作中作の存在
由紀子は取調室の壁を見つめたまま、ゆっくり語り始めた。
「逃避行の計画を立てていた頃、あたしはある違和感を持っていました」
石原は眉根を寄せて訊き返した。
「違和感?ですか?」
「はい、隆也の様子が何となく普段と違うっていうか、おかしいなって思えたんです」
由紀子は石原に向き直って続けた。
「隆也は美桜を逃がす準備をしながら、時々、あたしの顔をじっと見つめることがありました」
由紀子は夫の視線を思い浮かべるように目を細めた。
「その目は何かを疑っているような…、そう、警察の方ならお分かりだと思いますよね?」
辻川が思わず口を開いた。
「あなたを疑っていた?」
「はい、でも、あたしを疑うその理由がわからなかったんです」
由紀子は目を伏せて自身の指先を見ながら続ける。
「そんなある日、隆也があたしの家にやって来たんです。でも、あたしは買物に出ていました。計画を立て始めてから、家の鍵は渡してありましたから。ま、元々隆也の家でもあるんですけどね。部屋で待っているとLINEも来ていました。でも、隆也はあたしのパソコンを開いていたんです。ログインパスワードも以前のままで、結婚記念日でしたから」
石原が身を乗り出した。
「なぜ?」
「わかりません。でも隆也はあたしの検索履歴を見ていました。
由紀子は淡々と続けた。
「履歴は拘束、逃走、証拠、警察、見つからない死体、無罪、自首、虚偽、罰則、殺人、偽装方法、などです」
辻川はタイピングを中断して、由紀子に向き直った。
「それは…」
「ええ、隆也はあたしが何かを企んでいると思ったんでしょうね。あたしが帰宅すると、隆也は待っていたように問い掛けてきました」
「由紀子、君はいったい何を考えているんだ?」
「あたしは驚きました。でも隆也の懐疑的な顔を見て、すぐに気付きました」
「隆也はあたしが本当に美桜を殺すつもりだと思ったらしいんです」
石原の表情が強張る。
「あなたが?」
「はい、あたしの検索履歴を見れば、そう思っても仕方ありません」
「違うの!これは原稿なのよ」
「隆也は訝し気な顔をしました。あたしはパソコンデスクの引き出しから一冊のファイルを取り出して、隆也に差し出しました」
「これね、応募用の小説なの」
石原が問い直す。
「小説?」
「はい、あたしはずっと小説を書いていました。姉が亡くなってから自身の心を保つために」
由紀子は淡々と続ける。
「その原稿のタイトルは…」
「娘を殺しました」
取調室の空気が一変した。
「隆也は差し出された原稿を読み始めました。そこには娘を殺したと自首する母親の物語が書かれています。これがその原稿です」
由紀子はバッグからファイルを出してテーブルの上に置いた。
「石原さん、あたしね…。何度も娘を殺したんです」
石原が由紀子の目を見つめた。
「もちろん本当にじゃありません」
「原稿のなかでです」
「書いては捨て、書いては捨てと、何度も何度も娘を殺しました」
「でも最後まで殺せなかった…」
石原は差し出された原稿を数ページめくっただけで、眉根を寄せて首を傾げた。
「あれ?娘の名前が美緒になっている。主人の仕事も高校教師になっていますね。それに犯人はあなたじゃない」
由紀子は静かに頷いた。
「はい。これは現実の記録ではありませんから。でも、現実を理解するために書いた物語です」
石原は原稿を閉じて、しばらく沈黙した後、また由紀子の目を見つめた。
「似ているが、同じではない。これはあなたの心の物語なんですね?」
「そうです。現実と物語は重なる部分もありますが、同じではありません。ただ、娘を守るために母が嘘をつくという核だけは現実と同じなんです」
石原が呟くように訊ねた。
「今、あなたが話している内容と同じ?」
「はい、でも隆也は混乱していました。これは現実なのか、それとも物語なのかと」
由紀子は静かに微笑んだ。
「これは物語よ。でも現実と重なる部分もあるの」
「それまで誤解していた隆也は、原稿を読んで、ようやく理解してくれたんです」
「由紀子、君も美桜を守ろうとしているんだな。すまない、疑ってしまって」
由紀子は取調室の壁を見つめたまま続けた。
「隆也はあたしの原稿を読んで、現実と物語の境界が揺らいだんです」
石原は大きく息を吐いた。
「つまり、あなたが語っているこの話も、物語の一部かもしれないということですか?」
由紀子は静かに微笑んだ。
「それは読者が決めることです」
取調室の時計がまたカチリと音を立てた。




