第6章 ①
朝だった。
鴉樽は静かだった。
ヴィクは床を歩いている。
よちよち。
もう抱っこをせがまない。
転んでも。
泣かない。
自分で起き上がる。
乳母は少し離れた場所から見守っていた。
思わず手が伸びる。
でも。
止めた。
ミナが隣で微笑む。
「大きくなったね」
乳母も頷く。
「ええ」
「もう私がいなくても大丈夫ですね」
ヴィクは犬を見つける。
嬉しそうに駆け寄る。
「ままぁ!」
犬は尻尾を振った。
「わふ」
乳母は苦笑する。
「最後まで負けましたね」
ミナが吹き出した。
「犬には勝てなかったね」
二人は顔を見合わせて笑う。
その笑い声に。
ヴィクも嬉しそうに笑った。
昼になった。
乳母は荷物をまとめる。
大きな荷物ではない。
ここへ来た時と。
あまり変わらない。
けれど。
心だけは。
あの頃より、ずっと重たかった。
主が煙草を吸っている。
乳母は静かに頭を下げた。
「長い間お世話になりました。」
主は煙草を灰皿へ押し付ける。
「ご苦労だった」
短い一言。
それだけだった。
でも。
乳母は少しだけ目を潤ませた。
「ありがとうございます」
ログも帽子を取る。
「助かった」
レオも頭を下げた。
「ありがとうございました」
常連達も口々に声を掛ける。
「また来いよ」
「遊びにな」
「酒は飲める歳になってからだぞ」
笑いが広がる。
乳母も笑った。
「その時は主人と一緒に来ます」
ヴィクが近付いてくる。
乳母はしゃがみ込んだ。
「ヴィク」
「もうお別れですよ」
ヴィクは乳母の顔を見る。
じっと見つめる。
乳母は少しだけ期待した。
最後に。
抱きついてくれるかもしれない。
そう思った。
ヴィクは小さく手を振る。
「ばいばい!」
満面の笑みだった。
乳母は少しだけ固まる。
それから。
涙を浮かべたまま笑う。
「ええ」
「ばいばい」
ヴィクは満足そうに頷く。
そのまま。
くるりと向きを変えた。
犬のところへ駆けていく。
「ままぁ!」
犬は嬉しそうに尻尾を振る。
「わふ!」
店中に笑い声が響いた。
乳母も。
笑いながら涙を拭った。
「最後まで」
「犬には勝てませんでしたね」
ミナが肩を並べる。
「うん、でもヴィクは幸せだったよ。」
乳母は静かに頷く。
鴉樽を振り返る。
小さな命を預かった場所。
そして。
大きく育っていく姿を見届けた場所。
その景色を胸に刻み。
乳母はゆっくりと地下街を後にした。




