閑話 ぱぱー!
鴉樽は今日も賑やかだった。
昼下がり。
酒を飲む者。
昼飯を食べる者。
昼寝をする者。
いつもの光景。
その中で。
一人だけ、妙に落ち着かない男がいた。
古参だった。
髪を整える。
服を直す。
何度も鏡を見る。
常連が首を傾げる。
「どうした」
「今日は随分気合い入ってんな。」
古参は咳払いをした。
「……別に」
「ちょっとな」
主は煙草を吸う。
何も言わない。
その時だった。
店の扉が開く。
若い女性が入ってくる。
古参の背筋が伸びた。
「い、いらっしゃ――」
言い終わる前だった。
小さな影が。
よちよち。
よちよち。
古参へ向かって歩いていく。
ヴィクだった。
満面の笑み。
そして。
古参の足へぎゅっと抱きついた。
「ぱぱー!」
店が静まり返る。
古参が固まる。
女性も固まる。
ヴィクは嬉しそうだった。
「ぱぱー!」
もう一度。
足へすり寄る。
古参は慌てた。
「ち、違う!」
「俺じゃない!」
女性は一歩引く。
「あ……」
「そういう……」
古参は青ざめた。
「違います!」
「本当に違うんです!」
ヴィクは見上げる。
にこっ。
「ぱぱー!」
常連が吹き出した。
「おめでとう」
「隠してたのか」
「口が堅いな」
「いつ産まれた」
古参は叫ぶ。
「だから違う!!」
店中が笑いに包まれる。
女性は困ったように頭を下げた。
「お邪魔しました」
くるりと踵を返す。
「あっ!」
「待ってください!」
古参は追い掛ける。
だが。
ヴィクは足を離さない。
「ぱぱー!」
「今だけ離してくれぇ!」
常連達は腹を抱えて笑っていた。
ログが帽子を深く被る。
「何やってんだ」
レオは肩を震わせる。
「俺に聞くな……!」
主は煙草を一口吸った。
「懐かれたな」
古参が泣きそうな顔で叫ぶ。
「嬉しくないです!」
「今日だけは!」
「今日だけは勘弁してください!」
ヴィクは満足そうに笑う。
「ぱぱ!」
その日。
古参は振られた。
地下街ではしばらくの間。
その男を見掛けるたび。
誰かが笑顔で声を掛けた。
「よう、ぱぱ」
古参は頭を抱えた。
「頼む……」
「忘れてくれ……」
だが。
地下街の連中が。
面白い話を忘れることは。
一度もなかった。




