恐怖の余韻
瀬戸内海の風は夜になると急に冷たくなる。 島の家々は早くに灯りを落とし、海の音だけが静かな世界を作り上げている。美桜は古い木造の家の窓辺に座り、湯気の消えかけたマグカップを両手で包んでいた。
「お母さん…」
声に出すと、胸の奥がキュッと痛んだ。もう会えないとわかっているのに、夜になると、どうしても思い出してしまう。美桜がこの島へやって来てから3週間が経った。朝は漁船の音で目が覚め、昼は海岸沿いの遊歩道を歩き、夜は静寂に包まれて眠るだけだ。誰も追ってこない。誰も知らない。誰も干渉しない。ここは確かに安全な場所だった。そのはずだった。その夜、美桜が家の外に気配を感じるまでは…。
美桜はテーブルの上に置かれた1冊のファイルに目を落とした。表紙には母が書いた物語のタイトルが記されている。
『娘を殺しました』
美桜はそっと指でなぞった。
「お母さん、これ物語だよね。でも、あたしを守るための現実でもあるんだよね」
美桜は母に問い掛けるように独り言を呟いた。それを待っていたかのように、外で砂利を踏む音がした。風の音ではない。波の音でもない。もっと近い。もっと重い。
「気のせいよ」
自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、胸の奥のざわつきは消えなかった。スマホが突然震えた。美桜は反射的に手を伸ばした。画面には番号非通知が表示されている。そして、たった一行のメッセージ。
〈どこにいるの?会いたいよ〉
美桜の指先からスマホが滑り落ちた。このスマホは父が新規で購入してくれたもので、メールアドレスはおろか、電話番号すら誰にも知らされていないはずだ。もちろん、GPS機能も遮断できるアプリもインストール済みだ。外でまた砂利を踏む音がした。1歩、また1歩。ゆっくりと確かに近づいてくる。美桜は息を止めた。心臓の音が耳の奥で鳴り響く。
「嘘でしょ…」
ここは誰も知らない島のはずだった。誰も来ないはずだった。だけど誰かが島に渡ってきた。家の前で足音が止まった。静寂、海の音すら消えたような静けさ。美桜は震える手で口を押さえた。扉の向こうに誰かが立っている。その気配はかつて感じたものと同じだった。あの男のあの執着の気配だ。美桜は動けなかった。声も出なかった。ただ、扉の向こうの気配だけが確かに存在していた。
〈コン、コン、コン〉
玄関からノックする音が聞こえた。美桜は息を呑んだ。波の音だけが聞こえている。遠くで船のエンジン音がした。誰が来たのかは分からない。父かもしれない。警察かもしれない。あの男、颯真かもしれない。それでも美桜は思った。母は嘘をついた。父も嘘をついた。二人とも、あたしのために。それが正しかったのか、まだ分からない。おそらく、この先もずっと分からないのかもしれない。けれど、潮の匂いのするこの島であたしは生きている。それだけは確かな事実だった。もう1度ノックする音がした。
〈コン、コン、コン〉
美桜はゆっくり立ち上がった。
「あたしが殺しました」はこれで完結します。後日談は読者の皆さんでそれぞれご想像いただければ幸いです。ありがとうございました。




