第3章 ①
第3章① 噂
朝の鴉樽は、いつもの騒がしさを取り戻していた。
「主!」
「知らん」
「主!」
「知らんと言った」
いつものやり取りに、店の中から笑いが漏れる。
ヴィクは主の腕の中で機嫌が良かった。
今日は乳母候補との顔合わせがある。
ログは帽子を被り直し、店を出ようとした。
その時だった。
「ログさん」
扉の陰から、情報屋の男が顔を覗かせる。
珍しく笑っていない。
ログは足を止めた。
「どうした」
男は周囲を一度見回し、声を潜める。
「西区で妙な話を聞いた」
「何だ」
「よそ者が来てた」
「傷を負った若い女を見なかったかって、あちこち聞いて回ってたらしい」
ログは眉をひそめる。
「いつの話だ」
「三日前」
「今もいるのか」
「分からねぇ」
「聞き込みをした後、姿を見た奴はいないそうだ」
ログは少し考える。
「借金取りか」
情報屋は肩を竦めた。
「かもしれねぇ」
「人探しかもしれねぇ」
「地下街じゃ珍しくない話だ」
「ただ、何となく引っ掛かってな」
「耳に入れとこうと思った」
「そうか」
短く答える。
情報屋は軽く手を挙げ、そのまま人混みへ消えていった。
微妙な沈黙が残る。
ミナが小さな声で尋ねる。
「……聞こえた?」
ログは頷く。
「ああ」
返事はそれだけだった。
主は何も言わない。
ヴィクを抱いたまま。
静かに煙草をふかしている。
ただ。
ヴィクへ向ける視線だけが。
いつもより少し長く、その小さな寝顔に留まっていた。




