ろから声を掛けた。颯真は一瞬驚いたようだが、ぶつぶつ文句を言いながらも、署内まで素直に付いてきた。
「俺、何もしてないよ。ただ、彼女を心配しているだけだよ。俺もここんとこ、美桜と連絡付かないし、気になってたとこなんだよ」
その目は何も感じていない目だった。任意で呼んだ手前、父親のことなど、これ以上引っ張るのも無理があるし、逆に藪蛇にもなりかねない。仕方がないので、山添美桜に対するストーカーじみた行動は控えるように警告して帰すしかなかった。
手詰まり気味の石原は、監視カメラの映像を改めて追ってみた。手詰まりになった時は原点へ戻れと、刑事になった頃によく言われたことを思い出す。美桜の姿は途中で途切れている。素人の作業ではないのは明らかだ。計画的で、緻密で、痕跡を残さない。由紀子の元夫、山添隆也の名前が石原の脳裏に浮かんだ。捜査の一環として、由紀子から押収した原稿…。タイトルは『娘を殺しました』石原はページをめくりながら眉をひそめて呟いた。
「これは現実じゃないな」
原稿のなかの娘は別の名前。夫も別の職業。殺害方法も現実とは一致しない。しかし、母親が娘を守るために自首するという構造だけは、現実と重なっていた。
「これは由紀子自身の心の物語だ」
石原は取調室の録画映像を再生してみる。由紀子の目は嘘をつく者の目ではなかった。
娘は生きている。とすれば、どこにいる?ただひとつだけ確かなことがあった。美桜は誰かに守られているが、誰かに狙われてもいる。石原は大きく息を吐いて、HDDの停止ボタンを押した。
「まだ終わってないな」
辻川が入ってきた。
「石原さん、これ、見たほうがいいです」
以前、証拠品として預かった美桜のスマホを手渡した。
「新しいメッセージが届いています」
石原は画面を見た。
「どこにいるの?会いたいよ」
石原は拳を握りしめた。
「クソッ、あの野郎、まだ追っ掛けてるのか」
美桜の居場所はわからない。しかし、追う者も確実に動いている。そして守る者もまた動いている。物語は静かに、しかし確実に続いていた。




