娘をこの世から消した
取調室の空気は由紀子の語りが進むにつれて、確実に緊張を帯びていった。
石原はペンを握ったまま動かない。辻川はキーボードに触れた指を止め、ただ由紀子を見つめていた。
由紀子は静かに口を開いた。
「美桜はもう遠くへ行きました。あたしが行かせました。美桜を守るために」
石原は慎重に言葉を選んだ。
「遠くへ行ったとは?どういう意味です?」
由紀子はゆっくりと顔を上げた。
「そのままの意味です。美桜は生きています」
由紀子は一度息をついで、笑みを浮かべた。
「あたしは美桜をこの世界から消したと言いました」
由紀子はテーブルの上で指を組み替えた。
「でも、それは肉体を殺したという意味ではありません。追われる世界から消したという意味です」
石原は小さく息を吸って、ゆっくり吐き出しながら頷いた、
「つまり、あなたは娘さんを殺していないんですね?あなたの原稿のなかの娘は美緒という名前でしたね?」
石原の言葉に、由紀子は小さく微笑んだ。
「はい、現実と同じ名前にはしませんでした。同じにすると、物語と現実の境界が曖昧になってしまうから」
「境界?」
「ええ、あたしは現実をそのまま書いたわけではありません。でも、これは現実を理解するために書いた物語なんです。だから、少しだけずらしてあります」
石原は深く頷いた。
「つまり、あなたは物語を使って真実を語っていると」
「はい、物語のほうが、現実よりも正確に伝わることがありますから」
由紀子はひとつ大きく頷いてから続けた。
「そうです。あたしは美桜をこの世界から、追われる世界から消しただけです。危険な世界から。あの男の世界から。あの組織の手から」
辻川が思わず声を漏らした。
「じゃあ、今回の自首は?」
「はい、囮です」
由紀子は当然のことのように平然と応えた。
「あたしが娘を殺したと言えば、警察もあの男も、組織も、一時的に美桜から目を離しますでしょう」
石原は眉根を寄せた。
「あなたは自分を犠牲にしたんですね」
「はい、美桜を守るためなら、何でもします」
「隆也は美桜を連れて、計画通りに逃げてくれました」
由紀子は笑みを浮かべたまま続けた。
「深夜の高速バスに乗り、九州へ渡り、そこからフェリーで瀬戸内海の小さな島へ…。美桜はもう見つからない場所にいます」
石原は慎重に訊ねた。
「その場所を教えることはできますか?」
由紀子は首を横に振った。
「いいえ、あたしが教えれば、美桜がまた危険に晒されますから」
「あなたが知らないという可能性は相当低いですよね?」
「はい、分かっています。でも言いません」
その声は揺るぎなかった。
「あたしはここに来る前に、すべてを覚悟してきました」
由紀子は真剣な顔つきになって、まっすぐ石原を見た。
「逮捕されてもいい。裁かれてもいい。刑務所に入ってもいい。美桜が生きていてくれさえすれば、それでいいと…」
石原は言葉を失った。
「あたしは姉の願いを守ると誓いました。美桜を守ると。だから、あたしはここに来たんです」
石原はしばらく黙ったまま由紀子を見つめる。その沈黙は怒りでも、呆れでもなく。理解しようとする沈黙だった。
「あなたのおっしゃていることが本当なら、あなたは娘さんを殺していない」
「はい」
「だがあなたは殺したと言い続けている」
「はい」
「なぜそこまで…?」
由紀子は静かに微笑んだ。
「それが美桜を守る唯一の方法だからです」
「あたしは娘を殺していません。でも母親としてのあたしは死にました」
由紀子は目を閉じて、何かを思い浮かべるようにして続けた。
「あたしはもう、美桜の前に現れることはありません。美桜の人生から、あたしは消えました。それが美桜を守るための殺人です」
石原は深く息を吐き、首を何度か左右に振った。
「あなたは自分を殺したんですね」
「はい。美桜のために」
取調室の時計がまたカチリと音を立てた。
「でも…」
由紀子はゆっくりと顔を上げた。
「まだ終わっていません」
石原は少し首を傾げて訊ねた。
「どういう意味です?」
「あの男はまだ自由の身です。ですから、美桜は完全に安全だとは云えません」
由紀子の声は震えていなかったが、深い確信だけが宿っていた。
「わかりました。わかりましたけど、あなたの自首と供述だけで、死体のない殺人事件なんて成立しませんので、留置所に泊まってもらうわけにもいきません。状況を考えても、ご自宅へ戻れなさそうなので、今日はひとまずこの近所のホテルにでも宿泊してください。宿泊先はこちらで手配しますから」
石原は口先を少し曲げてから、辻川に手配するよう目配せした。




